1999.06.25
この小森意見書を中核とする上告理由書(2)と上告受理申立理由書(2)を最高裁に提出してから2年後、二審を覆し、上告人の請求を認めるという逆転勝訴判決が出たのは、提訴から10年後の2001年6月28日である。
本件事件は、法律問題としては単純明快であるが、紛争としては錯綜を極める(当然のことながら、このことが判決に微妙な影を落とした)。
原告は、江差追分に関するノンフィクション「北の波涛に唄う」、江差追分のルーツをテーマの一つにした小説「ブタペスト悲歌」の作者。
被告NHKは、江差追分のルーツを探求したドキュメンタリー「遥かなるユーラシアの歌声−−江差追分のルーツを求めて−−」(ドキュメンタリー「江差追分」と略称)の制作者。
原告は、被告NHKらに対し、1991年、以下の理由で提訴した。
1、ドキュメンタリー「江差追分」は、原告の小説「ブタペスト悲歌」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、
2、ドキュメンタリー「江差追分」の放映、それに関連した番組責任者の行為は、小説「ブタペスト悲歌」に関連して、原告の名誉を毀損したもの
3、ドキュメンタリー「江差追分」のナレーションの一部は、原告のノンフィクション「北の波涛に唄う」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、
一連の裁判の結果を一覧表にすると、次の通りである(原告からみて勝ったケースが○、負けたケースが×)。
一審(96.9.30東京地裁) | 二審(99.3.30東京高裁) | 最高裁(01.6.28) | |
第1の請求 |
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第2の請求 | ○ | × | × |
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実は、この裁判は、被告側による、2回にわたる小森意見書の提出が殆ど勝敗を決めたといってよい。
1回目は、高裁段階で、第2の請求である名誉毀損に関して。→その結果、高裁で、一審の判断が覆った。
2回目は、最高裁の段階で、第3の請求である翻案権の部分侵害に関して。→その結果、最高裁で、一審・二審の判断が覆った。
これは何を物語るか。我が国の著作権等の裁判において、小説やドキュメンタリーといった著作物の構造に対する正確な認識というものがいかに貧しいかを物語る。もちろん、著作物の正確な構造分析の認識が直ちに、法的な判断を導くものではない。しかし、こうした事実認識のレベルが可能な限り正確であることは適正な法的判断のために不可欠な前提である。その意味で、著作物の構造に対し、できる限り正確な認識を目指すということは決定的に重要である。この点を、鮮やかに証明してみせた2つの小森意見書が、裁判所を震撼させたとしても不思議ではない。なぜなら、未だかつて、このような意見書が提出されたことはなかっただろうから。
なお、ここは著作権のコーナーだから、翻案権侵害に関して作品の構造分析を試みて、最高裁に提出された小森意見書のほうを紹介する。
事件番号 東京地裁民事第29部 平成3年(ワ)第5651号 損害賠償等請求事件
当事者 原告(被控訴人・被上告人) 木内 宏
被告(控訴人・上告人) NHKほか3名
目次
第一、略歴
第二、木内宏作『北の波涛に唄う』(部分)とNHK番組『遥かなるユーラシアの歌声』(部分)との作品対比について
一、検討課題と検討順序
@.正しい作品分析の方法に基づいた両作品の筋や構成の検討
A.一審判決の作品分析のやり方に対する検討
第三、正しい作品分析の方法に基づいた両作品の筋や構成の検討
一、筋や構成の一般論について
1、筋や構成の意味について
2、筋や構成の要素について
3、筋・構成と主題(テーマ)との違いについて
4、作品の部分における筋・構成について
二、本件の両作品における筋・構成について
1、分析の基本的な進め方――「発端・展開・結末」という三部構成――
2、Who(誰が)――主体について
(1)、本件プロローグにおける主体について
(2)、本件ナレーションにおける主体について
(3)、両作品における主体の対比について
3、What(何を)――行為について
(1)、本件プロローグにおける行為について
(2)、本件ナレーションにおける行為について
(3)、両作品における行為の対比について
4、When(いつ)――時間について
(1)、本件プロローグにおける時間について
(2)、本件ナレーションにおける時間について
(3)、両作品における時間の対比について
5、まとめ
6、「発端」と「結末」の対比
(1)、「発端」と「結末」の対比の意義
(2)、両作品の検討
7、検討の結論
第四、一審判決の作品分析のやり方に対する検討
一、検討において注意しておきたいこと
二、一審判決の作品分析のやり方の特徴
三、筋・構成の内容を把握するやり方について
四、部分表現の評価の仕方について
五、創作性の評価のやり方について――表現されたものと作者自身の内心の思想・感情との峻 別の必要性――
六、同一性を判断する対象について――表現形式と表現内容との峻別の必要性――
七、創作性というものに対する評価について
八、描写という概念に関する誤解――描写と語りの混同――
九、語句のレベルにおける対比――表現形式と素材の峻別の必要性――
第五、検討の結論
第一、略歴
私は一九五三年五月、東京に生まれ、一九七六年北海道大学文学部を卒業ののち、同大学大学院に進学し、一九八一年より成城大学文芸学部専任講師、一九八四年より同助教授、一九九二年より東京大学教養学部助教授、一九九七年同教授となり現在に至っています。
専攻は日本近代文学、表現論、文体論、言語態分析で、主要著書は「構造としての語り」(新曜社。一九八八年)、「文体としての物語」(筑摩書房。一九八八年)、「縁の物語」(新典社。一九九一年)「漱石を読みなおす」(筑摩書房。一九九五年)、「出来事としての読むこと」(東大出版。一九九五年)、「最新宮沢賢治講義」(朝日新聞社。一九九六年)「〈ゆらぎ〉の日本文学」(日本放送出版。一九九八年)、共著・編著として「読むための理論」(世織書房。一九九一年)「漱石を読む」(岩波書店。一九九四年)「総力討論
漱石のこころ』( 輪林書房。一九九四年)「作家の自伝24夏目漱石」( 日本図書センター。
一九九五年)「メディア・表象・イデオロギー」(小沢書店。一九九七年)「ナショナルヒストリーを超えて」(東京大学出版会。一九九八年)などがあります。
なお、一九九二年秋、専門研究誌「漱石研究」を創刊し、その編集委員をつとめています。また、現在、大学院で担当している「言語態分析」という領域は、言葉で書かれたあらゆるテクストを対象に、具体的な歴史性の中における関係性の総体を記述しようとするものです。私の現在の研究は、過去の政治的言説や法的言説などの歴史資料をはじめ、あらゆる言説を対象とし、その意味で、歴史学や社会学と相互乗り入れするものになっています。
第二、木内宏作『北の波涛に唄う』(部分)とNHK番組『遥かなるユーラシアの歌声』(部分)との作品対比について
一、検討課題と検討順序
私がここで検討すべき課題というのは、
@.木内宏氏作「北の波涛に唄う」(以下原告本と略称)のうち「九月の熱風」と題された章の冒頭部分(一審判決の別紙四上段記載部分。以下本件プロローグと略称)とNHK番組「ほっかいどうスペシャル・遥かなるユーラシアの歌声――江差追分のルーツを求めて――」(以下被告番組と略称)のうち、冒頭の映像部分のさらにナレーション部分(一審判決の別紙四下段記載部分。以下本件ナレーションと略称)について、文学研究者の立場から、次の諸点を検討することです。
(1)、本件プロローグと本件ナレーションにおける筋や構成がいかなるものであるかを分析すること。
(2)、(1)により明らかになった両作品の筋や構成を対比してみること。
(3)、(2)により明らかになった両作品の筋や構成について、作者の創作性というものをどう評価したらいいかを分析すること。
A.@の諸問題について、一審判決とこれを全面的に支持する原審判決が認定している作品分析のやり方というものが、作品分析論の方法として果して妥当なものかどうかについて、文学研究者の立場から検討することです。
そして、@については原告本と被告番組を、Aについては一審判決をそれぞれ検討資料として使用しました。
それで、これらの問題について、次の順序で検討しました。
@.正しい作品分析の方法に基づいた両作品の筋や構成の検討
一、筋や構成の一般論について
二、本件の両作品における筋・構成について
1、分析の基本的な進め方――「発端・展開・結末」という三部構成――
2、Who(誰が)――主体について
3、What(何を)――行為について
4、When(いつ)――時間について
5、まとめ
6、「発端」と「結末」の対比
7、検討の結論
A.一審判決の作品分析のやり方に対する検討
1、検討において注意しておきたいこと
2、一審判決の作品分析のやり方の特徴
3、筋・構成の内容を把握するやり方について
4、部分表現の評価の仕方について
5、創作性の評価のやり方について――表現されたものと作者自身の内心の思想・感情との峻別の必要性――
6、同一性を判断する対象について――表現形式と表現内容との峻別の必要性――
7、創作性というものに対する評価について
8、描写という概念に関する誤解――描写と語りの混同――
9、語句のレベルにおける対比――表現形式と素材の峻別の必要性――
第三、正しい作品分析の方法に基づいた両作品の筋や構成の検討
一、筋や構成の一般論について
1、筋や構成の意味について
まず、筋や仕組みや構成一般についてお話したいと思います。筋とは、一般的に「話の骨組み・しくみ」(広辞苑)などと言われていますが、現在の文学研究の世界では、通常、これを最初の「発端」、二番目の「展開」、そして最後の「結末」というふうに三つの部分に分けて、これら三つの部分を一つの流れとしてとらえたときに、そこに一つの筋が発生するというふうに考えています。
この「発端・展開・結末」という三つの部分は、古くはアリストテレスが詩学の中で、「始め・中・終わり」という三分法で示したものと共通しますし、日本で言えば能楽の「序・破・急」のようなものと共通しており、その意味で、この類型は世界の東西を問わず一般的な考え方といえましょう。
すでに世界的に流通している事典である『言語理論小事典』(ツヴェタン・トドロフ/オスワルド・デュクロ共著。朝日出版社発行)の中で、ツヴェタン・トドロフは、この「発端・展開・結末」という要素のことを、次の二つの面から捉えています。
ひとつは(1)均衡状態→(2)不均衡状態→(3)均衡状態という捉え方です。つまり、「発端」の或る均衡状態が不均衡状態に陥る、これが二番目の「展開」部分です。そして、それがもう一度、かつてとは違った均衡状態に戻る(これが三番目の「結末」です)という展開としてとらえるというものです。
もうひとつの捉え方が(1)属性付与→(2)行為の記述→(3)属性付与という捉え方です。まず、或る主人公ないしは登場人物が一つの属性を与えられて物語の中に登場する。これが「発端」です。そして、その主人公ないしは登場人物が、なんらかの行為を行う。そうすると、それは他の人に働きかけたり世界に働きかけたりすることになる。これが二番目の「展開」ということになります。そしてその結果、始まりとは別な属性が与えられる。これが三番目の「結末」に対応するわけです。
こうして、この三つの要素が時間的な順序に従って発生して、一つの物語の筋や仕組みや構成が成立するというふうに現在の文学研究では考えられています(*注1)。
なお、専門用語として、ストーリーとプロットは区別しています。ストーリーのほうは、時間的順序に従っていくつかの出来事が配列されている、つまり時間の順序に従って起こった出来事のことをストーリーと呼びます。これに対してプロットというのは、時間的順序だけではなくて、それぞれの出来事がどのような因果関係に置かれているのかということを問題にする領域のことです。したがって、プロットにおいては、筋や仕組みや構成ということを考える際、出来事と出来事の間にどのような因果関係が置かれているのかという点がポイントになります。
*注1 参考文献として、
小森陽一ほか『読むための理論』(参考文献十)
前田愛『文学テクスト入門』(参考文献十一)
ツヴェタン・トドロフ/オスワルド・デュクロ共著『言語理論小事典』(参考文献十二)
2、筋や構成の要素について
さて、そのようなものとして筋や仕組みや構成をとらえるとすると、まず、或る主人公、登場人物に或る属性が与えられることによって「発端」が始まるわけですから、その中では、必ず「誰が登場するのか」という主体(Who)が問題になります。これがまず筋や構成の要素であります。
そして次に、その主人公、登場人物が或る行為をするわけです。あらゆる行為は事件を生み出すわけですから、そこでその主人公が「何をしたのか」という行為(What)が不可欠になります。これもまた筋や構成の要素ということになります。
さらに、当然、だれかが何かをするということは、時の流れの中で行われるわけですから、ついで、「いつ」という時間(When)が問題になります。これも筋や構成の要素と言えましょう。
そして、行為は必ず或るAという空間からBという空間に人物なり事件なりを移すということをもっていますから、「どこからどこへ或いはどこでその行為が行われたのか」ということが、時間とともに空間(Where)の問題として問題になります。
そして、これらの主体(Who)、行為(What)、時間(When)、空間(Where)という四つの要素に、因果関係が付けられる場合、そこには、出来事と出来事の間、つまり行為が行われる前と行為が起こった後の間に「なぜ」(Why)という原因と結果を問うこと、その問いに対する答えが必要となるわけです。これが因果関係(Why)という要素です。
このように、だれが何をしたのか、それはいつ行われ、どこで行われたのか、そして、それがなぜ行われたのかという、五つのWがあることによって、初めて一つの出来事・事件の記述ができるのです。つまり、これらの諸要素が筋の要素になっているのです。 このことは、たんに文学の上だけではなく、新聞の記事を書く上でもあるいは映画のシナリオなどを構成していく上でも基本的な条件になっています。そしてさらに、その行為が「どのように行われたか」というHowというもう一つの項目を付け加えて、物語の単位とするという考え方は、極めて一般的に流通している考え方といえましょう。
例えば、小津安二郎の数々の名作の脚本を手がけた野田高梧氏が書いた我が国の代表的なシナリオ解説書である『シナリオ構造論』で、筋・ストーリーについて、ストーリー(筋)という章で、次のように言っています(*注2)。
《新聞の報道記事が含まなければならない条件として五つのWがあるという話を聞いたことがある。
Who (誰が)――人物
When(いつ) ――時
Where(何処で)――場所
What(何を) ――事件
Why(なぜ) ――原因
この五つの条件のうちどの一つが欠けてもいけないというのである。一つの主題を中軸としてそこに筋(ストーリー)が構成される場合にも、またこれと同じことが云われる。
大体、映画の筋のみに限らず、叙事詩、戯曲、小説などすべて物語の形を以て語られる説話形式のものは、次のような原型の上に成り立つものだと云われている。
誰が又は何が――(主体)……性格
何を、いかに――(事件)……行為
いつ、何処で――(背景)……環境
この「性格」「行為」「環境」という三つの条件が整わない限り、いかなる小さな物語も、またいかなる規模の雄大な物語も、決して成り立つものではないというのである。たとえば「昔々或るところに」というのは「環境」であり、「お爺さんとお婆さんが」というのは「性格」である。更に「洗濯に行く」とか「芝刈りに行く」という「行為」のなかには「盥を持って」とか「籠を背負って」とか或いは「歩いて」とか「走って」とかいう「いかにして」が省かれているもので、そういう些細な挿話のなかにさえ如上の三つの要素が含まれていることがわかろう。
ところで、それとは逆に、ではそういうふうに「性格」と「行為」と「環境」という三つの要素が具わればそこに必ず物語が生まれ得るものかと云えば、それは必ずしもそうとばかりは限らない。勿論、この三つの要素は物語が成立するための必須の条件ではあるものの、それが一連の纏まった筋(ストーリー)の形を備えるためには、更にもう一つの重要な条件として、そこに語られる出来事の一つ一つの間に何らかの有機的な連絡がなければならないのである。》(一一八頁八行目以下)
と言っているのは、今、私が述べた筋(ストーリー)が備えていなければならない条件のことを述べているものです。
以上のことから、筋(ストーリー)と言い得るためには、少なくともそこに主体(Who)、行為(What)、時間(When)、空間(Where)、因果関係(Why)という五つの要素が備わっていることが必要であることが明らかになったと思います。
また、この「シナリオ構造論」では、実例として、黒澤明監督の映画「素晴らしき日曜日」の筋を紹介していますが(一二二〜一二三頁)、それは今私が説明したような条件を満たしている筋の実例と考えてよいでしょう。
3、筋・構成と主題(テーマ)との違いについて
以上の説明から既に明らかだと思いますが、筋や構成は、その要素として前述の五つのWを備えていなければならず、この点で主題(テーマ)というものと異なります。
この筋・構成と主題(テーマ)との違いについても、先ほどの脚本家野田高梧氏は、「シナリオ構造論」の主題(テーマ)という章の中で、次のように説明しています。
《 しかし、テーマは大体において抽象的なものだから、そのままではストーリーとはなり得ない。それがストーリーとなるためには具体性が与えられることが必要である。》(一一五頁)
このストーリーとなるために必要な具体性が、今説明した五つのWであることは、野田氏の前述の文章(一一八頁)からも明らかだと思います。
そして、野田氏はこのことを別の面からも、いわば表現とアイデアの境界にかかわる問題として、この主題(テーマ)から筋・構成へ移行の問題として次のように解説しています。
《 しかし、主題はそのままでは芸術作品とはなり得ないものだから、それが芸術作品にまで昇華されるためには、作家は彼がその主題を掴んだ心の状態にまで相手の心を誘導して、相手自身がおのずからその主題を感得するような方法を講じなければならない。シナリオの場合はそれがストーリーの決定であり、芸術活動としての第一段になるのである。》(一一八頁二行目以下)
4、作品の部分における筋・構成について
なお、念のため申し上げますが、ここで今、私が説明した筋・構成の理解の仕方は、言うまでもなく作品全体について考える場合には当然妥当することですが、さらに、作品の或る一部分――もちろんその部分に筋・構成といいうるだけのものが認められる場合という前提ですが――についても、同様に適用してよいものです。
二、本件の両作品における筋・構成について
これまでに解説した筋・構成に関する一般論の議論を踏まえて、では次に、今回の裁判で問題となった本件プロローグと本件ナレーションにおける筋・構成とはどういうものであるか、分析していきたいと思います。
1、分析の基本的な進め方――「発端・展開・結末」という三部構成――
まず最初、前述しました通り、分析する作品を「発端」「展開」「結末」ないしは「序」「破」「急」という三つの部分に分け、それぞれについて、筋・構成の具体的な内容を考えていきたいと思います。
@本件プロローグを「発端」「展開」「結末」の三段階の構成として考えてみたとき、一番目の「発端」に位置しているのは、冒頭から第五段落の「まかなわれたほどであった」までで、ここでは、ニシンの漁期である四月から五月にかけて、全国からやってきた出稼ぎのヤン衆たちで江差が賑わいを見せることが描かれています、これが「発端」にあたります。
A二番目の「展開」部分は、第六段落の「だが、そのにぎわいも明治の中ごろを境に」から、第九段落の「魚かすや油をとるために鰊を煮た鍋の残骸である」までです。
なお、後ほど詳しく解説しますが、この「発端」部分で注目すべきことは、冒頭のくだりが「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった」という記述であること、そして、ヤン衆たちがやって来る時期が四月から五月に限られていて、やがては去って行くという彼らの外部性が強調されている点です。「すいた同士の泣き別れ」という記述、あるいは「鰊場の親方とヤン衆たちの綱子合わせと呼ぶ顔合わせの宴が夜な夜な張られた。漁が終われば綱子わかれだった」という記述にあるように、外からやって来て、限られた漁期が過ぎれば去っていくという人々であるということが強調されています。
したがって、次の「展開」部分も、「人の呼ぶ声も船のラッシュもなく」という記述にあるように、ニシンが去ったことによって、かつてやってきた出稼ぎのヤン衆たちも江差には来なくなってしまって、その結果、「鰊の去った江差に、昔日の面影」はなくなってしまったということが記述の中心になっています。
Bそして、最後の「結末」の部分が、第十段落「その江差が、九月の二日間だけ」からラストまでです。
ここでは、「発端」部分と対応させて、現在の江差が、かつての四、五月のニシンの漁期とは異なった時期、つまり九月の二日間だけ、外=日本全国から追分自慢の人々が江差追分全国大会にやって来ることによって、「とつぜん幻のように」「一年の絶頂を迎え」「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」ということが書かれています。
2、Who(誰が)――主体について
(一)、本件プロローグにおける主体について
以上の「発端・展開・結末」という構成にそって筋・構成の具体的な内容を考えていきたいと思います。まず、筋・構成の要素である「だれが」という観点から、本件プロローグにおける主体(Who)について分析していきます。
(1)、主体の持つ意義について
ここでざっと、物語における主体=主人公の意義について、解説しておきましょう。
様々な出来事を一つの物語の連なりにまとめ上げていく場合、その様々なエピソードをどのような人物が中心になってつなげていくのかという問題があり、これが「主人公」といわれるものです。「主人公」とは、簡単に言うとばらばらな素材をある一定の時間的なつながりの中に束ねていくという役割を果たすものです。
例えば『ドン・キホーテ』の「主人公」ドン・キホーテは、まずヨーロッパの騎士道物語の読者として登場し、その騎士道物語にあこがれて、自分でそれを実践してみてしまうという存在です。ここでどういうことが明らかにされたかと言うと、それまで様々な騎士たちに担われていた沢山のばらばらなエピソードをドン・キホーテ一人がまとめていくという形となり、そこで長編小説の「主人公」にドン・キホーテはなり得たわけです。
従って、「主人公」が作品の中で果たす役割は、単に中心的な人物であるだけではなく、作品全体の形式において作品をまとめ上げる中心となるものなのです。従って、或る作品の筋・構成の特徴を判断するうえで、つまり、或る作品の全体形式がどのようにまとめ上げられているのかを判断するうえで、「主人公」が誰なのかという問題は極めて重要な意味を担うわけです。
このように、ばらばらな素材としての出来事を一つの連なりにまとめ上げていくのが物語における主体=「主人公」というものです。
(2)、発端
最初に、物語の冒頭部分の記述の重要性について、お話しておきたいと思います。
小説などの書き出しが、《そのテクスト全体が扱う世界を予知する》(前田愛「文学テクスト入門」九七頁、参考文献十一)ものとなることについては、一つの必然性があります。物語を作る側には、どのくらいの完成度かには違いはあるにしても、書きはじめる段階で物語全体についての構想があります。物語を書きたい、という欲望は、一つの世界として作者の中に結実しています。けれども、物語の冒頭では、一方でその欲望が一気に開かれはじめるのと同時に、他方で冒頭であるがゆえに、あからさまな形で主題を述べてしまうことを極力抑圧しなければなりません。
主題を提示したいという欲望と、それを抑えなければならないという自己規制が正面からぶつかりあるがゆえに、そこには、はじめから終りまでをつらぬくような、テクストの全体構造が潜在的にあらわれることになります。
映画のファーストシーンは、多くのフィルムを編集する作業の中で選択されますから、より意識的に物語全体を予感させる形での導入部の役割を果しますし、あらためて一冊の単行本となる小説についても、冒頭部分は、結末を意識したうえで、作者がそこに向かう必然性をつくりだすために、最も神経を払い、工夫をこらすところとなります。なぜなら、予定された結末へ、受け手である読者を誘うにふさわしい出会いの場をつくろうとするからです。
その意味で、冒頭部分は、いわば結末の部分と対関係をつくる形で、物語全体を枠づける役割を担います。そうであるがゆえに、冒頭部分と結末の関係性の分析は、物語の形式においてもまた内容においても、その違いと類似をとらえる上で、最も決定的な要因になるわけです。
では、こうした物語における書き出しの重要性を念頭に置いて、本件プロローグの表現を見てみますと、その冒頭は「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。」となっています。つまり、作者は、冒頭で、これから発端部分において、「むかし鰊漁で栄えたころの江差」の「四月から五月にかけて」の「一年の華」について語るのだということを《予知》しているのです。そして、その具体的な内容は第二段落以降で示されているのです。
そこで、第二段落以降を見てみますと、第二段落には、「日本海経由の北前船、つまり一枚帆の和船がくる日もくる日も港に入った」とあり、そして、そのすぐあとに「津花の浜あたりは、人、人、人であふれた」とあります。ここからわかることは、場所(Where)は江差町なわけですが、そこに登場する(Who)のは、船に乗って《外から江差町にやって来る人々》であるということが直ちにわかるようになっています。さらに、その人々が何者であったのかということは、次に「町には出稼ぎのヤン衆たちのお国なまりが飛びかい」「人々の群れのなかには、ヤン衆たちを追って北上してきた様ざまな旅芸人の姿もあった」とあるように、日本全国からニシン漁のために集まって来る、出稼ぎのヤン衆たちを中心とした人々が主体(Who)であるということが明らかになります。さらにこの出稼ぎのヤン衆たちと鰊場の親方との間で、顔合わせや網子わかれの宴が行われることが賑わいの特徴としてとらえられています。
したがって、本件プロローグにおける主体(Who)は、木内氏の記述によればあくまでも江差町の外から、しかも全国からやって来るヤン衆たちを中心とした外の人々が主体として描かれていることが分かります。そして、この外からやってきた人々と、地元の親方たち、ないしは荒くれ男を相手にする遊廓の女たち、さらにはヤン衆たちを追って、やはり外からやって来る旅芸人という、これらの人たちによってニシンの漁期のときの賑わいが発生するということが、この発端の記述の中心的な特徴になっているわけです。
(3)、展開
次の展開部分ですが、ニシンがとれなくなって以降、「鰊の去った江差に、昔日の面影はない。」ということの決定的な要因は、《外からだれも来なくなった》ということに力点が置かれています。それは、後半に「人の叫ぶ声も、船のラッシュもなく」とあるように、発端において主体であった《外から江差町にやって来る人々》が来ないこと、そして船が来ないこと、これが「五月の栄華があとかたもない」ことの証になっています。
(4)、結末
最後の結末部分ですが、ここでは、江差追分全国大会を巡る記述においても、「その江差が九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。日本中の追分自慢を一堂に集めて」となっています。
つまり、ここでは、出稼ぎのヤン衆たちではないけれど、日本中の追分自慢というやはり《外から江差町にやって来る人々》が主体となっていることが分かります。
(5)、まとめ
以上の通り、木内氏の記述によると、発端における「むかし鰊漁で栄えたころの‥‥華」と、展開における「栄華はあとかたもない」今と、結末における「かつての栄華が甦ったような」という三つの出来事の間をつなぐ主体は、あくまでも《外から江差町にやって来る人々》であることが明確になります。
そういうことからすれば、ラストの「町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」という記述は、きわめて比喩的な表現であることが分かります。つまり、この「一陣の熱風」といった表現によってあらわされているのは、ほかでもない、かつてこの町に栄華をもたらしたヤン衆たちと同様、《外から江差町にやって来る人々》のことを指しているからです。
(二)、本件ナレーションにおける主体について
(1)、ナレーション部分の表現の評価にあたっての注意
それに対して、NHKの本件ナレーションのほうですが、予め、ナレーション部分の表現の評価にあたって注意すべきことを解説しておきたいと思います。
それは、本件プロローグが原告の表現した言語表現の全体からなるのに対し、これに対し、本件ナレーションというのは、被告の表現した映像表現のうちのナレーション部分だけを取り出したものだということです。本来、この種の映像表現というのは、映像や音声や音・音楽などの総合的な表現として制作されるものですから、ナレーション部分の表現だけを見て、その意味するところを引き出すのは不十分であり、少なくとも、そのナレーション部分に対応する映像表現全体を見て、それとの関係の中で、ナレーション部分の表現の意味するところを汲み出すのが適切なやり方と言えましょう。
そのような観点から、次に、順番に本件ナレーションにおける主体について分析していきたいと思います。
(2)、発端
今申し上げました通り、本件ナレーション部分に対応する映像表現の部分を見てみますと(上告理由書の別紙四参照)、ここで注目すべきなのは、流れる映像がまず現在の江差の漁港の光景であり、ついで現在の江差の空からの遠景であり、最後が現在の江差で開かれる江差追分全国大会ののぼりと会場の外からの光景であるということです。ここには、具体的な人々のことが映像として描かれていません。漁港で働く人々が登場しても、それは登場人物ではなく、かもめや入港してくる漁船と同様、漁港の光景のひとつの要素でしかありません。
そうしたことを念頭に置いて、本件ナレーションの表現を見てみますと、その冒頭が「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」となっています。つまり、ここでは現在の江差の町が主体(Who)になっていることをあからさまに示すものと言えましょう。現に、その次の「古くはニシン漁で栄え、江戸にもないという賑いをみせた豊かな海の町でした」という表現について、「栄え」という述語の主語は江差町、つまり町ですし、「江戸にもないという賑いをみせた豊かな海の町でした」。という賑わっていたときの主体も、やはり江差の町ということになっています。
(3)、展開
さらに次の部分、「しかし、ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません」と最初の発端部分と対比されているこの記述もやはり主体は町ということになります。
(4)、結末
最後の「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します」というときの主体も、やはり江差という町です。
(5)、まとめ
以上から明らかですが、本件ナレーションにおける主体は、具体的な人物ではなく、江差の町という点において一貫しています。
(三)、両作品における主体の対比について
以上の解説から分かります通り、筋・構成の主要な要素である主体(Who)に関して、本件プロローグではそれが出稼ぎのヤン衆たちとか日本中の追分自慢といった《外から江差町にやって来る人々》であるのに対し、本件ナレーションでは、前述した通り、江差の町となっているわけです。そういう意味で、筋・構成の要素である主体(Who)に関して、両作品は異質なものであると言わざるを得ないと思います。
従って、ここではもはや、この主体(Who)に関して、創作的な表現であるかないかを検討する必要はないと思いますので、省略します
3、What(何を)――行為について
(一)、本件プロローグにおける行為について
次に、筋・構成の要素である「何を」という観点から、本件プロローグにおける行為(What)について分析していきたいと思います。
(1)、発端
先ほども申し上げましたが、本件プロローグの冒頭の表現「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。」から、作者は、これから発端部分において、「むかし鰊漁で栄えたころの江差」の「四月から五月にかけて」の「一年の華」について語るのだということを《予知》しているわけで、その意味で、発端部分の行為(What)も「一年の華」をめぐるものであることが示されています。
そこで、その「一年の華」が具体的にどのようなものか見てみますと、ここでまず重要なことは、第二段落の「南西の風が吹いてくると、その風に乗った日本海経由の北前船」がやって来る、という記述です。なぜなら、これが、人々が江差町に《外からやって来る》という事件ないしは行為(What)をあらわす重要で特徴的な表現になっているからです。
さらに、ニシン漁のときに《外からやって来る》がゆえに、やがてニシン漁が済めば《外へ去っていく》という行為もまたこの発端を構成する行為(What)として表現されているわけです。それは、この発端において、追分の前歌である「松前江差の 津花の浜で すいた同士の 泣き別れ」が引用されていて、《外からやって来る》ヤン衆たちがやがて《外へ去っていく》ことにより、地元の女郎たちとの間で「すいた同士の 泣き別れ」が起きることが予告されていることからも分かります。また、《外からやって来る》ヤン衆たちが、町で、「漁がはじまる前には」親方たちと「網子合わせという顔合わせの宴」が開かれ、「漁が終れば網子わかれだった」と描写されていることからも彼らが再び《外へ去っていく》ことが示されているわけです。
(2)、展開
そして、次の展開部分で、「鰊の去った江差に、昔日の面影はない」という風に、江差の昔と現在が対比されているときに問題になっているのも、ニシン漁の時期に大量の人々が江差町を訪れたことが、つまり《外からやって来る》行為(What)がなくなってしまったことが強調されている点です。このことは、先ほどWho(誰が)の分析のときにも指摘したように、「人の叫ぶ声も船のラッシュもなく」という記述や「陰鬱(いんうつ)な北国のただの漁港」という記述、つまり《外からやって来る》ことのない漁港、特別な賑わいのない漁港という対比からも明らかです。さらに、「通りがかりの旅人も、ここが追分の本場だと知らなければ」という、かつて大量の人々が《外からやって来た》ことと対比させた言い方にも、そのことがあらわれています。
(3)、結末
最後の結末部分ですが、先ほどのWho(誰が)の分析から明らかになったように、結末部分の主体は、出稼ぎのヤン衆たちではないけれど、「日本じゅうの追分自慢」というやはり《外から江差町にやって来る人々》であるわけですから、その人たちが全国から集まるという《外からやって来る》ことがここでの行為(What)ということになります。
さらに、江差追分全国大会のときに《外からやって来る》がゆえに、江差追分全国大会が終れば《外へ去っていく》という行為もまたこの結末を構成する行為(What)として表現されているわけです。それは、この結末のラストにおける「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」という記述が、前述したように、かつて江差町に栄華をもたらしたヤン衆たちと同じく、《外から江差町にやって来る人々》のことを指す「一陣の熱風」が「吹き抜けて行く」=《外からやって来て》賑わいをもたらし《外へ去っていく》ことを示すきわめて比喩的な表現であることからも明らかです。
(4)、まとめ
以上の通り、木内氏の記述によると、発端における「むかし鰊漁で栄えたころの‥‥華」と、展開における「栄華はあとかたもない」今と、結末における「かつての栄華が甦ったような」という三つの出来事の間をつなぐ行為とは、主体である《外から江差町にやって来る人々》に対応した《外からやって来る》ことと《外へ去っていく》ことであることが明らかです。
(二)、本件ナレーションにおける行為について
ここでも前述したように、本件ナレーション部分に対応する映像表現のことをきちんと念頭に置くことが大切です。そうしてみた場合、ここで流れる映像は江差という町の漁港の光景であり、空からの遠景であり、町で開かれる江差追分全国大会ののぼりや会場の光景であって、ここでは具体的な人々のことが描かれているわけではありません。つまり映像的には、江差という町の様子を描いているといってよいでしょう。
このことを念頭に置いて、NHKの本件ナレーションの表現を見てみますと、述語は、@古くは町が「栄え」、町が「賑いをみせた」(発端)、Aそして、今はその賑わいがなくなった(展開)、Bけれど、「かつての賑わいを取り戻します」(結末)ということになっています。そして、ここには、ナレーションとしてはもちろんのこと映像的にも、本件プロローグの「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」といった、外からやって来た人々の行為にことさら力点を置いたような記述は全くありません。したがって、ここでのWhat(何を)――行為というのは、外からやって来る人々がこの町に賑わいをもたらすというような表現ではなくて、ただ単に、町が賑わうのか賑わわないのかというレベルのことになっているというのが本件ナレーションの特徴といえましょう。
(三)、両作品における行為の対比について
以上の解説から明らかですが、筋・構成の主要な要素である行為(What)に関して、本件プロローグではそれが出稼ぎのヤン衆たちとか日本中の追分自慢といった人々が、《外からやって来て》《宴や大会が開かれ、江差追分が歌われ、賑わいをもたらし》また《外へ去っていく》のに対し、本件ナレーションでは、前述した通り、江差の町が単に《賑う、賑わいがなくなった、賑わいを取り戻した》となっているわけです。そういう意味で、筋・構成の要素である行為(What)に関して、両作品は異質なものであると言わざるを得ないと思います。
従って、ここでもまた、この行為(What)に関して、創作性について検討する必要はないと思いますので、省略します。
4、When(いつ)――時間について
(一)、本件プロローグにおける時間について
次に、筋・構成の要素である「いつ」という観点から、本件プロローグにおける時間(When)について分析していきたいと思います。
(1)、発端
ここでもまた、本件プロローグの冒頭の表現「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。」に着目することから始めたいと思います。ここで、作者は、これから発端部分において、「むかし鰊漁で栄えたころ」の「四月から五月にかけて」の時期(When)について語るのだということを《予知》しているわけです。ここからまず、本件プロローグが焦点を当てているのは「むかし鰊漁で栄えた」という《鰊漁で栄えた過去における時点》のことであることが分かります。さらに、木内氏の本件プロローグにおいては、この時間について非常に特徴的な具体性が見られます。それは、ニシン漁が行われる季節を明示してあるということ、つまり、《五月》が強調されていることです。冒頭にあるように、「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった」から本件プロローグは始まります。そして、この江差のにぎわいを象徴する言葉として、「出船三千、入り船三千、江差の五月は江戸にもない」を引用しています。この引用文において、もっとも強調されているのは、《五月》の江差と常時賑わっている江戸とが対比されていることです。つまり、《五月》だけは江差は江戸時代の日本の首都であった江戸にも劣らない賑わいを見せるということです。このように、木内氏のテキストは、《五月》に焦点を当てた表現の仕方になっています。
(2)、展開
したがって、次の展開部分においても、江差の町がさびれたことを叙述する木内氏のテキストの中において、やはり《五月》という、かつてのニシン漁の漁期にあたる季節のことが強調されています。「五月の栄華はあとかたもないのだ。桜がほころび、海上はるかな水平線にうす紫の霞がかかる美しい風景は相変わらずだが」と、わざわざ《五月》の季節の変わらない風景が描写された上で、「人の叫ぶ声も船のラッシュもなく、ただ鴎と大柄なカラスが騒ぐばかり」という、現在における《五月》という季節が対比されているわけです。
(3)、結末
ここでは、現在においても、かつての栄華が甦るのは、《五月》ではなくて《九月》である、というふうに結末部分が書かれています、「その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える」というふうにです。これは明らかに、かつてのニシン漁期に栄えた《五月》と、その季節とは一致しない江差追分全国大会が行われる《九月》とが対比されているのです。ここに本件プロローグの時間をめぐる最大の特徴が見られます。その意味で、《五月》ではなくて《九月》に日本中の追分自慢が集まるということが、「一陣の熱風」という比喩であらわされているのであり、この比喩は、本件プロローグの章につけられた「九月の熱風」という題名と呼応することによって、《五月》と対比された《九月》という季節が、とりわけ時間論的に重要であるということが、章全体のテーマにもなっているということを窺わせるものです。
(二)、本件ナレーションにおける時間について
ここでもまた、本件ナレーション部分に対応する映像表現のこと念頭に置いてみますと、ここで流れる映像はいずれも現在という時点における江差の漁港の光景であり、空からの遠景であり、江差追分全国大会の光景です。これに対し、本件プロローグがかなり詳細に描き出したような過去のニシン漁の頃の江差の賑わいを伝える映像はひとつもありません。
このことを念頭に置いて、NHKの本件ナレーションの表現を見てみますと、その発端の冒頭部分は、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」となっています。そして、これに対応する映像部分が、現在の江差の漁港の光景など全て現在の時点における映像であることをも考え合わせますと、本件ナレーションが焦点を当てているのは、あくまでも《現在という時点における》「小さな港町、江差町」のことであることが分かります。そして、この《現在という時点における》江差町を語る中で、「古くはニシン漁で栄え」たというふうに、過去のことにも触れているのです。だから、それ以上に、かつてのニシン漁の漁期にあたる「四月から五月にかけて」賑わった様子のことには一切触れていません。
その意味で、本件ナレーションには、本件プロローグにあるような、ニシン漁期が四月から五月であったとか、春(五月)と秋(九月)の対比といった時間のことを示す記述は見られません。
(三)、両作品における時間の対比について
以上の解説から明らかなとおり、筋・構成の主要な要素である時間(When)に関して、まずは、本件プロローグの発端部分が《鰊漁で栄えた過去における時点》のことであるのに対し、本件ナレーションは発端部分も含めて《現在という時点》のことであるという基本的な違いが見られます。その上、本件プロローグでは「四月から五月にかけて」「江差の五月」「五月の栄華」と、かつて外からやって来た人々が江差町に賑わいをもたらした時期を示す記述や、春(五月)と秋(九月)の対比という点に力点が置かれているのに対し、本件ナレーションでは、基本的には《現在という時点における》江差町のことが取り上げられていて、その中で単に「古くは」となっているだけで、本件プロローグに見られるような「五月の栄華」という時期の記述や春(五月)と秋(九月)との鋭い対比などは全く見られません。そういう意味で、筋・構成の要素である時間(When)に関しても、両作品は決定的に異質なものではないかと思います。
従って、ここでもまた、この時間(When)に関して、創作性について検討する必要はないと思いますので、省略します。
5、まとめ
これまでに、筋・構成の主要な要素である主体(Who)、行為(What)、時間(When)に関して両作品の内容を分析してきて、これらについていずれも両作品の内容は異質なものであることが分かりました。したがって、これ以上、他の要素について分析するまでもなく、両作品の筋・構成は異質なものであることが判明したと思います。
6、「発端」と「結末」の対比
(一)、「発端」と「結末」の対比の意義
さらに、参考までに、両作品における「発端」と「結末」とを対比しておきたいと思います。というのは、前述の通り、普通、作品全体を一つのまとまった形式として考える場合、「発端」「展開」「結末」の三部構成で考えますが、同じ出来事でも、どのような事件から語り始められ、どのような事件で語り終わられるかによって、その作品の内容は、例えば悲劇が喜劇になり、あるいは幸福が不幸に転倒するというふうに全く作品の様相を変えてしまうものです。従って、作品全体を考えるうえでは、「発端」と「結末」が一つの枠組みになって、全体の作品を読者ないしは観客にどのように伝達するのかということが非常に大きな意味を持つことになるわけです。
例えば、『桃太郎』という作品を、桃から生まれるという異様な生誕という始まりを抜きに語り始めてしまえば、単なるふつうの気骨のある青年の話になってしまいます。そして『桃太郎』を鬼ケ島から宝物を持ってきたというところで終わらせずに、彼の中年や老後まで語ってしまえば、それもまた全く違った印象の作品になってしまいます。
ですから、二つの作品について作品全体の形式を比べるためには、まず「発端」と「結末」が一致しているかどうかを比較してみるべきです。そこに作品全体をその作者、あるいはその語り手がどうとらえたかという根本的な問題が反映しているわけですし、作品全体を読者や観客に提示するときの枠組みになるわけです。従って、もしそこが大きく違っている場合には両作品の非常に重要な差異になると思います。
そして、以上述べたことは、ひとつの作品全体に妥当するばかりでなく、本件のような作品の中のまとまりのある部分についても基本的には妥当するものです。
(二)、両作品の検討
(1)、「発端」
本件プロローグの場合、その発端の冒頭部分は、「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった」となっています。ここから、本件プロローグでは、《むかしの江差が四月から五月にかけて一年の華のように賑ったこと》に焦点を当てていることが分かります。
これに対し、本件ナレーションは、その発端の冒頭部分は、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」となっています。そして、これに対応する映像部分が、現在の江差の漁港の光景であることをも考え合わせますと、本件ナレーションで焦点を当てているのは、あくまでも《小さな港町である現在の江差町》であることが分かります。
このように作品の始まりにおいて、両作品の焦点のあて方が全く違ったふうになされているということが確認できると思います。
(2)、「結末」
本件プロローグの場合、その「結末」における最大の特徴は、前述の「発端」の焦点の置き方と対応させて、《むかしの江差が四月から五月にかけて一年の華のように賑ったこと》との対比において、《現在の九月において、かつての栄華が甦ったような一年の絶頂を迎えること》を述べていることです。まさに、むかしの「四月から五月にかけて」の「一年の華」が、現在の「九月」における「一年の絶頂」と対応しているわけです。
これに対し、本件ナレーションでは、単に、《小さな港町である現在の江差町》が九月にはかつての賑わいを取り戻す、と言うだけで、そこには、本件プロローグの特徴である「四月から五月にかけて」と「九月」、「一年の華」と「一年の絶頂」というような対応関係は全く見られません。
(3)、結論
このように、同じ江差に関する事実を素材とした作品であっても、その全体の構成の仕方を特徴づける「発端」と「結末」を比較してみるならば、本件プロローグと本件ナレーションはその方向を決定的に異にしていることが明らかに分かります。
7、検討の結論
以上の@Who(誰が)―主体についての検討、AWhat(何を)―行為についての検討、BWhen(いつ)―時間についての検討、およびC「発端」と「結末」の対比の検討を総合すれば、本件プロローグの筋・構成が本件ナレーションのそれと類似していないこと、より厳密に言えば、共に江差町や江差追分全国大会といった同じ素材を扱いながら、ちがった筋・構成にまとめ上げたものであることが明らかになったと思います。
第四、一審判決の作品分析のやり方に対する検討
一、検討において注意しておきたいこと
今回の両作品を分析するにあたっては、あらかじめ次のことに注意しておきたいと思います。
第一に、今回は、原告作品と被告番組の或る一部分同士において、創作的な表現である筋・構成が共通しているかどうかが問題になっているということです。そして、このような場合、作品の或る部分における創作的な筋・構成の把握に際しては、文学研究などで明らかにされた作品分析の基本的な方法を踏まえたものであることが必要だと思いますが、一審判決が果してそういう成果をきちんと踏まえているかどうかという点がまず鋭く問われることになります。
第二に、今回の二つの作品は江差町や江差追分全国大会といった共通の事実を素材としているということです。つまり、素材は同じにならざるを得ない、或いは語られる事実は同じものにならざるを得ない。
そこで、一審判決が同一であると認定している対象が果してこのような誰が語っても否応なしに同じになってしまう素材や事実自体に関するものではないかどうか、次にこの点が問われることになります。
二、一審判決の作品分析のやり方の特徴
まず、一審判決の作品分析のやり方がどのような特徴を持つか、これを検討します。 全体として、一審判決の作品分析には次のような特徴が見られます。
@.本件で最も肝心な点である筋・構成の内容を把握するやり方が、前述したように(七頁以下)正しく筋・構成の要素である五つのWを取り出したものになっておらず、ただ単に「基本的な骨子となる部分」を取り出しただけのものになっていること(二〇五頁二行目〜二〇七頁六行目)。
A.さらに、もともと映像作品の一部である本件ナレーションの表現を評価するにあたっては、前述の通り(二二頁)、本件ナレーションに対応する映像部分の表現を踏まえて、それとの関係の中で本件ナレーションの表現の意味するところを汲み出すのが必要であるのに、こうした観点から本件ナレーションの表現を評価しておらず、そのため、本質的な点で本件ナレーションの表現の意味を取り違えてしまったこと(二〇六頁七行目)。
B.表現の創作性を判断するやり方が、作者自身の内面の認識の特有さや情熱の特別さに着目して、そこから創作性を導いてしまっていること(二一〇頁末行目〜二一一頁五行目)。
C.同一性を判断する対象について、これをどのように表現されているかという表現形式のレベル(それは、これまで検討してきましたように五つのWと一つのHを具体的に吟味するといったことです)ではなく、そこで何が表現されているのかという表現内容のレベルに求めてしまっていること(二一一頁三〜九行目)。
D.事実の選択と「かつて鰊で栄えたが、その後、鰊が去って現在はさびれてしまった。しかし、追分全国大会という行事でかつての栄華が甦る」という記述の順序=因果関係のつけ方が文芸の世界において通常どの程度の創作性があるものと評価されるか、ということに対して余りにも無理解であること(二一二頁一行目〜二一三頁二行目)。
E.描写という概念がどのようなもので、それが両作品においてどのようにあらわれているかについて、余りにも文芸一般の理解とかけ離れていること(二一二頁四行目〜二一三頁二行目)。
F.作品を語句の単位にまで分解して、そのレベルで類似性を検討し、誰が表現しても否応なしに似てこざるを得ない部分で類似性のケースを寄せ集めて、その結果両作品全体の類似性を基礎づけようとしていること(二一三頁三行目〜二一五頁五行目)。
では、これらの特徴が両作品同士の同一性を正しく判断する上でいかなる意味を持つかについて、次に検討します。
三、筋・構成の内容を把握するやり方について
先ほども言いましたが、文学研究などで明らかにされた作品分析の基本的な方法を踏まえれば、本件の最も重要な課題である筋・構成の内容を正しく把握するためには、前述したとおり、筋・構成の要素である五つのWを取り出すことになる筈です。
しかし、一審判決は、この最も基本的な分析作業を一切やっておらず、単に、
@《「北の波涛に唄う」の本件プロローグにおいては、》これこれしかじかのことが記述されている(二〇五頁二行目〜二〇六頁六行目)、
A《これに対し、本件ナレーションは、》これこれのことが述べられている(二〇六頁七行目〜二〇七頁一行目)、
Bよって、《両者は、》これこれの点で《共通しているということができる》(二〇七頁二〜六行目)
と判断しているだけなのです。そうして、最後のところで、
《以上によれば、本件ナレーションは、本件プロローグの基本的な骨子となる部分のみを同じ順序で表現しているものであり、‥‥、本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるものであって、本件プロローグを翻案したものであると認めるのが相当である》(二一五頁六〜末行目)。
という結論を導いているのです
これは、本来であれば五つのWという要素にそってきちんと筋・構成の内容を把握した上で、その共通性を検討する筈のものを、こうしたことを一切やらずに、ただ漫然と「基本的な骨子となる部分」なるもの(いったいこれが正確には何を意味するものなのか、判決からはついに明らかになりません)が両者共通しているから翻案権侵害を肯定できるとするわけで、これは本件において最も重要な論点である「作品から筋・構成を取り出してその共通性を分析・対比するやり方」としては、ちょっと例を見ないくらい乱暴なやり方ではないかと思いました。
四、部分表現の評価の仕方について
先ほども言いましたが、もともとドキュメンタリー番組というのは映像を中心とする表現であり、ナレーションはその映像表現を補足する説明のようなものですから、ナレーション部分の表現を評価するにあたっては、ナレーションに対応した本体の映像表現がいわんとするところを踏まえて、それとの関係でナレーションの表現の意味を明らかにしていく必要があるわけです。
たとえば、これも既に言いましたが、本件ナレーションは、その発端の冒頭部分は、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」で始まります。そして、これに対応する本体の映像部分は、現在の江差の漁港の光景です(上告理由書の別紙四参照)。この映像表現とナレーション表現とを考え合わせると、本件ナレーションの冒頭で焦点を当てているのは、あくまでも《小さな港町である現在の江差町》であることが分かるわけです。
ところが、一審判決は、こうした観点から本件ナレーションの表現を評価しておらず、単に本件ナレーションの文字表現だけを読んでいったために、正しくナレーションの表現が意味するところを把握できず、たとえば本件ナレーションの冒頭のことを《「江差町が古くは鰊漁で栄え、》(二〇六頁七行目)と間違って評価してしまい、そこからさらに間違って、本件プロローグとの共通性を導き出してしまっているのです。これは映像作品に対する読みが全然できていないことを如実に示すものといえましょう。
その意味で、一審判決は、本件ナレーション部分の表現を正しく評価するために、もう一度、これに対応する本体である映像表現に立ち返って、その映像表現がいわんとするところを踏まえて、それとの関係でナレーションの表現の意味を明らかにしていく作業を行なう必要があると思います。
五、創作性の評価のやり方について――表現されたものと作者自身の内心の思想・感情との峻別の必要性――
1、一審判決は、本件プロローグの表現において最も創作性が認められる部分として、「結末」部分の記述のことを取り上げていますが、問題は、その際、判決が創作性を認めるに至った判断プロセスです。この点について、判決は次のように言っています。
《江差町が江差追分全国大会のときに『幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎え……町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく』との認識は、一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり、本件プロローグにおける文学的独創の部分であり》(二一〇頁末行目〜二一一頁五行目)
これによると、「結末」部分の表現に独創性が認められる理由は、それが《江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であ》るからだ、ということになります。つまり、原告の内心の認識が一般とは異なる特有な認識であることが、表現の創作性をもたらしたのだという考え方です。しかし、ここで問題にしているのは表現の創作性、独創性のことであって、それはあくまでも現実にテキストに表現としてあらわされたものから読み取るしかないものなのです。したがって、もし現実のテキストには表現としてあらわれていない場合には、たとえテキストの背後に、その表現にはあらわれていないところで、いくら作者自身の内心の認識が特有なものであったとしても、その認識が言葉として特有な表現として語られていない以上、テキストからそうした認識なり情熱なりを読み込むことは不可能なことであり、そのような場合、著作権の問題を争う余地は全くないと思います。
その意味で、一審判決の創作性を評価するやり方というのは、誤っていると言わざるを得ません。
2、では、正しい意味での創作性を評価するやり方に従って、本件プロローグの結末部分の創作性を評価しようとした場合、それはどのようになるでしょうか。
それは、たとえ本件の木内氏が自身の内面で江差追分に対してどのような特有な情熱なり特有な認識なりを抱いておられようが、とりあえずそれを脇に置いて、まずは現実に表現されたテキストから出発することです。すると、この結末部分には次のような記述がなされています。
「その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。日本じゅうの追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるのだ。町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」
ここで、この部分の記述の独創性を考えるうえで重要なポイントになるのが、この記述のなかに現れてくる出来事と出来事の間にどのような因果関係が伏されているのか、ということです。つまり、ある出来事と出来事の間には、その著者独自の因果関係のつけ方によって出来事の意味が変わってくるものです。それゆえ、筋・構成について表現の独創性を問題にするときには、まずそのことを問題にしなければならないのです。そこで、この結末部分の表現が、発端との関係で、どういう因果関係を持っているかを議論する必要があります。
まず、「場所」に関しては同じ江差です。そして、その江差という言葉が指示するのは、発端部分の昔ニシン漁で栄えたところの江差と、ニシンの去った江差をここでつないでいるわけです。さらに、「九月の二日間だけ」という期間の限定は、発端部分における、かつて栄えていたころの「四月から五月にかけて」のニシン漁の期間と、江差追分全国大会が開かれる期間とが明確に対比されていることになります。
そして、次の「とつぜん幻のようにはなやかな」という記述は、発端部分において、むかしニシン漁で栄えていたころは、出稼ぎのヤン衆たちが江差を訪れ、そして彼らを迎える遊廓の女たちとの間で宴の席で江差追分が歌われていたことが描かれ、そのことがさきほども説明したように「すいた同士の泣き別れ」という追分の前歌の引用により強調されていました。つまり、発端部分においては、かつてはニシン漁に外からやって来るヤン衆たちと彼らを迎える江差の遊廓の女たちがいて、その彼らの間で歌われていた江差追分があったことが記述されている。これに対し、結末部分では、現在ではそのニシンもなく、またニシンをとりに来るヤン衆たちもなく、そして、女たちもいない。つまり、かつてのニシン漁との関係で、江差追分を江差町で口ずさんだ人たちは誰もいないところで、現在の九月の二日間だけ、江差追分だけが歌われているという、それが「とつぜん幻のようにはなやかな」という比喩的な表現として強調され、非常に鮮烈な対比が施された形で因果関係が創り出されているわけです。
したがって、本件プロローグにおける「発端」部分と「結末」部分が因果関係でつながれる最大の要は、江差追分の歌そのものが、前述したごとく、極めて象徴的に取り出される形で記述されていることにあるといえましょう。
そしてまた、そうであるがゆえに、わずか「九月の二日間だけ」、ニシンもヤン衆も女たちもいないところで江差追分の歌だけが歌われる。そして、その江差追分の歌が歌われる江差追分全国大会の会場が、本件プロローグに続く「九月の熱風」の本文に記述されているように、かつてのニシン漁のときのヤン衆や女たちのにぎわいを彷彿とさせるような、そういう雰囲気に包まれる。そのことを表わす描写の言葉として、「かつての栄華が甦ったような」という直喩が強調され、しかもそれが極めて一瞬であることを強調するために「一陣の熱風が吹き抜けていく」という形で、このにぎわいが「一陣の熱風」に喩えられているわけです。
このように、江差追分という歌によって、或いはもっと正確に言えば《外から江差町にやって来る人々》によって歌われた江差追分という歌によって、江差の過去と現在とが非常に鮮烈な形で対比され、つながれるところに、木内氏の本件プロローグの文学的な表現上の特徴があるということができると思います。
3、本件ナレーションの結末部分の創作性について
では、これに対し、NHKの本件ナレーションの結末部分というのは、どういう表現上の特徴を持っているでしょうか。
本件ナレーションは、「発端」のところで、この江差追分の歌については一切触れられていません。そして、「結末」部分で、ただ、九月に江差が「年に一度、かつての賑わいを取り戻し」、そのことの現れとして江差追分の全国大会が開かれるという事実が述べられているだけです。そして、前述した通り、本件ナレーションでは、江差という町が主体とされて、その町の賑わいについて語られているのです。
従って、本件ナレーションにおいては、本件プロローグのように江差追分という歌によって、江差の過去と現在が対比され、つながれているのではなく、単に、町自体が賑わっているかどうかという点において、江差の過去と現在が対比され、つながれるという構造になっていることが分かります。その意味で、「結末」部分の表現上の特徴についても、両作品はかなり異質であると判断せざるを得ないと思います。
六、同一性を判断する対象について――表現形式と表現内容との峻別の必要性――
1、次に、一審判決は、同一性の判断の対象を、「どのように」表現されているかという表現形式のレベルではなく、「何が」表現されているのかという表現内容のレベルに求めてしまっています。つまり、判決は次のように言っています。
《本件ナレーションも、「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」と述べ、この点を本件ナレーションの結論としている点で本件プロローグと同一である。》(二一一頁六〜九行目)
つまり、ここで判決は、両作品が「この点を結論としている点で同一である」と判断しているのです。これはまさしく、どのように表現されたかというレベルにおいて同一であると言っているのではなくて、「結論」という表現された内容について同一であると言っているのです。このことは、判決がすぐ前のところで、
《‥‥との認識は、一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり、‥‥本件プロローグの結論となっている部分である》(右同頁三〜六行目)
と、原告の認識(これは取りも直さず、表現の中身である表現内容に属することです)のことを論じていることからも明らかです。
このような同一性の評価の仕方が、本来、表現内容ではなく、表現方法の同一性を問題にする著作権法の判断として相応しいものか、疑問に思えてなりません。
2、では、「何が」表現されているかではなく、正しく、「どのように」表現されているかという表現形式に着目して、両作品の結末部分の対比を行なってみると、それはどのようになるでしょうか。
この点については、さらに二つに分けて考えることができます。ひとつは筋・構成という表現形式のレベルにおける対比です。もうひとつは、文字づらという外面的な表現形式のレベルにおける対比です。前者については、既に、第三、二(一三頁以下)で詳しく解説した通りですし、後者については、のちほど九、2(二)(六二頁以下)で詳しく解説します。
七、創作性というものに対する評価について
ここでは二つの創作性のことについて語りたいと思います。
1、ひとつは、事実の選択に関する創作性についてです。
一審判決は、江差についての説明に対して、次のような評価を下しています。
《江差町に関し、前記の百科事典に記載されているような一般的知見に属する事柄の中から、江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらしたこと、鰊の去った江差にその面影がないことを選択して述べ、‥‥との表現形式における特徴部分で、両者符号するものである》(二一二頁一〜七行目)
ここで判決は、被告の本件ナレーションで語られた江差についての説明は、百科事典に記載されているような一般的知見に属する事柄の中から選択された結果表現されたもので、その選択には創作性があるということを暗黙の前提にしていると思われます。しかし、果してそうでしょうか。確かに、江差という町については、たとえば姥神神宮の夏祭だとかさまざまな事実や情報があるわけですが、しかし、その中でほかの町とは違う、最も江差らしい特徴的な事柄を取り上げようとすれば、誰によっても、だいたい「かって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらしたこと、鰊の去った江差にその面影がない」となるわけで(ちなみに、小学館『日本大百科全書』の「江差」の項目では「かってはニシン漁で栄え、江差の五月は江戸にもないといわれ‥‥いまはそのおもかげはなく」となっています)、これはそのような説明がなければ江差町について語ることはできないという、いわば江差町という町を認識するときの基本として常識化された情報であると言えましょう。その意味で、このくだりは、まさに江差町を語るときのキーワードみたいなもので、そこに創作性を云々する余地はありません。したがって、そのようなキーワードの表現が共通するからといってそれでもって著作権侵害の根拠にされるのはおかしいと思います。
2、次は、記述の順序に関する創作性についてです。
一審判決は、「かつて鰊で栄えたが、その後、鰊が去って現在はさびれてしまった。しかし、追分全国大会という行事でかつての栄華が甦る」という記述の順序のつけ方が、創作性という点においていかなる評価を受けるか、という問題について、これを「独特の表現形式を取っている」と判断しています。つまり、この点に関し判決は次のように言っています。
《江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、‥‥との独特の表現形式を取っているものは他に見当たらない》(二一二頁八行目〜二一三頁二行目)
しかし、判決のこのような評価の与え方は、正直言いまして、文芸の世界に一般に通用している記述の順序のつけ方に関する創作性の評価というものと余りにも隔絶したひとりよがりなものと言わざるを得ません。なぜなら、こうした《かつて栄華があり、それが去り、それとは別なもので一瞬その栄華を取り戻す》という構造で物語を構成する作り方というのは、過去には戻れないけれどそれと類似したものを、祭や祭礼や儀式として一瞬だけでも取り戻すという形で「死と再生の物語」といっていいものでして、非常に類型的なストーリーパターンに該当するものと一般に考えられているからです。実際、こうしたストーリーパターンは、基本的に、現在、地場産業や経済的な繁栄を失った地域が、年一回のイベントを観光資源として、賑わいを取り戻すために宣伝する場合には、しばしば用いられる極めてパターン化した表現といってよいでしょう。この意味で、本件プロローグにおける記述の順序のつけ方には、特段、彼の独創性や創作性というものを認めることはできないと思います。
八、描写という概念に関する誤解――描写と語りの混同――
次に、一審判決は、「描写」において、本件プロローグと本件ナレーションが同一であることを認めています。つまり、判決は次のように言っているのです。
《江差町が江差追分全国大会のときに一年に一度かつての栄華が甦る、ないし、かつての賑わいを取り戻す様子を描写しているとの表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合するものである》(二一二頁四〜七行目)
《江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、鰊漁で栄えたころの江差町の過去の栄華と鰊漁が不振になった現在の江差町の様子を描写し、‥‥との独特の表現形式を取っているものは他に見当たらない》(二一二頁八行目〜二一三頁二行目))
しかし、これは本来「語り」に属する事柄を「描写」と混同して理解しているものにほかなりません。といいますのは、現在の文学研究においては、小説や物語等の作品はまず「会話」と「地の文」に分けられ、さらに後者は、「語り」と「描写」という二つの形式に分けられています。ここで「語り」というのは、物語を進行させていく上で、いわば語る主体が物語を要約しながら言語化していくという、語る主体の側に力点が置かれた言語表現のことです。それに対して、「描写」というのは、そこで語られている対象について具体的な事例をあげ、多くの場合は、その対象をめぐる知覚感覚的な経験が読者の側で再現できるようなかたちで叙述を選択した場合、これを描写と呼ぶわけです(*注3)。
したがって、本件プロローグにもし「描写」と呼べる部分があるとすれば、それはかつてニシン漁で賑わった四月から五月にかけてどのような状況が江差に起きるのかを具体的に描いた部分、これが「描写」といえる表現ということができます。そして、また同じ五月において、現在はその栄華が跡形もないということをめぐる浜辺や江差町についての具体的な事例を通して、やはり「描写」と呼ぶことのできる表現があります。
けれども、被告の本件ナレーションにはこういった「描写」とよべる部分は一つもなく、基本的にすべてが「語り」というかたちで統一されています。しかも、それは、「語り」の英訳がナレーションであることからも明らかなように、元々ナレーションという性格から来るものなのです。そういう意味では、映像作品においては、「描写」は映像が担当するわけです。そして、被告番組の本件ナレーションに対応する部分の映像を見ても、そこで表現されている「描写」は、前述した通りもっぱら現在の江差の町の様子であって、本件プロローグで表現された「描写」と全く違うことも分かります。
こうして、正しい意味において、両作品における「描写」という観点に着目したとき、両作品の異質さがますます明らかにされたというべきでしょう。その意味で、「描写」という点で両作品に同じものがあるとした一審判決の判断は、現在の文学理論から見たら全く妥当性を欠くもので、一審判決はまさしく「描写」と「語り」を混同しているといってよいでしょう。
事実、そういう混同しているということが、判決文中で、本件プロローグの表現を引きあいに出すに際しても顕著にあらわれています。つまり、本来なら正確に本件プロローグの表現を記述すべきところ、これをするにあたって、こともあろうに相手側の本件ナレーション中の「一年に一度」という記述を付け加えて、江差町が江差追分全国大会のときに《一年に一度かっての栄華が甦る》(二一二頁五行目)と記述し、あたかもそれが本件プロローグの表現であるかのように装い、それと本件ナレーションの《かっての賑わい取り戻す》(同頁五〜六行目)様子を描写する表現と《両者符合するもの》という結論を導いてしまっているという杜撰な点にもあらわれていると思います。
*注3 参考文献として、
ジェラール・ジュネット『物語のディスクール――方法論の試み』一〇四〜一〇五頁・一一〇〜一一三頁・一八八〜一九一頁(参考文献一四)
九、語句のレベルにおける対比――表現形式と素材の峻別の必要性――
最後に、一審判決は、外面的な表現形式においても、本件プロローグと本件ナレーションが《両者の表現形式上の本質的な特徴の同一性を感得することができる》ことを認めています。つまり、判決は次のように言っているのです。
《「北の波涛に唄う」と本件ナレーションをより詳細に比較してみても、‥‥本件ナレーションの「○○」とある部分が、「北の波涛に唄う」の「××」との部分に対応し、‥‥外面的な表現形式においても、その具体的な表現は少しずつ異なるものの、基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く、しかも、右にみたようにほぼ同じ順序で記述されているものであり、この点からも両者の表現形式上の本質的な特徴の同一性を感得することができる》(二一三頁三行目〜二一五頁五行目)
1、判決の論理矛盾
しかし、まずここには大きな矛盾があります。それは、一審判決は、両作品の詳細な対比を行なうにあたって、その冒頭部分について、本件ナレーションの「日本海に面した北海道の小さな港町」という表現が、これを《江差町を知る者にとってごく当たり前のことである》と言って、結局のところ、この表現の創作性というものを認めなかったのです。これは極めて重要なことです。それが重要である理由は次の二点にあります。
ひとつは、判決は創作性の検討を行ない、創作的でない表現については、これを対比する意味がないことを示したことです。
ふたつめは、そうであれば、この立場をそれ以降の詳細な対比においても首尾一貫して貫くべきであったにもかかわらず、判決は自らこれと相反する態度を取っていることです。つまり、それ以降の本件ナレーションについても冒頭部分と同様に、「古くはニシン漁で栄え」といったこれらの表現が果して創作的な表現に該当するのかどうかを検討した上で、創作性が認められたものに限って、本件プロローグと対比する作業を行なうべきだったのです。しかし、判決はそれをしなかった。この点において、判決は完全な論理矛盾に陥っていると思います。
2、表現形式と素材との混同
次に、判決は、こうした対比において、ノンフィクションやドキュメンタリーにおいて最も大切な論点である「表現形式と素材との違い」というものを見失っています。
(一)、「素材と表現形式の峻別」について
ここで「素材と表現形式の峻別」ということについて若干の解説をしますと、作品を考える場合には、その作品を成立させているいくつかの要素を、きちんと理論的に分類し区別しておく必要があります。それが
@.まずその作品を成立させるもとになった素材の問題と、
A.その素材が言語化され、作品の構成の中にどのように組み込まれているのかと いう言語表現の問題であり、これらをきちんと区別する必要があります
とりわけ本件の二つの作品では、いずれも江差町や江差追分大会といった実在の町や催しを素材にして、事実として実際に起こった様々な出来事を素材にしているため、@の素材は共通にならざるを得ません。従って、本件のような作品において表現の独自性が発揮されるところというのは、専らAの局面、つまり、共通する素材をどのように異なった形で言語化し、どのような構成方法のもとに配置して、どのように全体の物語を形成するかという言語表現のところになります。それゆえ、作品の同一性を検討するときもこの@の素材の問題とAの言語表現の問題とを混同してはならないわけです(もちろん対比する以上、Aの言語表現のレベルで検討しなければならないということです)。
(二)、一審判決の対比の仕方
ところが、一審判決はこの@の素材の問題とAの言語表現の問題とを完全に混同しているように見受けられます。なぜなら、一審判決がここで対比をしようとしているのは、《古くはニシン漁で栄え》《「江戸にもない」という賑わいをみせた》《豊かな海の町でした》《ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません》《九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します》《民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです》《大会の三日間、町は一気に活気づきます》といった、いずれも歴史的な事実として過去に起こった或いは現実に起きている出来事についての記述、すなわち@の素材のレベルのことが殆どだからです。
具体的に見てみますと、
a《古くはニシン漁で栄え》というのは、これだけ短い語句について創作性を云々することは本来無理なことです。しかも、これは歴史的な事実を簡潔に表現したものであって、まさにこれ以上言い換えようがないくらいの辞書的な表現です。こういう事実を表現しようと思ったら、誰でも似てこざるをえません。もしこれと似た表現を使うなというのであれば、江差についての説明はできないことになります。
b《「江戸にもない」という賑わいをみせた》という表現も基本的には同じです。しかも、ここで両作品に共通しているのは、「江戸にもない」だけです。ところが、この部分は、本件プロローグ自体に《「‥‥江戸にもない」の有名な言葉が今に残っている》と木内氏が記述しているように、この部分というのは既に多くの人々に知られた常識的な言葉なわけです。従って、このような部分において、創作性云々をいうことはできない筈です。
cそして、《豊かな海の町でした》については、これに対応するとされる本件プロローグの《鰊がこの町にもたらした莫大な富》というのは、北前船の交易により得たお金や、前述したように、外から来たヤン衆とそれを迎え入れる廓の女たちがいて、そこでニシン漁で稼いだヤン衆たちのお金が落ちていくことを指しています。そして、本件プロローグは、そのお金のことを具体的な事例をあげて描写しています。これに対し、NHKの本件ナレーションの《豊かな海の町でした》というのは、「豊かな」は二つのかかり方をして、「ニシンが来る豊かな海」と「ニシンがもたらした豊かな町」にかかっています。そういう二重のかかり方をしていて、その意味でもこの部分の両作品の表現の構造は違っているといえます。
dさらに、《ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません》にしても、これもまた普通、辞書・辞典などに書かれているような辞書的な記述でして、いわば江差町の定義にかかる基本的な常識的な知見の範囲のことです。こうした表現が似ていて使っていけないというのでは、江差についての説明は不可能になります。
e《九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します》にしても、前述しました通り、これは、地場産業や経済的な繁栄を失った地域が、年一回のイベントを観光資源として賑わいを取り戻すために宣伝する場合にしばしば用いられる極めてパターン化した表現といってよく、こうした極めて常識的な言い方に創作性を云々することは考えられません。
もっとも、これに対応するとされる本件プロローグの記述「その江差が九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。」には、共通する素材を作者固有の工夫で言語化したと思われる箇所があります。それが、第三、二6(二)(三七頁以下)や第四、五2(四七頁以下)で前述しましたように、発端部分との対応関係を意識し工夫して表現された「一年の絶頂を迎える」という行為(What)についての表現の仕方と「とつぜん幻のようにはなやかな」といういかにして(How)についての表現の仕方のところです。
しかるに、この二つの表現に類似した言い回しは、NHKの本件ナレーションには全く登場しません。なぜなら、本件ナレーションにおける行為(What)の表現は「かつての賑わいを取り戻します」であり、いかに(How)の表現は「年に一度」だからです。その意味で、本件プロローグの記述中に見られる木内氏の創作的な表現は、他方の本件ナレーションの中に見出すことはできず、したがって、両作品の表現方法は非常に異質であると言わざるを得ません。
f《民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです》も同様です。このような表現を使っていけないなどとは誰ひとり思わないでしょう。
もっとも、ここでも、これに対応するとされる本件プロローグの記述「日本中の追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるのだ。」に、やはり素材を作者固有の工夫で言語化したと思われる箇所があります。それが「日本中の追分自慢を一堂に集めて」というくだりです。ここで、単に「江差追分全国大会が開かれるのだ。」としないで、わざわざ「日本中の追分自慢を一堂に集めて」と言い足したところに、第三、二2(一)(4)(二一頁)で前述しましたように、発端部分との対応関係を意識し、《外部から江差町にやって来る人々》のことを強調するために作者がわざわざこういう言い方を工夫したのだといえるでしょう。
しかし、このような言い方は、NHKの本件ナレーションには全くありません。その意味で、両作品の表現方法は非常に異質であるといえましょう。
g最後の《大会の三日間、町は一気に活気づきます》にしても同様です。年一回のイベントを観光資源として賑わいを取り戻すために宣伝するような場合に、よくこういう言い方をするものです。
しかし、ここではそういった表現の創作性のことを云々するまでもなく、端的に、これに対応するとされる本件プロローグの記述「町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」と比べてみただけでも、その表現方法が大変異なっていることが単純明快に分かります。といいますのは、まず本件ナレーションが単なる一文であるのに対し、本件プロローグは二文からできていますし、従って、その主語が本件ナレーションは「町」なのに対し、本件プロローグは「町」、それと町とは異質な「一陣の熱風」です。また、その行為も本件ナレーションは「活気づきます」なのに対し、本件プロローグは「生気を取り戻し」、それと活気づくとは異質な「吹き抜けていく」ですし、いかに(How)も本件ナレーションは「一気に」なのに対し、本件プロローグは「かつての栄華が甦ったような」というように、文章の個々の要素の言い回しが両者はこれだけ異なるからです。その意味で、ここでは、表現の創作性を云々するまでもなく、両作品の表現方法自体が端的に非常に異質であるといえます。
第五、検討の結論
以上、前半にやりました@Who(誰が)―主体についての検討、AWhat(何を)―行為についての検討、BWhen(いつ)―時間についての検討、およびC「発端」と「結末」の対比の検討を総合すれば、本件プロローグの筋・構成が本件ナレーションのそれと類似していないこと、より厳密に言えば、共に江差町や江差追分全国大会といった同じ素材を扱いながら、ちがった筋・構成にまとめ上げたものであることが明らかになったと思います。
また、これに対し、本件プロローグの筋・構成が本件ナレーションのそれと共通している旨判断し、さらに、両作品の《外面的な表現形式においても、基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く》と判断した一審判決の作品分析のやり方というものが、@本件で最も重要な筋・構成の捉え方の点において、さらにA創作性の評価のやり方(表現されたものと作者自身の内心の思想・感情とを混同する)の点においても、B同一性を判断する対象の捉え方(表現形式を表現内容と取り違える)の点においても、C記述の順序に関する創作性の評価の仕方という点においても、D描写という概念に関する理解の仕方(描写と語りを混同している)の点においても、E外面的な表現形式の創作性の評価の仕方(表現形式と素材を混同している)の点においても、文学研究の一般的常識的な理解に照らし、いずれも極めて問題点の多いものであることが後半の検討から明らかになったと思います。
以 上
平成十一年六月十六日
( 小 森 陽 一 ←自署)