恐 怖

----1970年ボクの町は戦場だった----

1995.11.10


第4章 ノート2


 二冊目のノートは、一冊目のときから一年たった、Qが大学一年の冬に書かれた。 中身はノート1とまったく同じ、浪人中のQと葉子(この手記ではQは自分のことを Qと呼び、Yのことを葉子という本名で呼んでいる)のつきあいについてである。
ところが、このノートには葉子の手紙がたくさん引用されている。まるで写経か何か のように長々と引用されている。その葉子の手紙というのは、確かかつてのQにとっ て、文学的な香りもセンスもまるで感じられない、ただのへたくそな文章だった筈で ある。しかし、その手紙は私から見るととても素直で、読む者に彼女の心が生々しく伝 わってくるような文章に思えた。で、のちに至って、振られたQは恐らくこの葉子の 手紙をただひたすら書き写さずにはおれなかったのだ。しかし、読者にとってその全 文は退屈と思われるので、一部省略したことを予め断っておく。
ノート2は次のように書かれていた。

1、浪人(春・田舎)
 感受性の鋭さが生み出す「予想外のこと」、これは葉子が最も畏れたものだった。 しかし、同時にこれこそ葉子があるがままに生きる上で避けられないものであると知 っていた。だから、彼女はいつも「予想外のこと」に苦しみつつこれを受け入れた。
 霧雨の朝だった。駅に葉子だけがポツンと立っていた。Qが手を振ると、しかられ た子供のように笑った。その葉子の目は真っ赤に腫れ上がっていた。ふたりが訪れた 海岸は海が荒れ、風が強かった。ベンチに座ってもふたりとも黙ったきりだった。や がて、葉子は例の赤く腫れ上がったまなこをQに向けると、口を切った。
「実はね、この一週間眠れなかったの‥‥」
それは、葉子の幼友達のことだった。年上の男と深い関係に陥ったその幼友達をどう したらよいのか分からないという、そのいきさつを話す葉子の表情には病的なまでに 深い陰りが射した。Qは葉子のことを恋に恋する少女かもしれないと思った。
‥‥しかし、実際は正反対で、Qこそいつも恋の夢想に浸る男だったのだ。 だから、現実に引き戻されると決まって何もできなかったのだ。
Qは葉子の前で黙ったきりだった。
「でも、もういいの」
語り終わった葉子はにっこり笑ってみせた。が、それは泣き出す寸前みたいだった。
帰り路、葉子は元気よく話した。しかし、ふとした拍子に、彼女は立ち止まってきょ ろきょろしたり、突拍子もないことを口走ったり、松林の向こうに透けて見える海を 見つめて呟いた。
「あゝ、とってもきれい‥‥」

翌日、Qは上京した。葉子はひとりにされた。
田舎の駅のホームでQの母は言った。
「どうか、もう先生と喧嘩してくれるなよ」
今年の初め、Qの退学騒動以来、彼女の顔は一変した。そこには苦悩と疲労がはっき り刻まれていた。退学せずに済んだのはもしかすると隠れた母の涙のお陰かも知れな い。しかし、入試に失敗した時、彼女はもう泣かなかった。
発車のベルが鳴った。Qの母はQに優しく笑った。Qはただ機械的に手を振ってみせ たばかりだったが、すると、たちまち気が遠くなった。今こそ本当にここから立ち去 るのだと思われた。

2、高三(秋・冬)
 それはふとしたことだった。十月の秋晴れの日、Qがクラスの連中とグランドの脇 を流れるM川の土手で昼飯を食ったあと、土手で寝そべっていると、O(筆者注:筆 者のことである)が「五限、サボっちゃおうか」と言った。誰も異論がなかった。そ れほど素晴らしい日だった。それから、起き上がると、Qは彼らとソフトボールやテ ニスをやった。それはQにとって生まれて初めての経験だった。そして高校に来ては じめての最高の気分だった。以来、秋晴れのたびに、ソフトボールやテニスに熱中し た。Qは手放しに楽しかった。
しかしやがて、担任から関係者全員が呼び出しをくらった。一列にズラッと並べられ て、しつこく説教させられた。誰も何も言わなかった。最後に担任が締めくくった。
「わかったね」
すると、突然、Oが立ち上がって、無言のまま、担任の前を通って帰り出したのであ る。一同はビックリした。とその瞬間、何かを分かった気がした。Oに続いて、我々 は次から次へと立ち上がり、ひとりひとり担任の前を胸を張って通り、帰った。担任 は唖然として、声も出なかった。それは何という快感、何という充実感。Oのお陰 で、以来、Qは胸を張って授業をサボるようになった。
----授業に出るか出ないかはオレが自分で決める。
それは単純なことだった。しかし、この単純なことに気がつくまでに、そしてこれを 実行に移すまでに、Qは小学校以来、何という長い年月を要したことだろう。今やQ は自由を実感した、初めて自由の限りない充実感をこの目で、この手で握りしめた。 もう絶対手放すまいと思った。Qは自分の中に力というもの、果てしない力の存在を 実感した。しかし、そろそろ雪も降ろうという十二月になったころ、Qとつきあって 相手をしてくれるような良友はさすがにもういなかった。だが、Qはもはや後戻りで きなかった。今までヘドが出るほど味気なかった学校生活の中でこれほど自由の喜び を味わった者に、どうしてこの喜びを捨てておめおめと再び灰色の授業に出ることが できるだろうか。オレはもう二度と灰色の教師たちに降参しないぞ、とQは思った。
そこで、Qはひとりで体育館の地下や図書室をうろつき回ったり、ときおりクラスの ホームルームに出ては担任と激しく喧嘩した。
‥‥しかし、Qは決してはなから授業をバカにしていたわけではなかった。彼とて、何とか授業に興味や関心が持てないものか、彼なりに見い出そうとしてきたのだ。しかし、現実にはいつも苦痛が忍耐に勝った。殆ど憎悪に襲われながら、Qは心の中でこう叫んで、教室を飛び出した。
----オレには我慢ならない、あの、教えてやるといった傲慢な面と声が。たまらな い。断じて我慢できるもんか!人間の声ほど正直なものはない。喋る内容が問題なの ではない、喋る言葉の響きにこそ全てがかかっているのだ。そうだ、誰も教えること なんかできない。絶対できやしない!

 しかし既に、その頃、学校のはみ出し者対策は着々と手が打たれていた。授業をサ ボる連中はひとりずつ次々と呼び出しをくらって恫喝が加えられていた。その最後の 仕上げがQだった。
一月の初め、Qは久しぶりにクラスのホームルームに出てみると、さっそく担任につ かまった。担任はQを呼びつけた。
「何か用ですか」
教壇に上がって、Qがぶっきら棒に言うと、小柄な担任は顔を真っ赤にして、教壇を指さして怒鳴った。
「き、君っ!そ、そこから降りたまえ!」
言われたとおりQが教壇から降りると、担任は上から彼を見下ろしながら言った。
「君、ここのところずっと授業に出てないそうだねえ。そうかね」
「------」
「フン、どうしたんだい」
「------」
「君、ほらね、分かってるんだろ。いけないねえ。‥‥いいか、今度からちゃんと出 るんだぞ」
「------」
「ね。わかったな」
「いやです」
担任はあやうく教壇から落ちそうになった。しかし、Qはそれだけ言うと、再び貝の ように口を閉ざした。担任は怒りを押し殺しながら言った。
「そ、そんなら出たくない理由を言ってみなさい!」
「聞いていられないからです」
「‥‥‥」
担任は絶句した。彼の怒りは頂点に達したようだった。うつむくと、そのまま声を押 し殺して言った。
「君。君はね、確か入学するとき、誓約書に誓ったね、学校の規則は守りますって」
それから顔を上げると、担任はQをにらみつけ、同時にメガネの奥でニヤリとほくそ笑みながら、Qに向かってゆっくりと言った。
「そんなに学校の規則が守れなくて、そんなに授業がいやだったら、退学すりゃあい いだろう」
退学----この言葉がQに投げつけられると、Qの頭から血がスーと引いた。しかし、その瞬間、Qの心はひるむどころか、こう叫んだ。
「こいつを殺す!」
そして、担任をにらみ返した、ありったけの憎悪でもって担任を焼き殺さんばかりの 激しさでにらみ返した。このときくらい、圧制者ルイ十六世をギロチンにかけて処刑 しないでおれなかった民衆の気持ちが分かったと思ったことはなかった。担任は不気 味になってそのまま退散した。しかし、Qの方はもはや気持ちの高ぶりを押さえるこ とはできなかった。Qの心は、
----こいつを殺す!
という叫び声が残響のようにいつまでも響き続けた。どうしても担任を許せなかっ た。しかしかといって、このまま退学するわけにもいかなかった。小学校以来ずっと 大学受験だけをめざしてやってきたQにとって、退学したあとその先に何の未来も何の希望も思い描くことはできなかった。だが、だからといって担任の言う通りに、今さらおめおめと授業に出れるはずもなかった。それは殆ど拷問にひとしかった。そんなくらいだったら、あいつをぶっ殺す!Qの心はそう叫んだ。袋小路に追いつめられたような気分だった。そこでQは、思わずこれまで一緒に授業をサボった仲間の連中を見た。だが、誰ひとりQに話しかける者はいなかった(このあと、Qはもうクラスの誰とも口を聞かなくなった)。
まもなくQは発熱し、卒業間際まで床にふしている毎日を送った。そのため、退学を 免れた。それは----屈辱の日々だった。
‥‥しかし、今思うに、Qは担任の恫喝に耐え切れなかったばかりではなく、実は自 分の心の高ぶりに自分自身で耐え切れなかったのだ。Qの母、それに普段は何も言わない父さえ彼の退学騒ぎを知って大騒ぎしたが、しかし、そんなことはQにとって何でもなかった。Qが唯一耐えられなかったのは、Q自身の心だった----こいつを殺す!と叫んだ心だった。いったいどこからこんな叫びが飛び出してきたのか、Qはここに来て生まれて初めて「自分の人生は自分で決める」という自由の喜びを全身全霊で感じるという人生の絶頂にいたのに、よりによってどうしてこんな時にあのような叫びが疑いようもない確信として吐かれたのか。Qは自分で自分に耐えきれなくて、発熱した。そして、床の中でうなされ続けた。

3、浪人(春・東京)
 東京での生活----それは当初、こういった悪夢を忘れさせてくれるもののように思 えた。ここでは授業に出ようがサボろうが誰も文句いわなかった。なにをしても自由 だった。Qは東京の街ですれちがう恋人同士の楽しそうな姿を見ながら、自由をかみ しめた。
 もっとも東京の生活は、毎日が下宿と予備校の往復だけという至極単調なものだっ た。しかし朝だけが格別だった。これまでなら決まって母か妹が起こしてくれたが、 今は誰ひとりQに声をかける者はいなかった。静けさの中であさ目覚めた。不思議だ った。もし許してもらえるなら、叫び声をあげたかった。
上京してから最初に手紙を書いたのはQのほうだった。彼は、最初の緊迫した一週 間が過ぎると思いきり眠り、葉子に宛ててこう書き出した。
「お元気ですか、おばちゃん!」
しかし、葉子はQから手紙を受け取るまでは自分から決して手紙を書くまいと固く誓 っていた。しかも、Qに対する手紙を決して一週間より短い間隔にしないように誓 い、これを守った。さらに、葉子の手紙は感情を抑え、淡々としたものだった。それ は不安に陥っている葉子がそこから立ち直るために是非とも必要なことだった。
 一方Qは、予備校の授業開始後一ヶ月もしないうちに、東京の街をうろつくことを覚 えた、といっても予備校周辺だけだったが。五月の初め、街は明るく、人は皆若々し かった。ここなら何しようが誰にも文句を言われなかった。Qは解放感を胸一杯吸い 込んだ。だが、Qにとって東京は----目が傷んだ。これは決して馴染めるものでなか った。通りを濁流のように流れる猛烈な車の群れのため、あたりの空気は泥のように きたなく、くさかった。とてもまともに吸い込める代物ではなかった。おかげで、Q の鼻毛は毎日モヤシのようにニョキニョキ伸びた。Qは、こんな泥の中を平気で毎日歩ける通行人や通りに立ち並ぶ店たちの大胆さと無神経さに思わず奇跡を見る思いがした。また、下宿近くの住宅街で決まって見かける、赤ん坊を乳母車に乗せた若い母親たちの姿は彼の気持ちをうすら寒くさせた。妙に気取って着飾った彼女らの雰囲気はQがこれまで田舎で見てきた母子のそれとは何か決定的にちがった。
----こさえもの。こんなの本当の親子じゃない。ただの虚栄と退廃じゃないか。
山がない。この発見も辛かった。川がないのと同様、Qを苛立たせた。予備校から帰 宅し、下宿にとじこもっていると、静寂を破って夕暮れのチャイムの音とともに帰宅 する子供らの声が耳に響いて去っていった。すると、その静けさの中でQは飛び出し たい衝動に駆られた。飛び出して、S川の土手まで駆け出して、山に沈む夕焼けを思 いきり眺めていたいという衝動に駆られた。しかし、ここには土手も夕焼けもなかっ た。Qは、隣の塀にすっぽりふさがれた下宿のうす暗い窓の前に立って、過ぎ去った 夕焼けを思い出していた。
 予備校の入口では、Qには信じ難いことだったが、毎日、学生証の検査があり、検査 に通らないと授業に出れなかった。教室はだだっぴろく、二百名以上収容できる広さ だった。窓が殆どなく、灰色のセメントがむき出しのままの壁は薄暗い教室を一層陰 気にした。にもかかわらず、授業中はすしづめになった。教師は皆大学の教師のよう だった。いかにも受験慣れした要領のよい彼らの教え方と授業を飽きさせない機知や 洒落の連発は最初Qを喜ばせたが、それも長く続かなかった。やがて、退屈がQを支 配した。それらは単に毎年、飽きもせずくり返される教え方であり、洒落にすぎなか った。Qは授業の最中、教室から飛び出すことが多くなった。教室から飛び出した彼 が最初向かったのは、予備校の屋上だった。しかし、そこには一面高い鉄条網が張り めぐらされていた。浪人生の自殺防止のためとしか考えられなかった。ここには天使 などいないのだ。彼は二度と屋上にのぼらなかった。
 予備校の休み時間は浪人生のざわめきとタバコの煙であふれかえった。しかし、Qは 誰とも話さず、ひとり沈黙を守った。T大受験の際に発見した軽率と魯鈍な受験生の 印象が今のQの態度を決めていた。かつてQは、軽率にもT大の受験生は回りの連中とはちがうのではないかとひそかに期待していたのだった。しかし今、Qには単なる失望しかなかった。そのため、予備校で出会う浪人生の群に、常に激しい侮蔑の視線を向けずにはおれなかった。で、誰ひとり、Qと友達になろうという者もいなかった。
 そこでQにとって、葉子の手紙が自ずと大きな存在となっていった。Qは知らずして 葉子の手紙に頼っていたのだ。葉子の手紙に書かれた彼女の想い、ささやき、甘え、 意地悪といったこれら全てがQにとって救いだった。
‥‥しかし、今思うに、これが遠く離れた手紙ではなく、もし葉子がすぐそばにいた としたら、Qは果たしてここまで彼女に頼っただろうか。或いは、彼女のほかに誰か気軽に話せる友達がいたとしたら、ここまで彼女に頼っただろうか。頼らなかったに違いない。 間違いなく距離をおいただろう。なぜならQは、葉子がときとして見せる、あの激し いまでの自己嫌悪や病的なまでの苦悩ぶりに対し、Q自身の甘美な恋愛感情とは相容 れない異和感をどうしても押さえることができなかったからである。
で、自然、Qは葉子の思い詰めるような文章ばかり目がいく。手紙を読み終え、ごろ りと横になるとき、この男の考えることはあまり真面目なものではなかった。

それはまもなく現実の試練となって現れた。或る日、葉子は頼みを書いてきた。
「詩を書いてほしいの。それも気軽に書いたやつ‥‥」
Qは文学や哲学にのめり込んでいたが、しかし元々詩など書ける男でなかった。
‥‥いや、今思うに、正確にいうと詩が書けなかったわけではない。Qはいつも、自 分が陶酔していた文学や哲学でもって自分の心をがんじがらめにしていたのだ。だか ら、彼には自分の心を素直に見ることも率直に表わすこともできなくなっていたので ある。しかも、このときのQは、正直なところ葉子にひとかけらの恋愛感情も抱いて いなかった。だから、文学青年Qの夢想的な心情に訴えて、ロマンチックな詩をでっ ち上げることもかなわなかった。そこで、二日後にできあがった詩は、はからずもQ のいい加減な気持ちをそのまま表明したガチガチのへぼ詩となったのだ。
だが、葉子は深刻だった。その頃、彼女は前の恋人に再会を要求されていた。思い悩 んだ末、彼女は思い切ってQに支えを求めたのだ。しかし、Qの詩は何の支えにもな らなかった。それどころか、葉子に「どうぞ恋でもして下さい」などとよそよそしい 文句を書いたQの手紙は不安を募らせていた葉子に初めて怒りとそれからヒステリー を呼び覚ました。数日間、愛情と憎悪の闘いの末、葉子はQに筆を取った。

 私は別に部長さんを喜ばせるためや悲しませるためやからかうために、あの”初  恋”を書いたんじゃありません。
では何のために?私にもわかりません。でもね、何となく聞いて欲しかったんで しょうね。私だって、昔はばかみたいに恋をしたっていうことを‥‥
あなたは私があれほどいやだと言ったのに、またも恋をしろだなんて言いました ね。私がきっと盲目的になってしまうのを笑うのでしょうか。
ごめんなさい。そんなつもりないこと 私が一番よく知っている。
でもね、私は生半可まわりが見えなくなるのがこわいんです。他人を知らずに傷つ け、自分ばかり幸福そうにぬくぬくするのが、そんな私になるのがこわいんです。
だから、恋なんかしたくないって言うんです。

それから、葉子は前の恋人のことについて書いた。それは勿論過ぎ去った過去の出来事 だった。しかし、葉子はかつて自分があれほど恋しく思い詰め、苦しんだ相手のこと に対し、これ以上冷淡な言葉で説明することはできなかった。
 ところが、いつも与えられた問題に立派な答えを出すだけのQには葉子の態度がて んで理解できなかった。最初、Qは葉子の異性に対する真剣さにびっくりした。次に 怒りがきた。葉子が自分以外の男のためにこんなに悩んでいる、これがQの自尊心を 大いに傷つけた。葉子に何の恋愛感情も抱いていない癖に、否、抱いていないからこ そQは、とっさに次のような、絶交状に近い怒りに満ちた手紙を書いた。
「あなたは僕より前の彼に実は今でも心を許しているのだ」
これ以上、葉子を悲しませる文句はなかった。しかし、彼女は自分自身を裏切って行 動できる人物ではなかった。Qはわたしから去ってゆくかもしれない、この悲壮な予 感を抱いて、葉子は再度筆をとった。

 学校に行って教室に入ると何か心の中を通り過ぎるものを感じます。悲しいもの や楽しいものがぐるぐる回りながら‥‥
どうぞしっかり勉強して下さい。いやな言葉だってこと私もわかっています。で も、私にはこう言わざるを得ないのです。もしも私のことなんかで頭を悩ます時間 があるのなら、今すぐにそれは愚かな行為だとお気づき下さい。

それから、最近買ったという「希望」というレコードの歌詞を長々と書き連ねたりし てから、以前の恋人Nについて書いた。

 確かに私は以前つきあったNのことを忘れることができません。しかし、彼は今 もう彼の肉体から遊離した私の思い出として根を張っているのです。それともう一 つどうしても忘れられない由がありますが、申し上げかねます。でも悲しいことに 彼は今の私のことなんか本当は鼻にもかけておりません。ただ私を苦しめる存在に ほかならないのです。
ある人にこう言われました。”過去は過去として、いま君はそれを乗り越えてい かなければならない。いつまでもしがみついているのは良くないことだ”って。私 もそう思います‥‥
筆がすべったついでに書いてしまいます。こんなこと書くのこれが最後です。
Nは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
今は何もかもわからない。ただNという男性にだけは私は多少なりとも自分を許し たというのは事実。二度とNについて聞かないで。

連日の梅雨の真っ最中に届いた、この手紙は全編まるでびっしょり濡れているかのよ うな印象を与えた。Qはドキッとした。一瞬、葉子の心に触れたような気がしたから である。しかも、それは自分となにか全然ちがうんじゃないかと思った。しかし、何 がちがうのか、自分とどうちがうのか、その意味を理解するだけの力はまだなかった。
‥‥いや、今思うに、正確にいうと力がなかったわけではない。そうではなく、この とき彼の頭を占めていたのは「赤と黒」のマチルドや「罪と罰」のソーニャといった 女性のことだった。もともとこういった女性への熱中ぶりは彼が高一のノイローゼの あと始まった。しかし、それは彼の高三の退学騒ぎのあと一層熱を帯びた。自分でも 訳が分からないくらいのめり込んだ。もうそういった女性像で彼の頭はすっかりしび れていた。だから、それが殆ど反射神経的に彼の葉子を見る視線を決定していた。そ のため、マチルドでもソーニャでもないただの葉子の手紙を読んでも、そんなQの視線が葉子の心にまで届く筈がなかった。

4、葉子
 葉子は両親とも教師の家に何不自由なく育った。強いていえば、両親が共稼ぎだっ たため、両親と一緒にいる時間が少なかったぐらいである。しかし、その分、祖母が 葉子の面倒を見た。しかも、父親は彼女を溺愛した。だから、年に割には早熟だっ た。しかし、すくすく育った葉子は明るく旺盛で頭も良く、小学校時代ずっとクラス 委員をやった。
やがて、中学生になると、早熟児の葉子は幼なじみのNに恋をした。Nはスポーツマ ンでスタイルがよく、その上ちょっと不良じみていてそれが一層かっこよく見えた。 要するに、面食いの葉子のメガネにピッタリかなう相手だった。何事にも積極的な葉 子のアタックは首尾よくいき、ふたりのつきあいが始まった。葉子の有頂天は絶頂に 達した。しかし、まもなく破綻が来た。Nがつきあいをやめようと言い出したのであ る。葉子はびっくりした。しかも、Nは理由も言わずに葉子と別れたがった。葉子は 必死になって訳を尋ねた。そこで、重い口をついて出たNの言葉は、「お前は進学校 に行くし、オレは商業高校だ」だった。しかし、それは表向きの理由だった。Nはも う葉子にうんざりしていたのだ。Nの冷ややかな視線は「もうお前みたいに、自分ば かり幸福そうにぬくぬくする奴の顔も見たくない」と語っていた。葉子に語るべき言 葉はなかった。
Nは去った。もともとプライドが人一倍高い葉子は平静を装った。しゃあないわ、と 自ら言い聞かせた。しかし、いくら日がたってもNの懐かしい顔は一向消えず、でん と構えて葉子の前から動かなかった。やがて、N以外の全てのことが葉子にとって意 味を失った。晴れ渡った空を見ても、銀色の雪山を見ても何も感動しなくなった。葉 子の顔からは快活さと単純さが消えた。そして、ぼんやりした愚かし気な兆候と気む ずかし気な兆候がこれにとって代わった。すると、彼女は一転して気むずかしい変り 者と思われるようになった。
しかし、葉子は単に追憶だけに浸っていたのではなかった。この間ずっとNが別れ際 に見せたあの冷たい視線のことを考え続けていたのである。そして、それが意味する ものを理解したとき、葉子はもう自分のことがまったく信じられなかった。どうし て、あんな「自分ばかり幸福そうにぬくぬくする」ようなことが平気でできたのか、 分からなかった。その自責の念はNに対する追憶と共にやってきて、葉子を苦しめ た。そんなとき、彼女の胸はつぶれてしまい、何日も誰とも口を聞かず、学校を休ん で部屋に閉じこもった。すると、どこからともなく音楽が聞こえてくるような気がし た。こうした永い闘いののち、彼女は自分が不幸でいつづけてもいいと観念した。幸 福がNのかたわらにしかないんだったら、それでもいい。Nに対する追憶を捨てたた めずっと不幸になっても構わないと思った。もうこれ以上、追憶は彼女にとって重す ぎた。
こうして、再び葉子に落ちつきが戻ったとき、その表情からぼんやりした愚かしさと 気むずかしさは二度と消えなかった。
では、どうしてあの不幸な葉子は再び恋をしてしまったのだろうか。

5、浪人(夏・田舎)
 雪国の夏は暑かった。Qはそれ以上望んだにもかかわらず葉子は週一回以上会うこ とをどうしても許してくれなかった。会うのはいつも葉子の家か戸外だった。Qはい つも偽って家を出た。喫茶店などというしゃれた場所に行ったことがなかったQは、 また母親に見つかるのを恐れていたQは、いつも葉子をS川の土手に連れていった。
土手は熱く、人影はなかった。だから、葉子がいつかそれを不信に思ったとしても不 思議ではない。
 或る日、いつものように土手に腰を下ろしたとき、Qは生まれて初めて女性の手を 握った。そのときふたりは沈黙したままだった‥‥すると突然、葉子が元恋人のNの 話を切り出した。ビックリしてQは彼女を見た。葉子は熱病やみのような赤い顔で今 にも倒れそうだった。しかし、彼女は耐えて話し続けた。そして話し終わると、Qに 握りしめられている手をゆっくり力を込めてほどき始めた。Qは思わず動転した。し かし、彼女の意志がまさった。手はQから逃れていった。ふたたび沈黙が支配した。
それから葉子は呟いた。「肩を抱いて」
夕陽が川岸の草の間からのぞくころ、ふたりは立ち上がった。葉子の顔にはまだ病み 上がりの刻印が宿っていた。しかし、Qが「今度、一週間の前に会いに行っていい」 と尋ねると「‥‥ううん、だめ」という葉子はQをこっそり見、うるんだまなざしで 答えたのだ。何ということだ、あのわがままで勝ち気な葉子がどうしてこんなまなざ しで、こんな声をしているのだろう。たった今まで、葉子は座ったまま顔を伏せ、呪 いのように「あたし、あいつが憎い」と発したのだ。そのとき、思わずQは彼女の肩から手を振りほどいた。そしたら葉子はNがこれと同じことをしたの、と涙声で打ち明けた。Qはそれをずるいとは思わなかった。ただ葉子に圧倒されてしまった。
 こうして、ふたりは打ち解けるにつれ、しかし、葉子の小言もふえていった。それ はもっぱらQの勉強をめぐってだった。とくにQは自分の成績について平気で嘘をつ く癖があった。それで葉子はQの成績が悪いのは自分のせいだと思い悩んだ。彼女はQに嫌 われるのを承知でくり返し、こう言った。「ね、勉強して」
だが、Qは到底承服できなかった。Qにとって、勉強とは必ずそこに一種の感銘が伴 わなければならなかった。例えば、Qにとって、古文とは「蜻蛉日記」を読み、道綱 の母が描く感動的な場面にくると涙が止まらなかった、というようなものだった。或 いは平安末期の日本史を学ぶとは「平家物語」を読むことであり、これ以上胸を打つ 戦記物はないと思われた。Qはそこにだけ、自惚れや卑屈さが交錯するだけの受験勉 強から逃れてはじめて息がつける、彼本来の棲み家があるように思えた。今のQにと ってはもはやそれだけが純粋で、神聖なもののように思われた。だから、葉子のいう 勉強=受験勉強をQが受け入れる訳には絶対いかないと思った。しかし、Qは葉子の 優しい言葉には反論できないとも思った。そのため、この問題は未解決のままずるず ると冬まで持ち越され、そして、そこで暴発した。
‥‥しかし、今思うに、このときQは、何でもっと正直になれなかったのだろうか。 何ではっきりと、自分にはもう感銘も喜びもないような勉強が我慢ならないのだと葉 子に言えなかったのだろうか。どうして素直に、自分はもうそんな受験勉強にどうし ても耐えられないのだと葉子に白状できなかったのだろうか。どうして一言、自分が そういう弱い男なんだということを葉子に打ち明けられなかったのだろうか。もし、 このとき打ち明けていれば、葉子はあとからあんなにQを責めなかっただろうに‥‥
そんなに恐かったのか、葉子にバカにされるのが。それとも、そんなにガチガチにな っていたのだろうか、Qの心が。

(第4章5節まで おわり)

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