恐 怖

----1970年ボクの町は戦場だった----

1995.11.03


第3章 ノート1


 これら二冊のノートは全て或るひとりの女性のことについて書かれている。Qにつきあっている女性がいたのだ。それは一歳年下の高校の後輩のYである。あの内気な彼にしては意外なことだった。しかし、思えば何の不思議なことはない。おそらくQは物心ついて以来ずっと孤独な人生を送ってきたのだ。だから、そのような彼が熱烈に女性を求めたとしても何の不思議はない。
 しかし、二冊のノートは全く違ったふうに書かれている。Qの浪人中に書かれた一冊目はまるで、これからYをやっつけにいくといわんばかりに辛辣に書かれている。これに対し、それから約一年後に書かれた二冊目はまるで一冊目の手記に対する懺悔のようである。
 ちなみに、そう言えば私はふたりのことを二度目撃している。一度目は高三の年の暮れ、土曜日の放課後に、三年の我々の教室へ高二のYがQに会いに来たのだ。その時の彼女は目を潤ませて何だか切なそうだった。が、Qのほうは相変わらずぶっきら棒で、にこりともしなかった。二度目はそれから一年ちょっとたった翌々年の春、QがT大に合格した直後のことだった。町の喫茶店で二人が会っていた。今度は雰囲気がちょうど正反対だった。Qは思い詰めた様子で何やらしきりに彼女を引き留めようとしていた。が、彼女はブ然として、今にも立ち上がらんばかりだった。
 一冊目のノートは、Qが浪人中の12月に書いたものだが、次のように書かれている。

1、高三(冬)
 私はクラブの部長だ。そして、Yは同じクラブの後輩だ。だから、二学期の終わり、突然Yが話があると言ってきたときOKしたのである。
 しかし、Yは私の教室にやってきても、私の机の隣に座ったまま口を開こうとしなかった。窓の外は雪だった。Yは、ただ雪の降るのを眺めるばかりだった。仕方なく、私はたまたま母が用意した弁当を出して「食べる?」と尋ねると、意外なことにYは悪びれずに「ウン!」と言った。しかし、食べ終わると、再びYは窓の外の雪を見つめ続けるのだった。そして、やっとポツンと言った。「部長さん、この雪が解けたら、行っちゃうんだね」それ以上、何の話もなかった。
何言ってるんだ、それしか用がないのか。だから、私は帰り支度を始めた。すると、Yも黙ってあとについてきた。ふたりで、雪の中を歩いた。Yは随分遠回りをしているらしかった。もうこれ以上ついてきたら、Yは家に帰れなくなるというところまで一緒に来て、そこでYは別れた。
 しかしYが立ち去って、正直言ってほっとした。第一、Yの第一印象はまったく良くなかった。クラブの部室に最初現れたとき、彼女は新入部員のくせに寝不足のはれぼったい眼で、ジロジロ私を見た。いや、その後の印象も似たり寄ったりだ。チビだし、しょっちゅうふてくされていて、スタイルもセンスもなっていない。その上すぐ落ち込んではブスッとするし、成績が良くないことをすごく気にしている。いいとこなんかどこにもないじゃないか。だから、本当はこのときにOKしなかったらよかったのだ。もしかして、私はものすごい面食いなのかもしれない。
2、浪人(春)
 その次に会ったのは、私が浪人になりたての時だった。三月の下旬、クラブの送別会の席で、ムシャクシャしていた私は当時海が無性に見たくて、つい「海に行きたいな」ともらした。すると、即座にYが「ウン、行こ、行こ」と応じてきたのだ。それで、Yが全て手配することになった。私はてっきりクラブのメンバーで行くものとばかり思っていた。しかし、待ち合わせ場所に現れたのはYひとりだった。
 この日、海は荒れて、春にもかかわらず寒かった。私はただ風に吹かれるばかりで、Yと話すこともなかった。しょうもない一日だった。
翌日、私は上京した。
すると、一週間ほどしてYから手紙が来た。その一週間後にもまた来た。それからきまって一週間ごとに郵便受けにYの手紙が入っていた。
私は、浪人後、高校時代の同級生とも予備校の浪人生とも誰ひとりつきあわなかった。どうしてそんなうっとおしいことができるのか、あんな俗物たちと!
しかし、浪人して私は生まれて初めて正真正銘の下宿生活というものを味わった。ひとりぼっちの生活を味わった。毎日、下宿と予備校の往復だけで誰とも喋らなかった。こうして一週間、二週間とたっていった。そのうち、日本語を喋るのを忘れてしまうのではないかと思った。そこで、ときおり、夜、下宿で「あいうえお」と発音練習してみた。
だから、Yの手紙は、正直言って救いだった、慰めだった。それで、読むとすぐ返事を書いた、「すぐにまた手紙を書いてほしい」と。にもかかわらず、Yの手紙は相変わらずきっちり一週間ごとだった。オレがこんなに頼んでいるのに何だろう。私はYの誠意のなさに腹が立った。
ある時、Yから変な手紙が来た。「詩を書いてほしいの それも気軽に書いたやつ」なんでオレが詩を書かなきゃならないんだ。オレが詩なんか書いたこともなければ書けないことも承知で、いったいどういう神経をしているんだ。だから、私は無視した。むろんまともな返事も書かなかった。すると、しばらくしてYから手紙が来た。
「どうか許して下さい。今とっても心が乱れています」から始まって、
「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。あなたを責めるようなことばかり言って。こんなことであなたが心配してくださっているなら、私はどうしましょう。そんなことであなたをわずらわせているのなら、いっそのことこの手紙を破いてしまいましょうか。だけど、できない。なぜか。でも知りたくない。自分の心を見たくない。
あなたは私にはあまりある人 こんな私には‥‥」
で終わっていた。要するに、昔の恋人に再会を求められて動揺したYは私に支えを求めに来たのだった。それは、ぜいたくな悩みだ。なんでそんな結構な身分の悩みにオレが一緒になってつきあわなけゃあならないのだろう。そんなことでいちいち書いてくるな。
3、浪人(夏)
 長い、うっとおしい夏がやってきた。最終日、一学期の総合成績が発表になった。
一〇番。これは確実にT大合格圏内だそうである。フン、だからどうだってんだ。
帰郷すると、すぐYの家へ行った。玄関で呼んでも誰も出ない。しばらくして、おっさんが顔を出して、それから奥にむかってどなった「葉子!」
三ヶ月ぶりの再会。いや、こんなY初めてだった。濡れたままの長い髪、透き通るような白い肌、高く澄んだ声。風呂上がりでくつろいでいるSとはいえ、あまりの変貌ぶりに私はうろたえた。「おかえりなさい。ね、あがって!」
私もつい気がゆるんで、「わざわざ中継人がいるんだ」と冗談を言った。すると、Yも「うん。いつもそうなのよ」と軽くいなしたのに、私はつい「ああ、家が大きいからな」と言ってしまった。そうだ、どうせオレは家が小さいからな。どうせ貧乏で、どうせ狭い家にしか住めないからな。すると頭がクラクラして何をどう喋ったかも分からず、しばらくして退散した。
 しかし、その後Yは私の狭い家にわざわざ会いに来た。それからふたりは親しくなった。すると、Yは以前には見せなかった態度でずけずけと、私に「ちゃんと勉強しているか」と尋ねるようになった。私は不愉快だった。しかしYは簡単には食い下がらなかった。で、私はもう一切Yとは口をきかなかった。受験勉強、そんな不潔な言葉を二度とおれたちの前で吐くな。
 しかし、私はYの長い髪、白い肌に触りたかった。ところが決まってそのあとに、Yは「勉強して」と私に命令した。せっかくの時間をすっかり台無しにするような愚行だった。最後に会ったときもそうだった。オレがどんなにそれを話題にすることを嫌がっているか、散々分かっているくせに。これが当分ふたりの会えない大事な時間だというのに。いったい何という厚かましさ、何という鈍感さだろ。が、私はじっと我慢した。
4、浪人(秋)
 二学期が始まった。この夏休み全然勉強しなかったせいか、というより周りの連中の糞勉強の成果がじわじわあがってきたのだろう、私の成績は逆にじわじわと下がっていった。こういう時こそYの手紙が必要だっだ。事実、Yは私の希望に応えてくれた。私と会えなくなった切ない想いを手紙に書いてきた。その想いは益々募るばかりだった。それは私にとって快感だった。ところが、一〇月に入ると、バタッとYの手紙が切れた。一週間、二週間、三週間。最初、私は努めて平静さを装っていたが、だんだん不安になった。こちらからはきちんと手紙を書いているのに、しかも毎回、末尾に必ず「それじゃ、おたより待っています」と書いておいたのに何ひとつ、何の反応もなかった。そのうち、嘘だろ、と憤りがこみ上げてきた。バカにしやがって、覚えていろ。ムシャクシャする気持ちで、Yの不誠実を思いきりなじる手紙を書いてやった。すると、やっとYの返事が届いた。しかし、それは九月に受け取った、切々たる想いの手紙とは完全に違っていた。本当に同一人物の書いた手紙かと思わず疑いたくなるほどそっけない、事務的な、ただ理詰めの文面だった。要するにYはここで、私に「受験勉強から逃げないで、きちんと勉強してほしい。今のままだとふたりともダメになる。だから、今は受験勉強に専念して、ふたりのつきあいはそれが終わってからにしてほしい」と言いたいのだ。受験勉強だと、フン、全然分かっちゃいない、受験勉強がどれだけオレたちの関係をダメにし、どれだけ台無しにするか。Yには全然分かっちゃいないのだ、オレだって小一まではまともなガキだったことを。それが、どうだ。学校に入るや、がらりと変わってしまった。お袋は授業参観のたびにオレのわきまでやって来ては、オレが間違ったり、ぐずぐすしていると、容赦なくオレの頭をこづいた。お袋はどんなことがあっても学校は休ませないという方針だったから、オレがどんなに高熱でも、ぐったりしたオレをおぶって学校まで連れていった。お袋はオレのテストの成績に一喜一憂して、オレの点数がちょっとでも悪いとすぐ機嫌が悪くなって、週末には決まってお袋の説教があった。それはいつも「お前のお父さんは、お前が勉強するんだったら、借金してでもどんなことでも協力すると言ってくれる。お前は幸せもんだ。かあちゃんには、父親がいなかった、そんなことを言ってくれる父親なんかいなかった‥‥」という嗚咽になった、すると、オレも懺悔の涙を流すしかなかった。それでもガキだったオレが言うことを聞かないで勉強しないと、お袋は泣き出して、発作的に「きっと、かあちゃんが悪いんだろ。外の風で頭を冷やしてくる」と捨てセリフを吐いて、家を飛び出していった。そして、夜中まで帰ってこなかった。オレはお袋のこの家出が一番いやだった。だから、オレは早くから貧乏なお袋の願いを知っていた。知って、小三のときにひそかにT大受験を決めた。以来、オレは受験勉強の忠実なしもべとなった、否、忠実な奴隷となった。以来、家事手伝いを放免され、オレは来る日も来る日も受験勉強に明け暮れた。おかげで、その都度、成績優秀というごほうびをもらい、貧乏な親をたいそう喜ばせた。しかし、オレの心の中といえば、いつも冷え冷えとした風が吹いていて、ため息ばかりついていたのだ。いつもT大受験のしんどさを思っては、眠れない夜を過ごしていたのだ。いつも、やっとのこと自分を支えていたのだ。だから、そんな生活は高一までがもう限度だった。トップで高校入学を果たし、これ以上上がなくなったとき、オレは緊張の余り、激しいノイローゼにかかった。そして気が違うほど散々苦しんだ揚げ句、かろうじて立ち直った。そのとき初めて思い知ったのだ、オレは文字どおり奴隷だった、受験勉強の奴隷だった、と。そして、もう二度と奴隷にはならないと決心したのだ。だから、こんなけがらわしい、こんなみじめな受験勉強なんてものをふたりのつきあいに持ち込まないでくれ、やめてくれ。
だから、私は「変な心配は無用。手紙を書いてほしい」と返事をした。しかし、それからというもの、二度とYから手紙は来なかった。
フン、こんなもんさ、どうせオレはその程度のやつとしかつきあわなかったんだ、そう思って最初納得した。しかし、どうした訳か時間がたってもなかなか気持ちにふんぎりがつかなかった。落ち着かなかった。まさか、オレが本気であいつにいかれてしまったなんて。ちがう、ただどうしようもなく落ち着かないのだ。毎日毎日、ラッシュの暗い地下鉄に乗って、予備校の地下牢のような地下の自習室で本を読み、それからまた暗い地下鉄に乗って、薄暗いねぐらに戻ってくる。そのくり返しだった。ねぐらに着くと、誰もいない、誰も喋らない。もちろんYの手紙もない。だから、すぐフトンにもぐりこんだ。秋の夕暮れは早い。起きると真っ暗だった。物音一つしない暗がりの中でフトンから顔を出すと、もしかしてオレは砂漠の真ん中に捨てられたんじゃないか、と思えてくる。そんなとき或る日、思わず、Yの名を口走ってしまった。しかも一度で済まず、二度三度と口走ってしまった。そしたら、それから毎晩というものフトンから顔を出す度にYの名前が口をついて止まらなくなった。むろんYから何の反応もなかった。そしたら、或る晩、とうとう不吉な予感が私を激しく襲った。フトンから目覚めた私は例の如くYの名を呼ぶ代わりに、こう絶叫した、畜生、やっぱりYに男ができたんだ!
一度、この考えが私の頭を占めると、それはただちに殆ど確信となった。そうだ、オレはまたしても振られたんだ!いつもいつもそうだった。オレにはいつも振られる役回りしかなかったんだ。いつだって、惨めなバカ面をして、彼女を男に奪われるのをおめおめと眺めていただけだったんだ。クソッ!
もう失うものはなかった。私はすぐさまペンをとり、Yに最後の手紙を書いた、最後の「罵りの手紙」を。
予想通り、Yの返事はなかった。予想通り、Yには反論なぞできなかったのだ。
そこで、私は改めてこの事態を何とか冷静に考えようとした。まず第一に、私はYを自分の恋人などと考えたことは一度もなかったということだ。だから、はっきり言って、これはもうどうでもいいことなのだ。しかし、それにしてもこれはひどい、ひどすぎる。私は真面目にYとつき合い、Yにこれほど懇願し、これほど切望したにもかかわらず、Yは自分だけ好きな男を作って、さっさと逃げたのだ。裏切り、卑劣な裏切りとしか言いようがない。
 だから、明日、帰郷したら、必ずYに会う。会って、その裏切りの卑劣さを容赦なく暴く。Yは自ら己の醜態ぶりを思い知るべきである。

ノート1はここで終わっている。

(第3章 おわり)


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