ドキュメンタリー「江差追分」V「北の波涛」事件(最高裁)

----最高裁判決----

6.28/01



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 小森意見書を中核とする上告理由書(2)と上告受理申立理由書(2)を最高裁に提出してから2年後、二審を覆し、上告人の請求を認めるという逆転勝訴判決が出たのは、提訴から10年後の2001年6月28日である。

 本件事件は、法律問題としては単純明快であるが、紛争としては錯綜を極める(当然のことながら、このことが判決に微妙な影を落とした)。
 原告は、江差追分に関するノンフィクション「北の波涛に唄う」、江差追分のルーツをテーマの一つにした小説「ブタペスト悲歌」の作者。
被告NHKは、江差追分のルーツを探求したドキュメンタリー「遥かなるユーラシアの歌声−−江差追分のルーツを求めて−−」(ドキュメンタリー「江差追分」と略称)の制作者。
原告は、被告NHKらに対し、1991年、以下の理由で提訴した。
1、ドキュメンタリー「江差追分」は、原告の小説「ブタペスト悲歌」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、
2、ドキュメンタリー「江差追分」の放映、それに関連した番組責任者の行為は、小説「ブタペスト悲歌」に関連して、原告の名誉を毀損したもの
3、ドキュメンタリー「江差追分」のナレーションの一部は、原告のノンフィクション「北の波涛に唄う」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、

一連の裁判の結果を一覧表にすると、次の通りである(原告からみて勝ったケースが○、負けたケースが×)。

一審(96.9.30東京地裁) 二審(99.3.30東京高裁) 最高裁(01.6.28)
第1の請求
×
×
×
第2の請求 × ×
第3の請求
×

 実は、この裁判は、被告側による、2回にわたる小森意見書の提出が殆ど勝敗を決めたといってよい。
 1回目は、高裁段階で、第2の請求である名誉毀損に関して。→その結果、高裁で、一審の判断が覆った。
 2回目は、最高裁の段階で、第3の請求である翻案権の部分侵害に関して。→その結果、最高裁で、一審・二審の判断が覆った。

 よって、最高裁では、唯一、第3の請求(ドキュメンタリー「江差追分」のナレーションの一部は、原告のノンフィクション「北の波涛に唄う」を無断で翻案したものかどうか)が争われた。
 そこでまずは、翻案権が争いとなった両作品の該当部分を、この目で確かめて欲しい→ここをクリック
 そして、高裁の事件にせよ、最高裁の事件にせよ、そこで、控訴した者(上告した者)にとっての闘いとは、それまでに出された一審、二審判決に対する批判にほかならない、つまり「判決批判」ということに尽きる。その意味で、ここでの判決批判の対象となった一審判決(なぜなら、二審判決は、一審判決をそのまま是認したものだったから)を是非一読して欲しい→ここをクリック(272KB)

 このような翻案権侵害においては、著作物の正確な構造分析が決定的に重要である。もちろん、著作物の正確な構造分析の認識から直ちに法的判断が導かれるわけではない。しかし、可能な限り正確な作品分析の成果を踏まえてこそ、適正な法的判断が初めて可能となる。

 以下は、小森意見書を中核とする上告理由書(2))と上告受理申立理由書(2)の補充書(1) をもって、最高裁に二審判決の破棄を迫った我々の主張に対する最高裁の返答(=判決)である。

事件番号 東京高等裁判所 平成11年(ネ受)第182号 損害賠償等請求事件 

当事者   原告(被控訴人・被上告人) 木内 宏     
       被告(控訴人・上告人) NHKほか3名
            


H13.06.28 第一小法廷・判決 平成11(受)922 損害賠償等請求事件


判例 H13.06.28 第一小法廷・判決 平成11(受)922 損害賠償等請求事件(第55巻4号837頁)

判示事項:
1 言語の著作物の翻案の意義 
2 表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において既存の言語の著作物との同一性を有する著作物を創作する行為と翻案

要旨:
  1 言語の著作物の翻案とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。2 思想,感情若しくはアイデア,事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において既存の言語の著作物と同一性を有するにすぎない著作物を創作する行為は,既存の著作物の翻案に当たらない。

参照法条:
  著作権法2条1項1号,著作権法27条,著作権法第7章権利侵害

内容:
 件名  損害賠償等請求事件 (最高裁判所 平成11(受)922 第一小法廷・判決 破棄自判)
 原審  H11.03.30 東京高等裁判所 (平成8(ネ)4844)


主    文
         主    文
  1 原判決中上告人ら敗訴部分を破棄し,同部分につき第1審判決を取り消す。
 2 前項の部分につき被上告人の請求をいずれも棄却する。
 3 訴訟の総費用は被上告人の負担とする。
         
理    由

 上告代理人山田善一,同毛受久の上告受理申立て理由について

 1 原審の適法に確定した事実関係の概要は,次のとおりである。
 (1) 被上告人は,江差追分に関するノンフィクション「北の波濤に唄う」と題する書籍(以下「本件著作物」という。)の著作者である。上告人日本放送協会は,「ほっかいどうスペシャル・遥かなるユーラシアの歌声―江差追分のルーツを求めて―」と題するテレビ番組(以下「本件番組」という。)を製作し,平成2年10月18日,放送した。上告人Aは,本件番組放送当時,上告人日本放送協会の函館局放送部副部長であり,本件番組製作の現場責任者として,本件番組の製作に関与した。
 (2) 本件番組は,本件著作物を参考文献の一つとし,これに依拠して製作されたが,本件番組においてその言及はない。
 (3) 本件著作物の中の短編「九月の熱風」の冒頭には,別紙上段のとおり記述されている(以下「本件プロローグ」という。)。「九月の熱風」は,被上告人が初めて江差追分全国大会を鑑賞に行った時の,同大会の参加者や観客の様子等を描き,同大会の独特の熱狂と感動を描写した短編であるが,本件プロローグは,その冒頭において,江差町の過去と現在の様子を紹介し,江差追分全国大会を昔の栄華がよみがえったような1年の絶頂としてとらえたものである。
 なお,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシン漁が不振となりその面影がないことは,一般的な知見である。他方,江差町においては,8月の姥神神社の夏祭りを,町全体が最もにぎわう行事としてとらえるのが一般的な考え方であり,江差追分全国大会は,毎年開催される重要な行事ではあるが,町全体がにぎわうというわけではない。
 (4) 本件番組は,江差追分の起源に迫ろうとしたものであって,9月に開かれる江差追分全国大会の時に江差町は一気に活気づくこと,同大会には海外からも参加者が訪れること等を内容とするものであり,本件番組のナレーションには,本件プロローグに対応する部分として,別紙下段のとおりの語りがある(以下「本件ナレーション」という。)。

 2 本件は,被上告人が,上告人らに対し,本件ナレーションは本件プロローグの翻案に当たると主張して,本件番組の製作及び放送により,本件著作物の著作権(翻案権及び放送権)が侵害されたことを理由として著作権使用料相当損害金100万円,著作者人格権(氏名表示権)が侵害されたことを理由として慰謝料50万円及びこれらについての弁護士費用50万円の,合計200万円の損害賠償を請求する事案である。

 3 原審は,概要次のとおり判示して,著作権使用料相当損害金20万円,慰謝料20万円及び弁護士費用20万円の合計60万円を認容すべきものとした。
 (1) 本件プロローグと本件ナレーションとは,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないこと,江差町では9月に江差追分全国大会が開かれ,年に1度,かつてのにぎわいを取り戻し,町は一気に活気づくことを表現している点において共通している。このうち,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないことは,一般的知見に属する。しかし,現在の江差町が最もにぎわうのは,8月の姥神神社の夏祭りであることが江差町においては一般的な考え方であり,これが江差追分全国大会の時であるとするのは,江差町民の一般的な考え方とは異なるもので,江差追分に対する特別の情熱を持つ被上告人に特有の認識である。
 (2) 本件ナレーションは,本件プロローグの骨子を同じ順序で記述し,表現内容が共通しているだけでなく,1年で一番にぎわう行事についての表現が一般的な認識とは異なるにもかかわらず本件プロローグと共通するものであり,また,外面的な表現形式においてもほぼ類似の表現となっているところが多いから,本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができる。
 (3) したがって,本件ナレーションは,本件プロローグを翻案したものといえるから,本件番組の製作及び放送は,被上告人の本件著作物についての翻案権,放送権及び氏名表示権を侵害するものである。

 4 しかしながら,原審の上記判断は,是認することができない。その理由は,次のとおりである。
 (1)【要旨1】 言語の著作物の翻案(著作権法27条)とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして,著作権法は,思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号参照),【要旨2】既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若しくはアイデア,事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案には当たらないと解するのが相当である。
 (2) これを本件についてみると,本件プロローグと本件ナレーションとは,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないこと,江差町では9月に江差追分全国大会が開かれ,年に1度,かつてのにぎわいを取り戻し,町は一気に活気づくことを表現している点及びその表現の順序において共通し,同一性がある。しかし,本件ナレーションが本件プロローグと同一性を有する部分のうち,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないことは,一般的知見に属し,江差町の紹介としてありふれた事実であって,表現それ自体ではない部分において同一性が認められるにすぎない。また,現在の江差町が最もにぎわうのが江差追分全国大会の時であるとすることが江差町民の一般的な考え方とは異なるもので被上告人に特有の認識ないしアイデアであるとしても,その認識自体は著作権法上保護されるべき表現とはいえず,これと同じ認識を表明することが著作権法上禁止されるいわれはなく,本件ナレーションにおいて,上告人らが被上告人の認識と同じ認識の上に立って,江差町では9月に江差追分全国大会が開かれ,年に1度,かつてのにぎわいを取り戻し,町は一気に活気づくと表現したことにより,本件プロローグと表現それ自体でない部分において同一性が認められることになったにすぎず,具体的な表現においても両者は異なったものとなっている。さらに,本件ナレーションの運び方は,本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが,その記述順序自体は独創的なものとはいい難く,表現上の創作性が認められない部分において同一性を有するにすぎない。しかも,上記各部分から構成される本件ナレーション全体をみても,その量は本件プロローグに比べて格段に短く,上告人らが創作した影像を背景として放送されたのであるから,これに接する者が本件プロローグの表現上の本質的な特徴を直接感得することはできないというべきである。
 したがって,本件ナレーションは,本件著作物に依拠して創作されたものであるが,本件プロローグと同一性を有する部分は,表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分であって,本件ナレーションの表現から本件プロローグの表現上の本質的な特徴を直接感得することはできないから,本件プロローグを翻案したものとはいえない。

 5 結論
 以上説示したところによれば,本件番組の製作及び放送は,被上告人の本件著作物についての翻案権,放送権及び氏名表示権を侵害するものとはいえないから,被上告人の本件損害賠償請求は,いずれも棄却するべきである。これと異なる見解に立って,被上告人の本件請求の一部を認容すべきものとした原審及び第1審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は,この趣旨をいうものとして理由がある。したがって,原判決中上告人ら敗訴部分を破棄し,同部分につき第1審判決を取り消し,被上告人の請求をいずれも棄却することとする。

 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 井嶋一友 裁判官 藤井正雄 裁判官 大出峻郎 裁判官 町田 顯 裁判官 深澤武久)

(別 紙)

 北の波濤に唄う



 むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。鰊の到来とともに冬が明け、鰊を軸に春は深まっていった。
 彼岸が近づくころから南西の風が吹いてくると、その風に乗った日本海経由の北前船、つまり一枚帆の和船がくる日もくる日も港に入った。追分の前歌に、

  松前江差の 津花の浜で
  すいた同士の 泣き別れ

 とうたわれる津花の浜あたりは、人、人、人であふれた。町には出稼ぎのヤン衆たちのお国なまりが飛びかい、海べりの下町にも、山手の新地にも、荒くれ男を相手にする女たちの脂粉の香りが漂った。人々の群れのなかには、ヤン衆たちを追って北上してきた様ざまな旅芸人の姿もあった。

 漁がはじまる前には、鰊場の親方とヤン衆たちの網子合わせと呼ぶ顔合わせの宴が夜な夜な張られた。漁が終れば網子わかれだった。絃歌のさざめきに江差の春はいっそうなまめいた。「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」の有名な言葉
が今に残っている。
 鰊がこの町にもたらした莫大な富については、数々の記録が物語っている。
 たとえば、明治初期の江差の小学校の運営資金は、鰊漁場に建ち並ぶ遊郭の収益でまかなわれたほどであった。
 だが、そのにぎわいも明治の中ごろを境に次第にしぼんだ。不漁になったのである。
 鰊の去った江差に、昔日の面影はない。とうにさかりをすぎた町がどこでもそうであるように、この町もふだんはすべてを焼き尽くした冬の太陽に似た、無気力な顔をしている。
 五月の栄華はあとかたもないのだ。桜がほころび、海上はるかな水平線にうす紫の霞がかかる美しい風景は相変わらずだが、人の叫ぶ声も船のラッシュもなく、ただ鴎と大柄なカラスが騒ぐばかり。通りがかりの旅人も、ここが追分の本場だと知らなけ
れば、けだるく陰鬱な北国のただの漁港、とふり返ることがないかもしれない。
 強いて栄華の歴史を風景の奥深くたどるとするならば、人々はかつて鰊場だった浜の片隅に、なかば土に埋もれて腐蝕した巨大な鉄鍋を見つけることができるだろう。魚かすや油をとるために鰊を煮た鍋の残骸である。
 その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。日本じゅうの追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるのだ。
 町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく。 ほっかいどうスペシャル
  遥かなるユーラシアの歌声
   ―江差追分のルーツを求めて―

 日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。古くはニシン漁で栄え、



 「江戸にもない」という賑いをみせた豊かな海の町でした。



 しかし、ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません。


 九月、その江差が、年に一度、かっての賑いを取り戻します。民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです。大会の三日間、町は一気に活気づきます。


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