恐 怖

----1970年ボクの町は戦場だった----

1995.10.29


第2章 妹の来訪


 とにかく目立たないおとなしい奴、それがQに対する私の第一印象である。
「でも」と、来訪したQの妹は私に言った。「小さい頃、兄はすごく活発な子供だっ たんです」
二人兄弟の彼らはいつも一緒に思う存分遊んだのだという。
「でも、それも小学校に入るまででした。小学校に上がると兄はだんだん口数が減っ てきて、不思議なくらいおとなしい子になったのです」
「そんなに変わってしまったんですか」思わず私は尋ねた。
「ええ」と、彼女は当時を思い出すように言った「実は兄は小学校に入学した当時、 勉強がぜんぜん好きじゃなかったんです。ふざけるのが大好きで、授業中、まわりの 子供たちにちょっかいばかり出しては、先生にしかられていたそうです」
それは意外だった。
「でも、勉強嫌いでふざけ屋の兄の性格も長続きしませんでした」
「───」
「小三の頃には学級委員に選ばれて、もうすっかりおとなしいクラスの優等生になっ ていました」
「で、彼は得意そうでした?」
「素直に得意がるという感じではありませんでした。むしろ、いつも何か重苦しそう でした」
「じゃあ、幸せそうじゃなかった?」
「ええ。でも、その代わり」彼女はひと息おいて言った「母はとても幸福そうでし た」
「お母さんはそんなに幸せでしたか」
「ええ。だって、家にはそれよりほかに幸福と呼べるものってなかったから」

 その意味で、Qは小さいうちから既に大変な親孝行をしたのだ。
「でも」と曇り声になって彼女は続けた「母の幸福も兄が高一まででした」
「兄は、期待に応えてトップで高校に入学しました。このときの母の喜びはこの上な いものでした。けれど、それも長続きしませんでした。突然兄がノイローゼにかかっ たのです。夜中に、脇の本棚が倒れてくると口ばしっては真っ青になって飛び起き、 そのまま不眠症になってしまいました。また昼は昼で、ご飯がぜんぜん喉を通らず、 フラフラのまま水を飲んでかろうじて体を支えているという有様でした。こうして不 眠症と拒食症が数ヶ月も続いたため、一時は本気で中退まで思い詰めました。しか し、かろうじて中退を免れました。高二の春に奇跡的に兄はノイローゼから立ち直っ たのです」
「しかし、と同時に兄はパタッと勉強しなくなりました。のみならず、それをひどく 心配した母に対して、突然暴れるようになったのです」
その話は腑に落ちなかった。確か、高二のQはおとなしく、暴れるような素振りは学 校では見せなかったからである。
「学校から帰ってくるなり、毎日、部屋にこもって暗くなるまでずっと寝ていまし た。心配した母がそっと様子を見に行くと」彼女は涙を浮かべて言った「兄はフトン の中から母を思いきりけとばしたのです」
「当時、兄はまるで人が変わったように母や私にあたりました。ちょっとしたことで 怒り出すと突然、オレの歯が悪いのはウチが貧乏でちゃんとした歯医者にかかれなか ったからだとかオレのどもりはウチが貧乏のせいだ、などとわめきました」
「歯?」
「兄は小さい頃から歯がすごく悪いんです。おまけにかかった歯医者がヤブで、治療 のたびに兄の歯が悪くなったのです。それで、小三の頃から『銀歯、銀歯』とからか われたようです。兄はそのことをすごく気にしていたのです」
「彼はどもりだったっけ」
「ええ、軽いどもりのようでした。もっとも、小さい頃はそんなことなかったんで す。ところが、『銀歯、銀歯』とからかわれるようになってから、自分の銀歯を気に して、なんとか銀歯を見せないで喋れないものか、そればかり鏡の前で一生懸命試み ていました。そして、それが成功したとき、兄のどもりも始まりました」

「そんなふうだったら、高三の頃にはもう手のつけようがなかったでしょう」
「いいえ」と彼女は答えた「高三の春にはだいぶおさまりました。もう母をけとばす ようなこともなくなったのです」
「───」
「というのは、学校から帰宅してそのままふて寝することもなくなったのです。その 代わり」彼女は思い出しながら言った「帰宅するなり毎日、家から飛び出していきま した」
「───」
「不審に思った私はある日、兄の後をつけました」
「───」
「すると、兄は30分もかけてS川の土手まで歩いて行ったのです」
S川は町を南北に流れる川幅約千メートルもある一級河川であるが、別段景色がすぐ れているわけでもない。何の変哲もない川である。
「なにしに?」
「なにも」と彼女は言った「ただ、そこに腰かけたまま夕日の沈むのをずっと眺めて いたのです」
「───」
「兄のその後ろ姿は妙に痛々しかったのを覚えています。だって、まだこれから青春 を迎えようというのに、もうすっかり年を取った老人のような背中だったんです」

「すると、あなたたちは高三の秋から冬にかけての騒ぎのことも知らなかった?」
「ええ何も。当時、兄はごく普通に生活していましたから。そんな退学騒ぎになるよ うな事件が起きているなんて、学校から知らされるまで夢にも思わなかったのです」
「でも、彼は家では騒いでいるそぶりを見せなかったんですか」
「全然。平静で、とても落ち着いていました。それどころか、むしろそれまでで一番 生き生きしていたように見えました。それに何かすごく素直な感じでした。確か、冬 のある朝のことです」と彼女は思い出すように言った「ラジオで『アフリカの子供た ちが飢饉で餓死しそうだ』というニュースが流れたときのことでした。それまで黙々 と朝食を取っていた兄は箸をおくと、突然ボロボロ泣き出したのです。そして、声を 殺して泣き続けていました。それを見ていた母まで一緒に泣いてしまいました」
 これも釈然としなかった。確かに、当時Qは学校で教師に対し気狂いのようにわめ き、反抗していたのである。
「すると、彼の退学騒ぎを知ったお母さんはとてもビックリしたでしょう」
「ええ。本当に今にも気が狂わんばかりでした。普段はなんにも言わない父もこの時 ばかりは兄を本気でしかりつけました」
「それで、彼と話し合った?」
「ええ。」彼女は一息ついて言った「でも、兄は黙って聞いているばかりでした」
「で、ケンカにならなかったの?」
「ええ。母は半狂乱で夢中になって話したのですが、兄のほうは何も喋りませんでし た。かといって、母の言うことを素直に聞くという訳でもなかったのです」
「───」
「もう何か心に決めているというふうで‥‥ちょっと不気味でした」
「それで?」
「そのあと、兄は突然熱を出して、寝込みました」
「何の熱?」
「分かりません。とにかく、それでそのまま卒業式の近くまで床にふしていました。 ‥‥ただ」彼女は思い出しながら言った「熱を出す直前、一度だけ取り乱した兄を目 撃したことがありました」
「?」
「たまたま兄の部屋をノックしたとき、返事がなかったので、そっとのぞいたことが あったんです。そしたら、兄がフトンの中で枕を殴りつけてわめいていたのです」
「───」
「『畜生、畜生』って何度も‥‥それから、声を押し殺して叫んだのです」
「───」
[『クソッ、Uの野郎。お前をぶっ殺してやる』って」
おそらくUとは当時の我々の担任のことだろう。なぜなら彼こそ、Qに退学を勧告し た張本人だったからである。

「で、その年の受験は?」
「兄はそんなこともうどうでもいい、といわんばかりでした」
「すると、受験しなかった」
「しました」
「?」
「一校だけ受けたのです。それは母が泣きながら兄に頼んだのです『なんで、お前は 小学校の時から我慢に我慢してここまで頑張ってきたんだ』って」
「───」
「すると兄は、母の希望する通りの大学に受験する、だから好きなように願書を書い てくれと言い出したのです」
「───」
「小学校しか出ていない母はよもやこの年になって自分が大学の願書を書くなんて夢 にも思わなかったと思います。それで、母は泣く泣く願書を書きあげ、兄に見せまし た。兄はその通り受験して、そして落ちました」
「で、どこの大学?」
「T大です」
T大は、当時の受験界で一番むずかしいと言われた大学のことである。他方、私の高 校は名もない田舎の進学校でしかない。私は彼の自信過剰ぶりに驚いた。しかし、驚 くにあたらない、翌年、Qはそこに合格したのだから。しかも、そもそもこのとき願書を書 いたのはQではなく、Qの母だったのだから。
「不合格と分かったとき、彼は落胆していましたか」
「いいえ。その代わり」彼女は一息ついて言った「母の落胆ぶりはそれは痛ましいほ どでした。でも、兄は何も喋りませんでした。東京の予備校に入るため、上京すると きも、駅で兄は一言も喋りませんでした。」
「上京してからの彼の様子は?」
「何の便りもありませんでした。母がいつも便せん一杯に長文の手紙を書いたにもか かわらず。ですが、母は喜んでいました」
「?」
「東京の予備校から毎月送られてくる成績表を見て満足していました。兄の成績はい つもT大の合格圏内に入っていたからです」
「しかし、母の喜びも束の間でした。またもや兄の暴走が始まったのです。その年の 暮れになると、突然兄の成績が坂道を転がるように悪くなっていったのです。そし て、冬休みに帰郷したとき、兄はすっかり別人のように変わっていました」
「?」
「とてもピリピリしていて、突然大声を出して怒鳴るのです。ものすごく怒っていた かと思うと、今度はすっかり自信を失って頭を抱えてうめいていました。しょっちゅ う家から飛び出しては吹雪の中を何時間もほっつき歩いているようでした」
「どうしたんです?」
「分かりません。とにかく兄にとって何か事件があったらしいのです。でも、そのこ とについて兄は一言も喋りませんでした」
「で、その騒ぎは?」
「冬休みが明けて兄が上京する時にはおさまったかのようでした。再び、兄は静かに なって帰って行きました」
「でも、そんな成績だったら、普通なら今度も合格できなかったでしょう」
「ええ。実は今度も母も父もあきらめていました。家には二浪する余裕などとっても ありませんでしたから、ランクを落とすように母が手紙を書いて頼みました。が、兄 はこれを無視しました」
「すると、T大に合格したのは殆ど奇跡だった」
「だから、母の喜びようといったら、それはもう。顔をくちゃくちゃにして喜んでい ました。でも」彼女は一息おいて言った「兄はちがいました」
「そのとき兄は家にいました。合格発表も見に行かず、部屋でひとり寝ていました。 私が合格を知らせに行っても、兄はフトンにもぐり込んだまま無言でした」

「ところで、大学に合格するまで、彼にガールフレンドなんていなかったんですか」
「さあ。兄はとにかくすごく内気でしたから、実際に女の子とつきあうなんて考えら れませんでした。そういえば」と彼女は思い出すように言った「確か、兄が中二だっ たと思います。どういう風の吹き回しか、兄はひそかに好きな女の子に年賀状を出し たんです。そしたら、もちろん返事は来なかったんですが、田舎のことですからその ことがすっかり評判になって、兄はまわりから随分冷やかされたようでした。それ で、毎日毎日、二ヶ月以上にわたって兄はカレンダーに×印を必死になってつけてい ました」
「?」
「『人のうわさも七十五日』ということわざを信じて、その七十五日が過ぎるのをひ たすら待ったのです」

「大学に合格したあと、彼の様子は」
「浪人中と全く変わりませんでした。晴れて念願のT大生となれたのに、雰囲気はま るで浪人生そのものでした」彼女は思い出しながら言った「それで、ひとつだけ新し い特徴が付け加わりました」
「?」
「顔から表情がなくなって殆どいつも放心状態になったことです」
「で、大学には行っていたのですか」
「分かりません。相変わらずたより一つありませんでしたから」
「夏休みとか冬休みは」
「帰ってきませんでした。でも、母は、兄は勉強で忙しいんだろうとかえって喜んで いるくらいでした」
「でも、お母さんはその頃から体調を崩していたんでしょ」
「ええ。急性のガンでした。長年の疲れが母の体をむしばんだのでしょう。不調を訴 え、冬には入院するようになりました。しかし」彼女は一息ついて言った「母はその ことを兄に隠していました」
「?」
「母にとって兄は、もう自分たちの手の届かない偉い人たちの世界の住人となったの です。だから、勉強に励んでいる兄の邪魔になってはいけないと、そのことばかり気 にしていたのです」

「お母さんが亡くなったのは、彼が大学二年になった春でしたね」
「ええ。母はあっという間に亡くなりました。でも」彼女は一息ついて言った「母に とって人生は意味があったと思います。長年の夢だった兄の合格をこの目で見れたわ けですから‥‥しかも、兄の自殺という最大の親不幸を知らずに済んだのですから」
「お母さんのお葬式のときの彼の様子は」
「普段と変わりませんでした。物静かで涙ひとつ流しませんでしたし、終始黙ってい ました」
「しかし、まもなく彼もお母さんのあとを追った」
「ええ。母の葬式のあとかたづけが済んで、上京した後しばらくして下宿で亡くなり ました」
「それは突然でしたね」
「‥‥」
「彼にはお母さんの死が耐えられなかったんでしょうか」
「分かりません」彼女はしばらく沈黙してから言った「少なくとも、母にとって兄は 母の人生の希望であり、だから母の人生の全てでした。そのことを兄も分かるすぎる くらい分かっていた筈です。そして、兄にとっても母の存在はとても大きかったと思 います。母を亡くして兄が生きる張り合いをなくしたことは十分考えられることで す」

 ここまで彼女の話を聞いてきて、私はふと(不謹慎なことながら)次のようなこ とを思った。
 もしかして、Qは母の死を願っていたのではないか、と。言い換えれば、T大合格 という母子の年来の夢をかなえたあと、Qに残されていた唯一の願いというのは母の 死ではなかったのか、と。なぜなら、Qにとって彼の母は絶対の愛情の対象であった と同時にまた絶対の憎悪の対象でもあったと思われるからだ。つまり、Qの人生を終 始導いてくれたのはほかでもなく彼を愛して止まなかった母であり、その意味でQの 母は彼の人生の教師=支配者だったと思われる。しかし、彼の母がひたすら良かれと思って示してくれた人生設計はQにとって過酷すぎた。そのためQの人生はT大合格などと いった見た目とは裏腹に、その中身はズタズタにされていたのではないだろうか。だ から、Qは受験勉強一色におおわれた自分の不毛な人生を心の底で呪って呪って、呪 い続けた、その最も呪った瞬間、その呪いの矛先が彼の母親に向けられた、としても 不思議ではない。
 しかし、たとえこのようなQの人生に同情に値するものがあるとしても、私はQに 対し、Qが最終的に行き着いた立場に対し批判的である。ハッキリ言って、Qはひ弱 だからである。なぜ彼は、母子の美しい調和に満ちた世界などといった幻想をかなぐり捨てて、母に対する愛と憎という矛盾の中で生き続けようとしなかったのか、絶対生き続けるべきだったのである。
 だがしかし、のちにこれは少し間違っているのではないかと思うようになった。そ れはQの妹が届けてくれたQのノート二冊を読んでみたためである。

(第2章 おわり)

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