2001.03.13
本件事件は、法律問題としては単純明快であるが、紛争としては錯綜を極める(当然のことながら、このことが判決に微妙な影を落とした)。
原告は、江差追分に関するノンフィクション「北の波涛に唄う」、江差追分のルーツをテーマの一つにした小説「ブタペスト悲歌」の作者。
被告NHKは、江差追分のルーツを探求したドキュメンタリー「遥かなるユーラシアの歌声−−江差追分のルーツを求めて−−」(ドキュメンタリー「江差追分」と略称)の制作者。
原告は、被告NHKらに対し、1991年、以下の理由で提訴した。
1、ドキュメンタリー「江差追分」は、原告の小説「ブタペスト悲歌」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、
2、ドキュメンタリー「江差追分」の放映、それに関連した番組責任者の行為は、小説「ブタペスト悲歌」に関連して、原告の名誉を毀損したもの
3、ドキュメンタリー「江差追分」のナレーションの一部は、原告のノンフィクション「北の波涛に唄う」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、
一連の裁判の結果を一覧表にすると、次の通りである(原告からみて勝ったケースが○、負けたケースが×)。
一審(96.9.30東京地裁) | 二審(99.3.30東京高裁) | 最高裁(01.6.28) | |
第1の請求 |
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第2の請求 | ○ | × | × |
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最高裁では、唯一、第3の請求(ドキュメンタリー「江差追分」のナレーションの一部は、原告のノンフィクション「北の波涛に唄う」を無断で翻案したものかどうか)が争われた。
そこで、まだ翻案権が争いとなった両作品の該当部分を読んでいない人は、まず、この目で確かめて欲しい→ここをクリック
ここでは、上告受理申立理由書(2)の補充書(1)を紹介する。
上告受理申立理由書(2)を最高裁に提出してから1年半が経過したにもかかわらず、最高裁から、口頭弁論を開いて審理するのか、それともこのまま上告棄却にするのか何の連絡もなかった。そこで、上告人の依頼で、依然迷いの中にあって、未だ確信の域に達しない最高裁の戸惑いを吹っ切り、最後のとどめを刺すために、なお残されていた疑念、反論を一掃しようとしたのがこの書面である。
正直なところ、最初、この仕事は非常にかったるかった。というのは、既に、上告受理申立理由書(2)で言うべきことは言い尽くしていると思えたから、単にそのくり返しは、耐え難かった。しかし、いざ取り掛かってみると、なお、改善すべき余地があることを発見し、途中から、思いがけず、熱中してしまった。
そのような機会を与えられ、翻案権侵害の判断基準について、従来の成果をさらに練り上げる書面が作成でき、非常に幸いに思っている。
なお、補充書の中で引用した様々な文献の目録は→ここをクリック
事件番号 東京高等裁判所 平成11年(受)第922号 損害賠償等請求事件
当事者 原告(被控訴人・被上告人) 木内 宏
被告(控訴人・上告人) NHKほか3名
上告受理申立人は、平成11年6月25日付上告受理申立理由書(二)を補充するために、上告受理申立理由書(二)補充書(1)を提出する。
第一、 上告受理申立理由書の再確認――上告受理申立理由書で上告受理申立人が最も言いたかったこと――
一、 作品の構造分析のあり方について
二、 作品の創作性の評価の仕方について
三、 専門家の知見による作品分析とその対比の一覧表(別紙T)
第二、補充しておきたいこと1――原判決の「両作品の表現形式上の本質的特徴が共通する」とした認定の仕方の不適切さ(=著しい経験則違背)について――
一、 認定の展開の仕方そのものについて
二、 個々の箇所における作品分析の仕方について
1、本件プロローグの「表現形式上の本質的特徴」について
2、本件ナレーションの「表現形式上の本質的特徴」について
3、両作品に共通する「表現形式上の本質的特徴」について
三、 原判決の作品分析の混乱の原因――表現形式の同一性と表現内容の同一性を混同する誤り――
四、本件プロローグの「発端」と「結末」における対応関係から判明する原判決の作品分析の誤り
第三、補充しておきたいこと2――原判決が、パロディ事件最高裁判決の「本質的な特徴の感得」論を採用したことの間違いについて――
一、 パロディ事件最高裁判決の構成
二、 前記パロディ事件最高裁判決の構成が意味するところ
三、 結論
第四、補充しておきたいこと3――日経新聞の記事の要約を著作権侵害と認めた平成6年2月18日東京地裁判決に関して――
一、 結論
二、 理由の詳細
1、判決の法律構成の誤りについて1――翻案権侵害の判断基準自体の誤り――
2、判決の法律構成の誤りについて2――翻案権に関する著作権法27条を当該事案に適用するに際しての誤り――
3、日経事件判決がもたらした功罪とその克服について
以 上
第一、上告受理申立理由書の再確認――上告受理申立理由書で上告受理申立人が最も言いたかったこと――
言うまでもなく、上告受理申立人が本件で最も危惧していることは、本来著作権侵害には該当しない自由な表現活動が認められて然るべき領域にまで、著作権侵害の名目の下にその表現活動が不当な制約を被り、その結果、上告受理申立人にとって死命を制するほど重要な、また憲法上も最も尊重されて然るべき、表現の自由が損なわれてしまうことである。
しかるに、一審裁判所及び原審裁判所は、このことの重大性を殆ど自覚しないまま著作権侵害を認め、その結果、表現の自由の侵害をもたらす憲法違反の判決を下した。
そこで、上告受理申立人は、この問題の重要性に鑑み、上告し、平成11年6月提出の上告受理申立理由書の中で、表現の自由の侵害に及ばないような厳密かつ適正な著作権侵害の判断基準というものを可能な限り詳述することに努めたものである。ただし、そのため、反面、上告受理申立人が言わんとした核心を裁判所にストレートに伝える点で十分でなかったきらいがあった。
そこで、その点を反省し、今、本補充書の冒頭において、前記上告受理申立理由書の核心部分を再確認しておきたいと思う。
上告受理申立理由書で上告受理申立人が是非とも強調したかったことは、突き詰めれば次の2点に要約される。
@.作品の構造分析のあり方について
A.作品の創作性の評価の仕方について
一、作品の構造分析のあり方について
1、文芸や映像の素人だと、つい、本件のプロローグとナレーションは言語に関する著作権侵害なのだから、そこの言葉同士を単純に比べれば足りる筈だと考えてしまうが、これがまず根本的な間違いである――これが、上告受理申立人が何よりもまず強調しておきたいことである。
つまり、上告受理申立人の本件番組は、あくまでも総合芸術たる映像表現であって、本件ナレーションはその中の一構成要素、それも「語り」の部分を担当する要素にほかならないこと、従って、本件ナレーションの構造分析をおこなうにあたっても、そのことを鋭く自覚しておく必要があるということである。
そのことは、文芸や映像の専門家がひとしく強調することである(映画監督今村昌平について、上告受理申立理由書119頁。TVプロデューサー橋本佳子について、同42〜44頁。ドキュメンタリー作家萩元晴彦について、同85頁終りから8〜6行目。文学研究者小森陽一について、同121〜122頁など)。
とりわけ、
〈ドキュメンタリーの命は映像だから、オリジナルの映像が勝負だ。これに比べればナレーションは単なる説明に過ぎず、‥‥〉(119頁)
という今村昌平の言葉は核心をズバリ突いている。
2、従って、ここから、たとえ、最終的には言語表現同士を対比することになるとしても、本件の場合、本件ナレーションはその言語表現がナレーションという、映像作品中の「語り」という特定の部門を担当する要素であることをきちんと踏まえて、その構造分析を実施しなければならないことが導かれる。そして、この基本をできるかぎり忠実に実行したのが、文学研究者小森陽一がおこなった両作品の分析である(小森意見書14〜39頁。上告受理申立理由書41〜71頁参照)。
とりわけ、次のくだりには、そのことが鮮やかにしるされている。
〈(1)、ナレーション部分の表現の評価にあたっての注意
それに対して、NHKの本件ナレーションのほうですが、予め、ナレーション部分の表現の評価にあたって注意すべきことを解説しておきたいと思います。
それは、本件プロローグが原告の表現した言語表現の全体からなるのに対し、これに対し、本件ナレーションというのは、被告の表現した映像表現のうちのナレーション部分だけを取り出したものだということです。本来、この種の映像表現というのは、映像や音声や音・音楽などの総合的な表現として制作されるものですから、ナレーション部分の表現だけを見て、その意味するところを引き出すのは不十分であり、少なくとも、そのナレーション部分に対応する映像表現全体を見て、それとの関係の中で、ナレーション部分の表現の意味するところを汲み出すのが適切なやり方と言えましょう。
そのような観点から、次に、順番に本件ナレーションにおける主体について分析していきたいと思います。
(2)、発端
今申し上げました通り、本件ナレーション部分に対応する映像表現の部分を見てみますと(上告理由書の別紙四参照)、ここで注目すべきなのは、流れる映像がまず現在の江差の漁港の光景であり、ついで現在の江差の空からの遠景であり、最後が現在の江差で開かれる江差追分全国大会ののぼりと会場の外からの光景であるということです。ここには、具体的な人々のことが映像として描かれていません。漁港で働く人々が登場しても、それは登場人物ではなく、かもめや入港してくる漁船と同様、漁港の光景のひとつの要素でしかありません。
そうしたことを念頭に置いて、本件ナレーションの表現を見てみますと、‥‥〉(小森意見書22〜23頁)
3、これに対し、原判決が理由として引用する一審判決(原判決では、判決理由としてすべて一審判決の理由説示を引用しているので、以下、一審判決の理由説示について言及する際にも、単に「原判決」という言い方をする)の作品分析というものが、この最も基本で最も重要な視点を持たず、本件ナレーションについて、単にその言葉だけの分析で足れりとする誤った分析に陥ってしまっていることは、本件ナレーションを、
「(一)江差町が古くは鰊漁で栄え、‥‥」
と紹介した原判決のくだり(一審判決206頁7行目)からして明らかである。なぜなら、ここは、小森意見書が指摘した通り、正しくは、次のように分析されるべきだからである。
〈もともとドキュメンタリー番組というのは映像を中心とする表現であり、ナレーションはその映像表現を補足する説明のようなものですから、ナレーション部分の表現を評価するにあたっては、ナレーションに対応した本体の映像表現がいわんとするところを踏まえて、それとの関係でナレーションの表現の意味を明らかにしていく必要があるわけです。
たとえば、これも既に言いましたが、本件ナレーションは、その発端の冒頭部分は、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」で始まります。そして、これに対応する本体の映像部分は、現在の江差の漁港の光景です(上告理由書の別紙四参照)。この映像表現とナレーション表現とを考え合わせると、本件ナレーションの冒頭で焦点を当てているのは、あくまでも《小さな港町である現在の江差町》であることが分かるわけです。
ところが、一審判決は、こうした観点から本件ナレーションの表現を評価しておらず、単に本件ナレーションの文字表現だけを読んでいったために、正しくナレーションの表現が意味するところを把握できず、たとえば本件ナレーションの冒頭のことを《「(一)江差町が古くは鰊漁で栄え、》(二〇六頁七行目)と間違って評価してしまい、そこからさらに間違って、本件プロローグとの共通性を導き出してしまっているのです。これは映像作品に対する読みが全然できていないことを如実に示すものといえましょう。
その意味で、一審判決は、本件ナレーション部分の表現を正しく評価するために、もう一度、これに対応する本体である映像表現に立ち返って、その映像表現がいわんとするところを踏まえて、それとの関係でナレーションの表現の意味を明らかにしていく作業を行なう必要があると思います。〉(小森意見書44頁11行目〜45頁末行)
そして、原判決のこの作品分析の誤りが看過できない最大の理由は、第一に、前記小森意見書が指摘する通り、本件ナレーションの誤った紹介に基づいて、本件プロローグとの共通性を導き出してしまったこと、つまり翻案権侵害を導いてしまったことにある。第二に、もし本件ナレーションを前述の正しい作品分析の手法にのっとって実行したなら、小森意見書が指摘する通り(14〜39頁)、その内面的表現形式において(本来なら、さらにその創作的な表現部分を吟味する必要があるところ、本件ではそれを吟味する以前に)、本件プロローグと共通しないことが導き出されるからである。
それゆえ、この点からして、原判決は取り消さざるを得ない。
二、作品の創作性の評価の仕方について
1、 本来ならば、法的には、前記一の作品の正しい構造分析さえ踏まえれば、その点だけで原判決の取消しは免れないが、しかしそれとは別に、ここでは著作権侵害の判断にとって極めて重要なことをもう一つ強調しておきたい。
それは、本件のプロローグやナレーションの創作性の評価について(ここでは、翻案権侵害が問題になっているので、創作性についてもまた、もっぱら内面的表現形式について問題にする)、そのジャンルの専門家からみれば、ただのありふれたパターンでしかないものが、文芸や映像の素人の目には、つい、何か特別な創意工夫に見えてしまうことがあるが―ちょうど、著作権侵害事件の判決における判決理由の順序・組み立てなどが、裁判の素人からみたら何か特別な創意工夫のように見えるのと同様―、これもまた、第一の間違いに勝るとも劣らない重大な間違いである――これが上告受理申立人が次に強調しておきたいことである。
つまり、
第一に、当該表現が果たして創作的なものであるかどうかについては、当該ジャンルの専門家の知見を十分傾聴すべきであり、
第二に、とりわけ本件ナレーションについて、上告受理申立人の本件番組は映像表現であって、本件ナレーションがその中の「語り」の部分を担当する要素であり、従って、本件ナレーションの表現に関する個性や工夫の意味もまた、その映像表現全体の中で初めて、正しい評価・位置付けが可能になること、
これらを鋭く自覚しておく必要があるということである。
そして、こうしたことは、次に掲げる通り、既に著作権の専門家によってつとに強調されてきたことである。
《具体的な表現形式自体についてみた場合に、原告著作物の著作者の個性的特徴であると識別しうるものは何か、を明らかにする作業を必要とする。その著作物の属する分野の専門家の知見が有用であるのは、この作業においてである。》(田倉整編集「特許・商標・著作権」490頁。上告受理申立理由書21〜22頁〉
2、そこで、この基本にのっとって、これをできるかぎり忠実に実行したものが、映画監督の今村昌平、文学研究者小森陽一ほかによる専門家の知見である(上告受理申立理由書別紙1〜3。これに関する記述として上告受理申立理由書80〜98頁参照)。
今、これらの専門家の知見がどういうものであるのか、参考までに、以下に整理しておきたい。
(一)、まず、一般論として、そもそも小説や物語等において、表現の創作性とはどういう局面で発揮されるものであるか。この基本的な問題について、文学研究者小森陽一は以下のように解説する。
〈 現在の文学研究においては、小説や物語等の作品はまず「会話」と「地の文」に分けられ、さらに後者は、「語り」と「描写」という二つの形式に分けられています。ここで「語り」というのは、物語を進行させていく上で、いわば語る主体が物語を要約しながら言語化していくという、語る主体の側に力点が置かれた言語表現のことです。それに対して、「描写」というのは、そこで語られている対象について具体的な事例をあげ、多くの場合は、その対象をめぐる知覚感覚的な経験が読者の側で再現できるようなかたちで叙述を選択した場合、これを描写と呼ぶわけです(*注3)。
したがって、本件プロローグにもし「描写」と呼べる部分があるとすれば、それはかつてニシン漁で賑わった四月から五月にかけてどのような状況が江差に起きるのかを具体的に描いた部分、これが「描写」といえる表現ということができます。そして、また同じ五月において、現在はその栄華が跡形もないということをめぐる浜辺や江差町についての具体的な事例を通して、やはり「描写」と呼ぶことのできる表現があります。〉(小森意見書56頁末行〜57頁11行目。上告受理申立理由書100〜101頁)
つまり、小説や物語等の「地の文」においては、一般に、〈そこで語られている対象について具体的な事例をあげ、多くの場合は、その対象をめぐる知覚感覚的な経験が読者の側で再現できるようなかたちで叙述を選択した〉「描写」において個性が発揮される。
(二)、そして、具体的に、本件プロローグにおいても、〈かつてニシン漁で賑わった四月から五月にかけてどのような状況が江差に起きるのかを具体的に描いた部分〉や〈同じ五月において、現在はその栄華が跡形もないということをめぐる浜辺や江差町についての具体的な事例〉において「描写」と呼ぶことのできる表現があり、そこに、相手方の個性的な表現を見て取ることができる。
しかるに、この相手方の個性的な表現に対応するような部分が、本件ナレーションに見つかるだろうか――これが何もないことは、小森陽一が次に指摘する通りである。
〈けれども、被告の本件ナレーションにはこういった「描写」とよべる部分は一つもなく、基本的にすべてが「語り」というかたちで統一されています。しかも、それは、「語り」の英訳がナレーションであることからも明らかなように、元々ナレーションという性格から来るものなのです。そういう意味では、映像作品においては、「描写」は映像が担当するわけです。そして、被告番組の本件ナレーションに対応する部分の映像を見ても、そこで表現されている「描写」は、前述した通りもっぱら現在の江差の町の様子であって、本件プロローグで表現された「描写」と全く違うことも分かります。〉(小森意見書57頁12行目〜58頁3行目)
(三)、では、一般に個性的な表現が出しにくい「語り」の部分について、本件において、創作性を認定できるような特段の事情が認められるだろうか。この点、専門家の知見に従えば、本件ナレーションの「語り」の部分においてもまた、創作性を認めるような特段の事情はない。つまり、
第一に、ナレーションは、もともと映像の補完として単なる説明部分に過ぎず、なおかつ本件ナレーションは紹介を目的とする番組の導入部分にほかならないから。映画監督の今村昌平も
〈こんな紹介のところで、オリジナリティを振り回されてはかえって困る。〉(上告受理申立理由書81頁)
と言っているのはそのことを指す。
第二に、本件プロローグと本件ナレーションにおける記述の順序は、或る出来事を紹介するときの最も典型的なパターンである「死と再生の物語」という手法にほかならず、専門家の目には、口にするも恥ずかしいくらい凡庸な手法であるからである(小森陽一について、同96頁終わりから5行目〜98頁1行目。TVプロデューサー木村栄文について、同83頁7行目〜84頁2行目。橋本佳子について、同88頁3行目〜89頁2行目。映画監督原一男について、同89頁終わりから7行目〜92頁5行目)
第三に、或る出来事を紹介するときの典型的なパターンである「死と再生の物語」という手法を使う際に、「一年の絶頂を迎える」(本件プロローグ)とか「年に一度、かつての賑いを取り戻す」(本件ナレーション)といったデフォルメ(強調)を導入することは、これもまた、或る出来事を効果的に紹介するときに使う典型的な手法にほからず、そのようなデフォルメをもって個性的な表現ということはできないからである。これもまた専門家の目から見れば至極当然のことであり、この点をドキュメンタリーを主に撮ってきた映画監督原一男は、次のように指摘する。
〈ここで両方の作品に共通しているのは、どちらも或る出来事を紹介するときの典型的なパターンを踏襲しているということです。それは、或る出来事を紹介するとき、その出来事を読者や見る者にできるだけ印象づけるために、あたかも、それがかつての栄華、栄光を甦らせるかのような再生の物語として紹介するという手法です。その場合に最も分かりやすいありふれたやり方が、まずかつての栄華について語り、ついで、今はその栄華が去ったことを語り、その上で、或る出来事を、それがかつての栄華を甦らせるかのようなものとして紹介するというやり方です。本件の両作品はまさしくそのやり方の見本です。そして、ここでの狙いは、或る出来事を読者や見る者にできる限り印象づけて紹介することにあるわけですから、その限りで、「その出来事によって、町が大いに盛り上がり、あたかもかつての栄華が甦ったかのようである」と強調・誇張〈デフォルメ)するのは至極当然のことでして、そのようなデフォルメもこのパターンにおいてはごく自然なことなのです。したがって、このようなパターンにおいて、その出来事が現実に町で一番盛り上がる行事かどうかという事実関係はさして重要なことではなく、仮にその出来事が現実に町で一番盛り上がる行事でないとしても、我々は、こういったデフォルメを用いて、或る出来事を効果的に紹介するという手法をしょっちゅう使うものなのです。〉〈別紙二意見書4頁16〜29行目。上告受理申立理由書89頁終わりから7行目〜90頁終わりから6行目)
3、これに対し、原判決の作品の創作性の評価というものが、当該ジャンルの専門家の知見を十分傾聴したものではなく、なおかつ映像表現の中におけるナレーションの特質を踏まえて本件ナレーションの創作的表現を分析・評価したものではなかったため、その結果、両作品の創作性の評価について、独自の誤ったものに陥ってしまっていることは、小森陽一や原一男が以下に指摘した通りである。
@小森陽一
〈 一審判決は、「かつて鰊で栄えたが、その後、鰊が去って現在はさびれてしまった。しかし、追分全国大会という行事でかつての栄華が甦る」という記述の順序のつけ方が、創作性という点においていかなる評価を受けるか、という問題について、これを「独特の表現形式を取っている」と判断しています。つまり、この点に関し判決は次のように言っています。
《江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、‥‥との独特の表現形式を取っているものは他に見当たらない》(二一二頁八行目〜二一三頁二行目)
しかし、判決のこのような評価の与え方は、正直言いまして、文芸の世界に一般に通用している記述の順序のつけ方に関する創作性の評価というものと余りにも隔絶したひとりよがりなものと言わざるを得ません。なぜなら、こうした《かつて栄華があり、それが去り、それとは別なもので一瞬その栄華を取り戻す》という構造で物語を構成する作り方というのは、過去には戻れないけれどそれと類似したものを、祭や祭礼や儀式として一瞬だけでも取り戻すという形で「死と再生の物語」といっていいものでして、非常に類型的なストーリーパターンに該当するものと一般に考えられているからです。実際、こうしたストーリーパターンは、基本的に、現在、地場産業や経済的な繁栄を失った地域が、年一回のイベントを観光資源として、賑わいを取り戻すために宣伝する場合には、しばしば用いられる極めてパターン化した表現といってよいでしょう。この意味で、本件プロローグにおける記述の順序のつけ方には、特段、彼の独創性や創作性というものを認めることはできないと思います。〉(小森意見書54頁14行目〜56頁3行目。上告受理申立理由書96〜98頁)
A原一男
〈その意味で言いますと、ただいま紹介してもらった判決の内容は、いま説明しましたようなノンフィクションやドキュメンタリーなどで使われる典型的なパターンについての基本的な理解を見失っていて、何か重箱の隅をつつくようなものすごく煩雑な議論に陥ってしまっているという印象を免れません。
――具体的には、どんなところでそう感じるのですか。
原 たとえば、判決は、「江差町が江差追分全国大会のときに『幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎え……町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく』との認識は、〈江差町民の)一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり」と言いますね。でも、「江差町が江差追分全国大会のときに一年の絶頂を迎える」という認識が果して「原告に特有な認識」といっていいものかどうか、甚だ疑問に思えますね。なぜなら、さきほども言いましたように、江差追分全国大会を紹介するにあたって、「一年の絶頂を迎える」といったようなちょっとしたデフォルメを使うのは、江差町民にとっては珍しいことかもしれませんが、しかし私たちドキュメンタリー制作者にとってはごくありふれた通常の方法だからです。その意味で、こうしたデフォルメは、世の表現者にとって「共通財産」のひとつではないでしょうか。だから、高々こんなもんで、これが「原告に特有な認識」だなんて言って欲しくないというのが正直な感想ですね。
――つまり、この程度のデフォルメは、ごくごく普通にやる方法にすぎないということですか。
原 ええ。表現者がなかなか思いつかないような真に「作者に特有の認識」であればともかく、この程度のデフォルメのレベルのことで、作者の独自性を云々するなんて、はっきり言ってしまえば、噴飯ものではないか、と思いましたね。〉〈別紙二原意見書4頁30行目〜5頁11行目。上告受理申立理由書90〜92頁)
そして、原判決のこの作品の創作性の評価に関する誤りが看過できない理由もまた、第一に、誤った創作性の評価に基づいて、両作品の創作的表現の共通性を導き出してしまったこと、つまり翻案権侵害を導いてしまったこと、第二に、もし前述の正しい作品の創作性の評価にのっとって両作品を分析したならば、小森意見書ほか専門家の知見が指摘する通り、その創作的な内面的表現形式において、両作品は全く共通しないことが導き出されるからである。
それゆえ、この点からもまた、原判決は取り消さざるを得ない。
三、専門家の知見による作品分析とその対比の一覧表(別紙T)
以上の検討を踏まえて、改めて、小森意見書の鑑定結果を両作品の対比として一覧表にまとめてみた。それが別紙Tである。
第二、補充しておきたいこと1――原判決の「両作品の表現形式上の本質的特徴が共通する」とした認定の仕方の不適切さ(=著しい経験則違背)について――
原判決が、著作権法26条のうち著作物の同一性に関する解釈にあたって、「表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができること」(以下、上告受理申立理由書と同様「本質的な特徴の感得」論という)を採用したことについて、その誤りを上告受理申立理由書で指摘したが(72頁以下)、ここではそれとは別に、たとえこの「本質的な特徴の感得」論を前提にしたとしても、原判決が、その理論に基づき「両作品の表現形式上の本質的特徴が共通する」という結論を導いた認定の仕方について、
@.全体として、認定の展開の仕方そのものにおいても、
A.個々の箇所における作品分析の仕方においてもまた、
実に不適切極まりないものであることを、ここで改めて指摘しておきたい。そのために、この点に関する原判決が引用する一審判決の該当箇所に番号を@からGまで振って、参考文献Tとして添付しておいた。
一、認定の展開の仕方そのものについて
本来ならば、法的三段論法のプロである原判決は、それと同様に、ここでも次のような展開を行なうべきであった。
@.一般論として、「表現形式上の本質的特徴」とは何か。それはいかにして導かれるものか(「表現形式上の本質的特徴」の解釈)。
A.本件作品における「表現形式上の本質的特徴」とは何かの検討(本件作品への適用)。
B.本件作品における「表現形式上の本質的特徴」の結論
しかるに、原判決は、次のような意味不明な展開を行ったものである。
@.まず、本来、著作権侵害事件において、問題にする作品が果たして著作物であるかどうかを吟味するための「著作物性」の有無をめぐる要件(すなわち著作権侵害を判断する前段階)において、原判決は、本件プロローグの「表現形式上の本質的特徴」とは何かの結論と思われる内容を、これが本件プロローグの「表現形式上の本質的特徴」部分であることを明示せずに、しかもそれを導き出した根拠を一切示さずに結論だけを認定している(参考文献Tの@A。一審判決196〜198頁)。
A.次に、(二)において(見出しがつけてないが、「(一)依拠性について」の次に(二)とあることから、ここは「両作品の類似性について」という意味であろう)、「前記のとおり」(一審判決205頁2行目)とあるように、前記@の記述(196〜197頁)をそのまま再登場させている(参考文献TのC)。
つまり、ここでも、本件プロローグの「表現形式上の本質的特徴」の結論と思われる内容を、これが本件プロローグの「表現形式上の本質的特徴」部分であることを明示せずに、しかもそれを導き出した根拠も示さずに取出している。
B.そのあと、本件ナレーションの「表現形式上の本質的特徴」の結論と思われる内容について、前記Aと同様、根拠を示さず結論だけをしかも「表現形式上の本質的特徴」の議論をしていることすら明示せずに認定している(参考文献TのD。一審判決206〜207頁)。
C.そして、本件作品における「表現形式上の本質的特徴」が何であるかについて、それが明示的に議論に登場するのは、次の通り、以上の議論よりずっとうしろの、両作品の「表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合する」という翻案権侵害の最終判断に至ったときが初めてである。しかも、ここでもまた、それを導き出した根拠を明示せず、単に結論だけを認定しているのである。
〈そして、江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであったことと、鰊の去った江差にその面影がないことが、一般的知見に属することであったとしても、その結論に至る説明において、江差町に関し、前記の百科事典に記載されているような一般的知見に属する事柄の中から、江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらしたこと、鰊の去った江差にその面影がないことを選択して述べ、その上で、江差町が江差追分全国大会のときに一年に一度かっての栄華が甦る、ないし、かっての賑わいを取り戻す様子を描写しているとの表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合するものである。〉(参考文献TのF。一審判決211頁9行目〜212頁7行目)。
しかし、これでは、判決を読む者にとっては、この一連の判決理由の中で、いったい何の議論が展開されているのかさっぱり不明であり、そのため「表現形式上の本質的特徴」の議論のどこがおかしくて、どこが正しいのかといった、「本質的な特徴の感得」論をめぐるまともな論争自体を不可能にするもので、不適切極まりない。
しかも、その不適切さは、次の通り、個々の箇所の作品分析において、一層際立ち、それは著しい経験則違背と言わざるを得ない。
二、個々の箇所における作品分析の仕方について
1、本件プロローグの「表現形式上の本質的特徴」について(参考文献Tの@AC)
もし、本件プロローグの「表現形式上の本質的特徴」の結論を出すのであれば、その前提として、一般論として「表現形式上の本質的特徴」とは何か、それはいかにして導かれるものかをまず示し、そこから、本件作品の吟味に入っていくべきところ、ここでは、こうした検討も作品分析も何ひとつ明らかにせずにいきなり結論だけが登場する(参考文献Tの@。一審判決196〜197頁)。つまり、ここでは次の教訓が完全に忘れられている。
《具体的な表現形式自体についてみた場合に、原告著作物の著作者の個性的特徴であると識別しうるものは何か、を明らかにする作業を必要とする。その著作物の属する分野の専門家の知見が有用であるのは、この作業においてである。》(田倉整編集「特許・商標・著作権」490頁。上告受理申立理由書21〜22頁〉
そこで、原判決が行った本件プロローグの作品分析が、「その著作物の属する分野の専門家の知見」=現代の文芸理論の成果に照らしてみた場合、いかに恣意的で不適切なものであるかを、文学研究者小森陽一の意見書の鑑定結果を参照しながら明らかにしておきたい。
今、小森意見書の鑑定結果と原判決が行った本件プロローグの作品分析の結果を対比しながら一覧表にまとめた。それが別紙Uの「本件プロローグについて」という表である。
これを見比べると、ここから次のことが明らかである。
A.原判決の本件プロローグの要約(参考文献Tの@とC)
(一)、発端部分の「主体」について
小森意見書が本件プロローグの実際の記述から「主体」を取出しているように、ここでは、ニシン漁になると《外からやって来て》ニシン漁が済むと《外へ去っていく》ヤン衆やその他の人たちが「主体」として描かれている。
もっとも、これに対し、原判決の立場からは、本件ナレーションと同様、本件プロローグも「江差町」が「主体」となることは可能であると反論するだろう。確かに一般論として、人ではなく、地名や出来事が「主体」として登場することはあり得る。しかし、それが可能なのは、その記述にそもそも人物が登場しないか、たとえ登場しても《登場人物ではなく、かもめや入港してくる漁船と同様、漁港の光景のひとつの要素でしかありません》(小森意見書23頁12〜13行目)といったような場合に限られる。しかるに、本件プロローグでは、「一年の華」を飾る「出稼ぎのヤン衆たち」「様ざまな旅芸人の姿」「荒くれ男を相手にする女たち」「鰊場の親方」「人、人、人」といった人物たちの賑う様子が具体的に記述されており、それゆえ、これらの登場人物たちを「江差町の光景のひとつの要素」と見るわけには到底いかない。
従って、原判決がここで「主体」を「江差(町)」と捉えたのは、本件プロローグの実際の記述に対応した「主体」を取出しておらず、間違いと言うほかない。
(二)、発端部分の「行為」について
ここでも前記(一)と同様のことがいえる。つまり、小森意見書が本件プロローグの実際の記述から「行為」を取出しているように、ここでは、ニシン漁になると《外からやって来て》《宴が開かれ、江差追分が歌われ、賑わいをもたらし》ニシン漁が済めばまた《外へ去っていく》(小森意見書30頁9〜10行目)ことが、「行為」として描かれている。
しかるに、原判決がここで「行為」を「鰊漁で栄え」「町の様子」と捉えたのは、本件プロローグの実際の記述に対応した「行為」を取出したとは言えず、間違いと言うほかない。
もっとも、これに対し、原判決の立場からは、原判決には、「当時の江差町の様子」のあとに、カッコ書きで、当時の江差町の様子を具体的に取出しており、それは「本件プロローグの実際の記述に対応した「行為」を取出したものである」といった反論があるかもしれない(参考文献TC)。 しかし、これは、単なる文字面同士の対比で済む複製権侵害事件とはちがう、外面的表現形式から抽象化された内面的表現形式(原判決に言い方に従えば、「表現形式上の本質的特徴」)同士を対比する翻案権侵害事件において、極めて欺瞞的な作品対比と言わざるを得ない。なぜなら、
@「当時の江差町の様子」という高度に抽象的な記述と
Aその後にカッコ書で述べられたより具体的な個々の記述
とは、元々、表現のレベルが全く異なるものであり、それゆえ、こうした異質なレベルの記述を一緒に並べて作品対比すること自体がそれ自体で作品対比の方法として失当というほかないからである。事実、@は、B(一)(21頁以下)でも後述する通り、そもそも個性を発揮する余地のない記述であり、こんな高度に抽象化された記述であれば、過去の江差の町の様子を描いたどんな文章も、作品対比の結果、共通性を認定されてしまい、本件プロローグの翻案権侵害になってしまうだろう。
とはいえ他方で、原判決は、結末部分については、「行為」を「一年の絶頂を迎え、生気をとりもどし、一陣の熱風が吹き抜けていく」といった具体的な記述で捉えているのであり、そうだとすれば、この発端部分でも「鰊漁で栄え」「町の様子」と捉えるのではなく、また、より具体的な記述を単にカッコで括ってしまうのではなく、せめて、自ら結末部分でやったのと同じ程度の具体性をもってここでも「行為」を取出すべきであった。その意味で、原判決は、作品分析のやり方がまったく首尾一貫していない。
(三)、展開部分の「行為」について
ここも、前記(二)と全く同様の批判があてはまる。
小森意見書が本件プロローグの実際の記述から「行為」を取出しているように、ここでは、《外からやって来る》行為がなくなってしまったこと、そのため《宴が開かれ、江差追分が歌われ、賑わいをもたらし》行為もなくなってしまったことが、「行為」(の不在)として描かれている。
しかるに、原判決がここで「行為」を「町の様子」と捉えたのは、本件プロローグの実際の記述に対応した「行為」を取出したとは言えず、間違いと言うほかない。また、結末部分の「行為」と比べてみても、まったく首尾一貫していない。むしろ、原判決がここでカッコ書に括り、のちの作品対比において曖昧にされてしまった「陰鬱な北国のただの漁港」といった「行為」に関するより具体的な記述こそ、カッコに括られず、最後まで作品対比の対象として取出されるべきである。
(四)、展開部分の「時間」について
ここも、基本的には前記(一)と同様である。
小森意見書が本件プロローグの実際の記述から「時間」を具体的に取出しているように、ここでは「五月」という時点が極めて重要な「時間」に関する記述であることが分かる。
しかるに、原判決は、ここで、本件プロローグの実際の記述に対応した「時間」を取出しておらず、単に「現在」としか捉えなかったのは間違いである。原判決は、他方で、発端部分の「時間」についてはきちんと「四、五月」と捉え、また結末部分の「時間」についても「九月の二日間だけ」と捉えているのだから、ここでも「五月」を捉えるべきであって、首尾一貫性しないのはおかしい。
B.原判決の本件プロローグの要約のさらに要約ともいうべきもの(参考文献TのA)
(一)、発端及び展開部分について――過度の抽象化――
本件のように、翻案権侵害を判断するために作品を分析するのであれば、それは、一方で「アイデアほど抽象的にならず」、他方で、原判決が結末部分の「行為」でやったように「とつぜんはなやなか一年の絶頂を迎え、生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく」に相当する程度の具体性でもって作品の構造を分析すべきである。しかるに、ここで原判決が行った作品分析は、「江差町の過去の様子」「江差町の現在の様子」といったものであり、こんな抽象的で、そもそも個性を発揮する余地のない「要約の要約」のようなものを分析して取り上げても、その意味は全くない。
こんなことを分析したところで、精々、どんな異質な表現同士でも、ここまで抽象化されれば自ずと似てくるというだけのことであって、正しい翻案権侵害の判断にとって無用な予断と偏見をもたらす以外の何物でもない。
(二)、結末部分について――要約部分の歪曲化――
その上、原判決は、結末部分において、「要約の要約」を通して、過度の抽象化のみならず、要約部分の歪曲化にまで陥ってしまっている。
なぜなら、原判決は、結末部分を、最初、
(主体)江差が、
(時間) 九月の二日間だけ
(行為)とつぜんはなやなか一年の絶頂を迎え、生気をとりもどし、かつての
栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく
と要約しておきながら、さらに、これに対する再度の要約を行うに際して、
「江差追分全国大会を昔の栄華が甦ったような一年の絶頂としてとらえた」
と、主体を「江差」から「江差追分全国大会」に変えてしまったからである。
2、本件ナレーションの「表現形式上の本質的特徴」について(参考文献TのD)
本件ナレーションの「表現形式上の本質的特徴」の結論を出すにあたっても、前記1の冒頭と同様の分析検討が要求されるところ、原判決は、同じく、何の検討も作品分析も明らかにせずにいきなり結論だけを取り出している(一審判決206〜207頁)。
そこで、「その著作物の属する分野の専門家の知見」=現代の文芸理論の成果に照らしてみた場合、原判決が行った本件ナレーションの作品分析に不適切なものがあることを、前記1と同じく、小森意見書の鑑定結果と対比しながら明らかにしたい。今、小森意見書の鑑定結果と原判決が行った本件ナレーションの作品分析の結果を一覧表にまとめたものが別紙Vの「本件ナレーションについて」という表である。
これを見比べると、発端部分の「時間」について、原判決はこれを「古くは」と捉えているが、これはナレーションの読み方を間違えていると言わざるを得ない。なぜなら、「ドキュメンタリーの命は映像」(今村昌平。上告受理申立理由書119頁)であり、本件ナレーションをそれに対応する本件番組の映像部分(上告受理申立理由書別紙四)と組み合わせてみれば、〈本件ナレーションが焦点を当てているのは、あくまでも《現在という時点における》「小さな港町、江差町」のことであることが〉(小森意見書34頁6〜7行目)一目瞭然だからである。
3、両作品に共通する「表現形式上の本質的特徴」について(参考文献TのEFG)
以上、原判決の本件プロローグと本件ナレーションの作品分析には歪曲化、読み間違い、過度の抽象化といった重大な問題点を数多くはらんでおり、その結果、両作品に共通するという「表現形式上の本質的特徴」を取り出すにあたっても、それが不適切極まりないものになっていることは言うまでもない。
今改めて、その点を、両作品に共通する「表現形式上の本質的特徴」に言及している原判決の該当箇所に沿って、指摘しておきたい。
(一)、参考文献TのE
(1)、発端部分について
原判決は、「江差町がかつて鰊漁で栄え、その賑わいが『江戸にもない』といわれた豊かな町であったこと」「を表現している点で共通している」と認定している。
しかし、以下に示す通り、現代の文芸理論の成果によっても、また著作権侵害の判断基準に沿って厳密に吟味していっても、このような共通点は見い出せないことが明らかである。
(a)、現代の文芸理論の成果(別紙T参照)を踏まえれば、この部分の作品対比の結果は、以下の通り、「主体」「行為」「時間」のいずれにおいても共通点はないということになる。
@.主体について
異なる。なぜなら、本件プロローグは「江差町の外から、しかも全国からやって来るヤン衆を中心とした外の人々」であり、これに対し、本件ナレーションは「江差町」だからである。
A.行為について
異なる。なぜなら、本件プロローグは「ニシン漁になると《外からやって来て》《宴が開かれ、江差追分が歌われ、賑わいをもたらし》ニシン漁が済めばまた《外へ去っていく》こと」であり、これに対し、本件ナレーションは、「栄え」「賑わいをみせた」だから。
B.時間について
異なる。なぜなら、本件プロローグは「むかし鰊漁で栄えたころ」の「四月から五月にかけて」であり、これに対し、本件ナレーションは「現在という時点」だから。
(b)、また、著作権侵害の判断基準を正しく本件に当てはめていくと、まず、原判決の作品対比には、前記二1B(一)(21頁)で指摘したのと同様のレベルの誤りがある。つまり、翻案権侵害を判断するために作品を分析するのであれば、それは、一方で「アイデアほど抽象的にならず」、他方で、原判決が結末部分の「行為」でやったように「とつぜんはなやなか一年の絶頂を迎え、生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく」に相当する程度の具体性でもって作品の構造を分析すべきである。にもかかわらず、ここで、原判決は「江差町がかつて鰊漁で栄え」という過度に抽象化されたレベルで共通性を認定するという誤りをおかしているからである。
(c)、加えて、原判決は「豊かな町であったこと」という表現が両作品で共通していると認定しているが、しかし、両作品にそのような共通する表現形式はない。なぜなら、これに関連した両作品の現実の表現とは、
@.本件プロローグ
「鰊がこの町にもたらした莫大な富」
A.本件ナレーション
「豊かな海の町」
であり、本件ナレーションのこの部分に対応する前後の映像が、江差の海であり、その江差港に入港する漁船であり、魚を水揚げする光景であることから、この「豊かな海の町」という表現は、「豊かな海」(---=魚が豊かにとれる海)の町、という意味であり(実際、豊かな海=魚が豊かにとれる海、と理解するのが通常の用法である。参考文献W参照)、従って、この部分における両作品の表現の共通性はないと言わざるを得ないからである。
これに対し、原判決が、これを「豊かな町であったこと」という点で共通していると認定したのは、もはや表現形式の共通性のことではなく、端的には、両作品とも、ここでは鰊のおかげで江差の町に富がもたらされたという表現内容の点では共通しているではないかと判断したから、すなわち、表現内容の共通性だけを問題にしたからである。これが著作権侵害の判断方法として間違っていることは言うまでもない。
(d)、さらに、残りの〈その賑わいが「江戸にもない」〉であるが、確かに、本件ナレーションはもちろんのこと、本件プロローグでも「江戸にもない」という表現では共通している。しかし、本件プロローグ自らが、すぐそのあとで〈「‥‥江戸にもない」の有名な言葉が今に残っている〉とコメントしている通り、この表現は、江差の過去を語る時に最も使われる有名な言葉の一節である。よって、これを取り上げたからといって、これが創作的な表現に該当しないことは今更言うまでもなく、それゆえ、元々「創作的な表現形式」の対比を行う「両作品の類似性」の検討においてこれを問題にした原判決は失当というほかない。
(2)、展開部分について
原判決は、「現在では鰊が去ってその面影はないこと」「を表現している点で共通している」と認定している。
しかし、以下に示す通り、現代の文芸理論の成果によっても、また著作権侵害の判断基準に沿って厳密に吟味していっても、このような共通点は見出せないことが明らかである。
(a)、現代の文芸理論の成果(別紙T参照)を踏まえれば、この部分の作品対比の結果もまた、以下の通り、「主体」「行為」「時間」のいずれにおいても共通点はない。
@.主体について
異なる。なぜなら、本件プロローグは「《外から江差町にやって来る人々》が来ないこと」であり、これに対し、本件ナレーションは「町」だからである。
A.行為について
異なる。なぜなら、本件プロローグは「《外からやって来る》行為がなくなってしまったこと、そのため《宴が開かれ、江差追分が歌われ、賑わいをもたらし》た行為もなくなってしまったこと」であり、これに対し、本件ナレーションは、「その賑わいがなくなった」だから。
B.時間について
異なる。なぜなら、本件プロローグは「五月」であり、これに対し、本件ナレーションは「現在という時点」だから。
(b)、また、著作権侵害の判断基準を正しく本件に当てはめていくと、ここでも、原判決の作品対比には、前記(1)で指摘したのと同様のレベルの誤りがある。つまり、ここでもまた、原判決は「現在では鰊が去ってその面影はないこと」という過度に抽象化されたレベルで共通性を認定するという誤りをおかしているからである。
(3)、結末部分について
原判決は、「九月の二日ないしは三日間江差追分の全国大会が開かれ、年に一度、かっての栄華ないし賑いを取り戻し、町は一気に活気づくことを表現している点で共通している」と認定している。
つまり、原判決の認定によると、「年に一度、かっての栄華‥‥を取り戻し」が共通することになる。しかし、この表現形式を本件プロローグから抽出することは不可能である。
なぜなら、本件プロローグで「かつての栄華」が登場するのは「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく」というくだりであり、このくだりは「日本中の追分自慢」の人たちが、かつての鰊漁のときの栄華を彷彿させるように、《外からやって来て、大会が開かれ、江差追分が歌われ、賑わいをもたらし、また外へ去っていく》という動的な動きを示す比喩的な表現であって、「年に一度、かっての栄華‥‥を取り戻し」といった単に状態を表わす表現とは、(むろん表現内容は或る程度共通するとしても)その表現形式としては異質な表現と言わざるを得ないからである。
(二)、参考文献TのF
(1)、発端部分について
原判決は、「江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらした」「との表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合するものである」と認定している。しかし、これは前記(一)(1)で指摘したのと同様、明らかに間違いである。
しかも、ここでは、参考文献TのEにはないような新しい共通部分の認定がある。それが「鰊漁が莫大な富をもたらした」である。しかし、こんな表現形式を本件ナレーションが取ったことはいっぺんもない。これでは、原判決は「内容さえ共通すればいい」という、著作権侵害の判断基準としてズサン極まりない認定をしていると批判されても仕方ない。
(2)、展開部分について
原判決は、「鰊の去った江差にその面影がない」「との表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合するものである」と認定している。しかし、これもまた前記(一)
(2)で指摘したのと同様、明らかに間違いである。
(3)、結末部分について
原判決は、「江差町が江差追分全国大会のときに一年に一度かっての栄華が甦る、ないし、かっての賑わいを取り戻す様子を描写しているとの表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合するものである」と認定している。
(a)、ここで、まず最初に指摘しておきたいことは、この認定が参考文献TのEにおける認定と違っているということである。つまり、Eにおいて、原判決は、「九月の二日ないしは三日間江差追分の全国大会が開かれ、年に一度、かっての栄華ないし賑いを取り戻し、町は一気に活気づくことを表現している点で共通している」と認定しているからである。
どうして、こういうことができるのか。もともと著作権侵害裁判において重要なことは表現の内容ではない。いかなる言い回しをするか、という表現形式の共通性である。原判決が、このように共通部分の言い回しをいとも簡単に変更できるのは、その根底に、「内容さえ共通すればいい」ではないかという著作権侵害の判断者として致命的に誤った認識があると思わざるを得ない。
(b)、本件ナレーションと原判決認定の上記共通部分との検討
さらに、ここで原判決は、「‥‥一年に一度かっての栄華が甦る、ないし、かっての賑わいを取り戻す様子を描写している」点で共通すると認定するが、しかし、第一、二2(二)(10頁)で前述した通り、そもそも本件ナレーションには「語り」はあっても、「描写」というものは存在しない。従って、本件ナレーションから「かっての賑わいを取り戻す様子を描写している」ことを抽出するのは不可能というほかない。それゆえまた、「描写」に両作品の共通性を求めた原判決は失当というほかない。
(三)、参考文献TのG
(1)、発端部分について
原判決の記述から、「鰊漁で栄えたころの江差町の過去の栄華‥‥の様子を描写し」を両作品に共通する表現と認定していることが分かる。
しかし、第一、二2(二)(10頁)で前述した通り、「鰊漁で栄えたころの江差町の過去の栄華‥‥の様子を描写し」たのは本件プロローグだけであって、本件ナレーションにはそのような描写は一切ない。この「描写」という点では、両作品は全く符合しないことが明らかである。
(2)、展開部分について
ここでも、原判決の記述から、「鰊漁が不振になった現在の江差町の様子を描写し」を両作品に共通する表現と認定していることが分かる。
(1)と同じく、「鰊漁が不振になった現在の江差町の様子を描写し」たのは本件プロローグだけであって、本件ナレーションにはそのような描写は一切ない。よって、同じく、この「描写」という点で両作品は全く符合しない。
(3)、結末部分について
ここでも、原判決の記述から、「江差追分全国大会の熱気を江差町の過去の栄華が甦ったものと認識するような独特の表現形式」を両作品に共通する表現と認定していることが分かる。
しかし、これは「江差追分全国大会の熱気を江差町の過去の栄華が甦ったものと認識する」ことから、それを直ちに「独特の表現形式」と認定するような基本的な誤りであるのみならず、そもそも本件ナレーションには、その表現形式は言うに及ばず、制作者の認識レベルにおいても、「江差追分全国大会の熱気を江差町の過去の栄華が甦ったもの」と捉えるようなものは何一つなく(注1)、それゆえ、この点からして、両作品の表現形式が共通することはあり得ない。
(注1) 本件ナレーション及びその後に続く本件番組には、江差追分全国大会の「熱気」について触れた記述は、何処にも存在しない。つまり、民謡はもともとその地域の人々の生活や歴史の中から生まれ育つものであり、本件番組は、ユーラシア大陸に広く存在する江差追分に似た歌を、モンゴル、ハンガリー、バシキールに訪ね、結婚式や催し物などのイベントや家庭訪問を通じて、現地の歌を、その民族の生活や苦難に満ちた歴史とあわせて紹介し、江差追分に似た歌の魅力と歌にこめられた人々の悲しみや孤独の思いを描こうとするものである(乙1)。
従って、本件ナレーションにおいても、江差追分全国大会で参加者や観客が一体となって歌に魅了される部分と江差追分の魅力を問いかける部分の導入部として、江差追分が生まれた江差町の歴史を紹介し、江差追分の魅力に惹かれた人々で江差追分全国大会がにぎわうという趣旨で江差町自体の賑わいを表現しているに過ぎないからである(乙1。4〜6頁)。
三、原判決の作品分析の混乱の原因――表現形式の同一性と表現内容の同一性を混同する誤り――
では、なにゆえ、原判決は、二で前述した通り、その作品分析においてこれほどの混乱に陥ってしまったのか。この点について、一言補充しておきたい。
1、その最大の原因は、著作権侵害事件の両作品の類似性の判断における最も基本的な論点である、著作物の同一性の評価に対し、原判決が殆ど無意識に近い、しかし致命的な誤りに陥っていたからである。それは、原判決が、その作品で何を(What)を表現するかという表現内容の同一性と、その表現内容をいかに(How)表現するかという表現形式の同一性の問題とを混同し、「表現内容」でもって同一性を判断してしまったからである。
もちろん、一般論として、著作権法が問題にする「著作物の同一性」とはあくまでも表現形式のレベルの同一性のことであって、表現内容の同一性のことではないことまで原判決が理解していなかったとは思わない。しかし、この区別を単に理論としてだけではなく、現実の著作権侵害事件の中で首尾一貫して維持することは、口でいうほど生易しいものではない。
2、なぜなら、第一に、もともと私たちは、いかに優れた認識や結論や思想・感情が重要であるかといった「表現内容の独創性」といった思考に日常的にいやというほど慣らされ、知らずしてその発想に染まっているからである。例えば、科学の分野はみなそうである。ニュートンの万有引力の法則にせよ、アインシュタインの相対性原理にせよ、その独創性は彼らの自然「認識」の独創性のことであり、彼らの優れた研究成果である「結論」の独創性のことを我々は賞賛している。誰も、万有引力の法則の表現方法である数式(注2)に驚嘆しない。しかも、芸術の分野においても、科学のこうした評価に引きずられてか、つい同じように理解してしまう傾向がある。例えば、ドストエフスキーの小説にしても、夏目漱石の小説にしても、彼らの小説を読む者は、深い感動を覚えたとき、そこでドストエフスキーや漱石の独創的な「思想・感情」に触れたと思い、彼らの「思想・感情」の独創性を賞賛するといった具合にである。
しかし、科学の場合はともかくとして、こと芸術に関しては、これは完全な(しかも、根深い)偏見である。なぜなら、芸術の創作に関し、その究極の課題とは、何を(What)表現するかではなく、それをいかに(How)表現するかだからである。にもかかわらず、世間では「芸術で重要なのは、独創的な思想・感情である」といった俗論が依然幅を利かせ、これが正しく理解されていないことが多いからである。
この点、文豪ドストエフスキーは、自己の小説「白痴」について次のように語っている。
<この小説の根本の観念は、一人の真に善良な人間を描く事にある。世界中にこんな難しい仕事はない>(小林秀雄「「白痴」についてT」78頁。参考文献X)
また、第一級の文芸批評家である柄谷行人も、夏目漱石の作家としての創作性についてこう言っている。
<現実の生きた人間を造型しようとしたとき、漱石ははじめて小説家(上告受理申立人注:思想家ではない)としての苦しみを経験しなければならなかった。彼の「思想」が変わったわけではない。現実認識が変わったわけではない。四十歳に近い年で書きはじめた男に、いかなる人性上の変化をも期待できるわけがないのだ。漱石の深化はもっぱら表現者としてのそれであり、その意味で驚嘆すべきスピードで成熟をとげたのである。むろん表現上の成熟は思想上の成熟である(上告受理申立人注:但し、その逆は真とは限らない)。だが、その「思想」は書くという作業において成熟したのであり、また作家の成熟はそれ以外にはあり得ない。‥‥(中略)‥‥
漱石には何を書くかということは簡単な問題だった。ある意味では彼の小説のモチーフは少しも変わっていないし、作家としての漱石の心を悩ましたのは、誰でも例外のないように、いかに書くかということだったはずである。>(「漱石の構造」345頁。348頁。参考文献Z)
同じく、第一級の文芸批評家だった小林秀雄も、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の表現について、こう言っている。
<成る程、「善悪の彼岸」を説く、ラスコーリニコフの犯罪哲学は、シェストフの言う様に、全く独創的であり、ニイチェの発見に先立つ三十五年のものかも知れぬが、作者がラスコーリニコフの実験によってみせてくれる、主人公の正確な理論と、理論の結果である低脳児の様な行為との対照の妙にくらべれば言うに足りないのである。
重要なのは思想ではない。思想がある個性のうちでどういう具合に生きるかという事だ。作者が主人公を通じて彼の哲学を扱う手つきだ、その驚嘆すべき狡猾だ。>(「「罪と罰」についてT」43頁。参考文献Y)
さらに、当代一流の映画監督であり脚本家である新藤兼人も、シナリオの表現内容と表現形式の関係について、次のように語っている。
< シナリオは頭で考えるのですけれど、書くのは手です。手は技術といってもいいと思います。頭だけあっても手、つまり技術がなければ書けない、頭と手、つまり、内容と形式。こなす技術がなければどうにもならないでしょう。>(「シナリオの創造」65頁。参考文献[)
そして、このことを本件に即して最も的確にかつスバリ語ったのが、今村昌平の次の言葉である。
< 追分は恨み節だという原告の思いはそれで良い。しかし、それと表現とは別だ。>(上告受理申立理由書別紙三の一設問3)
つまり、確かに作者の思い、思想、感情は大切である。しかし、それと作品の創作性・独創性とは別物であり、作家は、あくまでも自分の大切な思い、思想、感情を、「形象化の技術」(新藤兼人「いかに表現するか」15頁。参考文献\)である表現方法を通じて具体化し、読者が読んで分かるように作品として仕上げるものである。従って、<この形象化の技術が、大きくシナリオの価値を決定する>(同上)のであり、それゆえ、この「形象化の技術」において、作者は最も心を悩まし、最も苦心するのである。その結果、それは作者の個性が最も刻印されたものとなる。それゆえ、著作権法もまた、個々の作品において発揮されたこのような作者の個性的な「形象化の技術」(=創作的な表現方法)を保護しようとしたのである。
これが芸術の本質に根差して、著作権法が、表現内容と区別して、表現方法を保護する所以である。
3、しかし、表現形式と表現内容の区別が困難なのは、以上のような芸術の創作性に関する偏見に由来するからだけではない。それに加えて、本件に特有の事情がある。それは、本件が翻案権侵害事件だということである。これがもし、外面的表現形式の類似性が問題になる複製権侵害事件であれば、直接目に見える文字面同士の対比で決着がつく。しかし、内面的表現形式の類似性が問題になる翻案権侵害事件であるため、直接目には見えない、外面的表現形式から抽出された内面的表現形式のレベルで作品対比をせざるを得ない。従ってここでは、取り上げる表現形式自体が自ずと一定程度抽象的にならざるを得ない。その意味で、アイデアとその境界を接する内面的表現形式について、その創作的表現を厳密に把握することは口でいうほど必ずしも容易なことではないのである。
4、従って、ここから引き出すべき教訓のひとつとして、以上のようなデリケートな事情があるだけに、我々は、著作物の同一性の判断にあたって、ゆめゆめ、表現内容に属する「認識や結論や思想・感情」の独創性やその共通性といった問題に陥ることのないように、一層細心の注意を払う必要があるということである(注3)。
(注3) その意味で、下記に引用した通り、また以下の小森意見書が指摘した通り、原判決は、「認識や結論や思想・感情」の独創性やその共通性といった罠にはまっている。そもそも「認識するとの‥‥表現形式」は自家撞着ですらある。正しくは「認識するという独特の表現内容」と言うべきだからである。
(1)、原判決
< さらに、本件全証拠に照らしても、江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、鰊漁で栄えたころの江差町の過去の栄華と鰊漁が不振になった現在の江差町の様子を描写し、その上で江差追分全国大会の熱気を江差町の過去の栄華が甦ったものと認識するとの独特の表現形式を取っているものは他に見当たらないものである。>(一審判決212頁8行目〜213頁2行目。アンダーラインは上告受理申立人による。以下同じ)
(2)、小森意見書
<《本件ナレーションも、「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」と述べ、この点を本件ナレーションの結論としている点で本件プロローグと同一である。》(二一一頁六〜九行目)
つまり、ここで判決は、両作品が「この点を結論としている点で同一である」と判断しているのです。これはまさしく、どのように表現されたかというレベルにおいて同一であると言っているのではなくて、「結論」という表現された内容について同一であると言っているのです。このことは、判決がすぐ前のところで、
《‥‥との認識は、一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり、‥‥本件プロローグの結論となっている部分である》(右同頁三〜六行目)
と、原告の認識(これは取りも直さず、表現の中身である表現内容に属することです)のことを論じていることからも明らかです。>(小森意見書51頁13行目〜52頁9行目)
四、本件プロローグの「発端」と「結末」における対応関係から判明する原判決の作品分析の誤り
1、本件プロローグの表現上の対応関係
(一)、本件プロローグの表現上の際立った特徴として、相手方が遠慮して言わないのか或いは作戦上沈黙しているのか知らないが、その全体構造において極めて見事な対応関係が表現されているという点にある。つまり、別紙Wに図示した通り、本件プロローグは、
第一に、まず、「発端」と「結末」とが、それぞれ一年の「華」について語っているという意味で対応しており、
第二に、のみならず、「発端」と「結末」において、各々の冒頭部分と末尾部分とが、一年の「華」について、別な言い方でもってこれを表現し、その意味で各々の冒頭部分と末尾部分とが対応している。
言い換えれば、第一に、
「発端」の冒頭部分の「一年の華」が、「結末」の冒頭部分の「一年の絶頂」と対応しており(小森意見書38頁9〜14行目)、
「発端」の末尾部分の「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」という引用句が、「結末」の末尾部分の「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」という比喩的表現と対応しており、第二に、
「発端」の冒頭部分の「四月から五月にかけてが一年の華」が、同じ「発端」の末尾部分の「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」に対応し(小森意見書31頁14行目〜32頁6行目参照)、
「結末」の冒頭部分の「とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える」が、同じ「結末」の末尾部分の「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」に対応している。
(二)、なぜこのことを指摘したかというと、いみじくも小森意見書が指摘する通り、もともと
《冒頭部分(上告受理申立人注:ここでは「発端」のことを指す)は、いわば結末の部分と対関係をつくる形で、物語全体を枠づける役割を担います。そうであるがゆえに、冒頭部分と結末の関係性の分析は、物語の形式においてもまた内容においても、その違いと類似をとらえる上で、最も決定的な要因になるわけです。》(19頁)
であり、本件プロローグもまた、このような物語の構造の中にあるからである(その詳細は、本件プロローグにおける「発端」と「結末」との対関係をより具体的に分析した小森意見書36〜39頁・48〜50頁の解説を参照されたい)。
2、本件プロローグの表現の意味について
では、以上のように、本件プロローグの表現上の対応関係を解明することにどういう意義があるかというと、ひとつには、それによって、本件プロローグで表現された語句の正確な意味をそこから導き出すことができる点にある。
具体的には、本件プロローグの「結末」の冒頭部分における「とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂」とは何かという問題がある。
この点、「一年の絶頂」が含まれている一文だけをみると、これは江差の町が9月の2日間だけ「一年の絶頂」を迎える、つまり、一見、この「一年の絶頂」とは江差の町全体のことを言っているのではないかと思える。しかし、物語の全体構造の中に立ってみて解釈したとき、これとは違った次のような結論が導かれることが分かる。つまり、
@「発端」の末尾部分に登場する江差の栄華を表現する有名な句「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」とは、
《花柳界の繁盛は、福山(上告受理申立人注:松前藩の城下町)はとうてい江差に及ぶべくもなかったらしい。だから、「江差の五月は江戸にもない」といったキャッチフレーズも生まれたのである》(乙161「民謡源流考」103頁)
という解説からも明らかな通り、もともと「江差の花柳界」の賑わい、とりわけ花柳界で最も好まれ唄われた「江差追分」の賑わいのことを指したものである(注4)。また、このように「花柳界」に限定して解釈してこそ、江差の花柳界と江戸のそれとを比べることが初めて可能になるのである(全盛期でも戸数二千にすぎない江差の町自体と人口百万以上の江戸の町自体を比べるのであればそもそも話にならない)。
Aそうだとすると、この「発端」の末尾部分の「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」に対応する同じ「発端」の冒頭部分の「四月から五月にかけてが一年の華」の意味もまた、江差の町全体のことを指すのではなく、あくまでもそのうちの「花柳界」の賑わいに注目したものであることが分かる。つまり、ここでいう「華」とは、まさしく江差の「花柳界」の賑わいであり、とりわけそこで最も好まれた騒ぎ唄「江差追分」をめぐる賑わいなのである。
Bしたがって、この「発端」の冒頭部分に対応する「結末」の冒頭部分の「とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂」の意味も、自ずと、次のように理解することができる。
つまりこれは、江差の町全体のことを指すのではなく、あくまでもそのうちの特定の賑わい、ここではかつての「花柳界」に匹敵するような、またそこで最も好まれ唄われた歌が再び唄われることになる「江差追分全国大会」の賑わいに注目したものである。そう解釈してこそ、かつての「花柳界」の賑わいと対比して用いた「とつぜん幻のようにはなやかな」という比喩を初めて正しく理解できるようになるし、また、この冒頭部分に対応する「結末」の末尾部分の「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風」が、江差の町全体のことではなく、そのうちの「江差追分全国大会」の賑わいを指していることを初めて正しく理解できるようになるのである。
3、その帰結
以上の通り、このような本件プロローグの表現上の対応関係といった作品の構造分析から、次のことが導かれる。つまり、
本件プロローグの「結末」の冒頭部分の「とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂」の意味は、何も江差の町全体のことを言っているのではなく、あくまでも「江差追分全国大会」の賑わいのことを指しているのである。従って、ここでいう「一年の絶頂」とはこれに対応する「発端」の冒頭部分の「一年の華」とほぼ同義である。ここでも「一年の華」と言ってよかったのを、相手方はリフレインを嫌って「一年の絶頂」と言い替えただけのことである。それゆえ、ここで「江差町の町全体が最も賑わう」(一審判決198頁9行目)のは何時かを問題にする余地なぞ全くない(注5)。よって、
第一に、「江差町の町全体が最も賑わう」のはいったい何時かを大問題にし、「江差追分全国大会を江差町が最も賑わう行事としてとらえる考え方は一般的ではない」として、そこから、敢えて「江差追分全国大会を江差町が最も賑わう行事としてとらえ」た原告の「一年の絶頂」という表現に、原告独自の視点からの文学的独創を読み取った原判決は完全な読み間違いというほかなく、その間違った読みに基づいて両作品の表現の共通性を導き出した点において、原判決は取消しを免れない(一審判決210頁10行目〜211頁9行目)。
第二に、別紙Wの図からも明らかなように、本件プロローグに認められる表現上の鮮やかな対応関係は、本件ナレーションにおいていささかも認める余地のないことが明らかであり、この点においても両作品の表現上の異質性が明白である。
(注4) 花柳界で最も好まれ唄われた歌が「江差追分」であることを語る資料として、次のものがある。
〈というのも、鰊で一攫千金を夢見る網元や、ヤンシュウと呼ばれる鰊漁に働く出稼ぎの労務者が、この江差へつめかけたためで‥‥(中略)‥‥
そのため、これら鰊成金やヤンシュウ相手の色街も生まれ、下は海岸近くの浜小屋通りと呼ばれるところに作られた急造の丸太小屋の女郎部屋から、上は新地通りの高級な貸席までが、酒と女と金で賑わいをみせ、江差の五月は江戸にもない……と唄われるほど栄えたのです。
そうした酒席では、いろいろな騒ぎ唄が唄われ、またそうしたお座敷を求めて、越後の瞽女や座頭、津軽の津軽坊たちは、三味線をたずさえて、はるばるこの江差までやってきて、新地の花柳界を中心に活躍したのでした。‥‥(中略)‥‥
そうした数多くの唄の中で最大の花は、なんといっても『江差追分』でしょう。〉(乙164。竹内勉著述「北海道の民謡について」(「カラー版日本の民謡1 ふるさとの歌(北海道)」所収)18〜19頁)(注5) このことは、本件プロローグとそのあとに続く本文との対応関係を検討してみれば、一層明らかである。つまり、もともとプロローグとは本文の前置き部分のことであり、本文との関係で本文が扱う世界を「予知する」(前田愛「文学テキスト入門」参考文献十一)ものであるから、もし、本件プロローグの「一年の絶頂」が「江差町の町全体が最も賑わう」ことを問題にしているのであれば、これに対応した記述が本文中に現われて当然である。しかし、本文中に、「江差町の町全体が最も賑わう」ことに関する記述は何一つない(甲2)。
すなわち、「九月の熱風」の本文には、作者が全国大会の「会場に入る前、しばらく高台からの眺めを楽しんだ。……静かで、どこか透明な感じのする風景だった。北国は、もう秋が深いのだな、と少々感傷的な気分に誘われながら会場に足を踏み入れた私を襲ったのは、異様な熱気とどよめきだった。」こと(甲2。76頁)、会場の隣の郷土資料館の入り口付近では「どよめきと静寂を交互に繰り返す会場の興奮は、そとにいてもびりびりと伝わってきた」、また、食事をすませて会場へひき返すときに、「町の辻々では有線の実況中継はなおつづいている。拍手、わめきいりの生中継だ」「会場の体育館から……町に下がるだらだら坂の両側には……地元江差の師匠名を染め抜いた色とりどりの幟が、互いに競い合って、星明りの下ではためいていた」こと(同。89、91頁)が記述されているだけにすぎない。
第三、補充しておきたいこと2――原判決が、パロディ事件最高裁判決の「本質的な特徴の感得」論を採用したことの間違いについて――
原判決が、パロディ事件最高裁判決の「本質的な特徴の感得」論を本件のような翻案権侵害の判断基準に用いることは理論上明らかに間違っている(一審判決203頁7〜11行目)。この点は既に上告受理申立理由書で主張済みである(26〜27頁)。
しかし、このときは簡潔を重んじ、最後に、
〈この点に関する右最高裁判決の言い回しにはすこぶる分かりにくいところがあるので、その詳細は、必要に応じて補充書で追完する。〉(27頁6行目)
と述べた。そこで、ここで改めてその詳細を展開しておきたい。
一、パロディ事件最高裁判決の構成
まず、パロディ事件最高裁判決(昭和55年3月28日)の構成を抽出すると、次の通りである。
@.「適法引用」の要件の検討(判例時報967号47頁1段目22行目〜2段目6行目)
旧法30条1項第二の「適法引用」の要件として、法18条3項の同一性保持権の侵害がないことが挙げられる(しかし、既にここに最高裁判決の法律構成上の間違いがある。なぜなら、「適法引用」というのは、あくまでも財産権としての著作権の侵害に対する抗弁でしかなく、財産権とはレベルの異なる著作者人格権の同一性保持権の侵害については、抗弁であれ何であれ、「適法引用」は取り上げるに値しない事柄だから)。
A.同一性保持権の侵害の成否についての検討(同頁2段目7行目〜30行目)
両作品を対比してみると、本件モンタージュ写真は、本件写真の一部を切除し、これに新たにスノータイヤの写真を合成し、これを白黒の写真にした点において、本件写真に改変を加えて利用したものであると評価できる。つまり、同一性保持権の侵害の「改変」に該当する。
B.「改変」の結果生じた事態についての検討(同頁2段目31行目〜4段目3行目)
@.改変の結果、外面的表現形式はもはや元の本件写真と同一ではなくなった。また、スノータイヤを付加したことにより、タイヤと本件写真部分とによって新たに、本件写真とは別個の思想感情を表現するにいたったと見ることができるかもしれない。
A.しかし、かりにそうだしても、なお、本件モンタージュ写真から本件写真の本質的な特徴自体を直接感得することができる。
B.従って、被上告人の上記利用行為は、上告人の写真の同一性保持権を侵害する改変にあたる。
二、前記パロディ事件最高裁判決の構成が意味するところ
本来なら、同一性保持権の侵害の「改変」を判断するのであれば、他人の著作物に手を加えて修正・変更したことさえ認定できればそれで足りる筈である(前記A)。
それでは、最高裁が、さらに、前記Bの検討にまで踏み込んだのは一体何を意味するのか。
それは、他人の著作物を利用して自分の作品を制作する場合、その利用の態様が、ときとして、通常の「改変」の域を越えて、他人の著作物が自分の作品の「素材」にまで消化されてしまうような場合(参考文献]記載の、ベラスケス晩年の大作「メニナス」とマネの代表作「草上の昼食」の絵を元にして描いたピカソの絵「ラス・メニナス(ベラスケスによる)」と「草上の昼食(マネによる)」などはその好例である)が時としてあることを踏まえ、そのような場合にはもはや同一性保持権の侵害にすらならないから、「パロディ」の正当性が真正面から争われた当該事件がそのような場合に該当しないかどうか、を抗弁事実として吟味したのである。
その意味で、これは、同一性保持権の侵害に関する請求原因事実を認定した後、「他人の著作物を素材にまで消化した」という抗弁事実が成立するかどうかについて吟味したものと評することができる。そして、この「他人の著作物を素材にまで消化した」というのは、元の著作物が単なる素材にまで消化されてしまい、もはや元の著作物がその個性的な特徴を失ってしまったような場合であるから、その判断基準として、
「元の著作物の表現形式上の本質的な特徴自体を、新たな著作物において直接感得できるかどうか」
を採用したのである。これがまさしくここで言う「本質的な特徴の感得」論にほかならない。
そのことは、この最高裁判決が、本件は「著作者人格権を侵害するものである」と結論を出したあとにおいて、やや弁解がましく、自己の論旨を次のように釈明していることからも明らかである。
〈 なお,自己の著作物を創作するにあたり,他人の著作物を素材として利用することは勿論許されないことではないが,右他人の許諾なくして利用をすることが許されるのは,他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させないような態様においてこれを利用する場合に限られるのであり,したがって,上告人の同意がない限り,本件モンタージュ写真の作成にあたりなされた本件写真の前記改変利用をもって正当とすることはできないし,また,例えば,本件写真部分とスノータイヤの写真とを合成した奇抜な表現形式の点に着目して本件モンタージュ写真に創作性を肯定し,本件モンタージュ写真を一個の著作物であるとみることができるとしても,本件モンタージュ写真のなかに本件写真の表現形式における本質的な特徴を直接感得することができること前記のとおりである以上,本件モンタージュ写真は本件写真をその表現形式に改変を加えて利用するものであって,本件写真の同一性を害するものであるとするに妨げないものである。〉(判例時報967号47頁4段目終りから7行目以下。アンダーラインは上告受理申立人による)
三、結論
以上から、次のように言うことができる。
パロディ事件最高裁判決が「本質的な特徴の感得」論を採用したのは、あくまでも、同一性保持権の侵害である「改変」に関する請求原因事実が認められた場合、これに対する抗弁事実である「他人の著作物を素材にまで消化した」ケースに該当するかどうかを判断するための基準として用いられたものである。だから、これは、もともと翻案権侵害の判断基準とは縁もゆかりもない概念である。それゆえ、翻案権侵害が真正面から争われた本件において、原判決のように、これを、翻案権侵害に関する要件事実のひとつである「両作品の類似性」の判断基準として用いることが理論的に誤りであることは明々白々である。
第四、補充しておきたいこと3――日経新聞の記事の要約を著作権侵害と認めた平成6年2月18日東京地裁判決(以下「日経事件判決」という)との関連について――
日経事件判決は、直接、本件で取り上げられ、問題となったものではない。しかし、この事件は事実を素材とする著作物という点で本件と共通し、その上、一審判決を担当した裁判官が、その論文中の「事実を素材とする著作物の創作性」という項目で、日経事件判決を取り上げ、詳細に検討している(参考文献U。判例時報1596号17〜18頁)。
それゆえ、本件と日経事件判決との関連について、ここで上告受理申立人自身の見解を表明しておきたいと思う。
一、結論
先に、上告受理申立人の結論を述べておけば、本件において原判決を取り消すことと日経事件判決の判断とは何ら矛盾するものではない。
なぜなら、日経新聞記事の要約を「○○年○月○日付日経産業新聞」と出所表示の上無断で利用する被告の行為を違法とした日経事件判決の判断自体、全く正当というほかないが、しかしその反面、これを違法とした根拠を翻案権侵害に求めたことは、もっかのところそれしか根拠らしきものが見当たらなかったという苦しい事情があったにせよ、完全な間違いというほかないからである。そこでの違法の根拠は、正しくは、他人が収集し発信した情報にただ乗り(フリーライド)したこと、とりわけ「○○年○月○日付日経産業新聞」という情報発信元を無断で使用して出典表示したことに対して求められなければならない。その意味で、本件において原判決を取り消すこと(=翻案権侵害を否定すること)と何ら矛盾しない(注6)。
二、理由の詳細
1、判決の法律構成の誤りについて1――翻案権侵害の判断基準自体の誤り――
前述の日経事件判決の翻案権侵害という法律構成が誤りだという意味は、ひとつには、次の通り、翻案権侵害の判断基準自体に誤りがあるという意味である。
まず、日経事件判決は、要約の場合の翻案権侵害の判断について、次のように判示している。
〈著作権法二七条所定の翻案には、原著作物を短縮する要約を含むところ、言語の著作物である原著作物の翻案である要約とは、
それが原著作物に依拠して作成され、かつ、
その内容において、原著作物の内容の一部が省略され又は表現が短縮され、場合により叙述の順序が変更されてはいるが、その主要な部分を含み、原著作物の表現している思想、感情の主要な部分と同一の思想、感情を表現しているものをいうと解するのが相当である。〉(参考文献V。判例時報1486号114頁第一段)
しかし、ここで既に、第三で指摘したのと同じような誤り、つまり、著作物の同一性の判断に関する2つの誤りがある。
ひとつは、類似性を検討すべき対象として、本来ここは内面的とはいえあくまでも内面的「表現形式」についてその類似性を検討すべきなのに、日経事件判決は、「表現内容」である思想・表現の類似性の検討にすり替ってしまっている。
もうひとつは、著作権侵害の核心は「創作性」の盗用であって、類似性は、あくまでも「創作的」な表現について検討されるべきで、非創作的な表現は除外される筈なのに、日経事件判決は、その点を明確にしていない。
だから、この類似性については、正しくこう言い換えられるべきである。
《それが、原著作物の創作的な内面的表現形式の主要な部分と共通していること。》
日経事件判決は、その意味でまず、著作権法27条の解釈を誤っている。
2、判決の法律構成の誤りについて2――翻案権に関する著作権法27条を当該事案に適用するに際しての誤り――
それ以上に問題なのは、日経事件判決が、結論として被告の行為を違法と評価しなければならなかったとはいえ、日経新聞記事の要約について著作権法27条を適用して翻案権の侵害であると判断したことである。
これには無理がある。なぜなら、そもそも「正確な情報」の伝達を生命とする新聞記事において、その要約を問題にするのであれば、それは自ずと五つのWと1つのHといった事実の最も核となるキーワードに至るわけで、そこにおいては、通常、要約者の個性的な表現を云々する余地は殆どないからである。
しかるに、この点について、日経事件判決は、次のように判示する。
〈 しかしながら客観的な事実を素材とする新聞記事であっても、収集した素材の中からの記事に盛り込む事項の選択と、その配列、組み立て、その文章表現の技法は多様な選択、構成、表現が可能であり、新聞記事の著作者は、収集した素材の中から、一定の観点と判断基準に基づいて、記事の盛り込む事項を選択し、構成、表現するのであり、著作物といいうる程の内容を含む記事であれば直接の文章表現上は客観的報道であっても、選択された素材の内容、量、構成等により、少なくともその記事の主題についての、著作者の賞賛、好意、批判、断罪、情報価値等に対する評価等の思想、感情が表現されているものというべきである。
そのような記事の主要な部分を含み、その記事の表現している思想、感情と主要な部分において同一の思想、感情を表現している要約は、元の記事の翻案に当たるものである。〉(参考文献V。判例時報1486号124頁2段目9行目以下)
しかし、ここには致命的な飛躍がある。それは、冒頭からずっと新聞記事一般の表現形式の創作性の議論をしていながら、最後に至り突然、「そのような記事の主要な部分を含み、その記事の表現している思想、感情と主要な部分において同一の思想、感情を表現している要約は、元の記事の翻案に当たる」という要約の翻案権侵害の結論に跳躍してしまうからである。つまり、新聞記事一般の表現形式の創作性の議論は結構である。しかし、だからといって、その新聞記事の要約においてまで当然のように、表現形式の創作性が肯定できるという保証は何もない。否、むしろ、「正確な情報」であることを命とする新聞記事の要約においては、小森意見書54頁の言い方をもじって言えば、次のように言うべきではないか。
〈確かに、ひとつの事件を取っても、そこにはさまざまな事実や情報があるが、しかし、その中でほかの事件とは違う、最もその事件の特徴を捉えた事柄を取り上げようとすれば、誰によっても、自ずと、誰が(Who)何を(What)したのか、それはいつ(When)行われ、どこ(Where)で行われたのか、そして、それがなぜ(Why)行われたのかという5つのWと、その行為が「どのように行われたか」(How)という1つのHを取り上げることになるわけで、これはそのような説明がなければその事件について語ることはできないという、いわば事件を認識するときの基本として常識化された情報である。これがすなわち、ここで問題にしている新聞記事の要約といわれるものである。
その意味で、基本的に五つのWと1つのHからなる「新聞記事の要約」は、まさに或る事件を語るときの基本となるキーワードみたいなもので、原則としてそこに創作性を云々する余地はない。したがって、そのようなキーワードの表現が共通するからといってそれでもって直ちに翻案権侵害の根拠にされるのはおかしい。〉
そうだとすれば、日経新聞記事要約事件において、被告の要約に創作性を云々する余地がなければここで翻案権侵害を問うことはできない。
そう考えた時、この判決が、本件事件で原判決を取り消すことと何ら矛盾するものでないことが了解できる。
3、日経事件判決がもたらした功罪とその克服について
日経新聞記事要約事件は、むろん原告の日経新聞社が勝って然るべき事案である。その意味で、日経事件判決は、法の正義を実現しようとしたまともな判決である。だから、日経新聞記事要約事件において翻案権侵害を認めた判決の理由付けというのは、言ってみれば、被告を負かすための方便にほかならない。
但し、これが方便と明確に自覚されている間はまだいい。問題はその自覚が見失われたときである。そのときには、日経新聞記事要約事件とは無関係に、例えば、凡そどんな新聞記事でも、そこから五つのWと1つのHを抜き出して要約することは、どんな場合であっても――たとえば記事の出典表示も行わない場合であっても、それが原著作物の記事の翻案権侵害になるという間違った結論が一人歩きするようになる。のみならず、いみじくも本件の一審判決の裁判官が前記論文で、
〈右新聞記事の創作性についての判示は、現在起きている客観的な生の事実(時事)を報道する新聞記事に限られるものではなく、科学的事実、歴史的事実、伝記的事実、社会的事実などすべて、事実を素材として叙述する内容、形式の著作物における創作性を正当に評価するために共通する視点として把握することができるものである〉(参考文献U。判例時報1596号18頁)
と指摘した通り、日経事件判決から、新聞記事に限らず、凡そ事実を素材として叙述されたすべての著作物において、そこから五つのWと1つのHを抜き出して要約されたものについて、それが原著作物の翻案権侵害になるという間違った結論が導かれるようになる。そのとき、本来、表現の自由との対立・衝突の調整を宿命的に背負っている翻案権侵害の問題において、この日経事件判決が表現活動に対する不当な制約を正当化する根拠として用いられてしまうという極めて憂慮すべき危険――現に、本件の原判決のように、創作的な内面的表現形式を認めるのが困難な本件ナレーションにおいて安易に翻案権侵害を認めてしまうといったような現実的な危険――があることを指摘せざるを得ない。
これこそ、表現の自由の保障を何よりも重要視する上告受理申立人が最も憂慮せずにおれない日経事件判決の功罪の罪の部分である。もちろん、この点は、もはや本件で解決すべき直接の課題ではない。しかし、それは、今後、我々が是非とも克服しなければならない課題のひとつにほかならない。
そのことを指摘して、本書面の締めくくりとしたい。
(注6)
この点、上告受理申立人は、率直に言って、日経新聞記事要約事件は、元々個性的な表現の保護をめざす著作権法で保護すべきものではなく、正確な情報の保護を目指す(むろんまだ未制定であるが)情報保護法といったもので保護すべき事案であると考える。つまり、ここで重要なことは、正確な情報の発信であって、個性的な表現ではない。従って、そこでは、情報発信元の信用・信頼性というものが極めて重要になる。或る意味でそれは、商品の出所を表示し、商品における信用性を保証する商標(商品名)に似ている。
その意味で、日経新聞記事要約事件で最も非難されて然るべきことは、被告が日経新聞社に無断で、要約の出典として「○○年○月○日付日経産業新聞」と表示したことにある。これさえなければ、当該要約の情報としての信頼性はゼロにひとしい。単に要約だけだったら、そんなものは誰も信用しない。「出典:○○年○月○日付日経産業新聞」と表示されていて、初めてその情報の価値が出るのである。
その意味で、日経新聞記事要約事件では、裁判所は、勇気を奮って、情報という商品の発信名を無断で使用することが違法であるという方向で判決の法律構成を試みるべきであった。このことは、単に過去の判決の回想といった事柄にとどまらない。今後、表現の自由との対立・衝突の調整という関連で、翻案権侵害の正しいあり方を確立するためにも不可欠な作業である。そのためにも、今後、同種の紛争において、このことが常に想起されるべきである。
以 上