1999.06.25
本件事件は、法律問題としては単純明快であるが、紛争としては錯綜を極める(当然のことながら、このことが判決に微妙な影を落とした)。
原告は、江差追分に関するノンフィクション「北の波涛に唄う」、江差追分のルーツをテーマの一つにした小説「ブタペスト悲歌」の作者。
被告NHKは、江差追分のルーツを探求したドキュメンタリー「遥かなるユーラシアの歌声−−江差追分のルーツを求めて−−」(ドキュメンタリー「江差追分」と略称)の制作者。
原告は、被告NHKらに対し、1991年、以下の理由で提訴した。
1、ドキュメンタリー「江差追分」は、原告の小説「ブタペスト悲歌」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、
2、ドキュメンタリー「江差追分」の放映、それに関連した番組責任者の行為は、小説「ブタペスト悲歌」に関連して、原告の名誉を毀損したもの
3、ドキュメンタリー「江差追分」のナレーションの一部は、原告のノンフィクション「北の波涛に唄う」を無断で翻案したもので、翻案権侵害に該当する、
一連の裁判の結果を一覧表にすると、次の通りである(原告からみて勝ったケースが○、負けたケースが×)。
一審(96.9.30東京地裁) | 二審(99.3.30東京高裁) | 最高裁(01.6.28) | |
第1の請求 |
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第2の請求 | ○ | × | × |
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実は、この裁判は、被告側による、2回にわたる小森意見書の提出が殆ど勝敗を決めたといってよい。
1回目は、高裁段階で、第2の請求である名誉毀損に関して。→その結果、高裁で、一審の判断が覆った。
2回目は、最高裁の段階で、第3の請求である翻案権の部分侵害に関して。→その結果、最高裁で、一審・二審の判断が覆った。
よって、最高裁では、唯一、第3の請求(ドキュメンタリー「江差追分」のナレーションの一部は、原告のノンフィクション「北の波涛に唄う」を無断で翻案したものかどうか)が争われた。
そこでまずは、翻案権が争いとなった両作品の該当部分を、この目で確かめて欲しい→ここをクリック
そして、高裁の事件にせよ、最高裁の事件にせよ、そこで、控訴した者(上告した者)にとっての闘いとは、それまでに出された一審、二審判決に対する批判にほかならない、つまり「判決批判」ということに尽きる。その意味で、ここでの判決批判の対象となった一審判決(なぜなら、二審判決は、一審判決をそのまま是認したものだったから)を是非一読して欲しい→ここをクリック(272KB)
このような翻案権侵害においては、著作物の正確な構造分析が決定的に重要である。もちろん、著作物の正確な構造分析の認識から直ちに法的判断が導かれるわけではない。しかし、可能な限り正確な作品分析の成果を踏まえてこそ、適正な法的判断が初めて可能となる。
ここに紹介する書面(上告受理申立理由書)は、そのような貴重な小森意見書の成果を踏まえ、最も適切と信ずる価値基準にのっとって法的な評価を加え、最高裁に二審判決の破棄を迫ったものである。
事件番号 東京高等裁判所 平成11年(ネ受)第182号 損害賠償等請求事件
当事者 原告(被控訴人・被上告人) 木内 宏
被告(控訴人・上告人) NHKほか3名
右当事者間の損害賠償等上告受理申立て事件につき、申立人は左記の通り理由を提出する。
第一、事実関係と原判決の概要
第二、上告受理申立ての理由の要旨
第三、はじめに――なぜ本件が上告審に係属することになったのか――
第四、翻案権侵害というアポリア(=難問)について――本件において問われている根本問題について――
一、翻案権侵害が意味するもの
1、表現の自由との衝突・対立という緊張関係
2、従来、このことが自覚されなかった訳
3、結論
二、実際の翻案権侵害の判断にとっての躓きの石1
1、内面的表現形式の抽出をめぐって
2、内面的表現形式の抽出を間違えた場合が意味すること
3、内面的表現形式の抽出を的確に行うための工夫
三、実際の翻案権侵害の判断にとっての躓きの石2
1、表現形式上の創作性をめぐって
2、表現形式上の創作性の評価を間違えた場合が意味すること
3、表現形式上の創作性の評価を的確に行うための工夫
第五、翻案権侵害の判断基準について
一、一般論
1、「内面的表現形式」の同一性
2、「本質的な特徴の感得」論の誤り
(1)、理論上の位置づけ
(2)、両事件の文脈の違い
(3)、実際上の破綻或いは不合理な帰結
二、内面的表現形式の類型化
1、著作物の筋・ストーリー・構成
2、「筋・ストーリー・構成」が備えていなければならない要件(=「筋・構成等」の具体的内容)
第六、本件における翻案権侵害の判断
一、内面的表現形式の抽出に関する本件の特殊性
二、本件著作物における内面的表現形式の具体的内容
1、発端・展開・結末の三つに区分
2、Who(誰が)――主体という問題
(1)、本件プロローグ
(2)、本件ナレーション
(3)、両作品における主体の対比
3、What(何を)――行為という問題
(1)、本件プロローグ
(2)、本件ナレーション
(3)、両作品における行為の対比
4、When(いつ)――時間という問題
(1)、本件プロローグ
(2)、本件ナレーション
(3)、両作品における時間の対比
三、結論――両作品における内面的表現形式の同一性について――
第七、原判決の著作権法二六条の解釈の誤り
一、「本質的な特徴の感得」論の誤り
二、「筋・構成」の具体的内容を「基本的な骨子」とする誤り
三、外面的表現形式の同一性の判断を持ち込む誤り
第八、原判決の著作権法二六条の適用にあたっての著しい経験則違背
一、ドキュメンタリー制作者一般・文学研究一般の評価と相容れない創作性の評価の誤り
1、本件の両作品の表現形式の「創作性」に対する専門家の評価
(1)、映画監督今村昌平
(2)、TVプロデューサー木村栄文
(3)、ドキュメンタリー作家萩元晴彦
(4)、TVプロデューサー橋本佳子
(5)、ドキュメンタリー映画監督原一男
(6)、TVプロデューサー吉永春子
(7)、東大教授小森陽一(日本近代文学専攻)
2、原判決が行った、「創作性」を肯定する評価のやり方
二、作者の内面から出発して創作性を評価するやり方の誤り―「文学的独創」という創作性の評価の誤り――
1、表現形式の「創作性」を評価するやり方について
2、原判決が行った、「文学的独創」という評価を導くやり方
3、原判決の右経験則違反が判決にもたらす影響
三、著作物の「同一性」の評価に関する誤り――表現形式の同一性と表現内容の同一性を混同する誤り――
四、本件番組の部分である本件ナレーションの評価の仕方の誤り
1、「創作性」の正しい評価にとって必要な本件ナレーションの評価の仕方について
2、原判決の行った本件ナレーションの評価の仕方
五、外面的な表現形式の対比の仕方の誤り
第九、結論
以 上
第一、事実関係と原判決の概要
本件は、申立人日本放送協会の函館局は平成二年に「ほっかいどうスペシャル・遥かなるユーラシアの歌声――江差追分のルーツを求めて――」(以下本件番組という)を制作し、北海道で放送したが、本件番組のうち一審判決別紙目録四下段記載のナレーション部分(以下本件ナレーションという)の制作、放送が、相手方木内宏が著作したノンフィクション「北の波涛に唄う」のうち一審判決別紙目録四上段記載のプロローグ部分(以下本件プロローグという)の翻案権、放送権及び氏名表示権を侵害したことになるかどうかが争われた事案であり、これに対し、一審判決は、本件ナレーションは本件プロローグを翻案したものであるとして翻案権、放送権及び氏名表示権の侵害を認め、原判決もこれを全面的に支持したものである。
第二、上告受理申立ての理由の要旨
本件の争点は至って単純であって、本件ナレーションが本件プロローグを著作権法二六条にいう翻案したものと認めることができるかどうかにある。それゆえ、申立人の上告受理申立ての理由もまた単純明快であり、その要旨は、
原判決が、本件ナレーションは本件プロローグを翻案したものであると判断したことは、著作権法二六条の解釈を誤り、かつ作品分析について経験則に著しく違背し、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背がある
ということに尽きる。
以下、これを具体的に明らかにしたい。
第三、はじめに――なぜ本件が上告審に係属することになったのか――
どうして本件の如き高々十行足らずの文章をめぐる著作権侵害の案件が上告審まで行くことになったのか? 理由は簡単である。申立人はよもや本件の翻案権侵害が認められようなどとはつゆ思わなかったからである。それくらいドキュメンタリーの制作現場の感覚、のみならず一般人としての感覚からしても、相手方の請求棄却は疑いようもなかったのである(現に、著作権法学者の田村善之「著作権法概説」(参考文献一)なり大家重夫「要約文と翻案権侵害」(参考文献二)において、そうした一般人の感覚が表明されている)。
しかし、現実に一審判決において、請求認容という思いもよらない判断が下され、原判決もこれを維持したとき、申立人は、これをただ晴天の霹靂といって驚くばかりでは済まなくなった。ここで表明された判断基準がひとり申立人のみならず今後の我が国におけるドキュメンタリー制作全般の表現活動にとって計り知れない多大な影響を及ぼすことが明らかだったからである(このことは、後に詳述する通り、我が国のドキュメンタリー制作の第一線の制作者がこぞって憂慮していることからしても明らかである(別紙二及び三参照)。
そのため、本件の紛争自体は、本件番組全体をめぐって翻案権侵害及び名誉毀損という主要な争点が原判決において申立人の主張通り認められた段階で、ほぼケリがついたと言ってよかったのであるが、しかし、本件の紛争全体にとっては殆ど付録みたいな本件翻案権侵害事件で示された原判決の判断基準が判決としてこのまま残ることは、我が国における今後のドキュメンタリー制作全体にとって極めて憂慮すべきことであったので、敢えて申立人は、上告受理申立てをした次第である。
申立人は、一審からこれまでの審理を通じて、裁判所にとって、本件のような専門的な事案について、著作物について的確な作品分析を実行し、その上で、著作者の制作現場の良識・常識に適った翻案権侵害の判断を下すことがいかに困難なことであるか、を改めて痛感している。そこで、申立人は、これまで、著作物の制作現場の者たちにとってはとうに常識といえるような事柄について、或いは作品分析の専門家にとって常識といえるような事柄について敢えてこれを裁判所に持ち出さなかったのであるが、この間、裁判所の判断がこうした常識(=経験則)と余りにもかけ離れているのを目の当たりにしたので、最高裁において、申立人は、こうした制作現場の著作者や作品分析の専門家にとっての暗黙の常識といったものについてこれを積極的に主張することにした。
従って、こうした専門的な知見・経験則を踏まえて、改めて本件の両作品を厳密かつ的確に分析・対比してみれば、本件において、翻案権侵害が認められるような事情は全くないことが明らかとなる筈である。
その上、残念ながら、我が国の裁判例では、翻案権侵害訴訟を判断するための方法が未だ確立するに至っていない。そこで、申立人としては、著作権法に関する判例・学説の成果を踏まえて、適正なる翻案権侵害の判断を下す上で是非とも吟味しておかなければならないと思われる次の各項目について、申立人なりに可能な限り問題点を解明しようと心がけ、こうした原理的な考察に基づいて、本件の適正な判断を導こうとしたものである。
@翻案権侵害の問題とはいったい何のことか
A翻案権侵害の判断基準を探求する上での困難とは何か
B著作物の作品構造の分析はいかにおこなうべきか
以上、申立人としては、裁判所が、こうした申立人の問題提起の重要性を受けとめて、著作権の適正なる保護と同時にドキュメンタリー制作の表現活動にとっても納得が行くような適切な判断基準を採用され、今後の拠り所となるような判断を下されることを強く望むものである。
第四、翻案権侵害というアポリア(=難問)について――本件において問われている根本問題について――
果していかなる場合に翻案権侵害が認められるか――この問題は著作権法に携わる法律家全てにとって鬼門である。なぜなら、著作権法の柱である複製権侵害の場合であれば、原則として同一ジャンル同士の著作物の字づら絵づらといったいわゆる外面的表現形式の同一性が問われているだけのことだから、単純に言えば、同一ジャンル同士の著作物同士を重ねあわせてみて、その共通性を判断すれば足りるのに対し、翻案権侵害が問題となるのは、主に、片や言語著作物、片や映画著作物という本件のように異なるジャンル同士の間で、その「著作物のエッセンス」(加戸守行「著作権法逐条講義」改訂新版一三八頁。参考文献三)なり骨格の同一性が問われるケースであるために、複製権の場合のように単純に両作品を重ねあわせてみる訳にはいかず、しかも、ここで対比すべき著作物のエッセンスなり骨格というのは、我々が直接目で見て確かめたり耳で聞いて確認するわけにはいかない、著作物の外面的表現形式から抽出して初めて得られるような抽象的な性格を有しているためである。
そこで、もともとかような困難な課題を背負っている翻案権侵害の判断において、我々法律家は、その適正な判断を目指す上で、どのような点に留意しなければならないか。
一、翻案権侵害が意味するもの
1、表現の自由との衝突・対立という緊張関係
その第一が、翻案権侵害の事例が複製権侵害などとは異なり、単なる著作権保護の問題にとどまらないことである。つまり、もし裁判所が翻案権侵害の判断を誤り、原告作品の著作権の保護範囲を不当に拡大した暁には、それが直ちに、相手方の被告作品(本件ならばドキュメンタリー作品)の制作活動に対する不当な制約となってはね返り、表現活動の自由に対する深刻重大な影響をもたらすという関係にあることである。のみならず、その影響はひとり被告の表現活動のみならず、被告作品と同種の作品一般(本件であればドキュメンタリー作品一般)にも広く同様な影響を及ぼし、本件であれば、判決が示した基準がドキュメンタリー作品一般における表現の自由に対する不当な制約として機能するおそれがある。つまり、翻案権侵害事件というのは、本質的に、「原告作品(本件ではノンフィクション)の著作権の十分なる保護と被告作品(本件ではドキュメンタリー)の表現活動の自由との衝突・対立をどう調整するか」という表現の自由の限界に関する問題を内包している。その意味で、本件の著作権問題に横たわる本質的な課題は、かつて、性秩序の保護やプライバシーと表現の自由との対立・衝突をどう調整したらよいかが争点として論議された「チャタレー」事件、「悪徳の栄え」事件や、「宴のあと」事件、「エロス+虐殺」事件の場合或いは先頃判決のあった柳美里作品の出版差止事件とまったく変わらない。
2、従来、このことが自覚されなかった訳
もっとも、このことは、従来、必ずしもきちんと自覚されていた訳ではない。その最も主要な原因は恐らく著作権法が長らく複製権中心の体系を取っていたためである。つまり、複製権侵害の場合であれば(その典型がいわゆるデッドコピーであるが)、複製された著作権者の保護のことさえ考えれば足りたのであって、それ以上、無断複製した側の自由・権利のことを考慮する必要なぞ全くなかったからである。
しかし、著作権法に翻案権が導入されたとき、その当初の目論見が複製権侵害の隠れ蓑を封じ込めるためであったとはいえ(中川善之助ほか「改訂著作権」一二八頁。参考文献六)、それは同時に、著作物の制作者同士の間で、当該先行著作物の利用が「自由利用の限界」を超えたものであるかどうかという(榛村専一著「著作権法」一一五頁以下参照、参考文献四)、先行著作物の利用のあり方をめぐる「著作権法上の最も困難な問題の一」たる紛争が翻案権侵害という名の下で争われることになったのである(最一小判平成一〇年九月一〇日判決のNHK大河ドラマ「春の波涛」事件などはその典型である)。そのため、そこでは、それまで伝統的な複製権侵害のケースでは想定されていなかったような新たな利害対立(先行著作物の著作権の保護と後行の著作物の表現活動の自由との対立・衝突)が認められ、従って、翻案権侵害においてはこの利害状況を正しく自覚しておくことが不可欠の要請なのである。
3、結論
もっとも、申立人は、本件において、表現の自由を保障した憲法二一条違反を声高に主張する積りはない。しかし、この種の翻案権侵害訴訟において、これまでもっぱら一方の著作権の保護のことのみが取り上げられ、もう一方の当事者にとっての表現の自由の保障の点が全く等閑視されてきたことをやはり問題にしないわけにはいかない。
それゆえ、本件の翻案権侵害の判断において、表現の自由をめぐる前述のもろもろの事件と同様、一方の著作権の保護の名の下に表現の自由を不当に制約することのないように十分に慎重かつ適切な判断が要請されることを是非とも強調しておきたい。
二、実際の翻案権侵害の判断にとっての躓きの石1
1、内面的表現形式の抽出をめぐって
このような翻案権侵害に特有な問題状況を十分自覚して、表現の自由に対する不当な制約にならないように翻案権侵害の判断を慎重かつ適切な判断をしようと心がけた場合、そこで最も困難を感じるのは、翻案権が保護する著作物の「内面的表現形式」(但し、この概念の採用をめぐる争いについては、のちの第五、一で詳述する)を具体的に抽出するときである。なぜなら、前述した通り、内面的表現形式は著作物の字づら絵づらといった外面的表現形式と異なり、我々が直接この目で見たり耳で聞いたりすることができないため、外面的表現形式から抽出して把握するより仕方ないものであって、問題は、その際下手をすると、内面的表現形式という名の下にアイデアを抽出してしまい、アイデアを著作権法の名の下で保護してしまうという危険があるからである(例えば、著作権法学者の田村善之が「著作権法概説」の中で、本件の一審判決を評して「今後、原告のプロローグを読んだことがきっかけで、実際に江差追分に関して同様の感想を持った人間は、いったいどのような表現でそのアイディアを書き表したらよいのか、筆者には見当がつかない」と言っているのは、一審判決がアイデアを抽出してしまいこれを保護したことを批判したものである。参考文献一)。このように、内面的表現形式はアイデアとその境界を接する点で、抽象的で厄介な性格を宿命的に持っている。
2、内面的表現形式の抽出を間違えた場合が意味すること
(1)、そのため、この「内面的表現形式」を具体的に抽出する作業を間違えた場合、それは、翻案権に関する著作権法二六条の適用を誤ったにとどまらず、さらに二六条の解釈を誤ったとも評価できる。なぜなら、翻案権の要件の中に登場する「内面的表現形式」というのは、あらゆるジャンルの著作物同士における翻案権侵害のケースに適用される極めて広範な概念であるが、ところが著作物とはもともとジャンルごとにそれぞれ固有の表現形式上の特質を備えており、それゆえ「内面的表現形式」なる概念は、実際上、「権利濫用」や「信義側」や「責めに帰すべき事由」などと同様に一般条項的な意味しか持ち得ず、従って、他の一般条項の場合と同様、おのおののジャンルの翻案権侵害のケースごとに「内面的表現形式」の類型化を行い、これを適用することが実際上の翻案権の解釈上要請されるからである。それゆえ、この「内面的表現形式」を具体的に抽出する作業を間違えた場合、それは二六条の解釈を誤ったものと評価できるのである。
(2)、その上、この「内面的表現形式」を具体的に抽出する作業を間違えた場合には、その結果、前述した通り、それは単なる著作権法二六条の適用や解釈の誤りにとどまらず、憲法が保障する表現の自由に対する不当な侵害として憲法二一条違反にもなる。
3、内面的表現形式の抽出を的確に行うための工夫
では、こうした困難な内面的表現形式の抽出という作業をできる限り的確に行うために何が必要か。
実は、既に、こうした芸術作品の構造を的確に読み解くための研究をしている文学理論や芸術理論といった学問の分野があり、我々に必要なことは、こうした学問的成果(専門的な経験則)を十分に活用することである。つまり、次の三で述べる通り、創作性の判断にあたって専門的な知見が要請されるのと同様、内面的表現形式の抽出にあたってもこうした文学研究等の世界で既に定説として流通している作品分析に関する知見が要請されるのである。こうした知見を十分に踏まえることにより、前述の内面的表現形式の抽出という困難な作業を主観的、恣意的なやり方に陥ることなく、可能な限り適正なものに仕上げることができるのである(例えば、こうした文学理論の成果をコンパクトに解説した参考書として、小森陽一ほかの「読むための理論」(参考文献一)などがある)。
三、実際の翻案権侵害の判断にとっての躓きの石2
1、表現形式上の創作性をめぐって
音楽と美術ひとつ取って比べてみても明らかな通り、著作物は、そのジャンルによって、その表現形式上の工夫のあり方は大いに異なる。従って、問題となった著作物について、そこではいかなる場合に表現形式上の創作性を発揮されたというべきかは、そのジャンルによって評価の仕方が自ずと異なる。その意味で、通常人の感覚では、そのジャンル固有の表現形式上の工夫というもの(或いはその反対に、そのジャンルにとってありきたりの表現というもの)を見誤ることがしばしばあることに注意する必要がある。例えば、ドラマやドキュメンタリーの手法の中には、通常人にとっては何か特別な創作的な表現上の工夫に見えるようなことでも、実はそのジャンルに属する人たちの目から見たらごくごくありふれた常套的な表現にすぎないことが往々にして存在するものである。従って、当該ジャンルの著作物の表現形式上の創作性を評価するにあたっては、単に通常人による評価を踏まえるのみならず、当該ジャンルに属する人たち一般の評価というものも十分踏まえておく必要がある。田倉整編集「特許・商標・著作権」が、《具体的な表現形式自体についてみた場合に、原告著作物の著作者の個性的特徴であると識別しうるものは何か、を明らかにする作業を必要とする。その著作物の属する分野の専門家の知見が有用であるのは、この作業においてである。》(四九〇頁。参考文献五)と指摘したのも、このことを指している。そして、このことを本件において実行したのが、後に第八、一1で詳述する映画監督の今村昌平氏ほかの専門家の意見にほかならない。
2、表現形式上の創作性の評価を間違えた場合が意味すること
そこで、もし裁判所が、本来なら表現形式上の創作性が認められないような部分を間違えて創作性ありと認めてしまった場合、それは何を意味するか。
言うまでもなく、それは、元来著作権侵害でないものを侵害と判断することであり、その結果、被告作品の表現の自由に対する重大な侵害に至る。なぜなら、もともと著作権法が保護する著作物の保護範囲というのは、単に表現形式一般ではなく、あくまでも「原告の創作的な表現形式」だからである(著作権法二条一項一号)。
3、表現形式上の創作性の評価を的確に行うための工夫
前述した通り、通常人(=そのジャンルの世界から見れば素人)にとっては何か特別な創作的な表現上の工夫のように見えることでも、そのジャンルに属する人たちの目から見たらごくごくありふれた常套的な表現にすぎないことが往々にして存在するものである。
そこで、では、そのような事態を避け、表現形式上の創作性の評価という作業をできる限り的確に行うために何が必要か。
それは、右1で前述した通り、当該ジャンルで一般に通用している見解・評価というものを十分に踏まえて、創作性の判断をするということである。それによって、通常人(=そのジャンルの世界にとって素人)が陥るような主観的、恣意的な評価に陥ることなく、できる限り適正な判断をすることができるのである。
そして、申立人は、第八、一1で詳述する映画監督の今村昌平氏ほかの専門家の意見(別紙一〜三参照)こそ創作性の適正な判断にとって極めて有用なものであると確信し、これを提出したものである。
以上の諸点に留意して、次に本件の翻案権侵害を判断する。
第五、翻案権侵害の判断基準について
一、一般論
では、翻案権侵害の判断基準とは何か。
1、「内面的表現形式」の同一性
一般論として、我々は、それを「内面的表現形式」に着目して、次のように考えるべきである。
@.原告作品中の創作的な内面的表現形式が被告作品中に再現されていること(同一性)
A.被告作品の制作にあたって、被告が原告作品に依拠したこと(依拠性)
ここで、表現形式上の同一性を吟味するにあたって、なぜ「内面的表現形式」に着目して考えるべきなのか、その理由は以下に述べる通りである。
そもそも翻案権がいかなる理由から著作権法に導入されるに至ったかというと、それは《他人の著作物をそのまま複製するということは、実際には犯罪になるので、正面から行われはしなかったが、これをもぐって、原著作物の全部または一部を改作して、翻案して利用されることを防がねばならないとされた》(中川善之助ほか「改訂著作権」一二八頁。参考文献六)からである。つまり、《翻案という美名のもとに他人の著作物が僭用されることが横行し、その防止》(同頁)が必要とされたから、言い換えれば、翻案権制度は複製権による保護の限界をカバーするものとして登場したのである。従って、もともと複製権が著作物の外面的表現形式が同一である場合を保護するものである以上、その限界をカバーするものとして登場した翻案権は、複製権の保護対象である外面的表現形式でカバーできない領域をフォローし、と同時にアイデアの領域はこれを除外するものとして、内面的表現形式において表現の同一なる場合を保護しようとしたものである。従って、内面的表現形式に着目して翻案権侵害の基準を考えるのが、翻案権制度の起源に照らしてみて最も適切であることが分かる。現に、主だった学説・実務は、殆どこの立場に立っている(加戸守行「著作権法逐条講義」改訂新版一六五頁、参考文献三。榛村専一著「著作権法」六四頁、参考文献四。半田正夫著改第九版「著作権法概説」八四頁、参考文献七。秋吉稔弘ほか「著作権関係事件の研究」一七六頁九行目以下・二九二頁三行目以下、参考文献八)。
2、「本質的な特徴の感得」論の誤り
以上の見解に対し、原判決のように「表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができること」をキーワードにして表現形式上の同一性を吟味しようとする立場があるが、しかし、以下に述べる通り、これは間違った見解というほかない。
(1)、理論上の位置づけ
これは原判決がみずから参照判例として指摘している通り(原判決が引用する一審判決二〇三頁末行。以下判決の頁は全て一審判決の頁のことを指す)、「パロディ」事件最高裁昭和五五年三月二八日判決の中で判示した論理を採用したものである(さしあたりこれを「本質的な特徴の感得」論という)。そこで問題は、ここで右最高裁判決が判示した「本質的な特徴の感得」論という論理が、果して翻案権侵害の判断基準のためのキーワードであったかどうかにある。
この点、右最高裁判決は、実は、翻案権侵害において著作物の同一性を具体的に判断するためのキーワードとして右の「本質的な特徴の感得」論を用いていたのではなく、翻案権とは別の同一性保持権の侵害を判断する上で、そもそもそのような改変を問題にする余地のない場合がありうることを認め、それを明らかにする基準として、《他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させないような態様においてこれを利用する場合》という「本質的な特徴の感得」論を用いたのである。
つまり、右最高裁判決が判示した「本質的な特徴の感得」論とは、いくら改変があるように見えても同一性保持権侵害が例外的に不成立になる場合があり、その場合の基準として用いているのであって、これを原判決のように翻案権侵害の請求原因事実である著作物の同一性の判断基準のためのキーワードとして用いるのは甚だしい誤用というほかない。
もっとも、この点に関する右最高裁判決の言い回しにはすこぶる分かりにくいところがあるので、その詳細は、必要に応じて補充書で追完する。
(2)、両事件の文脈の違い
さらに加えて、もともと「パロディ」事件というのは、
@原告作品を文字通り下敷きに使ったことが明白なケースで、
A同一性保持権の侵害の成否を判断する中で、
B同一性保持権侵害の請求原因事実(=改変の事実)に対する抗弁事実として、
「本質的な特徴の感得」論が用いられているのに対し、本件事件は、
@原告作品はあくまでも参考文献のひとつとして参照したにすぎず、これを下敷き に使ったことはないケースであり、
A翻案権の侵害の成否を判断する中で、
B翻案権侵害の請求原因事実の中でそのひとつとして、
「本質的な特徴の感得」論を用いようとするのは、これらの両事件の文脈の違いというものを無視するもので、この点からもまた原判決のやり方は到底是認できない。
(3)、実際上の破綻或いは不合理な帰結
a.実際上の破綻
原判決が引用する一審判決も、口では「本質的な特徴の感得」論を唱えながら、しかし、実際に、争点一の本件番組全体が相手方の「ブダペスト悲歌」の翻案権侵害であるかどうかを判断する段になると、はっきりと、《基本的な筋や構成》(一審判決一九一頁六行目)という内面的表現形式の同一性でもって判断しており、その意味で、原判決にとっても「本質的な特徴の感得」論は単なる飾りでしかない。
b.不合理な帰結
その上、この「本質的な特徴の感得」論が実際に翻案権侵害の判断基準として機能するときには、以下に述べる通り、その恣意的、情緒的、漠然とした全体的判断を通じて不合理な帰結を招来する危険がある。
例えば、或る作品全体ではなく、その部分の侵害が問題になったような場合、そこで、その外面的表現形式の共通部分が、「その部分だけでも独創性または個性的特徴を具有している」(秋吉稔弘ほか「著作権関係事件の研究」一三頁終りから六行目以下、九八頁三行目以下、参考文献八。「冷蔵倉庫設計図事件」大阪地裁昭和五四年二月二三日判決、参考文献九)までには至らない場合、またさりとて、その内面的表現形式の共通性も、その共通部分が、「その部分だけでも独創性または個性的特徴を具有している」とまでは認められない場合、それは本来であれば、複製権侵害も翻案権侵害のいずれも肯定できない。にもかかわらず、「本質的な特徴の感得」論をそこに導入した場合、外面的表現形式がそれなりに類似する点が見られ、なおかつ内面的表現形式もまたそれなりに類似する点が見られる以上、これらを総合すれば「表現形式上の本質的特徴部分が直接感得することができる」ということが可能となって翻案権侵害を導くことができるのである。
つまり、この「本質的な特徴の感得」論によって、本来であれば、複製権侵害を認めるには不十分な外面的表現形式の共通部分があり、かつ翻案権侵害を認めるには不十分な内面的表現形式の共通部分がある場合に、その両者を足して、その総合をもって漠然と「表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができる」として翻案権侵害を肯定してしまえるのである。
これは、本来の厳密な判断プロセスに照らせば到底肯定できない翻案権侵害を、こうした情緒的、全体的な判断というやり方でもって翻案権侵害を肯定してしまうものであり、@翻案権侵害の不当な拡大解釈という点において、Aまた極めて漠然とした判断基準でもって侵害の成否を決するという点において、Bさらに同一のジャンル同士の翻案権侵害のケースと異なるジャンル同士の翻案権侵害のケースとでその判断基準を不当に異ならせるもの(当然、前者の方が侵害が容易に認められてしまう)という点において、不当というほかない。
さらに、冒頭で述べた通り、本件において問われている根本問題が「著作権の保護と表現の自由との対立・衝突」にあることを思い出せば、これは、ドキュメンタリーの表現の自由がかような漠然とした基準でもって、なおかつ不当な拡大解釈の危険のある基準でもって制約されることを意味する。それは「表現の自由の制約」の基準として、不適切なること極まりない。
c.結論
そして、このようなレトリックこそ、のちに詳述する通り、まさしく本件の一審判決及びこれを全面的に引用する原判決が、争点二の本件番組のナレーション部分の翻案権侵害を肯定する際に採用したものにほかならない(二〇五頁一行目〜二一五頁末行目)。
二、内面的表現形式の類型化
第四、二2で前述した通り、内面的表現形式は全てのジャンルの著作物の翻案の場合に適用される極めて広範な概念であるから、実際の翻案権侵害事件に適用するにあたっては、これをおのおのの著作物のジャンルごとに、そのジャンルの表現形式上の特質に応じて、その概念をより具体的なものとなるように類型化する必要がある。
では、本件においては、内面的表現形式はどのように類型化できるであろうか。
1、著作物の筋・ストーリー・構成
本件の著作物は、片や言語著作物であるノンフィクション、片や映画著作物であるドキュメンタリーというジャンルに属する著作物であるが、ノンフィクションが歴史的に同じ言語著作物である小説等のフィクションから派生して発達したジャンルの著作物であること、同様に、ドキュメンタリーが同じ映画著作物である劇映画とほぼ同時に発達したジャンルの著作物であることから(以上、平凡社「世界大百科事典」の解説による)、本件の著作物の内面的表現形式は、基本的には小説等のフィクションや劇映画の場合における内面的表現形式と同様に考えてよい。従って、本件における内面的表現形式は、著作物の筋・ストーリー・構成ということができる(加戸守行「著作権法逐条講義」改訂新版一六五頁一三行目、参考文献三)。
2、「筋・ストーリー・構成」が備えていなければならない要件(=「筋・構成等」の具体的内容)
では、これら「筋・ストーリー・構成」が備えていなければならない要件とは何か。
もっとも、内面的表現形式を単に「筋・ストーリー・構成」と置き換えただけでは、少しも問題の解決にはならない。なぜなら、これだけでは内面的表現形式の具体的内容が少しも明らかになったとはいえず、翻案権侵害の判断をする上で、引き続き《内面的表現形式の同一性といっても、何をもって同一性を判断するのかわかりにくいとの批判》(判例時報一五八四号四一頁三段目一審判決の解説)を甘受せざるを得ないからであり、またこのままでは、またもや、著作権法が本来保護しないアイデアの領域の事柄を、内面的表現形式の名の下で保護してしまう危険が存在するからである。
そこで、我々は、実際の翻案権侵害の判断に十分通用するだけの具体性を持った内面的表現形式の内容を得るため、そして、アイデアの領域と誤認混同を招かない程度の具体性を持った内面的表現形式の内容を得るため、さらに「筋・ストーリー・構成」の具体的な内容を明らかにすることが必要となる。
そのためには、第四、二3で前述したように、現在の文学研究や映画理論の通説的な知見を参照するのが有用である。そこで、この点に関する通説的な見解というのは、近代日本文学専攻の東大教授小森陽一氏によれば、以下の通りである。
〈一、筋や構成の一般論について
1、筋や構成の意味について
まず、筋や仕組みや構成一般についてお話したいと思います。筋とは、一般的に「話の骨組み・しくみ」(広辞苑)などと言われていますが、現在の文学研究の世界では、通常、これを最初の「発端」、二番目の「展開」、そして最後の「結末」というふうに三つの部分に分けて、これら三つの部分を一つの流れとしてとらえたときに、そこに一つの筋が発生するというふうに考えています。
この「発端・展開・結末」という三つの部分は、古くはアリストテレスが詩学の中で、「始め・中・終わり」という三分法で示したものと共通しますし、日本で言えば能楽の「序・破・急」のようなものと共通しており、その意味で、この類型は世界の東西を問わず一般的な考え方といえましょう。
すでに世界的に流通している事典である『言語理論小事典』(ツヴェタン・トドロフ/オスワルド・デュクロ共著。朝日出版社発行)の中で、ツヴェタン・トドロフは、この「発端・展開・結末」という要素のことを、次の二つの面から捉えています。
ひとつは(1)均衡状態→(2)不均衡状態→(3)均衡状態という捉え方です。つまり、「発端」の或る均衡状態が不均衡状態に陥る、これが二番目の「展開」部分です。そして、それがもう一度、かつてとは違った均衡状態に戻る(これが三番目の「結末」です)という展開としてとらえるというものです。
もうひとつの捉え方が(1)属性付与→(2)行為の記述→(3)属性付与という捉え方です。まず、或る主人公ないしは登場人物が一つの属性を与えられて物語の中に登場する。これが「発端」です。そして、その主人公ないしは登場人物が、なんらかの行為を行う。そうすると、それは他の人に働きかけたり世界に働きかけたりすることになる。これが二番目の「展開」ということになります。そしてその結果、始まりとは別な属性が与えられる。これが三番目の「結末」に対応するわけです。
こうして、この三つの要素が時間的な順序に従って発生して、一つの物語の筋や仕組みや構成が成立するというふうに現在の文学研究では考えられています(*注1)。
なお、専門用語として、ストーリーとプロットは区別しています。ストーリーのほうは、時間的順序に従っていくつかの出来事が配列されている、つまり時間の順序に従って起こった出来事のことをストーリーと呼びます。これに対してプロットというのは、時間的順序だけではなくて、それぞれの出来事がどのような因果関係に置かれているのかということを問題にする領域のことです。したがって、プロットにおいては、筋や仕組みや構成ということを考える際、出来事と出来事の間にどのような因果関係が置かれているのかという点がポイントになります。
*注1 参考文献として、
小森陽一ほか『読むための理論』(参考文献十)
前田愛『文学テクスト入門』(参考文献十一)
ツヴェタン・トドロフ/オスワルド・デュクロ共著『言語理論小事典』(参考文献十二)
2、筋や構成の要素について
さて、そのようなものとして筋や仕組みや構成をとらえるとすると、まず、或る主人公、登場人物に或る属性が与えられることによって「発端」が始まるわけですから、その中では、必ず「誰が登場するのか」という主体(Who)が問題になります。これがまず筋や構成の要素であります。
そして次に、その主人公、登場人物が或る行為をするわけです。あらゆる行為は事件を生み出すわけですから、そこでその主人公が「何をしたのか」という行為(What)が不可欠になります。これもまた筋や構成の要素ということになります。
さらに、当然、だれかが何かをするということは、時の流れの中で行われるわけですから、ついで、「いつ」という時間(When)が問題になります。これも筋や構成の要素と言えましょう。
そして、行為は必ず或るAという空間からBという空間に人物なり事件なりを移すということをもっていますから、「どこからどこへ或いはどこでその行為が行われたのか」ということが、時間とともに空間(Where)の問題として問題になります。
そして、これらの主体(Who)、行為(What)、時間(When)、空間(Where)という四つの要素に、因果関係が付けられる場合、そこには、出来事と出来事の間、つまり行為が行われる前と行為が起こった後の間に「なぜ」(Why)という原因と結果を問うこと、その問いに対する答えが必要となるわけです。これが因果関係(Why)という要素です。
このように、だれが何をしたのか、それはいつ行われ、どこで行われたのか、そして、それがなぜ行われたのかという、五つのWがあることによって、初めて一つの出来事・事件の記述ができるのです。つまり、これらの諸要素が筋の要素になっているのです。 このことは、たんに文学の上だけではなく、新聞の記事を書く上でもあるいは映画のシナリオなどを構成していく上でも基本的な条件になっています。そしてさらに、その行為が「どのように行われたか」というHowというもう一つの項目を付け加えて、物語の単位とするという考え方は、極めて一般的に流通している考え方といえましょう。
例えば、小津安二郎の数々の名作の脚本を手がけた野田高梧氏が書いた我が国の代表的なシナリオ解説書である『シナリオ構造論』で、筋・ストーリーについて、ストーリー(筋)という章で、次のように言っています(*注2)。
《新聞の報道記事が含まなければならない条件として五つのWがあるという話を聞いたことがある。
Who (誰が)――人物
When(いつ) ――時
Where(何処で)――場所
What(何を) ――事件
Why(なぜ) ――原因
この五つの条件のうちどの一つが欠けてもいけないというのである。一つの主題を中軸としてそこに筋(ストーリー)が構成される場合にも、またこれと同じことが云われる。
大体、映画の筋のみに限らず、叙事詩、戯曲、小説などすべて物語の形を以て語られる説話形式のものは、次のような原型の上に成り立つものだと云われている。
誰が又は何が――(主体)……性格
何を、いかに――(事件)……行為
いつ、何処で――(背景)……環境
この「性格」「行為」「環境」という三つの条件が整わない限り、いかなる小さな物語も、またいかなる規模の雄大な物語も、決して成り立つものではないというのである。たとえば「昔々或るところに」というのは「環境」であり、「お爺さんとお婆さんが」というのは「性格」である。更に「洗濯に行く」とか「芝刈りに行く」という「行為」のなかには「盥を持って」とか「籠を背負って」とか或いは「歩いて」とか「走って」とかいう「いかにして」が省かれているもので、そういう些細な挿話のなかにさえ如上の三つの要素が含まれていることがわかろう。
ところで、それとは逆に、ではそういうふうに「性格」と「行為」と「環境」という三つの要素が具わればそこに必ず物語が生まれ得るものかと云えば、それは必ずしもそうとばかりは限らない。勿論、この三つの要素は物語が成立するための必須の条件ではあるものの、それが一連の纏まった筋(ストーリー)の形を備えるためには、更にもう一つの重要な条件として、そこに語られる出来事の一つ一つの間に何らかの有機的な連絡がなければならないのである。》(一一八頁八行目以下)
と言っているのは、今、私が述べた筋(ストーリー)が備えていなければならない条件のことを述べているものです。
以上のことから、筋(ストーリー)と言い得るためには、少なくともそこに主体(Who)、行為(What)、時間(When)、空間(Where)、因果関係(Why)という五つの要素が備わっていることが必要であることが明らかになったと思います。〉(別紙一小森意見書五頁四行目〜一一頁一四行目。以下単に小森意見書という)
以上述べられた、現在の文学理論及び映画の理論の通説的な知見というものを参照すれば、内面的表現形式である「筋(ストーリー)・構成」が備えていなければならない要素とは、
@出来事に、いわゆる五つのW(Who誰が―人物、Whenいつ―時、Where何処で―場所、What何を―行為・事件、Whyなぜ―原因)と一つのH(Howいかに)が備わっていること
A出来事と出来事の間が、因果関係の連鎖でつながれていること
であるということができる。
第六、本件における翻案権侵害の判断
一、内面的表現形式の抽出に関する本件の特殊性
以上から、著作物における内面的表現形式である「筋・構成」の具体的内容を明らかにするためには、著作物の実際の表現に即して、いわゆる五つのWと一つのH及び因果関係の連鎖の中身を明らかにすればよいことが判明した。
ところが、本件では、この際、注意しなければならないことがある。それは、本件が翻案権侵害を主張するケースとして極めて異質なケースであるため、前述したような形では単純に内面的表現形式を明らかにすることができないという事情があるということである。これがもし、一審における争点一のように、フィクション全部とドキュメンタリー全部との翻案権侵害であればよくあるケースで問題はない。ところが、本件は、単に全部翻案が部分翻案になったというだけのもの、つまり、ノンフィクションの量的な一部とドキュメンタリーの量的な一部との翻案権侵害でもない。ドキュメンタリーの量的な一部のうち、さらに映像や音・音楽を除外したナレーション部分だけを取り出して、その翻案権侵害を問うているのである。しかし、もともと本件番組の表現上の本質は映像表現にあり、従って、ナレーションもまたこの映像表現と不可分な関係をもって構成されているのであって、これだけ切り離したのでは、その表現の意味するところが正確には理解できない。現に、この点について、ドキュメンタリー制作の専門家である(株)ドキュメンタリージャパンの代表取締役橋本佳子氏は、次のように指摘する。
《 テレビ番組は、映像と音声が一体となった表現媒体です。細かくいえば、映像には、現場で撮影された実写の他に、あとから付けるスーパー(字幕)、地図、表、グラフや、CG(コンピューターグラフィックス)処理した情報などが含まれ、音声には、撮影現場の会話、インタビュー、現実音の他に、あとからつけるナレーション、音楽、効果音などが含まれます。それら多様な要素すべてが、合わさることにより初めて、シーン(場面)ができあがり、そのシーンが積み重なって番組が成立します。私たち制作者は、撮影が終了し、ひとつひとつのシーンを最終的に構成する時、すべての絵と音を一秒以下のフレーム(一秒は30フレーム)のタイミングにまで、こだわってミックスしていく作業に没頭します。絵と音の重なり具合によって、シーンそのもののもつ意味が、ガラッと変わってしまうことがあり、制作者は、最終構成に細心の注意を払うのです。
したがって、私たち制作者にとって、番組を絵のない音のみで、又は音のない絵のみで、評価されることは、とても不本意です。まして、ナレーションの書起しのみで語られるのは、制作者が、番組で伝えようとしていることが十分に伝わるとは思えず、かなりつらいことといえます。
今回の「遥かなるユーラシアの歌声」の問題になっている対比部分も、江差港に入港する漁船、波止場の荷捌き場で立ち働く人々、漁網にかかつた魚、日本海に面した地形を表す航空撮影と地図、町にたてられた全国大会の色とりどりの幟等の<映像>と、海鳥の鳴き声、漁船のエンジン音、シーンとシーンを橋渡ししている音楽、会場内のアナウンス等の<音声>を抜きにして、ナレーションのみを番組から切り離して対比し、著作権の侵害の有無が論議されることに、制作者としては賛同しかねます。》(別紙三の四設問1)
従って、その本質部分である映像表現部分を抜きにして、単にそのナレーションだけを切り離して取り出し対比するのは、本来、映像と言語と音の総合芸術たる映画著作物の本質を見失うものであって、到底是認できない。これはドキュメンタリー制作の専門家にとって当然のことのみならず(別紙二意見書一〜二頁参照)、裁判上既に、この点を的確に指摘した判例も存在する(「冷蔵倉庫設計図事件」大阪地裁昭和五四年二月二三日判決、参考文献九)。
従って、原告が、たとえ本件番組のうちナレーション部分だけの侵害を主張する場合であっても、本件ナレーションの内面的表現形式を抽出するにあたっては、そのナレーションと不可分の関係で構成された映像部分も含めた形で被告作品の表現上の特質を読み取り、これを十分踏まえて、ナレーション部分の内面的表現形式を抽出しなければならない(その具体的な抽出のやり方については、小森意見書二三頁以下に解説されている)。
二、本件著作物における内面的表現形式の具体的内容
1、発端・展開・結末の三つに区分
以上の観点から、本件の両著作物における内面的表現形式である「筋・構成」のうち主だった要素(Who誰が―人物、What何を―行為、Whenいつ―時)を抽出する作業を実際に実行したのが、小森意見書一六頁以下である。
これによると、まず、本件のようなごく短い両著作物であっても、とりあえずこの部分の構成を次の通り、「発端・展開・結末」の三つに区分することができる(小森意見書一四〜一六頁)。
発端(以下の行は、一審判決の目録四の記載に従ったものである)
(1)、本件プロローグ
冒頭から、第五段落まで(「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、‥‥まかなわれたほどであった。」まで)
(2)、本件ナレーション
第一段落(「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。‥‥豊かな海の町でした。」まで)
展開
(1)、本件プロローグ
第六段落目から(「だが、そのにぎわいも‥‥」から)、第九段落まで(「‥‥鍋の残骸である。」まで)
(2)、本件ナレーション
第二段落(「しかし、ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません。」)
結末
(1)、本件プロローグ
第一〇段落から(「その江差が、‥‥」から)、ラストまで
(2)、本件ナレーション
第三段落(「九月、その江差が、‥‥」から)、ラストまで
そこで今、これらの三つの区分に従って、内面的表現形式たる「筋・構成」のうちWho(誰が)、What(何を)及びWhen(いつ)という主だった要素について、小森意見書によって明らかにされた文学研究における専門的な知見に基づいて、これを抽出し対比してみると、両作品における筋・構成の具体的内容は以下の通りである。
2、Who(誰が)――主体という問題
(一)、本件プロローグ
(1)、主体の意義
物語一般にとって、主体というのはいかなる意味を持つものか、まずこれを明らかにしておきたい。小森意見書によれば、
《様々な出来事を一つの物語の連なりにまとめ上げていく場合、その様々なエピソードをどのような人物が中心になってつなげていくのかという問題があり、これが「主人公」といわれるものです。「主人公」とは、簡単に言うとばらばらな素材をある一定の時間的なつながりの中に束ねていくという役割を果たすものです。
例えば『ドン・キホーテ』の「主人公」ドン・キホーテは、まずヨーロッパの騎士道物語の読者として登場し、その騎士道物語にあこがれて、自分でそれを実践してみてしまうという存在です。ここでどういうことが明らかにされたかと言うと、それまで様々な騎士たちに担われていた沢山のばらばらなエピソードをドン・キホーテ一人がまとめていくという形となり、そこで長編小説の「主人公」にドン・キホーテはなり得たわけです。
従って、「主人公」が作品の中で果たす役割は、単に中心的な人物であるだけではなく、作品全体の形式において作品をまとめ上げる中心となるものなのです。従って、或る作品の筋・構成の特徴を判断するうえで、つまり、或る作品の全体形式がどのようにまとめ上げられているのかを判断するうえで、「主人公」が誰なのかという問題は極めて重要な意味を担うわけです。
このように、ばらばらな素材としての出来事を一つの連なりにまとめ上げていくのが物語における主体=「主人公」というものです。》(一六〜一七頁)
(2)、本件プロローグの中心的なテーマについて
小森意見書(一七〜一九頁)で解説されている通り、一般に物語の冒頭部分の記述は、《そのテクスト全体が扱う世界を予知》(前田愛「文学テクスト入門」九七頁、参考文献十一)したり、作品の中心的なテーマを暗示するなどしばしば極めて重要な意味を帯びる。本件プロローグにおいてもそのことが言えるのであって、小森意見書(一九頁五行目以下)も指摘する通り、「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。」という出だしの表現から、本件プロローグにおける中心的なテーマが、「むかし鰊漁で栄えたころ」の「四月から五月にかけて」の「一年の華」をめぐるものであることが窺われる。そのことは、のちの展開部分において、現在の江差を語るに際して、「五月の栄華はあとかたもない」(二五行目)「強いて栄華の歴史を風景の奥深くたどるとするならば」(二九行目)と、あくまでも「むかし鰊漁で栄えたころの五月の栄華」との対比の中で語られていること、さらにラストの結末部分においても、江差追分全国大会のことを語るに際して「九月の二日間だけ」(三二行目)「とつぜん幻のようにはなやかな」(同)「一年の絶頂」(同)「かつての栄華が甦ったような」(末行)と、あくまでも「むかし鰊漁で栄えたころの五月の栄華」のことと比べて語られていることからも明らかである。
従って、本件プロローグにおいては、この中心的なテーマである「むかし鰊漁で栄えたころの五月の栄華」が誰(Who)によってもたらされたか、ということがWho(誰が)――主体という問題を考える上での重要なポイントとなる。
発端
では、「むかし鰊漁で栄えたころ」の「四月から五月にかけて」の「一年の華」をもたらしたものは誰か。この点、小森意見書(一九頁一〇行目以下)も指摘する通り、本件プロローグは、続く第二段落で、
「日本海経由の北前船、つまり一枚帆の和船がくる日もくる日も港に入った」(三行目)
「津花の浜あたりは、人、人、人であふれた」(九行目)
と記述しており、ここから、それは船に乗って外(全国)から江差にやって来る人々であることが分かる。
さらに、小森意見書(二〇頁一行目以下)も指摘する通り、本件プロローグは、それが具体的に誰であるのかを次のような記述を通じて明らかにしている。
「町には出稼ぎのヤン衆たちのお国なまりが飛びかい」(九行目)
「ヤン衆たちを追って北上してきた様ざまな旅芸人の姿もあった」(一一行目)
すなわち、この発端部分では、《外(全国)から江差にやって来る人々》が最も中心的な主体となっているのである。
展開
ここでは一転して、「鰊の去った江差に、昔日の面影はない」(二二行目)様子が語られるが、では、そのような、かつての「五月の栄華はあとかたもない」(二五行目)事態は誰(Who)によってもたらされたか、というと、それは、小森意見書(二〇頁末行以下)も指摘する通り、右発端部分の中心的な主体である《外(全国)から江差にやって来る人々》がその後誰もこなくなったからである。このことは、本件プロローグの次の記述からも明らかである。
「人の叫ぶ声も船のラッシュもなく」(二六行目)
すなわち、この展開部分における最も中心的な主体もまた、《外(全国)から江差にやって来る人々》の不在に力点が置かれていることが明らかである(小森意見書二一頁一行目以下)。
結末
ここでは江差追分全国大会のことが紹介されているが、その紹介の仕方に関して本件プロローグの特徴は、小森意見書(二一頁一〇行目以下)が指摘する通り、次のように、「かつての鰊漁の頃の栄華」のありさまと対比して、それを彷彿とさせるものであることを強調している点にある。
すなわち、「五月の栄華はあとかたもない」「その江差が」「とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。」それをもたらしたのが江差追分全国大会であり、それは「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく」ようなものである、と。
従って、この結末部分における主体は、かつての栄華をもたらした出稼ぎのヤン衆たちではないが、江差追分全国大会に参加するためにやってきた「日本じゅうの追分自慢」(三三行目)であり、やはり《外(全国)から江差にやって来る人々》であると言うことができる(小森意見書二一頁終りから三行目以下)。
(二)、本件ナレーション
小森意見書(二三頁終りから二行目以下)も指摘する通り、本件ナレーション全体の記述の特徴もまた、本件プロローグと同様、その冒頭に示されている。本件ナレーションは、冒頭で「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」と語り、同時に流れる本体たる映像では、現在の江差の漁港の光景が映し出される(別紙四参照)。つまり、本件ナレーションは、現在の江差町を紹介することを中心に展開されており、その中で、映像ではなく、単にナレーションによって過去の出来事をごく簡潔に紹介したものである(小森意見書三四頁二行目以下)。そのことは、本件ナレーション部分に対応する本体である映像部分が、もっぱら現在の江差の町の光景だけであり、過去の江差の映像など全くないことからして明々白々である。
その意味で、本件ナレーションは、本件プロローグが「出稼ぎのヤン衆たち」といった主体を登場させているのとは異なり、直接、具体的な人物という意味での主体(Who)は登場せず(小森意見書二三頁一一〜一三行目)、ここでは「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」が主体として語られている。
発端
前述した通り、ここでの主体は、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」であり、同時に流れる本体たる映像も含めて理解するとき、それは厳密には「現在の江差町」のことである(小森意見書二三頁終りから二行目〜二四頁五行目)。
展開
引き続き展開される「しかし、ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません」も、発端部分と同様、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」を主体としていることが明らかである(小森意見書二四頁)。
結末
ここで、江差追分全国大会のことが紹介されるが、それはあくまでも「江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します」(七行目)「町は一気に活気づきます」(末行)理由として紹介されるものであって、ここでの主体もまた、具体的な人物ではなく、賑わいを取り戻し、活気づく「江差町」である(小森意見書二四頁)。
(三)、両作品における主体の対比
以上のように、本件の両作品における筋・構成の要素である主体を取り出して、対比してみたとき、どういう結論が導かれるか。それは、小森意見書が次のように指摘する通りである。
〈筋・構成の主要な要素である主体(Who)に関して、本件プロローグではそれが出稼ぎのヤン衆たちとか日本中の追分自慢といった《外から江差町にやって来る人々》であるのに対し、本件ナレーションでは、前述した通り、江差の町となっているわけです。そういう意味で、筋・構成の要素である主体(Who)に関して、両作品は異質なものであると言わざるを得ないと思います。〉(二五頁二〜六行目)
3、What(何を)――行為という問題
以上の検討により明らかにされた主体(Who)が、では、いかなる行為(What)をしたのかについて、次に検討する。
(一)、本件プロローグ
発端
前述した通り、本件プロローグの中心的なテーマはその冒頭の文章「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。」に暗示されている。
それゆえ、小森意見書(二六頁三行目)も指摘する通り、〈発端部分の行為(What)も「一年の華」をめぐるものであることが示されています。〉
そこで、この「一年の華」が具体的にどのような行為(What)として表現されているか、本件プロローグを検討すると、それは江差に《外からやって来る》と江差から《外へ去っていく》の二つの行為(What)であることが分かる。
このことにつき、小森意見書は、次のように解説する。
〈ここでまず重要なことは、第二段落の「南西の風が吹いてくると、その風に乗った日本海経由の北前船」がやって来る、という記述です。なぜなら、これが、人々が江差町に《外からやって来る》という事件ないしは行為(What)をあらわす重要で特徴的な表現になっているからです。
さらに、ニシン漁のときに《外からやって来る》がゆえに、やがてニシン漁が済めば《外へ去っていく》という行為もまたこの発端を構成する行為(What)として表現されているわけです。それは、この発端において、追分の前歌である「松前江差の 津花の浜で すいた同士の 泣き別れ」が引用されていて、《外からやって来る》ヤン衆たちがやがて《外へ去っていく》ことにより、地元の女郎たちとの間で「すいた同士の 泣き別れ」が起きることが予告されていることからも分かります。また、《外からやって来る》ヤン衆たちが、町で、「漁がはじまる前には」親方たちと「網子合わせという顔合わせの宴」が開かれ、「漁が終れば網子わかれだった」と描写されていることからも彼らが再び《外へ去っていく》ことが示されているわけです。〉(二六頁五行目〜二七頁三行目)
つまり、この行為(What)に関して、本件プロローグは、単に、ニシン漁のときに人が《外からやって来る》ことを記述しているだけでなく、ニシン漁が終われば、やってきた人たちが《外へ去っていく》ことも記述している。それが相手方の引用する「松前江差の、津花の浜で、すいた同士の、泣き別れ」(七行目)という前歌の一節であり、「漁が終れば網子わかれだった」(一五行目)「出船三千」(一六行目)といった記述である。
すなわち、この発端部分における中心的な行為(What)は、ヤン衆たちが、ニシン漁になれば《外からやって来る》、ニシン漁が済めば《外へ去っていく》ものであることが明らかである。
展開
展開部分における行為(What)もまた、右発端の場合と同様、ここでの主体が行っている行為として考えることができる。すなわち、ここでの記述の特徴は、右発端における最も中心的な主体である《外(全国)から江差にやって来る人々》がその後誰もこなくなった点にあり、従って、ここでの行為(What)もまた、かつて《外(全国)から江差にやって来る人々》が「その後誰もこなくなった」ということになる。
すなわち、発端における行為と対応させて言えば、展開部分における行為(What)とは、「ニシン漁になれば《外からやって来る》、ニシン漁が済めば《外へ去っていく》行為の不存在に力点を置かれていることが明らかである(小森意見書二七頁七〜八行目)。
結末
ここでの行為(What)もまた、ここでの主体が行っている行為として考えればよい。そうすると、ここでの主体は、前述した通り、《外(全国)から江差にやって来る人々》、具体的には江差追分全国大会に参加するためにやってきた「日本じゅうの追分自慢」(三三行目)のことであるから、従って、その行為(What)もまた、小森意見書が以下に指摘する通り、一方で江差追分全国大会になれば《外からやって来る》、そして、江差追分全国大会が終れば《外へ去っていく》ということができる。
〈 さらに、江差追分全国大会のときに《外からやって来る》がゆえに、江差追分全国大会が終れば《外へ去っていく》という行為もまたこの結末を構成する行為(What)として表現されているわけです。それは、この結末のラストにおける「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」という記述が、前述したように、かつて江差町に栄華をもたらしたヤン衆たちと同じく、《外から江差町にやって来る人々》のことを指す「一陣の熱風」が「吹き抜けて行く」=《外からやって来て》賑わいをもたらし《外へ去っていく》ことを示すきわめて比喩的な表現であることからも明らかです。〉(二八頁六〜一三行目)
(二)、本件ナレーション
右2(二)で前述した通り、本件ナレーション全体の記述の特徴は、その冒頭に示されている。また、本件ナレーション全体の記述の意味は、これに対応する本体たる映像部分と照らし合わせてみて初めて正確に理解できる。
従って、冒頭の語りは「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」であり、また、同時に流れる映像では、現在の江差の漁港の光景(別紙四参照)であることから、本件ナレーションは、現在の江差町を紹介することを中心に展開されており、その中で、単にナレーションによって過去の出来事をごく簡潔に紹介したものにほかならない。
従って、ここでの行為(What)は、小森意見書が次に指摘する通り、ここの主体である「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」が賑うのかどうかをめぐって語られているものである。
〈NHKの本件ナレーションの表現を見てみますと、述語は、@古くは町が「栄え」、町が「賑いをみせた」(発端)、Aそして、今はその賑わいがなくなった(展開)、Bけれど、「かつての賑わいを取り戻します」(結末)ということになっています。そして、ここには、ナレーションとしてはもちろんのこと映像的にも、本件プロローグの「かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」といった、外からやって来た人々の行為にことさら力点を置いたような記述は全くありません。したがって、ここでのWhat(何を)――行為というのは、外からやって来る人々がこの町に賑わいをもたらすというような表現ではなくて、ただ単に、町が賑わうのか賑わわないのかというレベルのことになっているというのが本件ナレーションの特徴といえましょう。〉(二九頁一一行目〜三〇頁五行目)
発端
前述した通り、ここでの記述の特徴は、江差町が古くは、単に「栄え」(二行目)「賑いをみせた」(三行目)と記述されていることである。すなわち、本件プロローグのように、ヤン衆たちといった具体的な人物が外からやって来るという行為によって町が賑ったという〈外からやって来た人々の行為にことさら力点を置いたような記述〉(小森意見書三〇頁一行目)ではなく、単に古くは賑ったとだけしか記述されていないことにある。従って、ここでの行為(What)は、主体である「江差町」が「賑った」ということとなる。
展開
ここでの行為(What)もまた、ここでの主体(Who)が行っている行為として考えればよい。そうすると、ここでは、主体である「江差町」が今では「賑わない」ということになる(小森意見書二九頁一二〜一三行目)。
結末
ここも同様である。行為(What)は、主体である「江差町」が江差追分全国大会によって「かつての賑わいを取り戻します」(七行目)ということになる(小森意見書二九頁一三行目)。
(三)、両作品における行為の対比
以上の通り、本件の両作品における筋・構成の要素である行為を取り出し、対比してみたとき、どういう結論が導かれるか。それは、小森意見書が次のように指摘する通りである。
〈筋・構成の主要な要素である行為(What)に関して、本件プロローグではそれが出稼ぎのヤン衆たちとか日本中の追分自慢といった人々が、《外からやって来て》《宴や大会が開かれ、江差追分が歌われ、賑わいをもたらし》また《外へ去っていく》のに対し、本件ナレーションでは、前述した通り、江差の町が単に《賑う、賑わいがなくなった、賑わいを取り戻した》となっているわけです。そういう意味で、筋・構成の要素である行為(What)に関して、両作品は異質なものであると言わざるを得ないと思います。〉(三〇頁七〜一三行目)
4、When(いつ)――時間という問題
以上の検討により明らかにされた主体(Who)の行為(What)が、では、いつ(When)なされたのかについて、次に検討する。
(一)、本件プロローグ
発端
何度も繰り返す通り、本件プロローグの中心的なテーマはその冒頭の文章「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。」に暗示されている。
それゆえ、小森意見書が次に指摘する通り、発端部分の時間(When)の問題について、それはまず第一に「むかし鰊漁で栄えたころ」の時点であり、のみならず第二に、より具体性を持って「四月から五月にかけて」の時点であることが明らかとなる。
〈 ここでもまた、本件プロローグの冒頭の表現「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。」に着目することから始めたいと思います。ここで、作者は、これから発端部分において、「むかし鰊漁で栄えたころ」の「四月から五月にかけて」の時期(When)について語るのだということを《予知》しているわけです。ここからまず、本件プロローグが焦点を当てているのは「むかし鰊漁で栄えた」という《鰊漁で栄えた過去における時点》のことであることが分かります。さらに、木内氏の本件プロローグにおいては、この時間について非常に特徴的な具体性が見られます。それは、ニシン漁が行われる季節を明示してあるということ、つまり、《五月》が強調されていることです。冒頭にあるように、「むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった」から本件プロローグは始まります。そして、この江差のにぎわいを象徴する言葉として、「出船三千、入り船三千、江差の五月は江戸にもない」を引用しています。この引用文において、もっとも強調されているのは、《五月》の江差と常時賑わっている江戸とが対比されていることです。つまり、《五月》だけは江差は江戸時代の日本の首都であった江戸にも劣らない賑わいを見せるということです。このように、木内氏のテキストは、《五月》に焦点を当てた表現の仕方になっています。〉(三一頁六行目〜三二頁六行目)
つまり、このいつ(When)に関して、本件プロローグの発端部分は、単に《鰊漁で栄えた過去における時点》のことを記述しているだけでなく、さらに、より具体性をもって「五月」という時点を強調しているのである。
展開
ここも右発端部分と同様に考えることができる。つまり、ここでの主体とその行為とは、前述した通り「外(全国)からやって来た人々」が「その後誰もこなくなった」ということである。では、この主体の行為が、いつ(When)の時点のものとして語られているのかというと、それは、本件ナレーションのように単に「今は」(五行目)ではなく、さらに、より具体性をもって「五月の栄華はあとかたもないのだ。」(二五行目)と「五月」という季節であることを明示し、なおかつ(小森意見書が次に指摘した通り)強調している。
〈江差の町がさびれたことを叙述する木内氏のテキストの中において、やはり《五月》という、かつてのニシン漁の漁期にあたる季節のことが強調されています。「五月の栄華はあとかたもないのだ。桜がほころび、海上はるかな水平線にうす紫の霞がかかる美しい風景は相変わらずだが」と、わざわざ《五月》の季節の変わらない風景が描写された上で、「人の叫ぶ声も船のラッシュもなく、ただ鴎と大柄なカラスが騒ぐばかり」という、現在における《五月》という季節が対比されているわけです。〉(三二頁八〜一四行目)
結末
基本的には、ここも右発端部分と同様に考えてよい。つまり、ここでの主体とその行為とは、前述した通り「日本じゅうの追分自慢」(三三行目)が「江差追分全国大会になれば外からやって来る」ということである。そして、この主体の行為が「九月」という時点で行われることが示されている。しかも、ここで最も重要なことは、小森意見書が次に指摘する通り、「九月」という時点が、発端部分の、かつてニシン漁で栄えた頃の「五月」と極めて意識的に対比させられていることである。
〈 ここでは、現在においても、かつての栄華が甦るのは、《五月》ではなくて《九月》である、というふうに結末部分が書かれています、「その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える」というふうにです。これは明らかに、かつてのニシン漁期に栄えた《五月》と、その季節とは一致しない江差追分全国大会が行われる《九月》とが対比されているのです。ここに本件プロローグの時間をめぐる最大の特徴が見られます。その意味で、《五月》ではなくて《九月》に日本中の追分自慢が集まるということが、「一陣の熱風」という比喩であらわされているのであり、この比喩は、本件プロローグの章につけられた「九月の熱風」という題名と呼応することによって、《五月》と対比された《九月》という季節が、とりわけ時間論的に重要であるということが、章全体のテーマにもなっているということを窺わせるものです。〉(三三頁一〜一一行目)
(二)、本件ナレーション
何度もくり返す通り、本件ナレーション全体の記述の特徴は、その冒頭に示されている。また、本件ナレーション全体の記述の意味は、これに対応する本体たる映像部分と照らし合わせてみて初めて正確に理解できる。
従って、冒頭の語りは「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」であり、また、同時に流れる映像では、現在の江差の漁港の光景(別紙四参照)であることから、本件ナレーションは、現在の江差町を紹介することを中心に展開されており、その中で、単にナレーションによって過去の出来事をごく簡潔に紹介したものにほかならない。
従って、小森意見書が次に指摘する通り、本件ナレーションが焦点を当てているのは、あくまでも《現在という時点における》「小さな港町、江差町」のことであり、従って、ここでのいつ(When)というのは、主として《現在という時点》であることが明らかである。
〈NHKの本件ナレーションの表現を見てみますと、その発端の冒頭部分は、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」となっています。そして、これに対応する映像部分が、現在の江差の漁港の光景など全て現在の時点における映像であることをも考え合わせますと、本件ナレーションが焦点を当てているのは、あくまでも《現在という時点における》「小さな港町、江差町」のことであることが分かります。そして、この《現在という時点における》江差町を語る中で、「古くはニシン漁で栄え」たというふうに、過去のことにも触れているのです。だから、それ以上に、かつてのニシン漁の漁期にあたる「四月から五月にかけて」賑わった様子のことには一切触れていません。〉(三四頁三〜一一行目)
発端
前述の通り、ここでの主体とその行為とは、「江差町」が「賑った」ということである。そこで、この主体の行為が、いつ(When)なされたのかというと、それは単に「古くは」(二行目)である。それ以上、本件プロローグのように「その漁期にあたる四月から五月にかけて」(一行目)といった季節が明示され強調されているわけでは全くない。
展開
ここでも、主体とその行為とは、「江差町」が「賑わない」ということである。そこで、この主体の行為が、いつ(When)なされたのかというと、それは単に「今は」(五行目)である。それ以上、本件プロローグのように「五月」(二五行目)といった季節が明示され強調されているわけでは全然ない。
結末
ここでも、主体とその行為とは、「江差町」が「かつての賑わいを取り戻します」(七行目)ということである。そこで、この主体の行為が、いつ(When)なされたのかというと、ここで初めて「九月」(七行目)という記述が使われる。しかし、それは単にここだけ「九月」という季節が明らかにされたにとどまり、〈本件プロローグの時間をめぐる最大の特徴〉というべき〈五月と対比された九月という季節〉(小森意見書三三頁五〜一一行目参照)という記述は全く見られない。
(三)、両作品における時間の対比
以上の通り、本件の両作品における筋・構成の要素である時間を取り出し、対比してみたとき、どういう結論が導かれるか。それは、小森意見書が次に指摘する通りである。
〈筋・構成の主要な要素である時間(When)に関して、まずは、本件プロローグの発端部分が《鰊漁で栄えた過去における時点》のことであるのに対し、本件ナレーションは発端部分も含めて《現在という時点》のことであるという基本的な違いが見られます。その上、本件プロローグでは「四月から五月にかけて」「江差の五月」「五月の栄華」と、かつて外からやって来た人々が江差町に賑わいをもたらした時期を示す記述や、春(五月)と秋(九月)の対比という点に力点が置かれているのに対し、本件ナレーションでは、基本的には《現在という時点における》江差町のことが取り上げられていて、その中で単に「古くは」となっているだけで、本件プロローグに見られるような「五月の栄華」という時期の記述や春(五月)と秋(九月)との鋭い対比などは全く見られません。そういう意味で、筋・構成の要素である時間(When)に関しても、両作品は決定的に異質なものではないかと思います。〉(三五頁一〜一一行目)
三、結論――両作品における内面的表現形式の同一性について――
以上の通り、本件の両作品における内面的表現形式である「筋・構成」のうち主体(who)、行為(What)、時間(When)といった主だった要素を抽出してみて、それらを対比してみた場合、それらはいずれも大いに異なるもの、従って、ここから本件の両作品における内面的表現形式が「両者符号する」とは到底言えないことが誰の目にも明らかである(小森意見書三五頁末行以下)。
すなわち、本来の正しい著作権法の解釈にのっとって、本件に著作権法二六条を適用していけば、本件の両作品における内面的表現形式たる「筋・構成」は、その創作性の吟味をするまでもなく、端的に「両者符号」しないことが明らかとなる筈であった。
しかるに、原判決は、誤って、本件ナレーションは本件プロローグを翻案したものであるという判断を下してしまったのである。それはいかなる誤りに基づくものか。以下、この点を明らかにして行きたいと思う。
第七、原判決の著作権法二六条の解釈の誤り
前述の通り、原判決が、本件ナレーションを本件プロローグの翻案物と誤って判断した原因は、まずは、翻案権に関する著作権法二六条の解釈を誤ったことに基づく。それはより具体的に言えば、以下の如き法令解釈の誤りである。
@「本質的な特徴の感得」論の誤り
A「筋・構成」の具体的内容を「基本的な骨子」とする誤り
B外面的表現形式の同一性の判断を持ち込む誤り
以下、これらについて詳述する。
一、「本質的な特徴の感得」論の誤り
原判決は、著作権法二六条のうち著作物の同一性に関する解釈にあたって、「本質的な特徴の感得」論を採用したため、「筋・構成」といった内面的表現形式を具体化する中で、著作物の同一性を正しく判断するということができなかったのである。
すなわち、原判決は、二六条の著作物の同一性に関する解釈にあたって、パロディ事件最高裁判決の論理を参照したことを表明した上で、次のように判示した。
《本件ナレーションが、「北の波涛に唄う」の本件プロローグの翻案権を侵害したものであると認めるためには、‥‥本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を本件ナレーションから直接感得することができることが必要である(前掲最三小判昭和五五年三月二八日参照)。》(二〇七頁七〜末行)
しかし、既に第五、一(二三頁以下)で詳述した通り、翻案権侵害における著作物の同一性は「内面的表現形式」の同一性によって判断すべきことであり、これに反する原判決の右解釈は、@理論上の位置づけにおいて、また、A本件とパロディ事件との文脈の違いを無視した点において、さらに、Bこの解釈の実際上の運用がもたらす破綻と不合理な帰結という点においても、著しく不当であり、法令の解釈を誤ったものであり、その結果、判決に影響を及ぼすような重大な違法をもたらしたと言わざるを得ない。
二、「筋・構成」の具体的内容を「基本的な骨子」とする誤り
もっともこれに対しては、原判決が採用した「本質的な特徴の感得」論というのは、単に一般条項的なものを意味する名称にとどまり、その実際の内容は「内面的表現形式」論と殆ど変わらないという反論があり得る。しかし、原判決が採用した「本質的な特徴の感得」論は実際上も、その内容を「内面的表現形式」論と大きく異にするものであり、単なる名称の問題では済まない。
すなわち、原判決が実際に判決中で明らかにした「本質的な特徴」の具体的内容とは、申立人が、既に第五、二及び第六において、「内面的表現形式」を本件に即して明らかにした具体的内容とは著しく異なるものであり、そのため、著作物の同一性を正しく判断するということができなかったのである。
言い換えれば、本来ならば、「内面的表現形式」を本件に即して具体化していけば、
@出来事に、いわゆる五つのW(Who誰が―人物、Whenいつ―時、Where何処で―場所、What何を―事件、Whyなぜ―原因)と一つのH(Howいかに)が備わっていること
A出来事と出来事の間が、因果関係の連鎖でつながれていること
といった要素を備えた「筋・ストーリー・構成」の正しい概念が得られた筈なのに、原判決は、「本質的な特徴」の具体的内容を《基本的な骨子》(二一五頁六行目)と捉え、その上でさらに《選択して述べ》《様子を描写し》《順序》《認識する》といった判決独自の概念を用いて議論を展開しているもので、こうした概念の混乱のために、著作物の同一性を正しく判断することができなかったのである(ここで原判決が、使用している《選択して述べ》《様子を描写し》《順序》《認識する》といった個々の概念の使い方の間違いについては、のちの第八、二以下で詳述する)。とりわけ、《基本的な骨子》については、こうした漠然とした概念では、学者の田村善之氏が「今後、原告のプロローグを読んだことがきっかけで、実際に江差追分に関して同様の感想を持った人間は、いったいどのような表現でそのアイディアを書き表したらよいのか、筆者には見当がつかない」(参考文献一)と杞憂したように、本来著作権法が保護しないアイデアまでを保護してしまう危険をはらみ、その結果、相手方の表現活動に対する不当な制約をもたらす危険をはらんだ極めて不適切な概念である。
このように、原判決は、「本質的な特徴」を具体化するにあたって、もし一審判決の争点一に対する判断のように、「本質的な特徴の感得」論を採用したとしても、その具体的内容のレベルにおいて、「筋・ストーリー・構成」の概念を使用している(一審判決一九一頁六行目)のであればなお判決の結果に影響を及ぼさずに済んだのであるが、そうではなく、アイデアを保護してしまう危険をもたらす《基本的な骨子》といった漠然とした概念を使用したのであり、その結果は、判決に影響を及ぼすような重大な違法をもたらしたと言わざるを得ない。
三、外面的表現形式の同一性の判断を持ち込む誤り
同じく、原判決は、「本質的な特徴の感得」論を具体化するにあたって、翻案権侵害の正否を判断するにあたって本来必要ない外面的表現形式の同一性の判断という要件を、しかもそれを従来の外面的表現形式の同一性の要件に比べ緩やかな、《基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く》(二一五頁八行目)といった漠然とした基準を導入し、そのため、著作物の同一性を正しく判断するということができなかったのである。
つまり、第五、一(二三頁以下)で前述した通り、もともと翻案権というのは、外面的表現形式の無断利用を防ぐ複製権による保護の限界(=内面的表現形式の無断利用)をカバーするものとして登場したのであって、その意味において、複製権と翻案権とはもともとその守備範囲を片や外面的表現形式、片や内面的表現形式というふうに分担するものであった。従って、複製権侵害の成否を判断するにあたっては、もっぱら外面的表現形式の同一性のことだけを吟味すれば足りるのと同様、翻案権侵害の成否を判断するにあたっては、もっぱら内面的表現形式の同一性のことだけを吟味すれば足りるのである(もちろん、翻案権侵害の成立が認められた場合に、その違法性の程度を明らかにするために、外面的表現形式の無断利用の状況を検討することは構わないし、またそれは今の問題とは全く関係がない)。
ところが、原判決は、この点の区別の重要性を自覚せず、翻案権侵害の成否を判断するにあたって、以下のように、単に内面的表現形式の同一性の検討にとどまらず、外面的表現形式の同一性についても(その吟味の仕方の杜撰さの点も、後に第八、五で指摘するが)検討が必要であるかのような判断を下したのである。
《以上によれば、本件ナレーションは、本件プロローグの基本的な骨子となる部分のみを同じ順序で表現しているものであり、外面的な表現形式においても、基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く、本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるものであって、本件プロローグを翻案したものであると認めるのが相当である。》(二一五頁六〜末行)
しかし、第五、一2(3)(二七頁以下)で前述した通り、この見解は@翻案権侵害を肯定するために、本来、内面的表現形式の同一性だけでいい筈のものを、さらに外面的表現形式の同一性までも要求する過酷な理論であるか(その場合、異なるジャンル間では殆ど翻案権侵害が認められなくなる)、さもなくば、Aもともと翻案権侵害を肯定するには十分な内面的表現形式の同一性を認めるに至らなかった場合でも、《外面的な表現形式においても、その具体的な表現は少しずつ異なるものの、基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く》(二一五頁一〜三行目)といった、本来の複製権侵害を肯定するには不十分な外面的表現形式の類似性とを足せば翻案権侵害を認めてもいいとする安易な理論であるかのいずれである。そして、いずれであったとしても、かような理論が著作権法の解釈として不当なものであることは言うまでもなく、同時にそれは、相手方の表現の自由を不当に制約する危険をはらんだ理論で採用できないことは、第五、一2(3)(二七頁以下)で前述した通りである。
従って、本件は、本来ならば内面的表現形式の同一性を認めることができず、それゆえ翻案権侵害が成立しない事案であったにもかかわらず、原判決の右解釈によって、これに外面的表現形式の(同一性ではなく、もっと緩やかな)類似性という要件を追加し総合して、翻案権侵害の成立を導いたものであり、それゆえ、原判決の右解釈は、著作権法二六条の解釈を誤り、その結果、判決に影響を及ぼした違法なものと言わざるを得ない。
第八、原判決の著作権法二六条の適用にあたっての著しい経験則違背
原判決が、本件ナレーションを本件プロローグの翻案物と誤って判断した原因は、前述した通り、まずは二六条の解釈の誤りにあったが、だがそれに尽きるものではなく、さらに二六条を本件に適用するにあたって、創作性の評価を初めとする作品分析の基本的な経験則を誤ったこともまた大きい。以下、作品分析の基本的な経験則に関する原判決の誤りを明らかにしたい。
一、ドキュメンタリー制作者一般・文学研究一般の評価と相容れない創作性の評価の誤り
著作権法二六条の適用にあたって、内面的表現形式の同一性を判断する上で最も重要な問題の一つとして、表現形式の「創作性」の評価という問題がある。このうち、一番中心的でかつ困難な課題が、当該表現形式に果して「創作性」がありやいなかという判断であろう。なぜなら、著作物には様々なジャンルがあり、各々のジャンルに応じて、表現形式上の「創作性」の有り様もまた様々に異なるからである。そこで、「創作性」の有無を判断するにあたっては、そのジャンル固有の表現形式上の工夫というものを見誤らないために、単に通常人による評価を踏まえるのみならず、当該ジャンルに属する人たち一般の評価(当該ジャンルの専門家の知見)をも十分踏まえておくことが不可欠であることは、第四、三(二〇頁以下)で強調した通りである(参考文献五)。
しかるに、原判決は、そのような専門的な経験則にのっとらず、誤っていわば独断的に創作性を評価してしまったものであり、その結果、本来、創作性が認められず、それゆえ著作物の同一性を論ずるまでもなかった表現部分において、創作性を肯定し、なおかつそれが両作品に共通するとして、翻案権侵害を肯定する有力な根拠にしてしまったものである。それゆえ、原判決がここで採用した経験則もまた、著作権法二六条の適用を誤らせ、その結果、判決に影響を及ぼした違法なものと言わざるを得ない。以下、その理由を詳述する。
1、本件の両作品の表現形式の「創作性」に対する専門家の評価
まず、本件の両作品の表現形式の「創作性」に対して、専門家はどのような評価を下すものであろうか。この点について、申立人は、いずれもその分野の第一線で活躍している以下の七名の専門家に見解をただしてみたので、ここにそれを引用する。
(1)、映画監督今村昌平
日本人として初めてカンヌ国際映画祭で二度のグランプリを獲得(「楢山節考」「うなぎ」)し、またドキュメンタリー制作の経験もある、現在の日本を代表する映画監督今村昌平氏は、長年にわたる映画制作の経験に照らし、両作品の創作性について、次のように評価する。
〈原告のオリジナルが"江差追分の源流はウラル地方にある"という点にあるかどうかという問題は別にして、他の片々区々たることは客観的事実の範囲のことで、ナレーションがそれをどう使おうと一向に構わない。〉(別紙三の一設問1)
〈ドキュメンタリーの命は映像だから、オリジナルの映像が勝負だ。これに比べればナレーションは単なる説明に過ぎず、ましてやNHKのナレーションは冒頭の導入部分の紹介にすぎない。
こんな紹介のところで、オリジナリティを振り回されてはかえって困る。
著作権侵害でゴタゴタ揉み合うような事柄ではないと思う。〉(別紙三の一設問2)
〈原告のオリジナルが"江差追分の源流はウラル地方にある"という点にあるかどうかが問題だというのなら分かる。
しかし江差が九月に「一年の絶頂を迎える」とか「年に一度かつての賑わいを取り戻します」という紹介の仕方ぐらいで、原告のオリジナルを主張するのはおかしい。追分は恨み節だという原告の思いはそれで良い。しかし、それと表現とは別だ。
何れにせよ、このようなことを裁判所でゴタゴタ揉み合うなんてくだらないと思わざる得ない。〉(別紙三の一設問3)
(2)、TVプロデューサー木村栄文
「苦海浄土」(文化庁芸術祭大賞)「鳳仙花〜近く遙かな歌声〜」(文化庁芸術祭・大賞)「月白の道〜戦場から帰った詩人〜」(放送文化基金賞)など数多くの受賞作品をプロデュースしてきた木村栄文氏は、長年にわたる自らのドキュメンタリー制作の経験に照らし、両作品の創作性について、次のように評価する。
〈 結論を先に言うなら、著作権侵害も名誉棄損も、番組とナレーションからは見出せない。もし、この程度の類似をもって剽窃を云々するなら、放送記者もディレクターも新聞記者も、企画(殊に歴史企画)を既刊の書籍を渉猟して組み立て、番組化、記事化することが出来なくなる。
番組のアーバン(プロローグ)には、木内氏の文章と似通う個所は見出せるが、似通うのみで、盗用というレベルの相似ではない。もし担当プロデューサーがディレクターの原稿を読み、この程度の平凡なナレを見て盗用を疑うなら、プロデューサーたるもの、ナレの点検に毎日忙殺され、他の仕事が手に付かないであろう。〉(別紙三の二設問1)
〈 九州の宮崎県では、年一度「刈干切歌」や「稗つき節」の全国大会が開かれる。老幼男女、喉を競う描写には本番組と共通する楽しさがある。つまり江差追分の大会の緊迫と流麗な歌声の描写の魅力は、哀切にして朗々たる歌声の醸し出す普遍性である。それはまた映像表現が文章表現を越えるシーンでもある。映像と原告の文章とに相似点はあっても、著作権の侵害というレベルの問題ではない。〉(別紙三の二設問2)
〈 歌謡曲「石狩挽歌」の歌詞のように、「あれからニシンはどこへ行った…」という哀感と、ときはめぐって一年、海辺の町にハレの日の賑わい=全国大会が戻って来る、という表現とは、映像表現者の好むところであるが、ナレには転用や剽窃の事実を発見できない。
祭りが物理的な人出を基準にするなら、博多では二百万人を集める「どんたく」が代表的祭りである。しかし、博多市民には「博多山笠」こそが福岡・博多を代表する一年一度の祭りである。「どんたく」に美しさも様式もないが、山笠は、七月の本番終了後にもう翌年の祭りの準備が始まる。祭礼の様式のこまやかさ。勇壮で華麗。そして「追い山」の本番が夜明けと共に終わると、まさに歓楽尽きて哀愁深し、の余情を市民に抱かせる。某々神社の祭礼より、精神において江差追分全国大会を一年の絶頂とする観点は、別に奇異でない。〉(別紙三の二設問3)
(3)、ドキュメンタリー作家萩元晴彦
「現代の主役・小沢征爾"第九"を揮る」(民放連賞〔テレビドキュメンタリー部門〕)「太平洋戦争秘話"緊急暗号電・祖国ヨ和平セヨ!"欧州から愛をこめて」(テレビ大賞審査委員会優秀番組賞)など数多くの受賞作品のディレクターをつとめ、また長野オリンピックシニアプロデューサーもつとめた萩元晴彦氏は、長年にわたる自らのドキュメンタリー制作の経験に照らし、両作品の創作性について、次のように評価する。
〈 一審判決を読んで、まず第一に感じたことは、「これは大変だ、この程度の類似で著作権侵害ということになったら、ドキュメンタリー番組の制作など事実上不可能ではないか」ということでした。
もちろんTV制作者が他人の表現を、そのまま無断で使用して許されるものではありませんが、この件に関する小説とTV番組のナレーションの類似点を以て、ことごとく著作権に触れるということになれば、TV制作者は過去の新聞記事、報道の文章にまで細心の注意を払い一点の類似点もないようなナレーション原稿を書かねばならないということになり兼ねません。
本件においてNHKの制作者は誠実に『北の波濤に唄う』を参考にしたと言っているそうですが、TV番組のナレーション原稿は、それらを参考にしたとしても、文章をそのまゝ使用している訳でもなく、一審判決はまったく納得することが出来ません。
そもそもTV番組はナレーションの文章だけで成立しているものではなく、あくまでも映像と一体になった表現ですから、ナレーションだけ切り離して考えること自体がナンセンスだとも申し上げたいと思います。〉(別紙三の三設問1)
〈 これも@Aと重複しますが、事実、現実を扱うドキュメンタリー番組の場合「様子を描写している」ことを以て著作権の侵害とするのは、まったく不当だとしか思われません。〉(別紙三の三設問3)
(4)、TVプロデューサー橋本佳子
「あなたの声が聞きたい」(文化庁芸術作品賞及び郵政大臣賞受賞)「シリーズ15歳」(郵政大臣賞審査委員特別賞)など数多くの受賞作品をプロデュースしてきた橋本佳子氏は、長年にわたる自らのドキュメンタリー制作の経験に照らし、両作品の創作性について、次のように評価する。
〈<2>
ドキュメンタリー番組の制作とは、現実を見つめ記録するという行為ということだと捉えています。制作者は、私たちの今生きている現実世界に素材を求めるため、否応なしに他者の作品(書物、映画、ラジオテレビ番組・・等々)と同じ素材を取り上げることが多々あります。
身近な例をあげれば、私の会社は、テレビのドキュメンタリー番組を製作し社歴19年ほどですが、社内をちょっと見回しただけで、同じ素材を扱った異なる演出家の作品がいくつもあります。例えば、アンデスの人々の生活、学校の先生と生徒の関係、訪問看護婦さんの活躍、甲子園球児の奮戦、アラスカの大自然など、数え上げればきりがありません。その場合、素材が共通するため、基本的な事実や、認識等を表現する時に、似たような箇所が出てくるのは避けられないことと思います。また、場合によっては決り切った常套句を使った方が、より平易で解りやすくなるということもあり、あえて使用することもあります。どちらにしろ、同じ素材を扱った時、私たち制作者が他者の作品と比較されてその真価を問われるのは、その作品全体を通して、何を伝えようとしたかの一点に絞られると考えています。
今回の「遥かなるユーラシアの歌声」のナレーションは、番組全体のイントロ部分の江差町の紹介部分で、「北の波涛」と似た部分があります。しかしながら、基本的な事実や歴史を語るとき、個々の単語や表現において、このような共通部分があるのは当然のことと思います。この対比表のみで著作権侵害と認められ、今後このような表現ができなくなることは私たち制作者にとっては重大な問題だと思います。
北大助教授・田村善之氏の著書「著作権法概説」に、次の一節があります。
〜この程度に順序が似ているだけで著作権処理を強要したり、侵害に問うのでは、創作活動に著しい支障を来すであろう〜
私は、この一節こそ、今回の件に関して、おそらくほとんどすべての制作者の共通の思いを語っていると考えます。〉(別紙三の四設問2)
それゆえ、本件プロローグの結末部分の創作性に関する原判決の判断に対して、橋本氏の感想は、次の通り、当然厳しい評価とならざるを得ない。
〈<3>
先の判決では、「北の波涛」の当該部分を「文学的独創」としていますが、私としてはとても理解できないことに思えます。
基本的事実として、九月に、江差追分全国大会が年に一度開かれ、国内だけでなく海外からも参加者が訪れ、300人もの人が三日にわたりのどを競い、会場の外には色とりどりの幟がたち、中では立ち見が出るほど人があふれているということがあります。そして、その江差町は、かってはニシン漁で栄え、賑わった町だという事実があります。この二点は、現場を訪れた制作者なら誰でもが知りうる事柄です。江差追分をテーマにした番組の中で、江差を訪れ、この全国大会を取材し、表現しようとするとき、多少言い回しは違っても、十中八九「遥かなユーラシアの歌声」のナレーションや「北の波涛」の当該部分と類似のものになるのは間違いありません。なぜなら、上記<2>で述べたように、基本的事実が共通だからです。
もし、判決通りだとしたら、私が江差で同様の取材をし、同様の事実に立ち会った時、どのように表現し、多くの人に伝えたらいいのか頭を抱えます。〉(別紙三の四設問3)
(5)、ドキュメンタリー映画監督原一男
「全身小説家」(毎日映画コンクール作品賞受賞)「ゆきゆきて神軍」(日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ映画賞受賞)などのドキュメンタリー映画監督で知られる原一男氏は、長年にわたる自らのドキュメンタリー制作の経験に照らし、両作品の創作性について、次のように評価する。
〈ここで両方の作品に共通しているのは、どちらも或る出来事を紹介するときの典型的なパターンを踏襲しているということです。それは、或る出来事を紹介するとき、その出来事を読者や見る者にできるだけ印象づけるために、あたかも、それがかつての栄華、栄光を甦らせるかのような再生の物語として紹介するという手法です。その場合に最も分かりやすいありふれたやり方が、まずかつての栄華について語り、ついで、今はその栄華が去ったことを語り、その上で、或る出来事を、それがかつての栄華を甦らせるかのようなものとして紹介するというやり方です。本件の両作品はまさしくそのやり方の見本です。そして、ここでの狙いは、或る出来事を読者や見る者にできる限り印象づけて紹介することにあるわけですから、その限りで、「その出来事によって、町が大いに盛り上がり、あたかもかつての栄華が甦ったかのようである」と強調・誇張〈デフォルメ)するのは至極当然のことでして、そのようなデフォルメもこのパターンにおいてはごく自然なことなのです。したがって、このようなパターンにおいて、その出来事が現実に町で一番盛り上がる行事かどうかという事実関係はさして重要なことではなく、仮にその出来事が現実に町で一番盛り上がる行事でないとしても、我々は、こういったデフォルメを用いて、或る出来事を効果的に紹介するという手法をしょっちゅう使うものなのです。〉〈別紙二意見書四頁一六〜二九行目)
従って、このような立場からすれば、原判決の判断は、次のような評価を受けることになる。
〈その意味で言いますと、ただいま紹介してもらった判決の内容は、いま説明しましたようなノンフィクションやドキュメンタリーなどで使われる典型的なパターンについての基本的な理解を見失っていて、何か重箱の隅をつつくようなものすごく煩雑な議論に陥ってしまっているという印象を免れません。
――具体的には、どんなところでそう感じるのですか。
原 たとえば、判決は、「江差町が江差追分全国大会のときに『幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎え……町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく』との認識は、〈江差町民の)一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり」と言いますね。でも、「江差町が江差追分全国大会のときに一年の絶頂を迎える」という認識が果して「原告に特有な認識」といっていいものかどうか、甚だ疑問に思えますね。なぜなら、さきほども言いましたように、江差追分全国大会を紹介するにあたって、「一年の絶頂を迎える」といったようなちょっとしたデフォルメを使うのは、江差町民にとっては珍しいことかもしれませんが、しかし私たちドキュメンタリー制作者にとってはごくありふれた通常の方法だからです。その意味で、こうしたデフォルメは、世の表現者にとって「共通財産」のひとつではないでしょうか。だから、高々こんなもんで、これが「原告に特有な認識」だなんて言って欲しくないというのが正直な感想ですね。
――つまり、この程度のデフォルメは、ごくごく普通にやる方法にすぎないということですか。
原 ええ。表現者がなかなか思いつかないような真に「作者に特有の認識」であればともかく、この程度のデフォルメのレベルのことで、作者の独自性を云々するなんて、はっきり言ってしまえば、噴飯ものではないか、と思いましたね。〉〈別紙二意見書四頁三〇行目〜五頁一一行目)
(6)、TVプロデューサー吉永春子
「松川事件の黒い霧 真犯人を追って」(第一回ギャラクシー賞受賞)「未復員」(民放連優秀賞受賞)など数多くの受賞作品のディレクター、プロデューサーをつとめてきた吉永春子氏は、長年にわたる自らのドキュメンタリー制作の経験に照らし、両作品の創作性について、次のように評価する。
〈 率直に申し上げます。 先ず最初にビデオを注意しながら見ました。だが流れる様に過ぎてしまいました。そこでこれはいかんと、対比表を手に一語、一語確かめるつもりで見ることにしました。然しそうしても同じでした。何故なのか…。つまり指摘されている文章は失礼ながら余りにも一般的に使われている、ありふれたものだからだと思う様になりました。
私が民放の報道局で入社早々ニュース取材を行いニュース原稿を書く様になり、その後ドキュメンタリー番組を制作する様になった時、度々江差町の様なケースの町の取材をしました。その時、先ず取材先の町の人々から、その町の歴史、背景、現在、催しものなどを聞き、その発言の中からその町の特徴をつかみ、ナレーションを作成してゆきました。
"古くはニシン漁が栄え"とか"江戸にもない"がそれに当ると思います。この作業は放送の現場にたずさわった者は必らずやらされるものの一つであり、こうした作業がつみ重なると自然に"古くは…"とか"江戸にもない"などの表現が出てくる様になると思います。勿論、その表現の源は取材した人達の言葉です。
従って、これ等の文章が著作権の侵害にあたるとは到底理解できない次第です。〉(別紙三の五設問1)
〈 Aの設問は@の答えにだぶると思います。
ただ若干付記すれば、"ニシンは既に去り、今はその面影はありません"とのナレーションがありますが、今、江差に行けば誰でもニシンは捕れていない事を知るわけですから"ニシンは去り、面影はない"といった表現を用いるのはごく普通のことだと思います。〉(別紙三の五設問2)
〈 先ずこの番組が江差追分のルーツを求めたものだという事が前提にあります。TVドキュメンタリーの場合、秒単位で映像とナレーションをいれてゆく必要があります。その時には視聴者を出来るだけ短時間でテーマに集中させる必要があります。特にこの部分は番組のイントロというか出だしの所だけに、廻りくどい表現は避けなければなりません。
この為「江差町には他にも幾つかの大きな催しものがある」などの表現は、残念ながら避け、端的に番組のテーマとなるべきものに近い大会をアッピールする必要があるのです。
更に祭りの表現として"賑う"とか"一気に活気づく"といったものは、これ又日常的に度々使われるものです。以上の点からみても著作権を侵害したとは思えない次第です。〉(別紙三の五設問3)
(7)、東大教授小森陽一(日本近代文学専攻)
日本近代文学研究で著名な小森陽一氏は、まず、事実の選択に関する創作性について、次のように評価する。
〈一審判決は、江差についての説明に対して、次のような評価を下しています。
《江差町に関し、前記の百科事典に記載されているような一般的知見に属する事柄の中から、江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらしたこと、鰊の去った江差にその面影がないことを選択して述べ、‥‥との表現形式における特徴部分で、両者符号するものである》(二一二頁一〜七行目)
ここで判決は、被告の本件ナレーションで語られた江差についての説明は、百科事典に記載されているような一般的知見に属する事柄の中から選択された結果表現されたもので、その選択には創作性があるということを暗黙の前提にしていると思われます。しかし、果してそうでしょうか。確かに、江差という町については、たとえば姥神神宮の夏祭だとかさまざまな事実や情報があるわけですが、しかし、その中でほかの町とは違う、最も江差らしい特徴的な事柄を取り上げようとすれば、誰によっても、だいたい「かって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらしたこと、鰊の去った江差にその面影がない」となるわけで(ちなみに、小学館『日本大百科全書』の「江差」の項目では「かってはニシン漁で栄え、江差の五月は江戸にもないといわれ‥‥いまはそのおもかげはなく」となっています)、これはそのような説明がなければ江差町について語ることはできないという、いわば江差町という町を認識するときの基本として常識化された情報であると言えましょう。その意味で、このくだりは、まさに江差町を語るときのキーワードみたいなもので、そこに創作性を云々する余地はありません。したがって、そのようなキーワードの表現が共通するからといってそれでもって著作権侵害の根拠にされるのはおかしいと思います。〉(五三頁八行目〜五四頁一二行目)
さらに、小森氏は、記述の順序に関する創作性について、次のように評価する。
〈 一審判決は、「かつて鰊で栄えたが、その後、鰊が去って現在はさびれてしまった。しかし、追分全国大会という行事でかつての栄華が甦る」という記述の順序のつけ方が、創作性という点においていかなる評価を受けるか、という問題について、これを「独特の表現形式を取っている」と判断しています。つまり、この点に関し判決は次のように言っています。
《江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、‥‥との独特の表現形式を取っているものは他に見当たらない》(二一二頁八行目〜二一三頁二行目)
しかし、判決のこのような評価の与え方は、正直言いまして、文芸の世界に一般に通用している記述の順序のつけ方に関する創作性の評価というものと余りにも隔絶したひとりよがりなものと言わざるを得ません。なぜなら、こうした《かつて栄華があり、それが去り、それとは別なもので一瞬その栄華を取り戻す》という構造で物語を構成する作り方というのは、過去には戻れないけれどそれと類似したものを、祭や祭礼や儀式として一瞬だけでも取り戻すという形で「死と再生の物語」といっていいものでして、非常に類型的なストーリーパターンに該当するものと一般に考えられているからです。実際、こうしたストーリーパターンは、基本的に、現在、地場産業や経済的な繁栄を失った地域が、年一回のイベントを観光資源として、賑わいを取り戻すために宣伝する場合には、しばしば用いられる極めてパターン化した表現といってよいでしょう。この意味で、本件プロローグにおける記述の順序のつけ方には、特段、彼の独創性や創作性というものを認めることはできないと思います。〉(五四頁一四行目〜五六頁三行目)
2、原判決が行った、「創作性」を肯定する評価のやり方
では、原判決は、どのような経験則或いは論理に従って両作品の表現形式の「創作性」を肯定したのか。
(1)、ひとつは、小森陽一氏が前述した通り、次のように事実の選択の仕方に「創作性」を認めた点である。
《江差町に関し、前記の百科事典に記載されているような一般的知見に属する事柄の中から、江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらしたこと、鰊の去った江差にその面影がないことを選択して述べ》(二一二頁一〜四行目)
しかし、この程度の事実の選択の仕方に「創作性」を認めるのがおかしいことは、九二頁に前述した小森陽一氏の意見により明らかである。
(2)、次もまた、小森陽一氏が前述した通り、次のように記述の順序に「創作性」を認めた点である。
《江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、‥‥との独特の表現形式を取っているものは他に見当たらない》(二一二頁八行目〜二一三頁二行目)
しかし、このような記述の順序に「創作性」を認めるのがおかしいことは、九四頁に前述した小森陽一氏の意見により明らかである。
(3)、さらに、次のように描写の仕方に「創作性」を認めた点である。
《江差町が江差追分全国大会のときに一年に一度かつての栄華が甦る、ないし、かつての賑わいを取り戻す様子を描写しているとの表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合するものである》(二一二頁四〜七行目)
《江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、鰊漁で栄えたころの江差町の過去の栄華と鰊漁が不振になった現在の江差町の様子を描写し、‥‥との独特の表現形式を取っているものは他に見当たらない》(二一二頁八行目〜二一三頁二行目)
しかし、次の小森意見書の解説からも明らかなように、これは、もともと「語り」に属する事柄を「描写」と混同したものにほかならず、もし正しく「描写」の意味を理解したならば、原判決の判断とは反対に、「描写」に関して両作品がいかに異質なものであるかが分かるであろう。
〈 しかし、これは本来「語り」に属する事柄を「描写」と混同して理解しているものにほかなりません。といいますのは、現在の文学研究においては、小説や物語等の作品はまず「会話」と「地の文」に分けられ、さらに後者は、「語り」と「描写」という二つの形式に分けられています。ここで「語り」というのは、物語を進行させていく上で、いわば語る主体が物語を要約しながら言語化していくという、語る主体の側に力点が置かれた言語表現のことです。それに対して、「描写」というのは、そこで語られている対象について具体的な事例をあげ、多くの場合は、その対象をめぐる知覚感覚的な経験が読者の側で再現できるようなかたちで叙述を選択した場合、これを描写と呼ぶわけです(*注3)。
したがって、本件プロローグにもし「描写」と呼べる部分があるとすれば、それはかつてニシン漁で賑わった四月から五月にかけてどのような状況が江差に起きるのかを具体的に描いた部分、これが「描写」といえる表現ということができます。そして、また同じ五月において、現在はその栄華が跡形もないということをめぐる浜辺や江差町についての具体的な事例を通して、やはり「描写」と呼ぶことのできる表現があります。
けれども、被告の本件ナレーションにはこういった「描写」とよべる部分は一つもなく、基本的にすべてが「語り」というかたちで統一されています。しかも、それは、「語り」の英訳がナレーションであることからも明らかなように、元々ナレーションという性格から来るものなのです。そういう意味では、映像作品においては、「描写」は映像が担当するわけです。そして、被告番組の本件ナレーションに対応する部分の映像を見ても、そこで表現されている「描写」は、前述した通りもっぱら現在の江差の町の様子であって、本件プロローグで表現された「描写」と全く違うことも分かります。
こうして、正しい意味において、両作品における「描写」という観点に着目したとき、両作品の異質さがますます明らかにされたというべきでしょう。その意味で、「描写」という点で両作品に同じものがあるとした一審判決の判断は、現在の文学理論から見たら全く妥当性を欠くもので、一審判決はまさしく「描写」と「語り」を混同しているといってよいでしょう。
事実、そういう混同しているということが、判決文中で、本件プロローグの表現を引きあいに出すに際しても顕著にあらわれています。つまり、本来なら正確に本件プロローグの表現を記述すべきところ、これをするにあたって、こともあろうに相手側の本件ナレーション中の「一年に一度」という記述を付け加えて、江差町が江差追分全国大会のときに《一年に一度かっての栄華が甦る》(二一二頁五行目)と記述し、あたかもそれが本件プロローグの表現であるかのように装い、それと本件ナレーションの《かっての賑わい取り戻す》(同頁五〜六行目)様子を描写する表現と《両者符合するもの》という結論を導いてしまっているという杜撰な点にもあらわれていると思います。〉(五六頁終りから二行目〜五九頁一行目)
二、作者の内面から出発して創作性を評価するやり方の誤り―「文学的独創」という創 作性の評価の誤り――
表現形式の「創作性」の評価という問題には、一で前述した「創作性」が果してありやなしやという判断の問題以外にも、その判断の問題に関連して、或いはその判断に至るプロセスにおいてなお種々の厄介な問題に逢着することがある。そのひとつが古くから根深くある「作者自身の内面から出発して創作性を評価してしまう」という問題であり、原判決も、この問題で誤った経験則を採用してしまったのである。
すなわち、本来の正しい経験則から言えば、実際に外部に表現された作品の表現形式というものから出発して、その表現形式の創作性を評価すべきであったのに、原判決は、誤って著作物の実際の表現形式から離れて、著者自身の内面から出発して、表現形式の「創作性」を評価してしまった。そのため、本来の正しい経験則に則って本件の表現形式の創作性を評価すれば、原判決のように表現形式の「創作性」を見出すことは困難だったにもかかわらず、原判決は、この誤った経験則に基づいて表現形式の「創作性」を肯定してしまい、なおかつそれが両作品に共通するとして、翻案権侵害を肯定する有力な根拠にしたのである。それゆえ、原判決がここで採用した経験則は、著作権法二六条の適用を誤らせ、その結果、判決に影響を及ぼした違法なものと言わざるを得ない。以下、その理由を詳述する。
1、表現形式の「創作性」を評価するやり方について
表現形式の「創作性」をどのような手続を経て評価するのかという点について、作品分析に関する現在の文学研究のレベルは、実際に外部に表現された作品の表現形式というものから出発して、その表現形式の創作性を評価するのが常識的な知見になっている(小森意見書四五頁参照)。もっとも、これに対し、かつて我が国をかなり長い間支配した「作者中心主義」という立場(*注1)の影響もあって、著作物の実際の表現形式から離れて、著者自身の内面から出発して、表現形式の「創作性」を判断できるのだという考え方が、なお一般人の間に、かつての天動説のように根深く残っているように見受けられるが、しかし、現在の文学研究のレベルではそれが偏見であることが明確にされている。
しかも、文学研究の立場のみならず、著作権法上の観点からも「作者中心主義」を採ることはできない。なぜなら、著作権法の立場からすれば、翻案権の問題とはもともと或る著作物の著作者のことなど基本的には何も知らない第三者が、その著作物にアクセスして、その表現を参照・利用する場合の自由利用の客観的な限界を定めるものであって、そこではその第三者が、著作者の特有な思想・感情についていちいち既知であることは予定していない。第三者の前にあるのは著作物というテキストそれだけである。従って、著作物の実際の表現形式から離れて、第三者には通常知り得ない著作者の特有な思想・感情に基づいて、その著作物には特有な独創的な表現があると評価され、その部分の利用の法的な責任を取らされるとしたら、以後、第三者は安心して著作物だけを見て判断することはできなくなる。その著作物の著作者の特有な思想・感情について知るために必要な情報を得ておかなければならなくなる。このようなすこぶる不安定な帰結をもたらす、右の考え方が著作権法の立場から到底採用できないことは明らかである。
*注1
長らく世を支配した「作者中心主義」という考え方について、小森陽一氏は次のように解説する。
《 言葉を生産し、作品としていまに残るかたちで文学に定着させたのは表現者なのだから、すべての言葉の働きは、表現者の意図に刺し貫かれており、テクストは表現者の思想をこそあらわすものであり、読者はテクストを仲立ちとして、そこに表現者の言おうとしたこと、表現者の考えを忠実に読みとるべきであるという立場です。この立場は、一言で言えば<作者中心主義>と名づけることができるでしょう。すべての言葉の意味は表現者である作者の人格的主体に還元していくような読み方は、かなり長い間支配的だったように思います。》(小森陽一「読むことへの複製性」)
2、原判決が行った、「文学的独創」という評価を導くやり方
ところが、原判決は、本件プロローグの結末部分の表現が「文学的独創の部分であり」という評価を下すにあたって、次のような手順を踏んだのである。
《現在の江差町が一年で一番賑やかになるのは、姥神神宮の夏祭のときであることが江差町民の一般的な認識であり、江差町が江差追分全国大会のときに「幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎え……町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく」との認識は、一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり、》(二一〇頁一〇行目〜二一一頁四行目)
そして、そこから次のような結論を導いたのである。
《いわば本件プロローグにおける文学的独創の部分であり》(二一一頁四〜五行目)
しかし、このような考え方こそ、前述した通り、また次に掲げる小森意見書の指摘通り、さらに、我が国の代表的な映画監督黒澤明と代表的なアニメ監督宮崎駿がいみじくも指摘する通り、著作物の実際の表現形式から離れて、著者自身の内面から出発して表現形式の「創作性」を評価する誤ったやり方にほかならない。
〈 これによると、「結末」部分の表現に独創性が認められる理由は、それが《江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であ》るからだ、ということになります。つまり、原告の内心の認識が一般とは異なる特有な認識であることが、表現の創作性をもたらしたのだという考え方です。しかし、ここで問題にしているのは表現の創作性、独創性のことであって、それはあくまでも現実にテキストに表現としてあらわされたものから読み取るしかないものなのです。したがって、もし現実のテキストには表現としてあらわれていない場合には、たとえテキストの背後に、その表現にはあらわれていないところで、いくら作者自身の内心の認識が特有なものであったとしても、その認識が言葉として特有な表現として語られていない以上、テキストからそうした認識なり情熱なりを読み込むことは不可能なことであり、そのような場合、著作権の問題を争う余地は全くないと思います。
その意味で、一審判決の創作性を評価するやり方というのは、誤っていると言わざるを得ません。〉(小森意見書四六頁一一行目〜四七頁七行目)
〈宮崎 一番困るのは自分の映画について、あれこれ聞かれることなんですね。自分 の思いはフィルムに全部出ているというふうに思っているので。
黒澤 それはそうです。
宮崎 出なかったところは弁解しても仕方ないと。
黒澤 だから、お客さんが入っているときに、よく舞台で挨拶してくれと頼まれる けれど、いうことは何もないんですよ。いいたいことを作品にしてるわけでしょ。
宮崎 そうなんです。「テーマは何ですか」なんて聞かれると頭に来ます(笑)。
黒澤 あれは困りますね。〉(黒澤明V宮崎駿「何が映画か」二九頁。参考文献一五)
〈宮崎 ‥‥要するに、映画を作る人間はフィルムがすべてです。黒澤監督自身が自 伝(『蝦蟇の油』)のなかで、「作品以上に、その作品について語っているも のはない」とおっしゃっている。その通りなんだと思いますね。あとは余計なこ とだというふうに本人も思っていらっしゃるし、僕もそう思っています。〉(同書一六六頁。参考文献一五)
3、原判決の右経験則違反が判決にもたらす影響
そこでもし、原判決が右のような間違った立場に立って「創作性」を評価するのではなく正しく評価した場合には、どのような結果になったであろうか。
この点について、小森意見書は、次のようにいう。
〈2、では、正しい意味での創作性を評価するやり方に従って、本件プロローグの結末部分の創作性を評価しようとした場合、それはどのようになるでしょうか。
それは、たとえ本件の木内氏が自身の内面で江差追分に対してどのような特有な情熱なり特有な認識なりを抱いておられようが、とりあえずそれを脇に置いて、まずは現実に表現されたテキストから出発することです。すると、この結末部分には次のような記述がなされています。
「その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。日本じゅうの追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるのだ。町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く」
ここで、この部分の記述の独創性を考えるうえで重要なポイントになるのが、この記述のなかに現れてくる出来事と出来事の間にどのような因果関係が伏されているのか、ということです。つまり、ある出来事と出来事の間には、その著者独自の因果関係のつけ方によって出来事の意味が変わってくるものです。それゆえ、筋・構成について表現の独創性を問題にするときには、まずそのことを問題にしなければならないのです。そこで、この結末部分の表現が、発端との関係で、どういう因果関係を持っているかを議論する必要があります。
まず、「場所」に関しては同じ江差です。そして、その江差という言葉が指示するのは、発端部分の昔ニシン漁で栄えたところの江差と、ニシンの去った江差をここでつないでいるわけです。さらに、「九月の二日間だけ」という期間の限定は、発端部分における、かつて栄えていたころの「四月から五月にかけて」のニシン漁の期間と、江差追分全国大会が開かれる期間とが明確に対比されていることになります。
そして、次の「とつぜん幻のようにはなやかな」という記述は、発端部分において、むかしニシン漁で栄えていたころは、出稼ぎのヤン衆たちが江差を訪れ、そして彼らを迎える遊廓の女たちとの間で宴の席で江差追分が歌われていたことが描かれ、そのことがさきほども説明したように「すいた同士の泣き別れ」という追分の前歌の引用により強調されていました。つまり、発端部分においては、かつてはニシン漁に外からやって来るヤン衆たちと彼らを迎える江差の遊廓の女たちがいて、その彼らの間で歌われていた江差追分があったことが記述されている。これに対し、結末部分では、現在ではそのニシンもなく、またニシンをとりに来るヤン衆たちもなく、そして、女たちもいない。つまり、かつてのニシン漁との関係で、江差追分を江差町で口ずさんだ人たちは誰もいないところで、現在の九月の二日間だけ、江差追分だけが歌われているという、それが「とつぜん幻のようにはなやかな」という比喩的な表現として強調され、非常に鮮烈な対比が施された形で因果関係が創り出されているわけです。
したがって、本件プロローグにおける「発端」部分と「結末」部分が因果関係でつながれる最大の要は、江差追分の歌そのものが、前述したごとく、極めて象徴的に取り出される形で記述されていることにあるといえましょう。
そしてまた、そうであるがゆえに、わずか「九月の二日間だけ」、ニシンもヤン衆も女たちもいないところで江差追分の歌だけが歌われる。そして、その江差追分の歌が歌われる江差追分全国大会の会場が、本件プロローグに続く「九月の熱風」の本文に記述されているように、かつてのニシン漁のときのヤン衆や女たちのにぎわいを彷彿とさせるような、そういう雰囲気に包まれる。そのことを表わす描写の言葉として、「かつての栄華が甦ったような」という直喩が強調され、しかもそれが極めて一瞬であることを強調するために「一陣の熱風が吹き抜けていく」という形で、このにぎわいが「一陣の熱風」に喩えられているわけです。
このように、江差追分という歌によって、或いはもっと正確に言えば《外から江差町にやって来る人々》によって歌われた江差追分という歌によって、江差の過去と現在とが非常に鮮烈な形で対比され、つながれるところに、木内氏の本件プロローグの文学的な表現上の特徴があるということができると思います。
3、本件ナレーションの結末部分の創作性について
では、これに対し、NHKの本件ナレーションの結末部分というのは、どういう表現上の特徴を持っているでしょうか。
本件ナレーションは、「発端」のところで、この江差追分の歌については一切触れられていません。そして、「結末」部分で、ただ、九月に江差が「年に一度、かつての賑わいを取り戻し」、そのことの現れとして江差追分の全国大会が開かれるという事実が述べられているだけです。そして、前述した通り、本件ナレーションでは、江差という町が主体とされて、その町の賑わいについて語られているのです。
従って、本件ナレーションにおいては、本件プロローグのように江差追分という歌によって、江差の過去と現在が対比され、つながれているのではなく、単に、町自体が賑わっているかどうかという点において、江差の過去と現在が対比され、つながれるという構造になっていることが分かります。その意味で、「結末」部分の表現上の特徴についても、両作品はかなり異質であると判断せざるを得ないと思います。〉(四七頁八行目〜五一頁八行目)
つまり、著作物の実際の表現から出発するという本来のやり方によれば、本件プロローグの結末部分の創作性について、次のような評価が得られた筈である。
〈江差追分という歌によって、或いはもっと正確に言えば《外から江差町にやって来る人々》によって歌われた江差追分という歌によって、江差の過去と現在とが非常に鮮烈な形で対比され、つながれるところに、木内氏の本件プロローグの文学的な表現上の特徴があるということができると思います。〉(小森意見書五〇頁七〜一〇行目)
そして、同じく著作物の実際の表現から出発するという本来のやり方によれば、本件ナレーションの結末部分の創作性については、次のような評価が得られた筈である。
〈本件ナレーションでは、江差という町が主体とされて、その町の賑わいについて語られているのです。
従って、本件ナレーションにおいては、本件プロローグのように江差追分という歌によって、江差の過去と現在が対比され、つながれているのではなく、単に、町自体が賑わっているかどうかという点において、江差の過去と現在が対比され、つながれるという構造になっていることが分かります。〉(小森意見書五一頁四〜七行目)
その結果、〈「結末」部分の表現上の特徴についても、両作品はかなり異質であると判断せざるを得ないと思います。〉(小森意見書同頁七〜八行目)という結論が導かれた筈である。
従って、原判決が最も重視した両作品の「結末」部分の同一性について、もし表現形式の「創作性」の評価について正しい経験則を採っていれば、これを認めることはできなかったにもかかわらず、この経験則に著しく反する立場を採ったために、表現形式の「創作性」とその同一性を肯定して翻案権侵害肯定の有力な根拠としたものであり、この経験則違反が判決に影響を及ぼした違法なものであることは明白である。
三、著作物の「同一性」の評価に関する誤り――表現形式の同一性と表現内容の同一性を混同する誤り――
表現形式の「創作性」を評価する手続の途上において、古くから我々を惑わしてきた問題の一つに「表現形式と表現内容の混同」という問題がある。
すなわち、もともと著作権法二六条の適用にあたって、著作物の同一性の判断をするのは、言うまでもなく表現内容の同一性のことではなく、表現形式の同一性についてである。従って、創作性を問題にする対象もまた、そこでいかなる方法で表現されているか(=表現方法)をめぐってであって、いかなる内容が表現されているか(=表現内容)ではない。
ところで、これは一見自明のことのようで、しかるに、往々にして両者は混同され、その結果、「表現内容の創作性」をもって「創作性」ありと判断してしまうことがあるのである。なぜなら、日常、いかなる認識や結論を採るのかといった表現内容を重視する思考に人々は慣らされており、また、著作権裁判の場においても、「表現内容が異なる以上、もはや著作権侵害はあり得ない」という論法で表現内容を論争する機会がしばしばあるからである。
そして、本件の原判決もまさしくその誤謬に陥ったものであり、それが以下のくだりである。
《本件ナレーションも、「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」と述べ、この点を本件ナレーションの結論としている点で本件プロローグと同一である。》(二一一頁六〜九行目)
つまり、ここで原判決は、いかなることを言っているかという両作品の結論の同一性に着目して、ここから著作物の同一性を認めて翻案権侵害を肯定する根拠の一つにしているのである。それはまさしく《結論》という表現内容に属する事柄の同一性をもって著作物の同一性としたものであって、著作権法二六条の適用を誤り、判決に影響を及ぼした違法なものと言わざるを得ない。
この点について、小森意見書も以下の通り、同様の評価をしている。
〈六、同一性を判断する対象について――表現形式と表現内容との峻別の必要性――
1、次に、一審判決は、同一性の判断の対象を、「どのように」表現されているかという表現形式のレベルではなく、「何が」表現されているのかという表現内容のレベルに求めてしまっています。つまり、判決は次のように言っています。
《本件ナレーションも、「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」と述べ、この点を本件ナレーションの結論としている点で本件プロローグと同一である。》(二一一頁六〜九行目)
つまり、ここで判決は、両作品が「この点を結論としている点で同一である」と判断しているのです。これはまさしく、どのように表現されたかというレベルにおいて同一であると言っているのではなくて、「結論」という表現された内容について同一であると言っているのです。このことは、判決がすぐ前のところで、
《‥‥との認識は、一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり、‥‥本件プロローグの結論となっている部分である》(右同頁三〜六行目)
と、原告の認識(これは取りも直さず、表現の中身である表現内容に属することです)のことを論じていることからも明らかです。
このような同一性の評価の仕方が、本来、表現内容ではなく、表現方法の同一性を問題にする著作権法の判断として相応しいものか、疑問に思えてなりません。〉(五一頁九行目〜五二頁一一行目)
四、本件番組の部分である本件ナレーションの評価の仕方の誤り
1、「創作性」の正しい評価にとって必要な本件ナレーションの評価の仕方について
「創作性」を正しく評価するためには、その著作物のジャンル固有の表現形式上の工夫というものを十分にわきまえておく必要があることは、第六、一(四一頁)で前述した通りである。
本件において、そのことが最も意識されて然るべきなのが、本件ナレーションの表現形式上の工夫を評価するときである。なぜなら、一審判決の目録四だけ眺めていると、本件プロローグと同様、本件ナレーションも一見ただの言語表現で済むように思えてしまうが、しかし、本件プロローグが純然たる言語表現で《目で文字を読む読者の脳裏にイメージが浮かぶように》(別紙二意見書二頁八行目)表現上の工夫が施された言語著作物であるのに対し、本件ナレーションはそれ自体で独立した言語表現ではなく、あくまでも総合芸術である映画著作物の中の構成要素として存在するもので、それゆえ、映画著作物の中の一要素として《目から文字を読むのではなく、耳から聞いてさっと理解してもらう必要がある訳で、そのため一般的に万人に分かりやすい表現を目指すという特徴》(別紙二意見書五頁下から一〇行目)つまり本件プロローグとは全く異質な表現上の特徴を有するものであるからである。
こうした本件ナレーションと本件プロローグとの間における表現形式上の工夫のあり方の違いを理解すれば、映画監督今村昌平氏及びTVプロデューサー吉永春子氏が次のような指摘をする意味が、よく分かる。
@今村昌平
〈ドキュメンタリーの命は映像だから、オリジナルの映像が勝負だ。これに比べればナレーションは単なる説明にすぎず、ましてやNHKのナレーションは冒頭の導入部分の紹介にすぎない。
こんな紹介のところで、オリジナリティを振り回されてはかえって困る。〉(別紙三の一設問2)
A吉永春子
〈TVドキュメンタリーの場合、秒単位で映像とナレーションをいれてゆく必要があります。その時には視聴者を出来るだけ短時間でテーマに集中させる必要があります。特にこの部分は番組のイントロというか出だしの所だけに、廻りくどい表現は避けなければなりません。
この為「江差町には他にも幾つかの大きな催しものがある」などの表現は、残念ながら避け、端的に番組のテーマとなるべきものに近い大会をアッピールする必要があるのです。〉(別紙三の五設問3)
以上述べたようなことは、むろん映像表現の世界でもまた著作権の判例の世界でも既に常識に属することである。(別紙一小森意見書四四頁一〇行目以下・別紙二意見書一頁下から六行目以下・別紙三の四設問1。「冷蔵倉庫設計図事件」大阪地裁昭和五四年二月二三日判決、参考文献九)
2、原判決の行った本件ナレーションの評価の仕方
ところが、原判決は、この点を全く自覚しておらず、単に、本件ナレーションの言語だけを言語著作物たる本件プロローグの言語と比較すれば足りるとした。その結果、本体である映像表現のことを踏まえて本件ナレーションを理解すれば、両作品の表現形式上の違いが明確に理解できたにもかかわらず、原判決はこうした評価を全くせず、ただ単に本件ナレーションの言語だけで評価したため、小森意見書が次に指摘する通り、誤って両作品の同一性を導いてしまった。
〈もともとドキュメンタリー番組というのは映像を中心とする表現であり、ナレーションはその映像表現を補足する説明のようなものですから、ナレーション部分の表現を評価するにあたっては、ナレーションに対応した本体の映像表現がいわんとするところを踏まえて、それとの関係でナレーションの表現の意味を明らかにしていく必要があるわけです。
たとえば、これも既に言いましたが、本件ナレーションは、その発端の冒頭部分は、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。」で始まります。そして、これに対応する本体の映像部分は、現在の江差の漁港の光景です(上告理由書の別紙四参照)。この映像表現とナレーション表現とを考え合わせると、本件ナレーションの冒頭で焦点を当てているのは、あくまでも《小さな港町である現在の江差町》であることが分かるわけです。
ところが、一審判決は、こうした観点から本件ナレーションの表現を評価しておらず、単に本件ナレーションの文字表現だけを読んでいったために、正しくナレーションの表現が意味するところを把握できず、たとえば本件ナレーションの冒頭のことを《「(一)江差町が古くは鰊漁で栄え、》(二〇六頁七行目)と間違って評価してしまい、そこからさらに間違って、本件プロローグとの共通性を導き出してしまっているのです。これは映像作品に対する読みが全然できていないことを如実に示すものといえましょう。
その意味で、一審判決は、本件ナレーション部分の表現を正しく評価するために、もう一度、これに対応する本体である映像表現に立ち返って、その映像表現がいわんとするところを踏まえて、それとの関係でナレーションの表現の意味を明らかにしていく作業を行なう必要があると思います。〉(四四頁一〇行目〜四五頁末行)
従って、以上の通り、原判決が本件ナレーションの評価に際して採用した作品分析に関する経験則は、著作権法二六条の適用を誤まらせ、判決に影響を及ぼした違法なものと言わざるを得ない。
五、外面的な表現形式の対比の仕方の誤り
翻案権侵害の成立要件に外面的表現形式の同一性の判断を持ち込むことが誤りであることは、既に、第七、三(七五頁以下)で指摘した通りであり、本来ならこれで議論は尽きている。
しかし、ここでは、原判決が内面的な表現形式にとどまらず、外面的な表現形式においてもまた、いかに「創作性」の判断という難問(本件では、正確には「事実に関する表現における創作性」の判断という問題)で躓いたかを明らかにするため、またその結果、ここでも原判決の採用した経験則が著作権法二六条の適用を誤らせ、判決に影響を及ぼした違法なものであることを明らかにするために、以下に、外面的な表現形式の「創作性」の判断に関する原判決の誤りを指摘しておきたい。
この点に関する原判決の最大の誤りとは、一言で言って、事実に関する表現における「表現形式と素材との違い」というものを全く自覚しておらず、そのため、「事実に関する表現における創作性」というものを正しく評価できないという点にある。では「表現形式と素材との違い」とは何か。これについて、小森意見書は次のように解説する。
〈 ここで「素材と表現形式の峻別」ということについて若干の解説をしますと、作品を考える場合には、その作品を成立させているいくつかの要素を、きちんと理論的に分類し区別しておく必要があります。それが
@.まずその作品を成立させるもとになった素材の問題と、
A.その素材が言語化され、作品の構成の中にどのように組み込まれているのかと いう言語表現の問題であり、これらをきちんと区別する必要があります
とりわけ本件の二つの作品では、いずれも江差町や江差追分大会といった実在の町や催しを素材にして、事実として実際に起こった様々な出来事を素材にしているため、@の素材は共通にならざるを得ません。従って、本件のような作品において表現の独自性が発揮されるところというのは、専らAの局面、つまり、共通する素材をどのように異なった形で言語化し、どのような構成方法のもとに配置して、どのように全体の物語を形成するかという言語表現のところになります。それゆえ、作品の同一性を検討するときもこの@の素材の問題とAの言語表現の問題とを混同してはならないわけです(もちろん対比する以上、Aの言語表現のレベルで検討しなければならないということです)。〉(六一頁六行目〜六二頁四行目。ちなみに、ここで語られている見解は、かつて、実在の人物マダム貞奴の生涯を素材にしたNHK大河ドラマ「春の波涛」の著作権侵害事件の一審(名古屋地裁)において、被告NHKの書証として提出された小森意見書(乙一二三)の中で展開されたものと同じであり、一審裁判所は、この見解に立脚して原告の複製権侵害の主張を斥けたものであり、その判断は昨年、最高裁で確定している。)
ところが、原判決は、小森意見書が次に指摘する通り、この肝心な@の素材の問題とAの言語表現の問題とを完全に混同している。
〈なぜなら、一審判決がここで対比をしようとしているのは、《古くはニシン漁で栄え》《「江戸にもない」という賑わいをみせた》《豊かな海の町でした》《ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません》《九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します》《民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです》《大会の三日間、町は一気に活気づきます》といった、いずれも歴史的な事実として過去に起こった或いは現実に起きている出来事についての記述、すなわち@の素材のレベルのことが殆どだからです。
具体的に見てみますと、
a《古くはニシン漁で栄え》というのは、これだけ短い語句について創作性を云々することは本来無理なことです。しかも、これは歴史的な事実を簡潔に表現したものであって、まさにこれ以上言い換えようがないくらいの辞書的な表現です。こういう事実を表現しようと思ったら、誰でも似てこざるをえません。もしこれと似た表現を使うなというのであれば、江差についての説明はできないことになります。
b《「江戸にもない」という賑わいをみせた》という表現も基本的には同じです。しかも、ここで両作品に共通しているのは、「江戸にもない」だけです。ところが、この部分は、本件プロローグ自体に《「‥‥江戸にもない」の有名な言葉が今に残っている》と木内氏が記述しているように、この部分というのは既に多くの人々に知られた常識的な言葉なわけです。従って、このような部分において、創作性云々をいうことはできない筈です。
cそして、《豊かな海の町でした》については、これに対応するとされる本件プロローグの《鰊がこの町にもたらした莫大な富》というのは、北前船の交易により得たお金や、前述したように、外から来たヤン衆とそれを迎え入れる廓の女たちがいて、そこでニシン漁で稼いだヤン衆たちのお金が落ちていくことを指しています。そして、本件プロローグは、そのお金のことを具体的な事例をあげて描写しています。これに対し、NHKの本件ナレーションの《豊かな海の町でした》というのは、「豊かな」は二つのかかり方をして、「ニシンが来る豊かな海」と「ニシンがもたらした豊かな町」にかかっています。そういう二重のかかり方をしていて、その意味でもこの部分の両作品の表現の構造は違っているといえます。
dさらに、《ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません》にしても、これもまた普通、辞書・辞典などに書かれているような辞書的な記述でして、いわば江差町の定義にかかる基本的な常識的な知見の範囲のことです。こうした表現が似ていて使っていけないというのでは、江差についての説明は不可能になります。
e《九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します》にしても、前述しました通り、これは、地場産業や経済的な繁栄を失った地域が、年一回のイベントを観光資源として賑わいを取り戻すために宣伝する場合にしばしば用いられる極めてパターン化した表現といってよく、こうした極めて常識的な言い方に創作性を云々することは考えられません。
もっとも、これに対応するとされる本件プロローグの記述「その江差が九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。」には、共通する素材を作者固有の工夫で言語化したと思われる箇所があります。それが、第三、二6(二)(三七頁以下)や第四、五2(四七頁以下)で前述しましたように、発端部分との対応関係を意識し工夫して表現された「一年の絶頂を迎える」という行為(What)についての表現の仕方と「とつぜん幻のようにはなやかな」といういかにして(How)についての表現の仕方のところです。
しかるに、この二つの表現に類似した言い回しは、NHKの本件ナレーションには全く登場しません。なぜなら、本件ナレーションにおける行為(What)の表現は「かつての賑わいを取り戻します」であり、いかに(How)の表現は「年に一度」だからです。その意味で、本件プロローグの記述中に見られる木内氏の創作的な表現は、他方の本件ナレーションの中に見出すことはできず、したがって、両作品の表現方法は非常に異質であると言わざるを得ません。
f《民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです》も同様です。このような表現を使っていけないなどとは誰ひとり思わないでしょう。
もっとも、ここでも、これに対応するとされる本件プロローグの記述「日本中の追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるのだ。」に、やはり素材を作者固有の工夫で言語化したと思われる箇所があります。それが「日本中の追分自慢を一堂に集めて」というくだりです。ここで、単に「江差追分全国大会が開かれるのだ。」としないで、わざわざ「日本中の追分自慢を一堂に集めて」と言い足したところに、第三、二2(一)(4)(二一頁)で前述しましたように、発端部分との対応関係を意識し、《外部から江差町にやって来る人々》のことを強調するために作者がわざわざこういう言い方を工夫したのだといえるでしょう。
しかし、このような言い方は、NHKの本件ナレーションには全くありません。その意味で、両作品の表現方法は非常に異質であるといえましょう。
g最後の《大会の三日間、町は一気に活気づきます》にしても同様です。年一回のイベントを観光資源として賑わいを取り戻すために宣伝するような場合に、よくこういう言い方をするものです。〉(六二頁七行目〜六六頁一一行目)
また、ドキュメンタリー映画監督の原一男氏も、本件プロローグの外面的表現形式の創作性に関して、次のような評価をする。
〈もともとドキュメンタリー制作というのは、取り扱う素材について、可能な限り参考資料を集め、きちんと読むのが基本です。勝手な空想で作ってはいけない訳ですし、むしろそういった参考文献にちゃんと目を通していないほうが問題なくらいです。従って、いくら自分なりのものを制作していったとしても、共通の素材を扱っている場合には先行する参考資料の表現と似てくる部分が出るのはよくあることなのです。‥(中略)‥
番組全体がそもそも原告の作品の盗用となると、ちょっと問題ですが、そういうことではなくて、ちゃんと独自のものとして制作された以上、そういうときに、共通の素材を扱っている場合に先行する参考資料の表現と否応なしに似てくるものがあって、それを著作権違反だよと言われると、私としては「それじゃ何も表現できないよ」と反発したくなるくらい、ものすごく窮屈な思いがしますね。
たとえば、原告の前半の「『出船三千入船三千、江差の五月は江戸にもない』の有名な言葉」という表現ですが、これは「有名な言葉」として既に存在する訳ですね。‥(中略)‥
それに対し、被告のナレーションでは「江戸にもない」となっていて、そういうのが似ているというので著作権違反を言われたんじゃ、これは表現者としてはとてもつらいですよ。
或いは、原告の冒頭の「むかし鰊漁で栄えたころの江差」というのと、被告の「江差町。古くはニシン漁で栄え」というのは、確かに似てはいますが、でも、これは誰がやってもだいたいこうした表現になるんじゃないでしょうか。
或いはまた、原告の中ほどの「鰊の去った江差に、昔日の面影はない」というのと、被告の「ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません」というのもこれまた確かに似てはいますが、しかし、これもまた誰がやってもだいたいこうした表現になるしかないと思います。つまり、これらは、共通の事実に基づき、しかもそれを万人に分かりやすく伝えようとするものですから、そうすると自ずとそのような表現は似てくるものなのです。だからもし、「今はその面影を見ることはできません」という言い方を、原告の「昔日の面影はない」という言い方と似ていないように言い換えようとしたら、どうしたらいいんでしょうか、ちょっと思案に暮れますね。〉〈別紙二意見書二頁末行〜三頁二九行目)
こうして、原判決は、本来、外面的表現形式の創作性が認められない表現について、これを誤って認めて、翻案権侵害の肯定する根拠の一つとしたものであり、この点において、原判決の採用した経験則は著作権法二六条の適用を誤まらせ、判決に影響を及ぼした違法なものであると言わざるを得ない。
第九、結論
以上から明々白々の通り、原判決は、著作権法二六条の解釈を誤ったものであり、さらに著しい経験則違反によりその適用を誤ったものであり、その結果、判決に影響を及ぼす重大な違反を招来したもので、その破棄は免れない。
以上
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