恐 怖

----1970年ボクの町は戦場だった----

1995.11.24


第5章 遺 書


 来訪したQの妹が私の元を去るとき、私はひとつ聞き忘れていた質問があったことに気がついた。
「彼は何か遺書を残さなかったんですか」
「いいえ、残しません」
「ひとつも」
「ええ、何も。でも」彼女はちょっと黙った「でも、遺書じゃありませんが、兄は死 ぬとき、すぐそばに手紙を広げたまま死にました」
「手紙?」
「ええ。何通も。それは、どれも或る女性から兄に来た手紙でした。」
「女性?」
「恐らく兄がつきあっていた人だと思います」

 この話を聞いて、私は急に或る出来事を思い出した。実は、Qが自殺する数日前に 私はQと二年ぶりに会ったのだ。その直後、Qは私に突然手紙をくれた。そこには或る話が書かれてあった。それがこの「或る女性」、葉子のことであることは間違いない。
 確か、そのころ私は女性に振られ、すっかり落ち込んでいた。それを見かねた高校の同級生が私を激励しようというので、久々に数人で集まりをもってくれたのだ。それでQにも声がかかった。そしたら、珍しくQはやって来た。しかし、Qはいつもの通り喋らなかった。私が「どうだい、小説や哲学のほうは」と水を向けても彼はただ首を振るだけで全然乗ってこなかった。それどころか、彼の顔からは表情が全くなくなっていた。そして、回りの騒ぎとは全く無関係だと言わんばかりに、ひっそりと殆ど放心状態になって座っていた。しかし、そのまなざしだけは、じっと虚空の一点に向けられていた。
ところが、その彼がまた暴れ出したのである。酒宴たけなわのところで、同級生のAが私を励ます積りで、こう言った「なあOよ。女なんて他にいくらでもいるじゃないか」すると途端に、Qが顔を上げ、Aに食ってかかったのだ「どういう意味だ」「?‥‥‥別に」むろんAに深い意味などなかった。しかし、Qは引き下がらなかった。「どういう意味なんだ」あんまりしつこいので、Aは「ああ、オレだったらそんな一回目の恋にいつまでもくよくよしないね。どうせたいした女じゃないさ。だいいち百回でも千回でも恋が可能なんだ。もっといくらでもいい女がいるじゃないか。だから、オレだったら前向きに二回目、三回目といい女を捜すね‥‥」そう言い終わるか終わらないうちに、QはAに殴りかかってた。酒宴は滅茶苦茶となった。しかし、私は正直なところ、Qの立場だった。だから、二人の喧嘩のあと、Qに「ありがとう」と礼を言った。するとそのとき、Qはしばらく私を見つめたまま動かなかった。「どうしたんだい」と私は尋ねた。しかし、Qは無言のまま立ち去った。
 すると、二、三日してQから手紙が届いた。それは、手紙というよりQ自身の手記だった。しかし、この当時、その手記を一読して、私には何のことかさっぱり分からなかった。それより、この手記が届くと同時に起きたQの自殺にショックと狐に包まれたような気分だった。
 しかし今、このノート1と2を読んでみて合点がいった。Qは、葉子との間に起きた出来事について、それまでノート1と2ではどうしても書けなかった空白の部分について、それを何とかして埋めようとしたのだ。
 もっとも、この手記を一読してみれば分かるように、その空白とは、決して「それは驚異の一瞬だった。わたしの身体が宙に浮いたのである」といった類の「目もくらむような瞬間」にまつわる話ではなかった。むしろ、その反対である。恋人同士ならどこにもあるようなただのケンカにすぎない。要するに単にありふれた話だった。
 ところが、にもかかわらず、そんなありふれた出来事が、不思議なことにQにとっては「目もくらむような瞬間」の出来事になってしまったのである。だから、その空白をQはずっと埋めることができなかったにちがいない。しかし、これをどうしても埋めたくて、彼は死ぬ直前までそれにこだわったと思われる。その意味で、これこそ彼の遺書というに相応しいのかもしれない。
それは次のように書かれていた。
 

 予備校。二学期最後の授業だった。型どおり、登校すると、校内放送で呼び出しをくらった。行ってみると、二学期中に取りにいかなかった答案をまとめて返された。余り多くて、カバンに入りきらなかった。で、帰り道、地下鉄のゴミ箱にこいつを叩きつけてやった。それから、以前一学期にもらった成績優秀者のほうびの楯を、聖橋の欄干から神田川めがけて投げつけた。
そして、そのまま電車に乗って郷里に向かった、葉子のいる郷里に。列車は暗い雪道を、出口のないトンネルを走り抜けるように、いつまでも走り続けた。
真夜中。駅に着くなり、そのまま葉子の家めがけて一目散にかけ出した、途中何度もころびながら。しかし、何度呼んでも葉子は現れなかった。誰ひとり現れなかった。
 翌日。Qは葉子を待ち伏せした。やがて、葉子は現れた、カバンを手に、校舎の中から。
彼女はひとり沈んだ様子で歩いていた。Qが校門の前に立った。葉子は彼の姿を認めた。すると、彼女はそこでひるむどころか、恥じ入るどころか、逃げるどころか、しっかり立ち止まってQを正面から睨みつけたのである。一瞬、Qは狼狽した。と同時に頭に血がサーと昇った。葉子が憎いと思った。
しかし、葉子はひるまずQを睨み続けた。だが、Qが彼女に近づこうとしたら、さっさと歩き出した、まるで汚らわしいものから逃れんばかりに。思わず、Qは胸がドキドキした。
----これが本当にあの葉子なのか。
Qは一瞬訳が分からなくなった。
しかし、それは紛れもなく葉子だった。Qは思わず頭を振った。こんな造作もない簡単なことで何をうろたえているんだ、と自ら言い聞かせて、葉子のあとを追った。
だが、葉子の足は速かった。容易に追いつかなかった。焦って、ころびそうになった。また頭に血がサーと昇った。
「待てよ!」
と言う積りが、かすれて声にならなかった。
 追いついたとき、Qは思わず葉子の肩に手をかけた。しかし、それはきっぱりと払いのけられた。彼女は自分から止まると、向き直って、Qを睨んで言った。
「何の用」
それは、氷のように冷たく厳しい声だった。
----これが本当にあの葉子なのか。
こんな声、今まで誰からもいっぺんもかけられたことがなかった。Qは答えることができなかった。彼はただ「葉子の許し」だけを期待していたのだ。こんな言葉は彼の頭の中には用意されてなかった。頭がグラグラした。だが、葉子は容赦しなかった。
「用がないんなら、あたし帰る」
そう言い捨てると、さっさと歩き出した。
しかし、Qはそこに突っ立ったままだった。まるで夢にでも落ちたような気分に襲われて、葉子が立ち去るのを眺めているばかりだった。
その夜。Qはうめいた。

 翌日。Qは再び葉子を待ち伏せした。こんなしょうもないこと、一刻も早くケリをつけなければならなかった。
葉子はこの日もひとり沈んだ様子でやって来た。ちっとも楽しそうでなかった。彼の姿を認めると、そのまなざしに憎しみの火がともった。彼女はさっさと歩き出した。だが、今度はQが葉子の行く手を遮った。彼女の目の中の憎しみの火はたちまち燃え上がった。その激しさに思わずQはひるんだ‥‥
「ま、待ってくれ」
これだけ言うのが精一杯だった。しかし、このとき葉子は待ってくれた。
Qは深く息をつき、意を決して言った。
「話‥‥話があるんだ」
それはここで書くのも恥ずかしいような弱々しい哀れな声だった。たちまちぶっきら棒で断固とした声が返ってきた。
「だったら、いったん家に帰ってからにして」
葉子は表情ひとつ変えず、さっさと歩き出した。Qはあとに従った。
家に戻ったとき、葉子はQを玄関に入れなかった。彼は外でこごえながら待った。
出てくるなり、葉子がQに投げつけたのは、いどむようなまなざしだった。Qは一瞬言葉に詰まった。すると、彼女はさっさと歩き出した。Qはあとに従った。しばらくして、それが、今年の夏ふたりして歩いた土手に通じる道だったことに気がついた。すると、照りつける真夏の光が一瞬Qの目の前をおおった。しかし今、葉子は彼の前をただぶっきら棒に歩いているだけだった。
土手。Qがなつかしさに浸る間もなく、葉子は向き直るとQを睨んで言った。
「話って、何」
Qは心を決め、言った。
「手紙を‥何で手紙を書いてくれなかったんだ」
しかし、それは彼の意図に反し、非難も何も全然こもっていない弱々しい声だった。たちまち葉子の反撃をくらった。
「そんなこと、ちゃんと手紙に書いたわ」
「あれは‥‥ウソだ」
Qは思いきり葉子をなじる積りでいた。だが、実際に彼の口からもれたのは、殆ど哀願するような声だった。葉子は眉をしかめた‥‥
「‥‥オレに言えない訳があるんだ」
沈黙を破ったのはQだった。しかし、まるでQこそ弁解しているようだった。
葉子は黙ったまま、うんざりという顔をした。口をへの字に曲げて、もうひと言も喋るまいという顔だった。 だが、この間ずっと葉子への疑念に苦しんできたQは、これを見て、てっきりやっぱり葉子に新しい男が出来たんだと思った。すると、途端にいっぺんで体中の力が抜けた。もう二度と葉子の顔なんか見たくなくなって
「クソッ、勝手にしろ」
と捨てぜりふを吐いて、フラフラと立ち去ろうとした。
するとそのとき、おかしなことが起きた。当の葉子がQの腕をギュッと握りしめたのである。
「待って!」
染み渡るような声がこだました。だが、それはQの心には届かなかった。彼はもう心を閉ざしていた。しかし、葉子はQを引き戻すと、面と向かって言った。
「言っとくけど、変な誤解しないで」
断固とした声だった。しかし、そんな言葉で人を信じ直すようなQではなかった。これまで何度振られるという目にあってきたことか。どうして今度だけそうでないという保証があるのだ。Qは横を向いたまま、葉子を無視して、そのまま立ち去ろうとした。
しかし、おかしなことがまた起きた。葉子はまたしてもQの腕を掴んだ。
「待ってよ!」
前にもまして一層染み渡るような声だった。しかし、彼は決して心を開こうとしなかった。だが、葉子はまたしてもQを引き戻すと、面と向かって言った。
「どうして、あなた、あたしの言うことが信じられないの」
切りつけるようなするどい声だった。しかし、そんな言葉で人を信じ直すようなQではなかった。これまで何度同じ目にあってきたか。Qはまたもや横を向いたまま、彼女を無視して、三たびそこを立ち去ろうとした。
しかし、葉子もあきらめなかった。
「待って!」
三たび彼女の声は響きわたり、三たび彼はとらえられた。
するとそのとき、不思議なことが起きたのである。彼は相変わらず心を閉ざしていた。相変わらず顔を上げることも出来なかった。相変わらずふてくされていた。にもかかわらず、その彼に、突然、どこからか知らないが、思いも寄らない、全く新しい、未知の感情が訪れ、それが彼の全身をくまなくとらえたのである。それは未だ経験したことのないような歓喜の感情、歓びそのものだった。それは、二度目に葉子から腕をつかまれ引き戻されたとき、その感情が初めて芽ばえ、三度目には全身をおおった。
それは、一体どこからやって来たものなのか。それは、Qがこれまでいっぺんも味わったこともないような強烈な感情だった。誰がいったい今まで、こんなにしつこく、こんなに激しく彼を引き戻してくれただろうか。すると、一瞬、葉子に新しい男ができたことなんかすっかり忘れて、思わず、もっと掴んで欲しい、もっと引き戻して欲しいと、自分から葉子に近づいていった‥‥
 しかし、彼がひとり興奮の嵐に酔い痴れている間に、葉子はもはやQが望むような葉子ではなかった。もう彼女は彼の腕をにぎってはいなかった。それどころか、彼女の目には涙さえあふれていた。彼女は、ひそかに嗚咽していたのだ。
Qが我に返ってビックリすると、彼女は彼を睨みつけて言った。
「あなたこそ、私を連れて、今すぐ街の大通りを歩ける」

‥‥気がついたら、葉子はもう駆け出していた。目に涙があふれ、Qに恨みを込めながら、駆けていた。その目は、はっきりと
「フン、あなたなんか、あたしのこと何にも分かっちゃいないくせに」
と語っていた。
しかし、この瞬間Qには何のことかさっぱり分からなかった。ましてや、このとき「何のことか分からなかった」自分が葉子に対しどうであったのか、頭をめぐらすこともしなかった、できなかった。さっきからの一連の出来事の中で、またしても夢でも見ているような気分に襲われて、Qはただその場に突っ立っていた。
その夜。Qは葉子の勘ちがいに初めて気がついた。

 翌日。Qはまた葉子を待ち伏せした。彼を認めたとき、葉子の目に憎しみはもうなかった。ただ、侮蔑の色が浮かんでいた。しかし、Qが彼女の自宅の前で待っていると、葉子は再び姿を現わした。
Qは前夜決めたとおりに言った。
「街へ行こう」
しかし、その言葉は彼女の憎しみを呼び覚ましただけだった。たちまち彼女の顔は曇り、さっさと、街とは正反対の方角にある土手に向かって歩き出した。
土手。葉子はもう何も言わなかった。しかし、彼に向かって大きく開かれたそのひとみは
「さあ、いったい何の用なの。あたしに何の用があるの」
と語っていた。Qはすっかり射すくめられてしまった。すると、それまで言おうと用意してきた言葉の数々をきれいさっぱりと忘れてしまった。Qはまたしてもうろたえ、頭がグラグラした。そのときである。ふと思いがけず、或ることに気がついたのだ。
それは、今すぐ、この場にひざまずいて、葉子に許しを請い、
「もう一度、もう一度だけでいいから、オレの腕をきのうみたいにギュッと握って、思いきり強く引き戻して欲しい」
と懇願することだった。そうだ、これが葉子のいう「あたしに何の用があるの」に対する、Qの最も正直で偽りない気持ちだったのだ。これこそQが今、葉子に一番望んだことだったのだ。しかし、言えなかった。そんなこと、とても口に出せる筈がなかった。
そしたら、もうダメだった。その代わり、彼の真意とはほど遠い、いつもの彼の持論が口を突いて出た。
「あのさ、本当にオレ以外につき合っている奴がいないんなら、やっぱりちゃんと手紙を書くべきだよ」
彼女は表情ひとつ変えなかった。相変わらず、大きなひとみを彼に向けたままだった。彼もこのまま引き下がれなかった。
「だから、手紙書けない筈ないだろ」
「何度言ったら分かるのよ」
「そんなのウソだ」
「‥‥」
「だって、逃避じゃないか」
「‥‥」
「どうして恋愛から逃避して、適当なところで受験勉強と手を打とうなんてことするんだ。それって、すごくおかしいじゃないか」
それから、Qの持論がとうとうと始まった。‥‥
しかし、Qがひとり夢中になって喋り続けている間に、葉子のひとみは閉じられていた。その代わり、閉じられたまぶたの上に涙が浮かんでいた。彼女はもう彼の話なんか聞いていなかった。胸の底から嗚咽の波が次々と押し寄せてきて、まぶたから涙の粒が次々とこぼれ落ちるのを彼女は押さえることができなかった。
ようやくQは我に返り、ハッとした。すると、そのとき意外なことが起きた。葉子が、突然彼の方に静かに近づいてきたのだ。彼のすぐ目の前に来ると、彼に向けてひとみを大きく開いたまま、静かに口を切った。
「あなたの言うことは正しいのかもしれない。だから、あたし、とてもあなたみたいに純粋になれないわ‥‥でも、‥‥でも、あなたって、遠く離れている二人にとって、恋愛がどんなにつらいものか、分かっていない」
とっさにQは「ちがう!」と反論しようとした。しかし、できなかった。どういう訳かできなかった。それほど葉子の声には断固たる響きがあった。しかも、その響きは決してQを非難してはいなかった。それにもまして、葉子のひとみや涙やそれらをおおう彼女の全存在が急に彼の前に大きく、とてつもなく大きく写って見えてきたからだった。そこには、Qがそれまで考えていたような意見や反論なんかよりもっとずっと大きなもの、ずっと深いものが示されているのを感じた。それはQにとってはじめて見る光景だった。
 なのに、このあと、泣きやんだ葉子の口から
「だから、お願い。もう三ヶ月待って。春が来るまで辛抱して。受験が終わるまで」
という言葉が吐かれたとき、Qは思わず
「いやだ!」
と口走ってしまった‥‥
「あなたには、恋愛がどんなものか、全然分かっていない」
Qは一瞬ビクッとした。こう語り終えた当の葉子自身の胸にふたたび嗚咽の波が押し寄せてきたのだ。やがて、彼女は耐えきれなくなって、ワッと泣き出した。そして、一目散にかけ出した。
このときもまたQは突っ立ったままだった。
その夜。Qは葉子の愛情の深さを思った。心から葉子に会いたいと初めて思った。

 翌日。だから、Qはまた葉子を待ち伏せした。葉子はもう泣いていなかった。Qはホッとした。しかし、彼を見る彼女の表情には、憎しみも侮蔑もないかわりに、もう何の感情も宿っていなかった。Qがいつものように葉子の自宅に向かおうとすると、彼女は即座に
「ここでいいわ」
と遮った。葉子にはもう何のためらいもないようだった。
この日、Qは、もっと素直にならなければと、そればかり念じていた。だが、どうしたら素直になれるのか分からなかった。この間、葉子が示す行動はQにとって得体が知れないことばかりだった。だから、どう対処したらいいのか、しょっちゅう迷った。迷うと、そして迷った末に追いつめられると、決まって殆ど本能的に彼が常々抱いていた持論がのさばってきて、彼の口を突いて出た。それは、まるでQがQであってQでないような、或いはQがまるでQの持論の奴隷であるような感じだった。
だから、本当をいえば、彼自身もうこんなのは内心嫌でたまらなかった。こんな状態から、一刻も早く解放されたいと願った。しかし、どうやって? それは彼にも分からなかった。
 だから、このときもそうだった。彼は人一倍素直にならなければ、と念じたくせに、彼女の素気ないひと言でぐらつくと、葉子に向かって
「オレはやっぱり受験勉強なんかでオレたちのつきあいが滅茶苦茶にされるのはごめんだ」
と、またしても例の問題を蒸し返してしまった。それどころか、
「‥‥だから、オレは受験勉強のためにオレたちの手紙をやめなきゃならないなんて、そんなこと絶対許せない!」
と言い終えたとき、Qはすっかり勝ち誇ったような気分にすらなって、ひとりで熱くなっていた。
しかし、それは束の間だった。Qはドキッとした。葉子が白けたまなざしでじっと彼を見つめていたからだ。再び、Qは不安と迷いの中に押し戻された。彼もまた冷え冷えとした沈黙に落ちていった。‥‥

「あなたは優秀だわ」
沈黙を破ったのは葉子だった。その声はしらじらとQの耳に届いた。その言葉は彼が最も嫌がる言葉であることを彼女も承知の上だった。
「そうよね。あなたはすっごく優秀だから」
彼女はまたしてもくり返した。しかし、それで終わりではなかった。葉子の糾弾の始まりだった。
「私のクラスにもそういう人がいるわ。Kさんっていうんだけど、すっごく優秀でT大目指してんの。それでいて、あなたみたいにゆうゆうとしてるの」
「オレはそんなやつとは違う!」
思わずQは言い返した。
「いいえ、違わないわ。そっくりよ」と葉子も吐き捨てるよう言い返した。
「要するに、ちょっとばかし頭がいいと思って、いい気になってるんだわ!」
Qは頭がぐらぐらした。
----ちがう、自分こそ、テストの成績が良くていい気になっているやつらを最も軽蔑してきたのに。自分こそ、そんなやつらから最も遠い存在だと思ってやってきたのに。だから、なんで、そんな言葉がよりによってオレに投げつけられなければならないんだ。なんで、それがあの葉子の口から吐かれなければならないんだ。 思わずQは
「誤解だ、それだけはぜったいに間違いだ」
と言おうとした。が、言葉にならないで、口だけパクパクした。すると、葉子は彼に言わせる間も与えず、続けた。
「そうよ、あなたは自分は並みの優等生とは違うとそう自分で思っているだろうけど、だからといって何なの。やれ文学だの哲学だのと言ってるけど、それでもって、そんなこと何にも知らない私にさも偉そうに喋ってるけど、それがいったい何なのよ。要するに、ただ書物に傍線を引いて、それでもって世の中のことを分かった気になっているだけのことじゃない。何、偉そうなこと言ってるのよ。ただそれだけのことじゃない。そんなの、あなたがすっごく軽蔑する受験生の優等生と、あの威張り腐っている俗物たちと五十歩百歩じゃない。ちがうの」
Qはたまげた。確かに、受験勉強を徹底的に否定しようと思ってきたQは、これまで、文学や哲学にのめり込んできた。Qにとって、それだけが俗世間に汚されていない、純粋で神聖なものであるかのように思えたからだ。しかし、実はそこに度しがたいQの傲慢さがひそんでいた。自分だけが純粋で神聖なのだという思い上り、高みから他人を見下してやまない傲慢さが間違いなくひそんでいた。だが、これまで、そんなことを正面からはっきり言ったやつはひとりもいなかった。だから今、葉子から言われて、Qはぶったまげた。これほどまでに、はっきりと指摘されたことは今まで一度もなかった。それは、あたかも機関銃で容赦なく撃ち込まれるようにQの脳髄を直撃した。しかし、葉子の攻撃はまだ始まったばかりだった。
「あなたは常々、受験勉強は無意味だ、おかしい、だからやるべきじゃない、って言ってたわね。フン、そんなこと、あなたに言われるまでもなくみんな分かっているわ。みんなちゃんと分かってるのよ。でもね、分かってるけど、どうしようもないじゃない、今のままだったら。だから、今はしぶしぶしょうもない受験勉強を我慢してやってるわよ」
葉子の顔は真っ赤だった。だが、Qを睨みつけたまま、話を止めなかった。
「だけど、あなたはそれをさもけがらわしいことのように言うのよね。そして、自分だけはそういうけがらわしいこととは無関係で、いかにも純粋に生きてるってふうに振る舞うのよね」
Qはこのとき、かつてない激しさで葉子に睨まれているのを感じた。
「でも、あなただって、受験勉強なんかやんないって言っておきながら、ちゃんとT大を受けるんじゃない。受験界の最高学府を狙っているんじゃない。受験参考書なんか読まないって言ってるけど、ちゃんと英語の小説読んだり、大学の数学勉強したりして、こっそり受験勉強に役立つこともしてるじゃない」
Qの頭は一瞬真っ白になった。彼がひそかに最も恐れていたことが今こそ暴かれるのではないかという気がした。
「確かに私なんかにはあなたのそんな真似とってもできないわ。でも、あなたのやっていることって、結局、私たちの受験勉強とたいして変わんないんじゃない。うわべだけさも高尚なまともな学問してますって振りをしてるけどさ、ちゃんと受験勉強にも役立つようにやっているんじゃない。そんなのどこが純粋なの、全然純粋でも何でもないわ。ただの受験生と変わらないわ。それをさも自分だけ偉そうなことをしているなんて思っている分だけ、すごくいやらしい」
----あーあー
突然、何処からともなく、うめき声がした。思わず、Qの心がうなり声をあげたのだ。このとき、間違いなく、彼の心の牙城に向かって、最後のトドメが刺されようとした。Qはもう立っていることすらできないと思った。しかし、葉子はなおも容赦せず、最後の声をふりしぼって叫んだ。
「そんなの偽善だわ。わたし、大嫌いよ!」
それはまさに最後のトドメだった。Qは立っていられなかった。頭が粉々にされるかと思った。しかし、かろうじて最後の一線で踏みとどまった。ここで参ったら、永久に葉子とおしまいだと思ったからだ。そんなのは絶対我慢できなかった。それで、Qも最後の気力をふりしぼって言った。
「でも、でも、オレは君とだけは受験勉強を持ち込まないでつきあいがしたかったんだ」
しかし、こんな言葉はQの真意ではなかった。だが、どうにもならなかった。
葉子も負けなかった。
「だから、ちゃんと手紙に大学はいるまでつきあいをやめましょうって書いたじゃない」
するとここでまた、思わずQは口走ってしまった。
「でも、なんで大学にはいるまで待たなきゃならないんだ」
葉子は、肩をがっくり落とした‥‥
 ふたたび彼女が顔を上げたとき、葉子はQを睨み殺さんばかりだった。
「やっぱりあなたってホント自分のことしか頭にないのね」
Qは必死だった。だが、この必死さも果してQの真意だったろうか。要するにそれは、葉子に捨てられるのではないかという彼自身の恐怖のことではなかったのか。だから、まったく葉子の言う通りだった。葉子が言ったとおりQは「自分のことしか頭にない」男だった。だから、葉子の言葉がQの心に届くはずがなかった。もはや、行き着くところまで行くしかなかった。
恐怖にかられて彼は言い返した。
「ちがう。オレは真剣だったから、ぜったい受験勉強をふたりのつきあいに持ち込みたくなかったんだ」
「ちがう。あなたはただ自分勝手なだけだわ」
「いや、そんなことはない。だって、考えて見ろよ。もし受験勉強をつきあいに持ち込んだら、おれたち、どんなに惨めになるか」
「ちがう!そんなことじゃない、私が言いたいのは」
葉子は叫んだ。Qは言葉に詰まった。
「ちがう!」
葉子はそう叫んだきり黙った。聞こえるのは、荒々しい彼女の呼吸の音だけだった‥‥

「なんだよ」
沈黙を破ったのは、しびれを切らしたQの声だった。要するに、このとき彼の頭には、この恐怖、葉子を失うのではないかという恐怖から一刻も早く逃れたいということしかなかった。だから、この沈黙が耐えきれなかった。しかし、葉子は黙ったきりだった。
「ちゃんと言えよ」
ふたたび沈黙を破ったのはQだった。すると、葉子は顔を真っ赤にし、涙を流しながら、
「やっぱり、あたしたちもう駄目なんだ」
と言うなり、走り出した。
----なんでだよ
一瞬、Qの頭は真っ白になった。また夢に落ちるのではないかと思った。しかし、ここでもし、また夢に落ちたなら、今度こそ葉子を永久に失うことになるだろうと分かった。正直言って、この冬休み、帰郷するまで、そんなこと夢にも考えなかった。だが、今は、今は、どうしても葉子を失いたくなかった。
「ま、待ってくれ!」
Qは生まれて初めて自分から人を追いかけ、自分から人の腕を掴もうとした。彼は必死になって葉子の腕を掴み、
「頼む、教えてくれ、何がちがうのか」
と迫った。しかし、葉子はうつむいたまま、泣くばかりだった。
だがこのとき、Qの心を占めていたことは、葉子に捨てられるのではないかという恐怖心だった。だから、彼女の泣く訳に思いをいたすこともしなかった、できなかった。そこでまた、葉子の沈黙に恐怖をおぼえたQは、思わず
「なんか言えよ」
と口走った。
すると、葉子は突然顔を上げ、Qの顔めがけて突進してきた。そして、すぐ目の前のQの顔をキッと睨みつけた。Qは思わずあとずさりした。しかし、その瞬間、あおざめたのは葉子の方だった。彼女の顔は苦しげに引きつり、ブルブルと震えながら、涙声でQに向かって叫んだ。
「あんたが悪い、こうなったのもあんたが悪いんだあ」
思わずQは葉子の腕を放した。
彼女は再びかけ出した。これが最後だった。Qにはもう彼女を引き戻す力はなかった。Qは葉子が走り去るのを眺めた。するとこのとき、彼女は彼の方を向いて、彼を睨みつけた。だが、それはほんの一瞬だった。けれど、その瞬間、Qは彼女のまなざしが彼をまだ愛していたのを、まだ深く愛していたのを痛いほど全身で感じ取った。
Qはひとりその場に、茫然と立ち尽くした‥‥

 どこをどう歩いて戻ったのか見覚えがなかった。Qが家に戻ったときは夕暮れだった。ちょうどその時刻、一面の雪が夕暮れの闇の中でまばゆい青に輝く瞬間だった。すると、彼の部屋も、その瞬間、透き通るような青色に染まり、その青が部屋中に火のようにあやしく燃え上がった。Qは両手で顔に覆い、その輝きの中で、気を失った。
その夜。Qは考えた、殆どうめくようにして考えた。しかし、このときもまた、次のようにしか考えを進めることができなかった。
----オレは何もできなかった、だが、もしオレのほうから受験勉強をやめていたなら、どうだろう。何も悪くならなかっただろうか‥‥しかし、今度は一生悔いが残ることになる。フン、受験勉強だと。敵。しかも憎悪の敵でしかない。それに専念しろというのだな。もし専念したら、かつて受験勉強をオレに授けてくれた母親を骨の髄から憎んだように、今度は俺自身が憎悪の対象になるのだ。さらに葉子もついには憎悪せざるを得なくなるのだ。そして、あの受験体制の現場監督の教師の野郎なんかぶっ殺したって構わないと、憎悪の余り叫ぶようになるんだ。結局、オレは葉子の思いやりに対し果てしない憎悪で答えてやるわけだ。はっ!それなら、葉子のいうことなぞ聞かないぞ。
だが、一番愚かなことはオレの本心を葉子にだけ打ち明けたことだ。心をわかちあってはいけないのだ。不幸を分担して貰おうとは何という虫のいい考えだ。しかも、不幸を分担してやろうという同情という考えもまた何という自惚れた考えだ。低俗なゴマスリめ!そもそも恋人同士とは一緒に腕を組んで街中を歩く仲をいうのだし、喫店でお喋りする仲のことをいうんだ。----心の通いあう仲。フン!何という僭越ない込みだ。単にそんな気がしているだけのことさ。
するとその瞬間、思いも寄らないことが起きた。それは、突然、何処からともなく、言い知れぬ淋しさがQを襲ったのだ。それはかつて経験したこともないような孤独な感覚だった。そして、Qは、まるで体中が一瞬にして凍りつくようなぞっとする気分になって、互いに人が理解しないことがどんなに辛いことか、どんなに痛ましいことか、いま全身の震えの中で悟った。
そしたらふと葉子のことが頭に浮かんだ。これまで親友のことで、元の恋人Nのことで、そしてQのことでしょっちゅう悩んでは苦しんでいた葉子のことが思い出された。ほんとのことを言うと、それまでずっと彼女のことをただの変人か病的な人ぐらいにしか思っていなかった。それまで、ただのいっぺんだって彼女の方がまともだなんて思っても見たことがなかった。
----だが、なんであいつはいつもいつも人のことであんなに苦しんだんだろう。なんであいつはあんなに嫌われることを承知でオレに何度も何度も「勉強しろ」なんて言ったんだろう。
彼女のことが今ようやく分かるような気がした。葉子に会わなければと思った。

 しかし、葉子はもう会ってくれなかった。毎日のように家に押しかけたが会ってくれなかった。玄関に出たのは決まって葉子の父親だった。しかし、彼はQに「葉子はいない」と言うばかりだった。彼にじっと見つめられ、Qは帰るより仕方なかった。
帰り道、Qは知らぬ間に夢見心地に陥った。すると彼の耳元に、決まって葉子の声が聞こえてきた。
「あんたが悪い、こうなったのもあんたが悪い‥‥」
と同時に彼女の顔が浮かんだ。それはQを睨みつけていた。しかし、その目には涙があ ふれていた。Qは思わず立ち止まった。胸がつぶれそうだった。
----オレは悪くない、オレはまちがっていない、オレはいつも正しかった。なぜな ら、オレはいつも真理の中に人生の青春を見出してきたのだから。‥‥だが、実際オ レのしてきたことはと言えば、書物から真理を奪い去り、人に主張することではなか ったのか、こいつは間違いない真理だ!と。ちょ、こしゃくなことを。何という馬鹿 気た夢か。オレのしたことは、結局のところ、この夢からいっぺんも覚めないで、お ぼえ込んだ真理をくり返しくり返し葉子に押しつけ、厳しくあやまちを指摘すること だったのだ。そして、自分はといえば、決して裁かれるような厳しい立場に立とうと はしなかった。いつもわきで寝そべって怠けていたんだ!

 上京する前日、Qは思い余って葉子に電話した。もちろんQの家に電話なんかなかった。小五のときQは同級生の家ではじめて電話を使ってみたとき、どうしてこんな固まりで遠くまで声が届くのか不思議で、つい受話器に向かってどなり声を出したら、相手から「うるせえなあ、普通の声で喋ろよ。これだから、貧乏人はいやだよなあ」と笑われて以来、受話器の前でどうしてもびびる癖がついていた。しかし、今はそんなこと言っているどころではなかった。どうしても葉子にあやまらなければ、ひと言でもあやまらなければと思った。 Qは葉子の家まで出かけ、一番近くの電話ボックスに入った。すぐ向こうには葉子がいた。
「もしもし」
「あっ、葉ちゃん」Qは明るく振る舞った。
「‥‥‥‥‥‥‥」
「太田葉子さんですか」真面目に言ってみた。
「‥‥‥‥‥‥‥」
「それじゃ、お姉さんですか。ちがいますか」不慣れながらも食い下がった。
しかし、そこまでだった。ガチャと受話器は切れた。Qは失神しそうだった。確かに葉子の声だった。してみると、彼女は全てを拒否したのだ。だが、受話器が切れる瞬間、Qはかすかなうめきを聞いたように思った。それは、以前、彼女が彼に甘え、或いは彼を責めるときにもれる吐息に似ていた。
Qは大きく息を吐いた。そして目をつむった。すると目の前に、この冬休み見た葉子の手がまざまざと浮かんだ。その小さな白い手は、指先ががさがさして刃物でたいそう傷ついていた。それは両親が共働きのため幼いときから家事に従事してきた葉子の手だった。彼は思わず胸がしめつけられた。それは未だかつて経験したことのないものだった。それは、かつて彼が陶酔した文学や哲学において見い出したどれともちがっていた。そして、かつて彼が見い出したどんな真実も理屈もさらに美さえも、葉子のこの手を前にしては、かげろうのように意味を失ってしまうように思われた。彼はこの手に向かって呟いた。
----葉子、葉子
Qは目をあけた。彼は今こそ葉子に愛されたいと思った。他の誰でもない、あのかつ ての優しく従順だった葉子でさえない、今のこの葉子にだけ愛されたいと思った。思 って、泣いた。しかし、Qにもう受話器を握り直す力は残っていなかった。
Qはその場に倒れた。

翌日、Qは上京した。
彼は初めてめぐり会い、そして永遠に失った。全てはガラガラと崩れていった。

Qの手記はここで終わった。

(第5章 おわり)

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