上告受理申立理由書(2に戻る


H 8. 9.30 東京地裁 平成03(ワ)5651 著作権 民事訴訟事件


       主   文

一 被告日本放送協会、被告布川憲二及び被告仁平雅夫は、原告に対し、連帯して金一八〇万円及びこれに対する平成二年一一月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告日本放送協会及び被告仁平雅夫は、原告に対し、連帯して金六〇万円及びこれに対する平成二年一〇月一八日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、原告に生じた費用の八分の三、並びに、被告日本放送協会、被告布川憲二及び被告仁平雅夫に生じた費用の各二分の一を、被告日本放送協会、被告布川憲二及び被告仁平雅夫の連帯負担とし、その余を原告の負担とする。
五 この判決は、第一項及び第二項に限り、仮に執行することができる。

       事実及び理由

第一 請求
一 被告らは、原告に対し、連帯して金六〇〇万円及び内金二〇〇万円に対する平成二年一〇月一八日から、内金四〇〇万円に対する同年一一月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告NHK及び被告仁平雅夫は、原告に対し、連帯して金二〇〇万円及びこれに対する平成二年一〇月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 被告谷本一之及び被告日本放送協会(以下「被告NHK」という。)は、原告に対し、北海道新聞全道版及び札幌市で発行する朝日新聞道内版の社会面に、別紙目録一及び二記載の謝罪広告を別紙目録三記載の形式で各一回掲載せよ。
第二 事案の概要
 本件は、原告が、
1 被告らに対し、
(一) 被告谷本が出演し、被告NHK函館放送局(以下「函館局」という。)の被告布川、被告仁平が共同して製作に関与し、被告NHK(函館局)が製作して北海道で放送したテレビ番組「ほっかいどうスペシャル・遥かなるユーラシアの歌声ー江差追分のルーツを求めてー」(以下「本件番組」という。)によって、原告が著作した小説「ブダペスト悲歌」(以下「本件小説」という。)の著作権(翻案権及び放送権)が侵害されたとして、著作権使用料相当損害金一〇〇万円、著作者人格権(氏名表示権)が侵害されたとして慰藉料五〇万円、及び、右各損害金に応じて案分した弁護士費用合計五〇万円についての共同不法行為による損害賠償、並びに、これらに対する共同不法行為後の遅延損害金の連帯支払いを、
(二) 本件番組の放送、被告NHKが行った本件番組の全国放送用の宣伝、被告布川の本件番組の視聴者に宛てた手紙、及び、新聞、週刊誌に掲載された本件紛争についての被告布川のコメントによって、原告の江差追分についての研究者及び本件小説の作家としての名誉権が侵害されたとして、慰謝料三〇〇万円及び弁護士費用一〇〇万円についての共同不法行為による損害賠償、並びに、これらに対する共同不法行為後の遅延損害金の連帯支払いを
2 被告NHK及び被告仁平に対し、本件番組の製作、放送によって、原告が著作したノンフィクション「北の波濤に唄う」の著作権(翻案権及び放送権)が侵害されたとして、著作権使用料相当損害金一〇〇万円、著作者人格権(氏名表示権)が侵害されたとして慰藉料五〇万円、及び、右各損害金に応じて案分した弁護士費用合計五〇万円についての共同不法行為による損害賠償、並びに、これらに対する共同不法行為後の遅延損害金の連帯支払いを、
3 被告NHK及び被告谷本一之に対し、右1(一)及び2の著作権及び著作者人格権侵害行為により、著作権法一一五条に基づく別紙目録一記載の謝罪広告の掲載、並びに、右1(二)の名誉毀損行為により、民法七二三条に基づく別紙目録二記載の謝罪広告の掲載を
それぞれ求めるものである(被告NHKについては、右1ないし3の被告布川、被告仁平の行為についての民法七一五条に基づく使用者責任を含む。)。
一 基礎となる事実
1 当事者等
(一) 原告は、朝日新聞に勤務する傍ら、江差追分に関するノンフィクション「北の波濤に唄う」(昭和五四年三月三〇日講談社発行、昭和六〇年一月二〇日朝日新聞社(朝日文庫)発行)、及び、江差追分の起源を一つのテーマとした本件小説(平成元年四月一〇日新潮社発行)を著作した。(甲一、二、二二、乙一〇四)
(二) 被告NHKは、平成二年一〇月一八日、本件番組を北海道でテレビ放送した。(争いがない。)
(三) 被告谷本は、本件番組放送当時、北海道教育大学学長であり、かつ、ハンガリー音楽の研究者であるとともに、アイヌ音楽、エスキモー音楽等の北方民族音楽のすぐれた研究者でもある。(争いがない。)
(四) 被告仁平は、本件番組放送当時、被告NHKの函館局放送部副部長であり(争いがない。)、本件番組製作の現場責任者として、同局職員太田浩一朗(以下「太田」という。)を指揮するなどして本件番組の製作に関与した。(乙一二、一〇二、一一二、被告仁平)
(五) 被告布川は、本件番組放送当時、函館局放送部長であり(争いがない)、本件番組の製作について被告仁平及び太田を監督する立場にあった(乙一一二、被告仁平)。
2 本件小説の内容
(一) 本件小説の概略は、概ね次のとおりである。(甲一)
(1) 組織の主流からはみ出した社会部の新聞記者の秋間は、三年前から休暇を取っては江差町に出かけるようになり、追分節に託して自分の胸中を描いたノンフィクション「彷徨える旋律」という本を執筆したが、その本がきっかけで、日曜版に連載する「世界歌物語」の執筆スタッフに抜擢された。
(2) 秋間は、そのころ、札幌の大学で民族音楽論を講じる谷川英之と会い、ハンガリーのセーケイ教授より、最近ブダペストの国立音楽アカデミーにある録音テープの中から、日本の追分節とウリ二つの曲が見つかったとの連絡を受けたとの話を聞き、右の曲と追分節との関係を探り、世界歌物語を執筆するため、ハンガリーへ取材旅行をすることになった。
(3) 秋間は、ブダペストで、セーケイ教授から江差追分とウリ二つの曲のテープを聞かされ、かつ、その曲が葬送歌であるとの説明を受け、江差追分も葬送歌である旨を説明した。
(4) セーケイ教授によれば、右葬送歌は、四、五世紀ころからウラル山脈に居住しているオスチャークやヴォグールによって現在まで歌い継がれているとのことであった。
(5) 秋間は、ブダペスト滞在中に、五年前から国立リスト音楽院ピアノ科で学んでいる日本人留学生野島友子と出会ったが、友子は、ハンガリー人の恋人ミクロシュとの別れを決意したところであり、秋間の著書「彷徨える旋律」を通して、秋間に惹かれていく。
(6) 秋間は、追分節とハンガリーの葬送歌との関係について取材を続け、@フン族については、五世紀末ころ、アッティラの死後に、その息子チャバに率いられて、東の果てまで駆けて、ヨーロッパに現れるよりはるか以前の故郷へ帰ったのであるが、それは大海のほとりであるとの伝説があったこと、A続日本紀によれば、八世紀ころ、東北地方に勢力を張った蝦夷一族の英雄阿弖流為がいて、大和朝廷軍を相手に騎馬兵を率い、毒矢を放って果敢に抵抗したことで知られており、いったん退却すると見せかけ、敵を油断させておいて急襲するとの戦法もとったことが記載されていたこと、Bアッティラとは、古代ハンガリー語でアテレ又はエテレと発音され、阿弖流為(アテルイ)と類似の発音であることと、いったん退却すると見せかけて急襲するという戦法は、アッティラのフン族と全く同じ戦法であることを総合すれば、チャバがたどりついた大海のほとりとは、日本海であり、阿弖流為は、フン族のアッティラの子孫であると推測されること、以上@ないしBから、チャバが五世紀末に東へ駆け、ボルガを渡りウラルを越えるときに、途中で幾つかの種族がこれに合流したが、当時ウラル山脈付近で遊牧生活を送っていたオスチャーク、ヴォグール、及び、ハンガリー人の先祖マジャール族の一部やマジャール族の歌姫もこのときこれに合流し、オスチャークやヴォグールが今も歌っている葬送歌(ハンガリーで発見された葬送歌)は、このとき東への旅に出て、チャバにより日本へ伝えられ、追分節として残っているのであり、長い歳月をかけてユーラシア大陸をさまよった右葬送歌の西の終着駅はハンガリー、東の終着駅は江差であるとの構想を得たものであり、帰国後に「ユーラシアの悲歌」と題して右の構想で執筆する予定であった。
(7) ハンガリーでの取材をほぼ終わった秋間は、友子とトカーイへ旅をして結ばれ、その後、友子がリスト音楽院を卒業したら迎えに来ることを約束して帰国する。
(8) 日本に帰った秋間は、補足の取材を行い、一週間かかって、前記の構想に基づいた原稿を書き上げ、そのタイトルを「ブダペスト悲歌」としたが、その原稿については社内の局長会議での了承も得られ、編集幹部からもねぎらいの言葉を受けた。
(9) 秋間は、東北旅行の計画をし、一方、友子も、年末に一時日本に帰国することになり、一緒に東北へ旅行することになったが、友子は、そのころピアノのコンサートへの出演依頼を受け、帰国をあきらめていたところ、ミクロシュに連れ出され、交通事故のため死亡する。
(10) 秋間は、友子と一緒にくるはずだった恐山で、友子の死の知らせを受けるが、傷心の秋間の耳に、ラジオの音か、チャバや阿弖流為の葬送歌か、遠くに幽かな歌声が聞こえた。
(二) 本件に関連する本件小説の内容の一部を抜粋すれば、次のとおりである。(甲一)
 秋間は、江差追分の歌詞の一つを教授に紹介して、それが船出する恋人との離別を意味すると同時に、死者が無事にあの世に行けますようにとの祈りをも表現しているのだ、と説明した。
「不思議な一致です……」
 セーケイ教授はそう言ったきり、何か考えこむ表情になった。
 部屋にしばしの沈黙がきた。そろそろ日暮れに近いのか、窓の向こうのドナウ河にかかるチェーンブリッジのイルミネーションが、瞬きはじめている。その下を平ベったい荷船をひく動力船が、舳先を波だたせて上流に向かっているのが見えた。「うーん、この一致を秋間さんが物語のなかでどう描くか、興味深いですね」
 教授が、夢からさめたように、言った。
「御教示のほど、よろしくお願いします」
「いや、私こそ貴重な事実を教えられました。さて、もういちどお聴きになりますか」
 教授はまたテープを回した。女の歌う旋律に合わせて、秋間は低くハミングをのせてみた。薄暮の古都の空に即興のハーモニーが消えていった。
「やあ、これは素晴らしいアジアの競演だ」
 教授は拍手し、秋間に握手をもとめた。
「ずっと昔から、この歌を知っていたような気がします」
「なるほど。アジアの血でしょうな。同じ五音音階でも、
中世ヨーロッパのグレゴリア聖歌を歌うのとはわけが違いますからね」
「ところで、この葬送歌の起源ですが……」
「ええ、千五、六百年、いやもっとさかのぼるかもしれませんよ」
 教授は自信たっぷりにそう言うと、
「ちょっとお待ちください。エスプレッソを淹れてもらってきますから」
と言い残して、部屋を出ていった。
 冬時間のブダペストは日暮れが早い。チェーンブリッジの光の瞬きも赤みを増している。その点滅を見つめながら、秋間は頭のなかを整理してみた。まず第一にテープの曲が葬送歌だとわかった。ここに追分節との関係を考える大きな鍵がありそうだ。そして、千五、六百年以上もさかのぼる歌の起源‥‥‥。千五、六百年前と言えば、ヨーロッパから朝鮮半島に至るユーラシア大陸の各地で、フン族やゲルマン族などの大規模な民族移動が起きた時代ではないか。まだ神話時代にあった当時の日本列島にも、大陸から続々と人や物が渡ってきたらしいことは、様々な考古学上の史料が物語っている。
 (もし追分節の起源もその時代に求められるとすれば……)
 秋間の頭のなかで、何かがひらめいた。それはまだ曖昧模糊としているが、遠く離れて見る花火のように、静かに、しかし鮮烈な光芒を内に秘めて炸裂しようとしていた。
 そのとき、教授が戻ってきた。
「どうも、お待たせしました。エスプレッソを喫みながら、話しましょう」
 赤い花絵柄のカップに入った真っ黒なハンガリー風コーヒーが、クリームと角砂糖とともにテーブルに並べられた。
「さて、起源の問題ですが、秋間さんはソ連領ウラル山脈の麓、オビ河の流域で生活するオスチャークやヴォグールのことは、ご存じですか?」
一口すすって教授が訊いた。
「確か、ハンガリー人と同系の少数民族だったですね」
教授が彼らの音楽の権威であることは、出発前に谷川から聞いた。
「そうです、我々の本家筋に当たると言えばいいでしょうか。ハンガリー人は現在でこそヨーロッパに定着していますが、千五、六百年前まではウラル山脈から西シベリアにかけての地域で彼らと一緒に暮らしていたのです。共通の言語を話し、同じ歌を歌っていた。
現代語だって、そっくりですよ。手はケーズとケーツ、魚はハルとフル、とせいぜい方言の違いです」
「そして、このテープの葬送歌もそのころから歌われていた、と?」
「はい、その通りです」
「それは証明できるのですか?」
「同じ曲をオスチャークとヴォグールが今日も歌っています」
「ほう……」
「私もこの耳で聞きましたが、まさにウリ二つ、です。まさか現代になって、我々がレコードかなんかで教えたなどとは、お考えにならないでしょうね。」
と、教授は笑った。
(本件小説三二〜三四頁)

・・・殺しだ誘拐だと殺伐な事件を追いかける目つきの鋭い新聞記者が、翌日は港町で追分節の世界にどっぷりとひたっていた。彼(注 秋間)のまわりにはいつも追分を歌う人たちの輪ができた。漁師がいて、坊さんがいて、ローカル線の駅長がいた。飾り気のない荒削りな語り口が、昼間みた秋間の風貌を思い出させた。
 江差と同じ北海道に生まれ育ちながら、何ひとつ知らなかった追分節について、友子はいろいろなことを教えられた。追分節には信濃追分、越後追分、佐渡の小木追分、秋田の本荘追分など数多くの種類があるが、ふつう追分節と言えば江差追分を指すこと、主に北陸から東北地方にかけての日本海沿岸に分布し、北へ行くにつれ旋律は少しずつ変化すること、北海道には江差が鰊漁で栄えた江戸時代に伝播し、そこで練りに練られて今の歌型に仕上がったこと、曲の起源については諸説あり、騎馬民族系の渡来人がユーラシア大陸の何処かからもたらしたとする説が有力であること‥‥‥。作者はそんな歌の歴史を随所で語り明かしながら、歌をとり巻く様々な人たちとの交わりを何の飾りもなく描いている。友子は知らず知らずのうちに惹き込まれていった。
 追分節は時に漁の歌になり、馬車を追うときの歌になり、祝い歌になり、また或る時は死者を送る通夜の歌にもなるという。<私>の口を借りれば、それは遠い嶺に煙がたなびくような旋律である。不思議だった。読み始めてからじきに音を感じた。いちども意識して聴いたことのなかったその旋律が、とつぜん耳の奥で鳴り始めた。
 或るときは甘く、或るときはささやくように、また或るときは嵐のように‥‥‥。言いようもなくなつかしい感情に胸を揺さぶられた。ショパンやリストやドビュッシーからは感じたことのない、素朴で豊かで温もりのある未知の音楽世界が、友子の目の前にひらけてきた。(同九五頁)

・・・追分節と葬送歌のメロディー、セーケイ教授の話、チャバ伝説、チャバハロムの丘の光景……。(注秋間は、)あれやこれやと考えているうちに、眠りに落ちたようだった。
 ……月明かりの下を騎馬の群れが駆けて行った。何百、いや千に近い数であろう。馬はすらりと四肢が長く、栗毛に鹿毛に葦毛と様々な毛色である。群れのまんなかには、家蓄や道具や女や子供たちを乗せた馬車も行く。武者たちの服装は襟をぴたりと合わせた筒袖のシャツと革のズボン。耳まで覆った獣毛の帽子をかぶり、胸には短い鎧、腰には衣服の乱れを防ぐための革帯をつけ、革の長靴をはいている。その顔立ちは見る角度で日本人のようにも思え、彫りの深いヨーロッパ風ともとれる。
 一隊ははるかに海を望む岬にきて、馬を休ませた。
 顔は蒼白いが見るからに精悍そうな感じの男が先頭にいた。
「我々はこれから海を渡る。行き先は倭の国の北部。そこには我々の近縁の種族が棲みついているはずだ。彼らと力を合わせ、新しい国を建てるのだ」
 (あれはフン族のチャバだ)
 秋間がそうつぶやいたとき、隣に甘い匂いをさせて女がきていた。
「そうよ、あれが私たちの首領のチャバよ」
「おや、友子さんじゃないか」
 巻き毛気味の長い黒髪、瞠いたような大きな瞳、高くはないが形のいい鼻、ふくらみのある花の蕾のような唇……。そのどれもが野島友子のものだった。
「いいえ、私は一族の歌姫ですわ」
 女は不思議そうな顔をして秋間を見つめた。
「歌姫だって?」
「ええ、闘いに斃れた戦死を弔う葬列の先頭に立って、私が歌うのですわ」
「……葬列?」
「葬列には歌姫たちの他に、笛を吹いたりツィターや鉦を鳴らす人々も加わるのよ」
 そう言って立ち上がると、足元まですっぽりと隠した長い紫の衣装を、小刻みにふるわせながら葬送歌を歌い始めた。何処からか、長く尾をひく笛とツィターの音が重なってきた。
「それは、マジャールや、オスチャークやヴォグールが歌う葬送歌だ」
 秋間は叫んだ。
「あら、よく知ってらっしゃるのね。でも、あなたはこの葬送歌を一番昔から歌っていたのがアッティラ王のフン族だったことは、ご存じなさそうね」
「フン族の葬送歌だって?」
「そうよ。もともとフン族やマジャール族も、それからオスチャークやヴォグールも、お互いに皆親しく付き合っていたわ。ユーラシアの一つの大きな輪のなかでね。そこでは歌も踊りも、あるいは言葉さえ共通だったわ。時代とともに、その輪がばらばらに崩れ、兄弟たちは西に東に散り散りになったの。もちろん葬送歌もね」
「一つだけ教えてくれないか」
「何かしら?」
「チャバハロムの丘の葬送歌は、いったいフン族の名残なのか、それとも後にウラル山脈から出てきたマジャール族の歌なのか?」
 秋間はこの夢がさめないうちに、と興奮して尋ねた。
「さあ、そんな後世のことは私にはわからないわ。たぶんフン族がまずハンガリーに伝え、後はマジャール族が歌い継いでいったのでしょうね」
「わかった。それで友子さん、いや、きみもフン族の娘なのか?」
「私はチャバの一向に途中で合流したマジャール族出身の女ですわ」
「合流したって?」
「そうよ。ウラル山脈の西で一行に加わったの。マジャールの本隊は西へ向かったけれど、私たちの一族は羊を生贄にして占った結果、チャバと運命を共にすることにしたの。チャバはアッティラ大王の死後、故郷をめざして東へ東へと駆けたと話しているわ。ボルガを渡りウラルを越え、ゴビの砂漠を突っ切り、そして今ようやくここまでたどりついたというわけなの。どこにも安住できる故郷なんか残ってなかったのね。同じような故郷を失った人々が途中で合流したので、ごらんのように一行は大部隊にふくれ上がったわ。そして、今、海を渡って倭国へ行こうとしているところなの」
 女の話を聞いて、これは俺の描こうとしている物語とそっくりだ、と秋間は驚いた。
「いったい、今は何時代なのだ?」
「五世紀もあと残り少なくなったわ」
「えっ、五世紀だって?千五百年も昔じゃないか」
 秋間がびっくりしていると、そこへ白馬にまたがったチャバがきた。
「そう、今は五世紀だ。あと三百年後、蝦夷の国を見ていてくれ」
 チャバが馬上から言った。黒い瞳が鋭く、獣毛の帽子から縮れた髪がはみ出している。
「蝦夷の国というと、日本の東北地方のことか?」
「そうだ。きみよく知っている岩手県の北上川流域地方だ。そこに我が父アッティラの再来が現れるであろう」
「わかった。それは阿弖流為のことだな?」
「ご明察だ。このことを、きみの物語にぜひ書いてほしい」
 と、チャバは言って、はじめて笑顔を見せた。贅肉のない頬に、刃物でつけたような深いえくぼができた。どこかで見かけたような顔だった。
 そのとき、また何処かから歌声が切れ切れに聞こえた。女たちが合唱しているようだ。空の星々が触れ合って奏でるような、この世のものとも思えない調べ。葬送歌とも聞こえ、別の曲のようにも思える。秋間は耳をすまし、月明かりの岬に目をこらした。紫のそろいの衣装をまとった女たちが、両手をひろげ夜空を仰いで歌っていた。青白い月光が彼女たちの横顔に深々と翳を落としている。友子の姿も見える。
 秋間は女たちの発する歌の言葉を聞きとろうとした。なんともわれの分からぬ言葉の連なりのようでもあり、民族の運命を歌った叙事詩と解釈することもできる。彼は頭のなかでこんな風にまとめてみた。

冥い夜、胸裂ける悲しみの月
英雄はみまかった

(同一四四〜一四七頁)

 彼(注 秋間)は机の抽出しからホテルの便箋をとりだし、一番上に大きく「ユーラシアの悲歌」と書いた。アカデミーではじめてテープの葬送歌を聴いたときから、胸に温めていたタイトルだった。それから取材ノートを見ながら、書いたり消したり、文章と文章の間に線をひいたり印をつけたりして、構想を練り上げていった。要はハンガリーの葬送歌と日本の追分節を一つの布に織り上げればいいのだ。秋間の頭のなかでキイワードは決まっている。フン族の大王アッティラと古代東北の蝦夷の首領阿弖流為だ。

 ……フン族の王子チャバは、父アッティラの急死後、ひたすら故郷をめざして東へ駆けた。ボルガを渡りウラルを越えた。途中で幾つかの種族が合流した。そのなかには当時まだウラル山脈付近で遊牧生活を営んでいた現代ハンガリー人の先祖マジャールやヴォグール、オスチャークの一部も含まれていた。例の葬送歌もこのとき彼らとともに東への旅に出た。
 一行はモンゴル高原を突っ切り、やがて日本海を望む地へとたどりつく。ハンガリーから大陸の果てまで約一万キロ、現代人の感覚でも気の遠くなる距離だ。しかし当時の騎馬民族は一日に数百キロを平気で駆けた。何の不思議もない。むろん、ここに到達するまでには幾度もの挫折があったに違いない。彼らが最初にめざしたであろう先祖、匈奴の故地はすでに言葉の通じない種族の支配下にあり、入り込む余地はなかった。
 チャバは戦乱に明け暮れる大陸を捨て、海を渡ることを決意する。日本列島の東北部に自分たちと近縁の種族、蝦夷が棲みついていることを知っていた。身を寄せようと考えたのだ。その時期はおそらく五世紀末、つまりアッティラが死んだ西暦四五三年から三、四十年後のことと思われる。もちろん日本の史書はチャバの渡来について一行も語ってはいない。
 八世紀に至り、阿弖流為を名乗るチャバの後裔が歴史の舞台に登場してくる。彼は日本列島統一をもくろんで北上する大和朝廷の勢力を相手に、東北地方の蝦夷をたばねて奮戦した。その勇猛ぶりは兵一人で大和勢の十人に匹敵した、と官撰の史書「続日本紀」が記している。強さの秘密は大陸渡来の快速馬と弓だった。弓は馬上から射ることのできる機動性にすぐれたフン族ゆずりの短弓で、トリカブトの根から抽出した毒液を鏃に塗っていた。
 この騎馬軍団をひきいた阿弖流為こそ、フン族の大王アッティラの生まれ変わりだった。子孫に秀でた統率者が現れるならば偉大な大王アッティラの名を継ぐべし。それはチャバの遺言であり予言であった。アッティラは古代ハンガリー語ではアテレあるいはエテレと発音された。ボルガ河の意味だ。ボルガ河の川辺で生まれた男の子とでも言うのだろう。阿弖流為はこのアテレ、エテレの漢字表記にほかならない。

 ……このように推理したとき、ハンガリーの葬送歌と日本の追分節の関係は、もはや明白である。二つの曲は、千五百年前までは一つの曲だったのだ。チャバ一行と海を渡った流れは追分節となった。一方、ハンガリーの地に残り、後にウラル山脈方面からカルパティアを越えてやってきたマジャール族によって歌い継がれたのが、音楽アカデミーに保存されているテープの曲の元になった。
 追分節は主に日本海地方で歌い継がれてきた。いや、正確に言えば山深い内陸部にも、その系譜をひく旋律はしっかりと生き残っている。それは阿弖流為の敗北後、東北蝦夷の多くが、囚われの身として各地に強制移住させられた悲しい歴史と関係あるだろう。
 いずれにしても、チャバや阿弖流為に連なる人々の、或る者ははるかに大陸を望む海辺の町で、また或る者は山奥の村で、長い長い年月、望郷に胸を揺さぶられながら孤独にさまよう一族の魂を歌いつづけてきた。そして北海道の江差では、今もチャバの時代とかわらず死者を送る通夜の曲として生きつづけている‥‥‥。
(同一七三、一七四頁)
3 本件番組の内容
(一) 本件番組の概略は、概ね次のとおりである。(甲三、乙一、検甲一)
 本件番組は、北海道教育大学学長の被告谷本を番組のコメンテーターとして出演させ、被告谷本のコメントとナレーション、及び、ハンガリー、バシキール自治共和国(以下「バシキール」という。)、モンゴル等への取材により、江差追分の起源に迫ろうとしたものであり、また、世界追分祭の様子も伝えているものであるところ、その内容は、(1)追分節と類似の曲が、騎馬民族の影響を受けた日本、韓国、中国の東北部、内モンゴル、モンゴル、そしてソビエトのカザフ共和国、バシキール、さらにハンガリー、ルーマニアまでユーラシア大陸に帯のように存在し、一万キロに及ぶ追分ロードがある、(2)九月に江差町で年に一回江差追分全国大会が開かれ、町は一気に活気づくのであるが、今年は、海外からも参加者が訪れる、(3)被告谷本は、二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた、(4)モンゴルには、オルティンドゥーという追分によく似た歌があるが、馬とともに暮らす民が、広大な草原の中で人間の孤独を唱ったのがオルティンドゥーである、(5)バシキールにも追分に似た歌がある、(6)追分の名人青坂満が、追分とは、別れの歌であり、故郷をしのびながら父や母への思いを歌うものであると語る、(7)追分の原形は、七世紀ころ、大和朝廷が農耕のため、大陸から馬を輸入し、馬とともに大陸から渡ってきた馬飼いが歌を伝えたともいわれているが、オルティンドゥーも追分も人間の孤独を歌う点で共通している、(8)追分ロードの東の端が日本であるのに対し、西の端がハンガリーであるとの考えは、被告谷本が三〇年にわたってユーラシアの民族音楽を研究する中で、ハンガリーのエルディ地方(トランシルヴァニア)の不思議なメロディー「兵士の歌」に出会ったときに生まれたものであり、ハンガリーの東洋的なタイプの民謡は、騎馬民族がもたらしたものである、すなわち、四世紀にはフン族、九世紀にはウラルからマジャール族がヨーロッパへ侵攻し、一三世紀にはモンゴルが大帝国を築き、ハンガリーにも影響を及ぼしている、(9)五音音階でこぶしがはいっている古いハンガリー民謡と似た民謡は、旧ハンガリー領であるトランシルヴァニア地方を取材してみたが、見つからなかった、(10)九月の世界追分祭は、ユーラシア大陸の各地に散らばる追分タイプの民謡を比較するシンポジウムやコンサートを開く初めての試みである、(11)被告谷本は、ウラル山脈がアジアとヨーロッパを分ける場所であること、バシキールの民謡が素朴であることからすると、ハンガリーから江差までの一万キロの追分ロードの中心は、ウラル地方であり、そこから追分タイプの歌が東西へ伝わっていったといってよいと考えている、(12)バシキールの結婚式では、バシキールの追分に当たる別れの歌が歌われる、(13)ウラル山脈の山奥に、馬の群れが現われて、東西へ散っていったという伝説の湖があるが、この湖の源にある洞窟の馬の絵は、馬と暮らす人間は別れの悲しみを一つの歌に託し、その歌がやがてユーラシア大陸の各地へと伝わっていったとの空想へと駆り立てる、(14)世界追分祭のコンサートでは、韓国、モンゴル、バシキール、ハンガリーの民謡が歌われ、被告谷本は、その多くが離別、悲しみを歌っていると語る、(15)ユーラシア大陸、東西一万キロ以上に及ぶこの大陸に、かつて民族から民族へ伝えられ、時代を超えて歌い継がれてきた素朴な民の歌があるが、大地の無限の広がりと、人々の孤独を歌うその歌は、今も各地で歌われている、というものである。
(二) 本件小説に関連する本件番組中の被告谷本の発言及びナレーションの一部を抜粋すれば、次のとおりである。(甲三、乙一、検甲一)
被告谷本「追分のようなですね、音階と、それから、ま、追分タイプといわれるメロディ、その重なった音楽的な特徴というのが、帯のようにずうっとこういうふうに西の方へいっているわけですね。東の方は、日本、さらに韓国、モンゴルになるわけですけれども、一番西側が、ハンガリーとかルーマニアとかルーマニアの北部ですね。エルディ地方といわれるこの辺り。」
(略)
「江差追分は、・・・荒れる海を渡り、草原を越え、ウラルを越え、そしてハンガリーまでたどり着くような一万キロの長い長い旅をしている歌です。」
(略)
ナレーター
「この江差追分に取り付かれた一人の研究者がいます。谷本一之さん。ユーラシア大陸の民族音楽を長年研究してきた谷本さんは、二〇年前に、江差追分と出会いました。そして、それ以来、ユーラシアの歌と江差追分が一つの絆で結ばれているのではないかという思いをもち続けてきました。」
(略)
被告谷本
「これは、モンゴルのオルティンドー。追分に随分似ていると思いませんかね。・・・こういう追分タイプの歌は、モンゴルだけではなくて、いろんな国にあるんですね。ウラル山脈ってありますね。ウラル山脈とボルガ河の中流の間、この追分タイプの歌を歌っている民族がいくつもいましてね。」
「バシキールですけれども、最初の尺八みたいな音ですね。音色もそっくりですね。
それから、尺八の途中から歌がでてきますけれども、これも追分のこの出だしのところとそっくり、さらにその先に、一番西端というとハンガリーですね。」
(ハンガリーの民謡)
「これは尺八とそっくりですね。」
ナレーター
「江差追分を代表とする追分様式と呼ばれる日本の民謡が、新潟、秋田などの日本海側に残っています。谷本さんによると、これと同じタイプの民謡が騎馬民族の影響を受けたユーラシア大陸の各地に伝わっているといいます。韓国、中国の東北部、内モンゴル、モンゴル、そしてソビエトのカザフ共和国、バシキール自治共和国、さらにハンガリーまで、一万キロに及ぶ追分ロードがあるというのです。」
(略)
ナレーター
「一万キロの追分ロードの東の端が日本であるのに対して、西の端はハンガリーだと谷本さんは考えています。その発想は、三〇年に亘ってユーラシアの民族音楽を収集する中で一つの不思議なメロディーと出会ったときに生まれました。」
被告谷本「これはあのハンガリーのエルディ地方ですね。今ルーマニア領ですけれども、トランシルヴァニア、そこに古くから伝わる歌で「兵士の歌」というんですけどね。これは東洋的な音楽の痕跡が残っているものなんですけれども。・・・」
ナレーター
「ハンガリーの東洋的なタイプの民謡は、騎馬民族がもたらしたものだと谷本さんは言います。四世紀にはフン族、九世紀にはウラルからマジャール族がヨーロッパへ侵攻しました。マジャール族はそのまま定住し、現在のハンガリー人になりました。さらに、一三世紀にはモンゴルが大帝国を築き、ハンガリーにも影響を及ぼしました。」
(略)
(バシキールの民謡)
被告谷本
「これは、あのバシキールなんですけれども。ソビエトの大体中央部、これウラル山脈がありますね。ウラル山脈がちょうどアジアとヨーロッパを分ける場所なんですけれどね。そこに今聴いていただいているような非常に素朴な、声の技巧も普通の民謡のような素朴な追分タイプの歌が、まあ沢山あって、それは、それぞれの民族の中でも非常に重要なわけですね。で、そういうようなことを、例えば、日本の追分だとか、特に江差追分、それからモンゴルのオルティンドゥーという、非常に洗練されて、声の技巧も最高に発達しているという、そういう音楽にこう対比させて考えますとね、やはり、この一万キロのハンガリーから江差までの一万キロの追分ロードの中心といいましょうかね、最も古いタイプを残していて、そして中心であるというのがウラル地方だというふうにいっていいと思いますね。したがって、そこを中心にこのタイプの歌がそこからの影響でずっと拡がっていったと」
ナレーター
「谷本さんによると、ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈で追分タイプの歌の原形が生まれ、そこから東西へ伝っていったといいます。江差追分のように洗練された民謡ではなく、素朴な原形を残しているバシキールこそが、追分ロードのルーツだというのです。南北三〇〇〇キロに伸びるウラル山脈の南の端、バシキール自治共和国は、かってハンガリー人の祖先であるマジャール族が住んでいた地域でもあります。」
(略)
ナレーター
「バシキールの人たちにも、江差追分の歌を聞いてもらいました。」
レポーター
「これと似た歌はありますか。」
 ・・・
「よく似ています。あの何という歌ですか。これは。」
クーライの男「ザリファ・ケイ。これは女の子の名前です。」
(略)
ナレーター
「この楽器、クーライの歴史がどれくらい古いのか、ある程度推測できます。」
「フン族がバシキールを襲撃した時代を描いた叙事詩の中にクーライが出てきます。フン族が南ウラルを通ったのは紀元二世紀のことです。つまり一八〇〇年前には既にクーライが演奏されていたのです。」
被告谷本
「それぞれの民族が、特に追分のこぶしの中に込めている一種の情緒ですね。・・・多くは悲しみを唄っているんですけれどね。・・・歌だけでなくて、例えば尺八とバシキールのクーライとかね、それからモンゴルの馬頭琴でも、非常に音色としてはね、非常に似ているんですね。ですから、こう、共通の思いが、楽器なんかの共通の音色の背景になってるということだけは、確かですね。」
ナレーター
「ユーラシア大陸。東西一万キロ以上に及ぶこの大陸に、かって民族から民族へ伝えられ、時代を越えて歌い継がれてきた素朴な民の歌があります。大地の無限の広がりと、人々の孤独を歌うその歌は、今も各地で歌われています。」
4 「北の波濤に唄う」と本件番組のナレーション
 原告が著作した「北の波濤に唄う」のうち、本件に関係する部分は、別紙目録四上段記載部分(以下「本件プロローグ」という。)であり、本件番組のナレーションのうち、本件プロローグと対応する部分が別紙目録四下段記載部分(以下「本件ナレーション」という。)である。(甲二、乙一)
5 原告と被告らとの関係の概略
(一) 被告NHKの国際局(以下「国際局」という。)の佐藤園子(以下「佐藤」という。)は、平成元年一〇月六日、本件小説の著作者である原告と会い、本件小説をテレビ化したい旨提案し、原告の承諾を得、同年一一月一六日には、原告に対し、番組製作が実現した折には、ハンガリーへレポーターとして行ってほしい旨を伝え、その快諾を得ていた。
 国際局は、函館局と共同で、NHKスペシャルの番組として右の本件小説と世界音楽祭をテーマとした番組の提案をすることにしていたが、平成元年一二月、NHKスペシャルの番組としては、函館局の企画案を元に共同提案をした。しかし、右共同提案は、同二年二月、採用されず、保留となった。佐藤は、そのころ、原告に前記企画が保留になった旨を伝えた。
 函館局は、平成二年一月、NHKスペシャルの前記提案が不採択になった場合に備えて、別途北海道スペシャルとして、世界追分祭や追分節とユーラシア大陸との関係を探る番組の提案をしていたが、右提案は、採択され、それに基づき、本件番組が製作された。
 函館局は、平成二年六月ないし八月に、モンゴル、バシキール、ハンガリーなどを四〇日間にわたり取材し、本件番組を製作した。
(二) 原告は、平成二年一〇月初旬、佐藤から、「函館局製作の本件番組が一〇月一八日放送されるが、試写を見た人の話や、これまでの経緯からして、本件小説を盗用した疑いが濃厚である」との連絡を受けた。
 原告は、平成二年一〇月一二日、被告NHKの札幌放送局長永井武司に対し、内容証明郵便で「一八日放送予定の本件番組は、原告の本件小説の著作権を侵害するおそれがあるので、後々まで問題をこじらせないように慎重に対処してほしい」旨の警告した。
 (右(一)、(二)につき、甲一二、二二、四八、原告第一回)
(三) 被告NHKは、平成二年一〇月一八日、北海道で本件番組をテレビ放送した。(争いがない。)
6 本件番組と本件小説及び「北の波濤に唄う」との関係
 本件番組は、本件小説及び「北の波濤に唄う」を参考文献の一つとして製作されているものの、本件番組においては、本件小説及び「北の波濤に唄う」についての直接の言及はない。(争いがない。)
7 本件番組の宣伝資料
 被告NHKは、本件番組をもとにした全国放送のために、新聞各社向けの番組宣伝資料(平成二年一一月三日放送予定分。以下「新聞社向け宣伝資料」という。)において、次の(一)のとおり記載し、被告NHK発行のウイークリー「STERA」(平成二年一一月九日号。以下「ステラ一一月九日号」という。)において、次の(二)のとおり記載し、新聞雑誌を通じてその旨を全国に流布した。(争いがない。)
(一) 「民謡・江差追分はユーラシア大陸各地の民謡と深いつながりがあるとする仮説に基づいて、先月、北海道の江差町で「世界追分祭」が開かれた。大会を提唱したのは北海道教育大学の谷本一之学長。彼の、日本からハンガリーまで一万キロに及ぶ追分ロード説に従い、取材班はモンゴル、ソ連、ハンガリー各国で一か月半にわたって取材を続けた。谷本さんが追分のルーツと考えるソ連の秘境、ウラル山脈の奥地にも初めてカメラが入り、伴奏の楽器までが尺八そっくりの民謡を発見した。東西一万キロの歌の旅路には何が隠されているのか。ユーラシア大陸をさすらった一つの旋律をめぐって、歌とそこに住む人々との関わりを探る。」
(二) 「民謡・江差追分は、ユーラシア大陸各地の民謡と深いつながりがあるという、北海道教育大学の谷本一之学長の仮説に基づき、世界追分祭が開かれた・・・谷本学長のたてた、ハンガリーから日本までの一万キロにおよぶ、追分ロード説に従ったモンゴル、ソ連、ハンガリーでの取材は一か月半におよんだ。谷本学長が追分のルーツと考える、ソ連のバシキール自治共和国にも初めてテレビカメラが入った。バシキール人の暮らすウラル山脈の秘境の地には、尺八そっくりの楽器で伴奏する民謡が存在していた・・・。」
8 被告布川の返書
 被告布川は、本件番組を北海道で放送した後に、本件小説の読者から問合せの手紙三通を受領したが、これに対し、平成二年一〇月二二日付けで、以下のとおりの返書(以下「本件返書」という。)を同一内容で三通送付した(甲一〇及び三五及び三六の各1・2、乙一六の1ないし3)。
 「番組をご覧いただければ、おわかりのように、今回の番組は北海道教育大学学長で民族音楽学者の谷本一之先生の学問的推論をもとに制作したものです。・・・ご指摘の木内宏さんの著書にも、同じテーマが取り扱われているとのことですが、これは木内さんも谷本先生の推論を聞き、そこからヒントを得て書かれたのではないかと思われます。・・・つまり木内さんは谷本先生のお話をもとに本を書かれ、私どもは谷本先生のお話をもとに事実を追求したドキュメンタリー番組を制作したことになります。」
9 被告布川のコメント
 被告NHKは、平成二年一一月三日に予定していた本件番組の全国放送を延期したが、新聞、週刊誌は、これに関する記事の中で、以下のとおり被告布川のコメントを掲載した(以下「本件コメント」という。)。(甲三七、三八)
(一) 北海道新聞(平成二年一一月三日付け)
 「さまざまな学説がある中、番組を作り上げ、オリジナルという点では自信がある。しかし、クレームがついた以上、検証する時間が必要であり、三日の放映は見送った。」
(二) 週刊新潮(平成二年一一月一五日発行)
 「木内氏にお断りしなかったのは悪かったが、あれは参考文献のあくまでワンオブゼムに過ぎない。盗作だなんてとんでもない。中止ではなく、いずれ内容を手直しして放送したい。」
二 争点
〔本件小説及び「北の波濤に唄う」の著作権及び著作者人格権に基づく請求について〕
1 本件番組の製作、放送は、原告が本件小説について有している翻案権及び放送権並びに氏名表示権を侵害しているか。
2 「北の波濤に唄う」の本件プロローグは、著作物といえるか。また、本件番組中の本件ナレーションの製作、放送は、本件プロローグの翻案権及び放送権並びに氏名表示権を侵害しているか。
〔名誉権に基づく請求について〕
3 原告が主張する名誉(社会的評価)は、存在していたか。
4 被告らの行為によって、原告の名誉が毀損されたか。
5 名誉毀損行為について被告らの責任はあるか、あるいは、違法性阻却事由は存するか。
三 右争点に関する当事者の主張
1 本件番組の製作、放送は、原告が本件小説について有している翻案権及び放送権並びに氏名表示権を侵害しているか。
(一) 原告の主張
(1) 本件小説は、主人公である一人の新聞記者が、江差追分の起源の謎を追求することを主題とした長編小説であり、原告の長年にわたる文献及び現地調査の末に構想を得て作品化されたもので、「江差追分の起源はソ連ウラル地方に求めることができ、その旋律は古代騎馬民族の移動によって日本列島にもたらされた」という独自の仮説を軸に物語が展開されている。本件小説においては、江差追分の起源及びその旋律が日本に伝わった経緯に関わる部分の創作は、物語の進展につれてより深まっていく形式で記述されているが、その内容を要約すれば、次のとおりである。
@ ウラルに起源(オリジン)をもつ一つの「歌」(葬送歌・追分節)が騎馬民族によって日本にもたらされた。
A その「歌」を日本に伝えたのは、東を目指して敗走したフン族の王子チャバの一行及びそれへの合流種族だった。チャバがウラル地方を通過するとき、そこで遊牧生活を送っていたマジャール族の一部など同系の騎馬民族も、彼の一行に合流した。その中に、「歌」を歌うマジャール族の歌姫もいた。
 右のような追分節ウラル源流説は、本件小説の主人公の内面を動かして長期の旅へと駆り立て、追分節の起源を追求する情熱の根源として扱われており、物語がこのテーマが内包する謎から出発し、その解明に向けて一貫して流れていることは明らかである。そして、この本件小説の内面的表現形式ないし表現形式における本質的な特徴が、著作物の外面的表現形式に即して認識され得る具体的な展開体系そのものであり、単なる歴史的な素材等のような万人の自由利用が認められる公有のものとは質を異にするのである。
 本件小説は、一面で恋愛小説の体裁をとるが、原告が物語の構成で最も腐心したのは、東は日本列島から西はハンガリーに至るまでのユーラシア大陸に帯状に分布する一つの民族音楽「追分」一族の謎解きであり、その結果として、日本民謡の白眉「追分節」の起源とその伝播について構築した独創的な創作がこの作品のエッセンスといえる。すなわち、追分節はソビエト連邦ウラル山脈付近に起源を持ち、日本列島へは古代ヨーロッパに登場する騎馬民族フンの残党によって五世紀末ころ伝えられたとする文学的創作の内にこそ、本件小説の文芸作品としての価値が存在する。追分節ウラル源流説は、事実、史実、民族音楽及び歴史学の分野での研究成果とも全く関係のない創作である。本件小説の発刊より前には、追分節に、ユーラシアの騎馬民族特にフン族の移動を関連づけ、ハンガリー、ウラル、日本列島を一つの歌で結びつけた学問的論文も文学作品も一切存在しなかったのである。
 また、原告は、本件小説について、その書名にも象徴したとおり、「追分」一族に悲歌あるいは挽歌としての性格を仮託することによって、物語全編に通底する悲劇性を高めようと意図し、物語を悲恋で結んだことも同じ意図に沿っている。たとえば、本件小説には、「私たちハンガリー人は、要するに、異邦人なのです」「・・・昔から私たちはアジアに残してきた故郷を思い返すことで孤独を慰めてきた。先日お聴かせした葬送歌も故郷を想う一つのよすがでした。死がもたらす悲しみをアジアの思い出で慰めたのです。」「孤独と慰めとが、千数百年もの間、繰り返し繰り返しぬり込められた歌。まさに壮大な叙事詩ですね、人々の思いがユーラシア大陸の東と西を飛びつづけた・・・」とあるが、これらの部分に右意図が示されている。
 以上のとおり、本件小説は、言葉と文字により具体的な展開体系をもって外部に発表された原告固有の表現であり、史実を除けばすべて原告の想像力から生まれた創作である。本件小説は、先人の思想や理論、普遍的な感情といった性格の表現とは異質であり、追分節の起源について何人も試みたことのない方法によって、明確な記述の展開に即して推理したものであって、そのテーマである追分節ウラル源流説は、全編を通じて流れる主題曲のようなものであり、意味と意図に統一性を持った内部的表現そのものであり、これは原告固有の財産である。
(2) 本件番組は、前記一3のとおり、被告谷本を、原作者ないしは原案構成者に近い立場で出演させ、被告谷本が、最も重要な発言者、コメンテーターとしての立場から、「江差追分のルーツは、ソ連ウラル地方のバシキールに求めることができ、その旋律は、古代騎馬民族の移動によって日本列島にもたらされた。」との仮説を自己の仮説として提示し、これを基本的な枠組みないしコンセプトとして製作されている。すなわち、本件番組は、このように本件小説の前記モチーフを、外面的には素材を変えつつ、基本的にはそっくり盗用しているのである。
(3) 著作物は、外面的表現形式と内面的表現形式及び内容の三段階の形式に分けられるが、内面的表現形式が同一の場合の外面的表現形式の変更は、著作物の翻案に当たる。文芸作品の場合には、その具体的表現自体を利用するものでなくとも、文字等で表現されている著作者の思想、感情の表現形式としての基本的な筋、構成等に依拠するものであれば、翻案と考えるべきである。もっとも、翻案の範囲を広く考えると、いわゆるアイデア保護に近似することになり、逆に、具体的表現に近接させ狭くとらえると著作権者の権利を空洞化せしめるおそれがあると考えられる。基本的には、原著作物の権利を及ぼすことが社会通念上公正であると考えられる範囲のものとして、翻案の範囲を考えていくべきである。
 文芸作品においては、基本的な筋、構成だけでなく、全編に流れる創作的なテーマを内面的表現形式から除外することはできない。すなわち、文芸作品における最も重要な生命というべきものは、テーマであり、これを抜きに文芸作品は成り立たず、その点でいかに独創性を有するかによって作品の優劣が決定されるといっても過言ではない。文芸作品の根本となる中心的な思想がテーマであり、具体的な文章の内容のあらすじが要旨であるところ、そもそも長編小説の形式は、あたかも大河の流れのごとく、右に折れ左に曲りながら、さまざまなエピソードを混じえつつ語られていくものであるが、本件小説においては、追分節ウラル源流説が主人公の内面を動かして長期の旅へと駆り立て、追分節の起源を追求する情熱の根源として扱われているのであり、物語がこのテーマの内包する謎から出発し、それの解明へ向けて一貫して流れていることは明らかである。
 本件小説の冒頭から結末に至るまで滔々と流れるテーマは、追分節ウラル源流説であり、それが本件小説の内面的表現形式であり、著作物の外面的表現形式に即して認識され得る具体的展開体系である。
 前記のとおり、追分節ウラル源流説は、本件小説の枠組みないしコンセプトそのものにほかならず、本件小説以外には具体的な表現として公表されたことがなかったのであり、これが、前記のとおり本件番組に登場しているのであり、前記被告谷本の仮説は、本件小説で原告が発表した創作を剽窃したものであって、単なる史実や事実の模倣とは次元を異にし、本件小説の内面的表現形式の盗用である。すなわち、本件番組は、追分節ウラル源流説を核とする本件小説の仕組、構成に大きく依存した二次的著作物であって、何人が見ても本件小説の本質的特徴を連想させるのであり、本件番組が本件小説の翻案権を侵害していることは明らかである。そして、本件番組は、諸々の追加物で外部的表現形式を変更し、被告らの剽窃行為を粉塗しているのである。本件小説が恋愛小説のジャンルに属するのに対し、本件番組はドキュメンタリーであるとしても、問題は追分節の起源に関する表現であり、媒体や表現が異なるからといって、翻案権侵害は否定されない。本件小説と全く同一のテーマに依拠して作られた番組は、活字と映像というジャンルの別にかかわりなく、翻案権を侵害しているのである。
 なお、被告谷本は、原告に対し、平成三年一月二二日付内容証明郵便で「追分タイプの歌はソ連ウラル地方から各地に拡がったといってよいこと等を、番組中で発言したことはあるが、このことは民族音楽界において現時点で、一般的に認められた知見に属することであり、私自身のみが定立している等とは申していない」と述べているが、被告谷本は、本件番組において、一般的知見ではなく、谷本仮説を持出しているのであり、また、被告谷本がいう一般的知見などは全く存在しない。また、被告谷本は、右仮説の持ち主ではなく、追分の起源に関する著書、研究報告等の学問的実績のない全くの門外漢である。したがって、本件番組は、本件小説の中の虚構(仮説)をそのまま盗用して、第三者が立てた学問的仮説なるものに仕立て上げ、この第三者を番組の原作者、構成者として登場させ、真実のドキュメンタリーに見せかけたものである。本件番組は、企画段階から本件小説を下敷として利用しながら、それを原作として明示することを怠り、その代わり第三者の学者を原作者として登場させたものであり、その結果、原告の独創である架空の創作が、本件番組では、真実を追求した学者の仮説に化けたのである。
 また、本件番組と本件小説の同一性については、被告布川が本件返書の中で、本件小説も本件番組もその仮説の出所は一つで、被告谷本から出ていると述べていること、すなわち、被告谷本の仮説に基づき、原告が本件小説を書き、被告NHKが本件番組を製作したことを自認していることからも明らかである。なお、被告布川は、本件番組の全国放送が中止となる直前に、番組の終わりに原告協力のテロップを入れることで納得できないかと申し入れてきたが、このことも、被告布川が本件番組が本件小説を盗用したことを認めていたことを示すものである。
 さらに、後記5(一)(2)の原告の主張のとおり、本件番組は、当初被告NHK国際局の佐藤が提案企画したものを、函館局が盗み取ったのであって、企画案の段階から、本件小説を下敷きとして利用し、本件小説に大きく依存していたのである。また、被告NHKが本件番組製作のために被告谷本を実行委員長として行った「世界追分祭」の企画自体も、本件小説のコンセプトを基にしているのである。そのため、本件番組は、ドキュメンタリーであり、真実を追究するものでなければならないのに、本件小説の中の学問的、科学的な裏付けを持たない虚構を盗用して、真実のドキュメンタリーに見せかけ、「江差追分のルーツはソ連ウラル地方のバシキールに求められ、そこから広がった。」というありもしない仮説を基に真実とはかけ離れた嘘の番組を作ってしまったのである。
 以上のとおり、本件番組は、本件小説に描かれている細部の肉付けは省略して、大筋だけを剽窃しているのであり、本件番組が本件小説の翻案権を侵害していることは明らかである。
 なお、改作利用の場合、著作権の保護の対象は、著作者の思想感情の外面的表現形式に対応した内面的表現形式の同一性に求められ、その内容は、著作者の独創に基づくものであっても、万人の自由利用が許されるものであるという形式的判断に立つと、フィクションをドキュメンタリーに転換する場合、剽窃者が必要のない著作物の全体としての利用は著作権の侵害となるが、剽窃者にとっては最も必要な、著作者が最も表現したかった重要なエッセンスを抜き取ることは著作権の対象外となるのであり、このような考え方は、剽窃者にとって極めて好都合な、時代錯誤の解釈論である。この点を、マスコミのモラルによって対処することを前提とするのでは、著作者の権利は無防備に等しく、むしろ、今日マスコミの側に、著作権に抵触しないのだから勝手に利用して構わないという確信的風潮すら窺える状況を生み、助長することになる。また、本件のような本件小説のエッセンスのみを無断で抜き取ったテレビ番組の製作は、いかなる意味で著作権法一条にいう「文化的所産の公正な利用」で、「文化の発展に寄与する」ことに繋がるのか疑問である。
(二) 被告らの主張
(1) 著作権法が翻案権により規制しようとしている行為は、基本となる原作の筋、仕組み、主たる構成などの内容的表現形式を母体として、派生的著作物を作成する行為、すなわち原著作物の表現形式における本質的な特徴を直接感得することができるものを作成する行為である。そして、右の内面的表現形式ないし表現形式における本質的な特徴とは、着想、アイデア、コンセプト、理論等とは異なり、著作物の外面的表現形式に即して認識され得る、具体的な展開体系であり、外面的表現形式に対応して著作者の内心に一定の秩序をもって形成される思想の体系(例えば、ストーリー、基本的モチーフ、構成など)である。著作物の内面的表現形式を、外面的表現形式から隔絶した著作者の主観的内心に思想の体系、着想、アイデア、コンセプト、理論等と同義に解することは、著作権法の保護が、表現形式にあり、思想、感情自体にはない(同法二条一項一号)という根本原理に反するのである。原告の主張は、外面的表現形式から隔絶した著作者の主観的内心の思想の体系の保護を求めるものであり、主張自体失当である。
(2) この観点から本件小説の内面的表現形式と本件番組の内面的表現形式とを比較したものが、別紙目録五である。
 本件小説は、言語上の構成物であり、恋愛小説のジャンルに属し、その大まかな構成は、別紙目録五上段のとおりであり、「初冬の街」「チャバの丘」「雪のトカーイ」及び「さい果ての山」の四個の章区分からなる。
 これに対し、本件番組は、登場人物の声音、ナレーションという言語部分、現実音、音楽、効果音等の聴覚的要素に、生の事実や取材過程の再現等の映像の連続とを複合させて一体化したテレビ番組で、ドキュメンタリー作品であり、その大まかな構成は、別紙目録五下段のとおりである。
 別紙目録五の上段と下段とを比較すれば、両者に表現形式上の実質的類似性はなく、本件番組(下段)が本件小説(上段)を再現、再生したものでないことは明らかであり、原告の翻案権侵害の主張は失当である。また、本件番組には、原告が主張するような、追分節がチャバに率いられたフン族によってもたらされたという物語は存在していないことも明らかである。
(3) また、本件小説には、追分節は騎馬民族とともにウラルから来たという一義的な表現は存在せず、本件小説の追分節の源流に関する記載とすればチャバがハンガリーを東に向けて出発したときまで遡ることになるのであり、フン族源流説になるのである。そして、単にウラルを通過したというのであれば、それは源流の名に値しないものである。
(4) 被告谷本は、江差追分についても研究しており、このことは、江差・世界追分祭報告書、北海道民謡緊急調査報告書(乙一〇一のもの)、追分節の源流正調小室節集成(乙一〇三のもの)からも明らかである。また、被告谷本は、ハンガリーの民族音楽にも詳しいことから、原告は、被告谷本の協力や助言を得て本件小説を創作したものであり、被告谷本の協力や助言の片鱗が本件小説の中に数多く出ている。例えば、本件小説中の札幌の大学で民族音楽論を講じ、主人公に対しハンガリーと江差追分と似た民謡があることを教え、ハンガリーの学者を紹介した谷川英之は被告谷本であり、国立音楽アカデミーは国立科学アカデミー民族音楽研究所であり、セーケイ・ヤーノシュはヴィカール・ラースローであり、民族音楽界の長老ヴァルジャシュ・アンドラーシュ博士はヴァルジャシュ・ラヨシュである。また、主人公の取材の案内役・恋人のピアノ留学中の野島友子のアパートの情景や練習曲などはまさしく原告のハンガリー取材を案内したピアノ留学中の被告谷本の長女のアパートの情景や練習曲であり、このほか、谷川が語った民謡の緊急調査は被告谷本が主任調査委員であった北海道は民謡緊急調査なのである。
 したがって、本件番組も本件小説も、被告谷本の協力を受けて、ハンガリー等で取材を行ったうえで製作され、追分節の起源をユーラシア大陸のかなた一万キロのハンガリーまで求めるという基本的に共通する題材を対象として企画・取材・製作を行った以上、本件番組と本件小説との間に題材内容に共通の部分があったとしても、それは当然のことであり、これをもって本件小説の瓢窃ということはできない。
2 「北の波濤に唄う」の本件プロローグは、著作物といえるか。また、本件番組中の本件ナレーションの製作、放送は、本件プロローグの翻案権及び放送権並びに氏名表示権を侵害しているか。
(一) 原告の主張
 本件ナレーションは、別紙目録四下段のとおり、「日本海に面した北海道の小さな港町江差町。古くは鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいを見せた豊かな海の町でした。しかし、鰊はすでに去り、今はその面影を見ることはできません。九月、その江差が年に一度、かつての賑わいをとりもどします。民謡江差追分の全国大会が開かれるのです。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」というものであり、次に述べるとおり、別紙目録四上段の「北の波濤に唄う」朝日文庫版の七〇ないし七三ページの本件プロローグを翻案したものである。
(1) 本件プロローグの著作物性と内面的表現形式について
 本件プロローグは、「北の波濤に唄う」の中の短編のうち、北海道江差町で開かれる「江差追分全国大会」を紹介する探訪記「九月の熱風」の冒頭部分にあたるものである。
 本件プロローグの外面的表現形式に対応する内面的表現形式は、「@鰊漁で栄えたころの江差は、その時期江戸にもない賑わいを見せていた。Aしかし、鰊の去った江差にもはや昔日の面影はない。Bところが、その江差に華やかな一年の絶頂を迎える時が来る。それが九月の江差追分全国大会である。」というものである。
 本件プロローグは、このように江差町の過去を振り返り、鰊漁で栄えた時代の江差は江戸にもない賑わいを見せたのに対して、これとコントラストされる現在の鰊の去った江差に昔日の面影はないことを思い比べ、その江差に、九月の「江差追分全国大会」を鰊漁で栄えた昔日の賑わいを見ることにより、江差追分全国大会についての本文へ導入する一個の独立したプロローグの役割を果たしており、思想又は感情を創作的に表現したものである。すなわち、江差では、誰もが、一年の絶頂は八月の姥神神社の夏祭りで、このときが一番賑わうと考えているのであり、九月の江差追分全国大会に昔日の復活を見る視点は、「北の波濤に唄う」に書かれた以外にない。
 被告らは、本件プロローグは「客観的な歴史的事実、ないし社会的事実の単純な事実認識の問題」にすぎず、原告の創作活動というべきものではないと主張する。
 しかし、本件プロローグは、被告らがいうような「単純な事実認識」ではなく、逆に単純な事実と全く相違する。なぜなら、「江差追分全国大会」の開かれる九月の数日間、江差町がかって鰊漁で栄えたころを彷彿させるような年に一度の賑わいを呈するような客観的事実は存在しないからである。
 被告らのいうような「単純な事実認識」としてならば、江差町のかっての鰊漁で栄えたころに匹敵する一年の絶頂、賑わいは、被告NHKにおいても全国放送で紹介されている八月の姥神神社の夏祭りと表現されて然るべきである。それにもかかわらず、原告は、客観的事実としてはたいした賑わいでもない九月の「江差追分全国大会」を原告独自の視点から「一年の絶頂」とした。
 これは、作家の内的風景ないし江差追分に寄せる一種の憧憬がもたらした、事実の「文学的認識」ともいうべき「創作」であり、被告らがいう「単純な事実認識」とはまさに正反対の立場にある。江差追分全国大会をこのように見る「視点」あるいは「思想」は、地元民の意識はもとより過去の文芸作品、エッセー等にも存在せず、原告の「北の波濤に唄う」の発刊後に出版された江差追分会編「江差追分」や「江差町史」にもそれに相当する視点、表現はない。
 以上のとおり、本件プロローグは、江差追分賛歌に対する一個の独立したプロローグの役割を果たす部分として、当該部分自体独創性または個性的特徴を具有しているものにほかならず、単純な客観的事実や事実認識を表現したものではあり得ず、原告の「思想または感情を創作的に表現したものであって、文芸の範囲に属するもの」であることは明らかである。
(2) 翻案について
@ 本件ナレーションの外面的表現形式に対応する内面的表現形式は、本件プロローグの前記内面的表現形式そのものである。
 被告らは、本件プロローグの表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として感得させる態様において、内面的表現形式をそのままにして、外面的表現形式のみを要約変更している。すなわち、被告らは、本件ナレーションにおいては、本件プロローグ中の鰊で栄えた当時の江差の賑わい振りである「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」の言葉から、「江戸にもないという賑わいを見せた豊かな海の町でした。」と剽窃し、「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」との本件ナレーションが、原告の主張する内面的表現形式「Bところが、その江差に華やかな一年の絶頂を迎える時がある。それが九月の江差追分全国大会である。」に基づき、江差では誰もが一年の絶頂は八月の夏祭りであると考えているにもかかわらず、本件プロローグ以外に書かれたものはない九月の江差追分全国大会に昔日の賑わいを見る視点を、本件プロローグから剽窃しているのである。
A 被告らは、内面的表現形式Bについては、「江差では誰もが一年の絶頂は八月の夏祭りであると考えているとの事実は存しない」と主張する。しかし、江差追分全国大会の参加者は、実数千人余りであり、会場の収容人員が八百人、江差町内のホテル・旅館の収容能力が民宿を含めても五百人程度から推して、また参加者たちは会場一か所でただ追分節を論じたり歌ったりしてる状況から推しても、江差町全体がかっての鰊漁のころを彷彿とさせる賑わいを復活させたかにいうのは全く客観的事実に反するのである。また、「江差町史(第六巻)」は、夏祭りの説明に一四頁(江差追分には八頁)を費やし、「祭日の二日間は全江差住民はあげて祭典気分を満喫し、市中は平常の人口の数倍にふくれあがり、山車行列の豪華絢爛さと相まって、往時の繁栄を再現するとともに、江差人の気概をこれに向けて発散するのである。一方江差で生まれ育ち他出した者にとって、錦を着て帰郷し祭典に参加するのが夢であり、この祭りこそ江差人を故郷とかたく結んで離さない絆なのである。」と述べている。さらに、江差の夏祭りの名誉のためにあえていえば、夏祭りの山車一三台のうち二台は北海道教育委員会から民俗文化財に指定されている。祭りの社会的認知・評価にはこれで十分である。
 以上から明白となったことは、両者の表現はまさしく「現実の江差追分全国大会の開催時の町の(客観的)状況をあらわすものではない」という厳粛なる事実であって、被告らの主張は、原告の著書から剽窃した表現を、あたかも江差追分全国大会の「盛況ぶり」や「町おこし」について述べた「単純な事実認識」であるかに取り繕うための言い逃れといわざるを得ないのである。これは、本件ナレーションの僅かな語数の内に、「去った(去り)」、「面影」、「その江差が」、「九月の二日間だけ(九月……年に一度)」と本件プロローグと同一語彙、用語が四個も並ぶという明らかな事実が物語るように、本件ナレーションの内面的表現形式は、本件プロローグの内面的表現形式そのものの単純な剽窃にすぎないのであって、被告らのいう「江差追分全国大会で人々が歌を歌い、聴くときの精神的状況についての原告(及び被告)の考え方、視点の比喩的な表現ないしそれになぞらえた表現」ということにほかならず、双方の内面的表現形式は全く同一だということなのである。
B 原告の江差追分観について
 被告らは、原告の江差追分観について、「どんづまりの歌」、「敗残者」などの「怨念の唄」「恨み節」等と規定し、この一貫した視点・根本思想に沿って本件プロローグも表現されているものであるから、被告らが江差追分を「生命の歌」「人間賛歌」とする視点・根本思想とは異質であり、外面表現形式の類似性に反し内面的表現形式の同一性はないと主張する。
 原告は、江差追分についての最終的な規定を「北の鎮魂歌」とするものである。「北の波濤に唄う」の単行本・文庫版ともに「北の鎮魂歌」を最終章とするのはこのゆえんである。一方、「敗残者」などの「怨念の唄」「恨み節」等は、北限の蝦夷地(北海道)をめざした人々の流転の生活・人生が追分節にどのような影を落としているかの側面からとらえた歌の性格、即ち歴史の投影を述べた表現である。原告は、「北の波濤に唄う」の最終章で、前代において「北の流転した敗者たちの歌」だった追分節が、時を経るにつれて成熟し輝きを増して、ついに洗練された「北の鎮魂歌」になったことを描写した。原告のこの江差追分観は次に引用した箇所により端的に示される。
 「私たちは、この江差追分の代表的な歌詞のなかに、北を指した人間の心細さ、切々たる心情を読み取ることができるだろう。現代の江差の人たちの多くも、やはりそうした心細さを胸に、おそらくは食いはぐれ者の敗残の思いを背負って、内地から渡ってきた出稼ぎ者の子孫だからだろうか。追分を歌うときの彼らは、先祖の心になりきっている。人々は実はそうやって、先祖の魂をしのびながら、今を生きる自分たちの切なさ、辛さを慰め、明日への熱源を追分に求めようとしているように思える。江差追分が聴く者の心をとらえて放さない秘密は、そうした虐げられた者たちの歴史の投影にあるだろう。北の鎮魂歌・・・。江差の旅を重ねるにつれ、私はそう確信するようになった。」(二五九頁)
 そもそも追分節が日本海沿いに北上したころの蝦夷地は、現代人の想像を絶する僻遠の地であり、よくよくの事情がない限り、あえて墳墓の地を捨てて海を越える者はなかった。初期の移住者、出稼ぎ漁民らが多くの場合、内地(本州)で生活に行き詰まった人たちだったことは北海道開拓史をひもとくまでもない歴史的事実である。追分節はそうしたいわば社会的弱者の立場にある人たちの、底辺に呻吟した日常の苦と情念によって練られ洗練度を増して、今日へと引き継がれてきた。盲目の座頭左之市が追分節を歌い始めたという古い伝承や、かっての商家では追分節が「漁師の歌、馬車追いの歌」と蔑まれていたというよく知られた事実などは、江差追分が少なくとも一時代前までは富める者、支配する側の歌ではなく、貧しい者、支配される側の血のにじむような感情の表白だったことを物語る。芸術なかんずく音楽に陰と陽、明と暗の対比が重視されるのは常識であり、江差追分が日本民謡のなかでも屈指の名曲とされる最大の理由は、おおらかで力強いうねりのなかにも聴く人の胸をうつ「陰・暗」の哀調が響いているからである。この「陰・暗」の美を、原告は蝦夷地という北限にたどりついた人たちの歴史に読み取ったのである。
 しかるに、被告らの所論は江差追分の解釈に欠かすことのできない歴史を意図的に無視し、ただいたずらに「敗北者」等の言葉に異常なまでの執着を示す。被告らは、「北の波濤に唄う」がもっぱら「敗北者」の歌の視点で構成されているとし、そこにあるのは「いわば江差の「生命の歌」とか、あるいは「人間賛歌」とする視点などとは異質のものである」としたうえで、原告が今日現在の江差追分そのものを「敗北者の歌」と呼び、なおかつ江差町および町民までを「敗北者」扱いしているかに強弁する。浅薄な読み方であり詐術的な歪曲である。
 原告は「敗北者・敗残者の江差町なのである」などと書くどころか、江差町の人々がいかに追分節を愛し生きがいとし力強く暮らしているかを、「北の波濤に唄う」の中の「道場二代」の床屋親子の話、「夫婦追分」の中年夫婦の物語、「九月の熱風」の大会参加者の喜び等で縷々描写し、追分節なしには考えられない人間像の明るく積極的な一面を活写している。さらに「通夜の追分」に登場する人物に託した「仏と追分の世界を語る男たちもまた、おおらかな生の肯定者であった」との記述や、前記引用文中の「明日への熱源を追分に求めようとしているように思える」との表現等も見れば、被告らの主張がいかに事実に相違した一方的な暴言であるかが明白となろう。
 原告が江差追分を最終的に規定した「北の鎮魂歌」という表現は、「北の波濤に唄う」において初めて江差追分に冠された原告による称賛詞である。歴史的に「敗北者の歌」の性格を持った江差追分を今日的に解釈した原告独自の表現といってよく、今日の江差追分が「北の波濤に唄う」の「通夜の追分」の章に描いた文字どおりの鎮魂歌としてばかりでなく、現代人の抱える孤独を癒す音楽でもあるとの視点からの表現である。被告らは、知ってか知らずか全くこの点に触れようとせず、もっぱら「敗北者」にこだわるが、「北の鎮魂歌」を育てたのが虐げられた人々、「敗れて北に流転した者たち」であった歴史は否定しようがない。被告らが町おこしの成果として挙げる内田康夫著「追分殺人事件」には、後記のとおり、原告の江差追分観を最終的に規定した称賛詞「北の鎮魂歌」の呼称が取り上げられているのであり、また、地元江差追分会編纂による「江差追分」にも「北の鎮魂歌」の項目がある。このように「敗北者の歌」という歴史的認識を経て成熟度・洗練度を増し現在の追分節へと伝承されたという原告の視点から生まれた「北の鎮魂歌」の呼称は、すでに第三者にも受け入れられ一般化したとさえいえるのである。被告らのように「敗北者」等の言葉尻のみをたたくのは木を見て森を見ない偏狭な態度との誹りを免れない。
 また、原告の江差追分に対する視点が、被告らによっていかに意図的に曲解されたものであるかは、原告の「北の波濤に唄う」が読書界、言論界等においてどのように読まれたか、どのような反応をもって迎えられたか、を明らかにすることによってより客観的かつ明確なものとなろう。
 例えば、江差出身のテレビプロデューサー脇哲、及び、札幌市在住の民謡研究家高田裕は、ともに江差追分を熟知した筆者であり、脇哲には「北海道民謡物語」(北粋出版刊)の著書があるところ、脇哲は、「この人の江差に対する思いのたけの深さは、こちらをたじろがせるていのものがある」とか、原告の「追分の歴史観になにがなし抵抗を感じるといいながら(脇自身、独特の追分観を持つ専門家としては当然の感想である)、再読した気持ちは「ヨクゾカイテクダサッタ」というほかない」と率直に評価している。また、高田裕も、「民謡・江差追分を求めて十年、とうとう木内宏というジャーナリストが音と言葉が詰まった本を出してくれた・・・朔北の歴史をささえる人達の<声>の現地録音盤(版)ということになる」と積極的に評価こそすれ、原告の追分観・歴史観には全く異を唱えていない。江差に深いかかわりを持ち江差追分に深い造詣を持つ両名だけに、もし内容に不快感や反感を覚えたならば、このような書評にはならないはずである。
 また、読売新聞「フラッシュ」欄は、「思い入れが少し強すぎるように思われる」としながらも、「通夜の追分」に注目し、江差の人々が「この唄を守り育ててきた熱気」を「北の波濤に唄う」によって知り、さらに「熱気は全国にひろがって」と被告らの口癖にする「町おこし」の状況をも正確に読んでいる。朝日新聞「天声人語」もまた鎮魂歌としての江差追分に注目した記述である。
 また、脇の書評を読んだ札幌在住の一市民である鈴木吉蔵は、「私も江差衆である」と北海道新聞に投書を寄せ、原告のことを「江差の町にただならぬ愛情を寄せている人だ」と被告らの言い分とは正反対のことを述べている。
 またあえて付け加えるならば、右書評等は、被告らがことさら「北の波濤に唄う」朝日文庫版の修正・加筆に執着する以前の講談社版に対する評価であるという点である。
 以上、被告らの主張は、「北の波濤に唄う」に対する世上の客観的評価、読み方とは正に正反対の悪意に満ちた独自の見解であることが明白である。
(ニ) 被告らの「町おこし」の視点について
 被告らは、また、本件番組は、江差追分を、いわば江差の「生命の歌」とする、町おこしの視点を踏まえて構成されていると主張する。
 江差追分を軸とする町おこしが本格的に開始されたのは、「北の波濤に唄う」が公刊されてから数年を経た昭和五〇年代後半に至ってからのことであり、これには原告の「北の波濤に唄う」が少なからず寄与した点を故意に無視している。原告は、「北の波濤に唄う」の公刊直後の昭和五四年、来宅した本田義一江差町長・江差追分会会長(退任後の現在は名誉町民)から、町の将来像について相談を受け、その際、本田氏から、「地域の活性化のためには何を軸に据えればいいか意見を聞かせてほしい。追分か、開陽丸か。」と聞かれ、原告は、「追分節だと思います。それ以外には考えられません。」と答えた。その後、江差町内に諸々の追分関連施設が建設され、それにつれて追分会の会員数も急速に増加した。原告が後年本田町長から私信の礼状を送られたのには、そのようないきさつがある。
 被告らがいうサントリー地域文化賞、北海道新聞文化賞、北海道開発功労賞等の栄誉は、むろん江差町民をはじめ多くの人々の努力の賜であるが、その大半は「北の波濤に唄う」の公刊数年後からのものである。
 被告らが町おこしの成果として引用する内田康夫著「追分殺人事件」にも、「北の波濤に唄う」の影響が見られる。登場人物の江差町役場職員が「江差追分は、単なる民謡というより、なんていうか、鎮魂歌のようなものなのです」(同書一五八頁)、「北の鎮魂歌といえば、なおカッコいいでしょうかなあ」(同書一五九頁)と語る場面は、「北の波濤に唄う」の「通夜の追分」章の冒頭(一四二頁)の「追分はただの民謡ではない、すぐれた鎮魂歌と表現していいのではないだろうか」とそっくり同じである。内田氏の小説の第四章は「北の鎮魂歌」となっているが、「北の波濤に唄う」にも「北の鎮魂歌」の章がある。
 被告らは、ことさら曲解した原告の江差追分観と被告らのいうことさら誇張した「町おこし」の観点を対比して、原・被告らの間の内面的表現形式の同一性を否定しようと躍起になっているが、被告らのこの立論はそもそも論理的に成立し得ない問題である。
 「町おこし」とは地域振興を目的とする具体的に動的な「政策・運動」であるのに対し、民謡江差追分の質をどう解釈するかという江差追分観は、主観的に静的な「音楽観・歴史観」である。概念の異なるこの二つの命題を、被告らは一つの対立軸のなかで同列に論じようとしているのであり、到底成り立つ道理がない。別の言い方をすれば、被告らの主張どおり、「北の波濤に唄う」が江差追分を「敗北(残)者の歌」と見る「音楽観」で書かれていると仮定しても、それが「町おこし」の「政策・運動」と相容れないとする客観的事実も根拠も存在しない。
(二) 被告らの主張
(1) 本件プロローグの著作物性及びその内面的表現形式について
 本件プロローグ中の「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」との記述部分は、そもそも原告の創作ではない。
 また、「九月の江差の江差追分全国大会に昔日の賑わいを見る」という「視点」が、原告独自の創作であるとする点は強く争う。江差追分全国大会の有様を、江差の歴史(鰊盛漁の旧時と、衰微の現在)に照らして認識することは、客観的な歴史的事実、ないし社会的事実の単純な事実認識の問題であって、原告の創作活動というべきものではない。
 本件プロローグは、その著者が江差追分の魅力にとりつかれ、北海道江差町で開かれる「江差追分全国大会」を機に、同町を初めて函館ー中山峠経由で訪問した際の探訪記である短編「九月の熱風」(甲二号証の文庫本で、本文正味二三頁)の冒頭部であって、一一個のパラグラフから成り、これから訪問しようとする江差町の過去をふりかえり、栄華(鰊漁の盛時)の時代に対して、これとコントラストされる現在(不漁の陰鬱な漁港)とを思い比べ、この衰退の中であるが、九月の二日間にわたる「江差追分全国大会」により、町が生気をとりもどすことになる旨の簡潔な前置きの記述である。このように、本件プロローグは、歴史的事実や社会上の事実の単なる記述にすぎない。
 翻案権保護を主張する前提要件たる独立の著作物と認められるためには、表現形式上まとまりがあり、且つ、一定の思想の個性的発現展開ありと認められるものでなければならないと解すべきところ、右冒頭部の記述の内容は、江差町探訪記である短編「九月の熱風」において著者の探訪の行動の記述に先立ち、訪問先である江差町の過去(鰊漁の盛時)と現在(不漁のため衰退)という歴史(時の流れ)の中で、江差追分全国大会という現在の行事の盛行があるとの社会的事実の単純な事実認識を示すものであって、原告の創作成果ではない。また、この記述部分は、客観的に明白な実在の社会的事実の言明であるにとどまり、この冒頭部のみから「一定の思想」(まとまりがあって、創作性のある考え)の表現であるとは到底認められるものではない。
 また、「九月の熱風」に示されている思想の体系(まとまりのある内容)は、江差追分会事務局からの、全国大会の準備が整った旨の電話連絡に始まり、現地に向かう行路(上野駅から青森、函館までの列車行、函館から江差行きバスの車内情景)、江差到着から大会会場の有様、予選会、ある出場者に係るエピソード、ソイがけの岩坂氏との問答、場外での経験、という一連の進行である。したがって、このような一連の出来事の語りと切り離して、この短編の内面的表現形式をいうことは、およそ成立し得ない。
(2) 翻案について
 著作物の内面的表現形式なるものは、当該著作物の外面的表現形式に即して認識把握されなければならないところ、ここにいう著作物の内面的表現形式とは、本質論的に言えば、その著作物の基礎に置かれている著作物の一定の思想が、その著作物として見られる形態に表現展開されるに際してとられている個性的態様を指すのであり、例示的に言えば、小説であればその基本的モチーフ・ストーリー性・構成など、著作物のエッセンスを指すものである。
 本件プロローグの内面的表現形式と本件ナレーションの内面的表現形式とを比較・対照し、その翻案権侵害の有無を検討する場合に最も重要、かつ基本的な事項は、客観的存在としての両内面的表現形式の比較・対照である。この内面的表現形式の同一性の存否の問題は、単なる影響関係の存否の問題とはその性質を全く異にするものであって、「同一性」と「影響関係」とを混同することの許されないことは当然であり、また、アクセスの有無の問題とも異質であり、両者を混同するべきではない。
@ 原告が主張する、本件プロローグの「外面的表現形式」に対応する「内面的表現形式@、A」について
 原告の主張は、原告の主張する内面的表現形式「@鰊漁で栄えたころの江差は、その時期江戸にもない賑わいをみせていた。Aしかし、鰊の去った江差にはもはや昔日の面影はない。」について、原告が創出したものとの立場に基づくものであるが、原告が主張する「内面的表現形式@、A」はいずれも一般にひろく知られた歴史的事実、ないし社会的事実である。
 また、鰊漁で栄えた当時の江差の賑わいぶりである「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」の言葉は、「北の波濤に唄う」の原告の摘示個所において、「……の有名な言葉が今に残っている。」として原告自身が引用文であることを明示しているのであって、このことからも明らかなとおり、もともと原告自身が創出した言葉ではない。
 したがって、本件プロローグや本件プロローグがある「九月の熱風」の章の記述の外面的表現形式・内面的表現形式を検討するまでもなく、「日本海に面した北海道の小さな港町、江差。古くはニシン漁で栄え、江戸にもないという賑わいをみせた豊かな海の町でした。しかし、ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません。」との本件ナレーションについて、原告の著作物の剽窃や翻案権侵害が生じる余地はない。
A 原告が主張する、本件プロローグの「外面的表現形式」に対応する「内面的表現形式B」について
 原告は、「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」との本件ナレーションが、原告の主張する内面的表現形式「Bところが、その江差に華やかな一年の絶頂を迎える時がある。それが九月の江差追分全国大会である。」に基づき、「江差では誰もが一年の絶頂は八月の夏祭りであると考えているにもかかわらず、本件プロローグ以外に書かれたものはない九月の江差追分全国大会に昔日の賑わいを見る視点を、本件プロローグから剽窃した」旨主張する。
 しかし、江差では誰もが一年の絶頂は八月の夏祭りであると考えているとの事実は存しない。
 またそもそも、このような原告の主張が成立するためには、「北の波濤に唄う」か、あるいは本件プロローグが存在する「九月の熱風」の章の記述の中に、「一年の絶頂を迎える」が「かつての」「賑わい」を取り戻すことであることが明確に表現されていることが必要であるが、次に述べるとおり、「北の波濤に唄う」にも、「九月の熱風」の章にもそのような表現はない。
 すなわち、本件プロローグは、「だが、その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。
 日本じゅうの追分自慢を集めた江差追分全国大会が開かれるのだ。
 町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく。」となっており、「……だけ、とつぜん……」と期間の限定と不意・思いがけないことを表す言葉が重ねて用いられている点に特徴がある。そして、本件プロローグ中の「だが、その江差が……」とは、ふだんの衰退しきった「無気力な顔」をした「かつての栄華はあとかたもない」、「昔日の面影はない」江差町に、江差追分全国大会の期間中に限って、不意に、思いがけなく(江差町の人々の積極的な活動とは無関係に)、「一年の絶頂」が発生するものであることを表現するものである。そして、この記述は、江差追分全国大会の期間を過ぎれば、江差町が、もとの「無気力な顔」をした「かつての栄華はあとかたもない」町に戻ることを意味しており、これは、全国大会を江差町の人々の江差追分を軸とした「町おこし」の前向きな継続する積極的な活動との関連でとらえる表現ではないのである。
 また、本件プロローグ中の「幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。」との記述は、「幻」とは、「すぐ消えるはかないものであること。また、実在しないのに実在するようにみえるものであること。」であり、「はなやかな」とは「きらびやかで美しいさま。栄えて勢いがあるさま。きわだっているさま。」ということであるから(「大辞林」)、あたかも、この世の現実のこととも思われぬムード的表現であり、「かつての賑わい」と結び付く表現であるとは、到底いえないのである。
 さらに、本件プロローグにおける「一年の絶頂」は、本件ナレーションで用いられている「賑わい」が社会的・経済的状況を明確に表す言葉であるのとは異なり、単に、現在の衰退した江差町にとって一年のうちで最高の状態であることを意味する抽象的な言葉に過ぎず、また、他のものに比してどの程度の段階であるかを表す言葉でもない。すなわち、現在の「一年の絶頂」が、過去の他のものに比して、同じ内容・性格のものであるのか、また、優っているのか、同じ程度なのか、劣っているのかは、この言葉だけでは不明である。
 またさらに、本件プロローグの「町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく。」についても、「町は生気をとりもどし」とは、社会的・経済的な状況を表す言葉である「賑わい」と異なるものであり、また、「かつての栄華が甦ったような」は、江差町の状況を直接に表しているのではなく、「吹き抜けてゆく」「一陣の熱風」を修飾する言葉にすぎないのである。したがって、本件プロローグにある「生気」が「かつての賑わい」を意味するものでなく、これにより、「一年の絶頂」が「かつての賑わい」を意味しないことになるのであって、原告の主張する内面的表現形式Bは、これに対応する本件プロローグ(「外面的表現形式」)の意味を歪曲し、実際の記述から離れたものにほかならないのである。
B 原告の江差追分や江差追分全国大会に対する考え方、視点
 原告は、「北の波濤に唄う」の「終着駅」の章の中で、江差を「どんづまり」、江差追分を「どんづまりの歌」として、江差追分には、海を渡り、「北の果ての辺境にたどりついた人たち」の「怨念」が込められた歌だとの視点を述べ、「北の波濤に唄う」の講談社版の「北の鎮魂歌」の章において、江差追分を「敗残者の鎮魂歌」、北へ逃れざるを得なかった「敗残者」などの「怨念の唄」「恨み節」で、「蝦夷地に辿りつき、腸をしぼった男や女たちの歌が、逃げ場を失った現代人の魂を慰める……現代人の鎮魂歌」「自己陶酔」「一種のマゾ」であるとの視点を述べており(原告のこの視点は、「北の波濤に唄う」の朝日文庫版においても、旧版の直截な表現ではなく、ソフトな言い回しを用いてはいるものの、何ら変わりはない。)、現代の江差町の人々や江差町の人々の江差追分に対する姿勢を「敗残者」である先祖と同一視する視点を述べているのである。原告は、本件小説やその他の著作においても同じ視点を述べているとおり、原告が江差追分を敗北者・敗残者・あぶれ者の「恨み節」「怨念の唄」ととらえ、また、現代の江差町の人々の江差追分を歌い、聴く姿勢を「敗残者」である先祖と同一視する視点に固執する偏った立場をとっているのである。したがって、本件プロローグ以外の原告の著作にも、原告が主張する「内面的表現形式B」を裏付けたり、あるいは説明する明確な記述がないのである。また、このことにより、原告が「九月の熱風」において、江差町を「無気力な顔をしている」「五月の栄華はあとかたもないのだ」などとことさらにその衰退ぶりを強調する記述をした理由も明らかとなるのである。
C 本件番組の内面的表現形式
 本件番組は、民謡江差追分をもって敗残者の唄と解する偏った原告の視点に立つものではなく、むしろ、江差追分を、いわば、江差の「生命の歌」、さらには「人間賛歌」とする、「町おこし」の視点をふまえた上で構成製作されていることが明らかであるから、原告のいう「内面的表現形式」とは全く異質のもので、本件プロローグの剽窃・翻案権侵害の原告主張は失当である。
 函館局は、この江差追分を貴重な地域文化として、数多くのニュース・番組でとり上げ、全国に紹介してきた。函館局は、江差追分全国大会には第一回大会から司会者、審査委員長を歴代派遣しており、大会の模様をニュースはもとより、番組でも度々とり上げ、大会の隆盛、江差追分を軸とした「町おこし」に大きな役割を果たしてきた。とりわけ、昭和五七年のNHK特集「熱唱二五時間〜江差追分全国大会〜」は、江差追分関係者の江差追分の普及、技能向上にかける熱意と江差追分の民謡としての魅力に引かれて、日本全国から全国大会に参加するありさまを描き、全国の追分ファンのみならず、民謡愛好者に多大な感銘を与えた。
 また、昭和六二年一一月二二日放送の函館局製作「ほっかいどうスペシャル「江差追分ーうたで支えた町おこし」」(本件番組の製作担当ディレクターのB職員が担当した番組である。)は、地元出身の江差追分研究家の館和夫と江差追分の歌手佐々木基晴が出演し、江差追分の沿革や、「町おこし」の先駆として成果を上げている江差追分を軸とした江差町の再興活動を江差追分全国大会の状況と併せて紹介し、江差追分はかつての鰊に代わる「町の大黒柱として成長してきた」とのコメントで締めくくっているのである。
 本件番組は、この「ほっかいどうスペシャル「江差追分ーうたで支えた町おこし」」の放送以後、江差町の江差追分を軸とする「町おこし」がさらに成果をあげ、社会的評価がさらに高まっている事実を踏まえて製作されたものである。
 したがって、本件番組中の江差追分の全国大会開催時の状況に関する「九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」とのナレーションの内面的表現形式は次のとおりである。
 本件ナレーションは、江差追分を「何くそ町を立て直そう、江差の灯を消すなの心意気を示す、いわば江差の「生命の歌」とし」てとらえ、江差追分を軸とした江差町の再興活動が、「新たな町づくりを果たした」とか、「追分節をもって郷土江差をよみがえさせ」たとまでいわれるほど社会的に評価され、数々の表彰となって結実している(本件番組放送直後の平成二年一一月には北海道文化賞、平成四年には北海道の最高の栄誉である北海道開発功労賞を受賞している)との広く知られた事実を踏まえ、本件番組が製作・放送された平成二年には全国大会に日本国内のみならずブラジルからも参加者があり、愛好者も全国に広がっていることや、日本からハンガリーに及ぶユーラシア大陸に広がる地域から追分タイプの歌の歌手や学者が集う江差・世界追分祭が併せて(いわば、威容を誇ったかつての鰊御殿にも比すべき江差町文化会館で)開催されるほど隆盛となった江差追分全国大会の盛況ぶりを述べる表現として、鰊漁の盛んだった時代に、日本各地から人々が集まった「かつての江戸にもない賑わい」に例えることが、最も適切な表現であるとの判断に基づくものである。
 右の経緯を経て作成された本件番組は、「江差追分」をもって、基本的に、江差の「生命の歌」、「人間賛歌」ないし「郷土再生の歌」とする思想に貫かれており、この番組中に存する上記コメントもまた、右の基本思想に立つ認識判断である。
 ところが、本件プロローグは、「江差追分」をもって、基本的に、「敗残者の唄」とする思想に貫かれているものである。
 よって、本件プロローグと本件ナレーションとは、それらの各内面的表現形式(就中、根本思想・根本的性格)の点において、全く相異なるものというほかなく、本件プロローグの翻案権侵害が成立する余地はない。
3 原告が主張する名誉(社会的評価)は、存在していたか。
(一) 原告の主張
(1) 原告は、昭和四二年ころから江差追分に関心を寄せ、同五三年から五四年にかけて北海道檜山郡江差町へ七度の取材旅行をし、一年にわたる現地取材をした結果、同五四年「北の波濤に唄う」を発表した。原告は、同著書で追分節を今日の姿に近い形に練り上げたとされる伝説上の人物座頭佐の市が実在していたことを初めて実証し、また、追分節の挽歌、鎮魂歌としてのありようを見い出し、追分節と江差町の人々の人間模様を鋭く掘り起こした。同著書は、新聞、週刊誌等の書評、テレビ、ラジオ等の番組化で大きな反響を呼び、約五万部を売り尽くすベストセラーとなった。
 また、原告は、昭和五五年には、江差追分の歌詞から書名をとり、江差追分歌いの第一人者青坂満との対談を含む対談集「何を夢みて」を発表し、同五六年には、一七編の短編中二編で江差追分をテーマにした「賽の河原紀行」を発表した。
 原告は、その結果、作家及び江差追分に関する研究の第一人者としての地位を築き、昭和五四年九月の江差追分全国大会の席上で、江差追分の存在を全国にアピールし、その文化財的価値を見直す上で貢献したとして、江差町の江差追分会から功労者賞を贈られ、また、同年の全国大会の模様を記載したルポルタージュを同年一〇月発行の「朝日ジャーナル」誌に執筆した。原告は、その後もほぼ毎年の江差追分全国大会に出席し、また、朝日新聞その他の雑誌からも江差追分に関する執筆依頼を受け、それぞれ執筆したほか、江差町の広報誌に九回連載でエッセーを寄稿したり、「江差追分競演集」のレコード解説を担当し、講演の依頼を受けるなどし、さらに、江差追分会会長の江差町長本田義一から地域振興策について相談を受けるようになり、辞退はしたものの江差町から名誉町民となるように勧められるなど、江差追分の研究者として江差町町民及び江差追分愛好家から高い社会的評価を受けてきていた。
(2) 原告は、訴外札幌テレビ放送の開局三〇周年記念番組に追分節をテーマにしたドキュメンタリーあるいはドラマを製作するための原作の執筆依頼があったことを契機として、自費で約三週間のハンガリー取材を行い、東京大学在学中に専攻した歴史学の史実から着想、構想を練り上げ、平成元年四月、追分節の起源を探求し、追分節は騎馬民族フンとともにウラルから日本に来たという仮説、謎解きを最大のテーマとする本件小説を発表した。
 本件小説は、追分節が歴史上の人物アッティラを首領とした騎馬民族フンとともに日本に伝流されたという、いわば追分節ウラル源流説ともいうべき独創的な虚構を縦軸に、追分節の挽歌、鎮魂歌としての色彩から悲恋小説の要素を横軸に展開させたものである。原告は、追分節ウラル源流説を学術的に実証することは現時点では不可能に近いことを考慮したため、小説という形式を採用したものであって、悲恋小説は従であり、あくまで追分節ウラル源流説が本件小説の主たるテーマである。
 この追分節ウラル源流説は、原告の一〇数年の江差追分に関する研究及び大学在学中に専攻した歴史学の知識を基礎に初めて整合的に成り立ち得る歴史上の仮説であり、独創的虚構である。これまでユーラシア大陸に帯状に拡がる追分タイプと呼ばれる歌がただ点と点の存在として認識されるに止まっていたのに対し、本件小説は、点と点の間を具体的な線(ウラル↓日本、ウラル↓ハンガリー)で繋ぐことに成功し、しかも、追分節が不特定の騎馬民族によって大陸からもたらされたとする一般論ではなく、伝播者をハンガリーの歴史伝説上の人物チャバ(アッティラの息子)に率いられたフン族と特定し、戦いに敗れたフン族がチャバに率いられ東方へ敗走し、大海のほとりにたどり着いたというハンガリー歴史伝説と、古代日本の歴史書「続日本紀」に記録される歴史上実在する人物、東北蝦夷の首領阿弖流為(アテルイ)をフン族の末裔と結び付けることによって、歴史的整合性を獲得したのである。すなわち、四世紀ギリシャの歴史家アミアヌス・マルケリヌスによる歴史書に記載されているフン族独特の、一旦退却すると見せかけ敵を油断させ急襲する戦法と「続日本紀」に記録される阿弖流為(アテルイ)の戦法との同一性から、チャバ率いるフン族がたどり着いた大海を日本海と推定し、フン族の首領アッティラ(ハンガリー、トルコ読みではアテレ、エテレ)と蝦夷の首領阿弖流為(アテルイ)の表記の類似性と、アッティラと阿弖流為が生存していた時期が五世紀と八世紀とずれていることから、阿弖流為(アテルイ)をアッティラの息子チャバの末裔と想定したものである。
 本件小説が発表されるより前には、ウラルとハンガリーの両地域が民族音楽的に同系の関係にあることは証明されているものの、右のような仮説を扱った学問的論文も文学作品も一切存在しなかったものであり、右の歴史的整合性に基づく江差追分のルーツ論である追分節ウラル源流説こそが、本件小説の社会的評価を獲得した核心的部分である。そのため、本件小説は、毎日新聞、産経新聞等の書評のみならず、歴史関係の雑誌「歴史読本」の書評においても紹介されるなどの反響を呼んだのである。また、被告NHK国際局のAからも、平成元年一〇月六日、被告NHKのスペシャル番組で原告の独創的虚構である追分節ウラル源流説を取り上げたい旨の提案があった。
 被告らは、本件小説においては、追分節ウラル源流説の記述はない旨主張するが、本件小説では、ブダペストの研究所で見つかった古いテープが日本の追分節とウリ二つであること、ハンガリー人は、一五〇〇、一六〇〇年前ころはウラル山脈の麓でオスチャークやヴォグールと一緒に暮しており、このテープの葬送歌をその頃から歌っていたこと(本件小説三〇ないし三四頁)、この歌を最初にハンガリーに伝えたのがフン族であること(同一四六頁「たぶんフン族がまずハンガリーに伝え、後はマジャール族が歌い継いでいったのでしょうね」)、及び、東へ敗走するフン族の王子チャバの一行にマジャール族とその歌姫も合流していたこと(同一七三、一七四頁)が明確に記載されており、追分節とウリ二つの歌がウラルに起源を持つことがこの創作部分に描かれていることは、何人にも明らかである。本件小説では、右の虚構により、追分節とウリ二つの葬送歌がウラルを軸にして、いずれもフン族及びフン族とウラルで合流した種族によって、一つはハンガリーへ、もう一つは日本へもたらされたことが明確に表現されているのである。チャバがハンガリーから東へ敗走したことをとらえて、追分節はウラルではなくハンガリーから日本にもたらされた、ないしは、ウラルは中継点にすぎず、ウラル以前の起源は不明であるとするのは大きな読み違いである。すなわち、右葬送歌は、ウラルに起源を持ち、そこにいた民族がフン族のチャバと合流して日本に向ったときに、右の歌も一緒に旅に出たのである。なお、フン族がウラルにいたマジャール族等と合流したとする虚構を補強するために、本件小説では、「もともとユーラシアの一つの輪のなかで、互いに皆親しく付き合っていた。そこでは歌も踊りも共通だった」(本件小説一四五頁)という別の虚構で物語に整合性を持たせている(なお、ここで「ユーラシアの一つの輪のなかで」といっているのは、文脈からすれば、ウラルを指し示すものであることは容易に理解できるところである。)。
 なお、民謡は、もともと作曲者も作詩者も不明の民族音楽を意味し、土器や人骨のような、その出自を特定し得る物的証拠は残さない無形文化財であるから、「何処で生まれたか」を論じることは無意味である。これに対し、歌の起源とは、それが歌われていた土地と歌っていた主体(民族)について、時代を遡及し得る範囲で把握できる実態についていうものであり、「何処で生まれたか」とは別次元の問題である。本件小説は、追分節の起源が、時代を遡る限りではウラル地方に行き着くという虚構に基づいて書かれているのであり、それ以前にどこで歌われていたか、ウラルで生まれたのかどうかは誰にもわからないことである。
 以上のとおり、原告は、史実と江差追分に関する二〇年来の蓄積に基づき追分節ウラル源流説という歴史的整合性のある精緻な独創的虚構を、本件小説において初めて公表したという名誉(社会的評価)を得ていたものである。
 被告らは、追分タイプの歌はソ連ウラル地方から広がったことは、民族音楽の研究者にとって、一般的知見であり、また、この推論は、情報を得れば、研究者であれば誰もが考えつく常識的な推論にすぎない旨主張するが、右の考え方が一般的知見であることを裏付ける証拠はなく、かえって、被告谷本が民族音楽学会の世界的権威と認めているハンガリー科学アカデミー音楽研究所民族音楽部門主任のヴィーカル・ラスロー教授は、右の考え方が一般的知見であることを及び常識的推論であることを明確に否定しているのである。また、世界追分祭での小島美子、柘植元一、藤井知昭の発言も同様であり、このような説を唱えたものがいないことは被告谷本自身本人尋問で認めているのである。
(二) 被告らの主張
(1) 本件小説は、原告のいう追分節ウラル源流説を内容としてはおらず、原告は、その発想を第一に提唱した者でもない。
 すなわち、源流とは、水の流れるみなもと、物事のおこりというものであり、その内容としては、@最も古い発生時期が特定できること、A発生した一定の場所ないし地域が特定できること、B発生地点から他の地点へ伝搬、波及、移動したこと、及びその伝搬経路、状況が一定程度特定できることが必要である。しかし、本件小説には、追分節の発生場所に関する記述を欠いているのであり、原告が主張する追分節ウラル源流説という記述はなく、あるとすれば、追分節はフン族を起源とするという記述である。すなわち、本件小説では、追分節に似た葬送歌を一番昔から歌っていたのは、マジャール族、オスチャーク等ではなく、フン族である旨記載されているところ、フン族は、漢に追われて中国北部から中央アジアを経てハンガリーに移動した民族であるから、右葬送歌の起源は、ウラル山脈とは限らず、中国北部から中央アジアのどこかであると記載されているとみるのが、一番素直な結論である。また、本件小説では、フン族が葬送歌をハンガリーに伝え、これをマジャール族が歌い継いだことが記載されており、右葬送歌がウラルを起源としてハンガリーへ伝播したとの明確な記述はない(フン族の移動については、中央アジアのバルハシ湖からドナウやテイサの対岸での出現(本件小説一三二頁)までの間について何ら記載されていない。)。さらに、本件小説では、チャバが東へ駆け、ウラルを越え、ウラル山脈に住んでいたマジャール族等が合流し、例の葬送歌もこのとき東への旅に出た旨の記載があるが、この記載も、チャバ一行の出発地がハンガリーであること等を考えると、この記載から追分節ウラル源流説を読み取ることもできない。
 また、原告は、追分節がどこで生まれたかどうかについてはよく分からないことであり、本件小説ではそれについては書いていないと主張するが、これは追分節ウラル源流説を自ら否定するものである。
 そのほか、本件小説を紹介した新聞、雑誌の記事(甲三二、三三のもの)でも追分節ウラル源流説は全く出てこないし、本件番組の視聴者であり本件小説の読者でもある者から被告NHKに来た手紙(乙一六の1ないし3のもの)でも追分節ウラル源流説に言及したものはないのであり、本件小説から追分節ウラル源流説が客観的に読み取れないことは明らかである。また、原告自身も、本件小説の出版直後、本件小説の内容について放送等で述べた発言等(甲六七、六九に記載のもの)の中にも追分節ウラル源流説はないのである。
これは、そもそも、原告が追分節ウラル源流説を本件小説の内容やテーマとして意図していなかったことによるものである。
 したがって、原告が追分節ウラル源流説という独創的虚構を、本件小説により初めて公表したという原告についての名誉(社会的評価)は、客観的に存在していないのである。
(2) 仮に、本件小説から追分節ウラル源流説が読み取れるとしても、原告のいう仮説を公表した文献として、本件小説が最初のものであるとの立証もないのであり、本件小説は、追分タイプの民謡がウラルを含むユーラシア大陸の各地に分布、存在していることと、モンゴルの歌が東は日本、西はハンガリーに伝播したとのモンゴル源流説や、ハンガリーの民謡の東洋・中央アジア起源説や、ハンガリーの民謡とアイヌの民謡の類似や、江差追分に似たアイヌの歌の存在等の既存の先行資料によって容易に着想し得るものであり、法的保護に値しない。
 また、原告の主張する名誉権は、それがあったとすれば著作者人格権にほかならず、著作権法によって保護されるべきものであるし、著作権や著作者人格権として保護されないアイデアないし学術上の先行権は、民法その他の法制度の中でも法的権利として認められないものである。
4 被告らの行為によって、原告の名誉が毀損されたか。
(一) 原告の主張
(1) 被告NHKは、平成元年一〇月一八日、本件番組を北海道で放送したが、本件番組は、前記のとおり、「江差追分のルーツは、ソ連ウラル地方のバシキールに求めることができ、その旋律は、古代騎馬民族の移動によって日本列島にもたらされた。」との原告の独創的虚構を、あたかも学者である被告谷本独自の研究に基づく仮説であるかのように構成したものである。すなわち、本件番組においては、被告谷本の仮説として、ハンガリーの東洋的な追分タイプの民謡が騎馬民族によってもたらされたこと、ハンガリーから江差までの一万キロの追分ロードの中心がウラル地方であり、ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈で追分タイプの歌の原型が生まれ、そこから東西に追分タイプの歌が広がっていったことが、被告谷本自身及びナレーターによって語られているのである。
 また、被告NHKは、新聞社向け宣伝資料及びステラ一一月九日号において、前記一7のとおり、江差追分がユーラシア大陸の各地の民謡と深いつながりがあるとの被告谷本の仮説に従い、モンゴル、ソ連、ハンガリーの各地で取材を行ったこと、被告谷本が追分のルーツと考えるバシキールには、尺八そっくりの楽器で伴奏する民謡が存在していたことなどを掲載し、新聞雑誌等を通じてその旨を全国に流布した。
 さらに、被告布川は、前記一8のとおり、本件番組の視聴者数名からの手紙に対し、本件番組は被告谷本の学問的推論をもとに製作したものであり、原告も被告谷本の推論を聞きそこからヒントを得て本件小説を書いたと思われる旨の本件返書を数通送付し、また、北海道新聞及び週刊新潮の取材に対し、前記一9のとおり本件コメントを行った。
 被告らは、右各行為によって、原告が史実及び二〇年来の江差追分についての蓄積に基づいて本件小説において表現した独創的虚構である追分節ウラル源流説が、あたかも被告谷本の独自の学説であるか、又は、学会において被告谷本によって立証されている見解であり、原告は、被告谷本から教示を受けた二番煎じの仮説を、本件小説で借用し、引き写したにすぎないかのような、事実と全く正反対の印象を本件番組の視聴者及び本件小説の一般読者に対し与えた。そのため、独創的虚構である追分節ウラル源流説をメインテーマとする本件小説は、その価値が著しく損なわれ、ひいては、原告は、学者の説を自己の研究成果のごとく取り込み、借用し、作品とする研究者、作家であるとの印象を、江差追分ファンの一般読者、視聴者に与え、原告の江差追分に関する研究者、作家としての名誉が著しく毀損された。特に、原告の北海道なかでも江差町での社会的名声、評価は、被告らの前記各行為によって、著しく低下した。
 このことは、本件小説の一般読者から原告への「江差追分の源流のテレビを見た時、当然この番組の編成には木内さんが参与していると思いました。例の小説の内容と殆ど同じ箇所がいくつもあり、予て源流の話をおききしていたからです。」という手紙(甲五四のもの)、札幌市在住の主婦の原告に対する「リポーター役の先生は大学学長で、そのうえ外国から勲章までもらったですものね、木内さん(原告)がいくら自分の説だと言い張っても、誰だって偉い先生の言うことの方が正しいと思うわよ。仕方ないわね。」という発言からも明らかである。
 なお、本件番組の全国放送が中止された後、江差町及び江差追分の宣伝ともなる本件番組の全国放送を中止に追いやったのは原告であるとの誤った風評が、江差町に流布され、原告が一〇年以上かけて蓄積、形成してきた金銭では評価し尽くせない貴重な財産である江差町及び江差町民からの評価、人間関係も損なわれ、原告は、江差追分全国大会への出席はもとより江差町への訪問すらできず、江差町民との交流も没交渉の状態に追いやられている。
(2) 名誉とは人の社会的評価ないし名声であるところ、名誉権侵害については、実体のない名誉とその毀損行為(名誉の低下)の具体的立証を要求すれば、およそ名誉毀損は成り立たないのであり、名誉毀損の成立には名誉が現実に害されたことの立証は必要なく、刑法の名誉毀損罪についての法理と同様に、侵害の危険の立証をすれば足りると解すべきである。
 また、本件番組は、原告や本件小説に直接言及しているものではないが、本件番組が原告の名誉を毀損しているかどうかは、一般視聴者の通常の注意、関心及び聴き方を基準として、一般視聴者が本件番組から受ける印象によって判断すべきなのであり、本件小説刊行後、時を同じくして、被告NHKがドキュメンタリー番組と名打って、国立大学学長を全面に出し、その口をして江差追分のルーツをウラルと断言させ、実証されたと放送すれば、一般視聴者は、本件小説の内容は、既に学会で実証された見解の引き写しであり、二番煎じであるとの印象を与えられることは、明らかである。
(3) 侵害行為の態様が、特定人に対する告知という方法による場合は、その内容が広く社会に流布するに至らないときでも、その告知だけで名誉侵害が成立すると解すべきである。すなわち、公然性が要求されている刑事の名誉毀損罪についても、伝播性の理論によって、公然性の要件は希薄となっているのであり、民事の名誉毀損については、公然性の問題は、さらに希薄である。
 したがって、被告布川が数名の視聴者に対し送付した本件返書は、それ自体で名誉毀損行為が成立し、違法性が認められるのは当然である。なお、被告らは、本件返書について、原告が被告谷本からいろいろ協力と助言を受けてきた経緯があったことから、類似する部分があっても不思議ではない旨説明したにすぎないと主張するが、右主張は、一般人の通常の注意、読み方を基準として、一般人が受ける印象ではなく、本件返書を歪曲化して読んだ主張である。
(二) 被告らの主張
(1) 本件番組と本件小説とは、ドキュメンタリー番組と、恋愛小説という点で基本的に異なっている。したがって、本件番組の視聴者は本件番組を追分タイプの起源を探るドキュメントとして見るし、本件小説の一般読者はこれをそもそも創作・架空のものとして受容するのであって、両者を同一次元のものとして受け止めることはない。
 また、本件小説においては、江差追分の起源に深い関心をもった新聞記者がハンガリー探訪旅行をし、一つの物語を構想する中で、フン族が昔から歌っていた葬送歌が、ユーラシアの一つの大きな輪の中で親しく付き合っていたフン族、マジャール族、オスチャーク・ヴォグール等の民族によって歌われ、時代とともにその輪がばらばらに崩れ、各民族が東西に散り散りになったこと、フン族のアッティラ大王の死後、その子孫のチャバがハンガリーからウラルを経て、中国東北部を通り、日本海を渡り、その子孫が日本史の古代蝦夷の阿弖流為となったこと等を創作ストーリーとして記述している部分があるが、本件番組は、このようなストーリーを取り上げておらず、アッティラ、チャバ、阿弖流為等にも触れていない。したがって、本件番組の一般視聴者が本件小説を被告谷本の見解の二番煎じと印象づけられるはずはなく、本件番組が原告の名誉を毀損することはあり得ない。
 さらに、本件小説の一般読者から原告への手紙(甲五四のもの)にも、本件番組が本件小説や原告の話を参考にしていると思った旨を述べているのであり、本件小説が被告谷本の仮説の二番煎じであるという印象を受けたとか、本件番組が追分節ウラル源流説と似ているとか同源流説を盗用したなどの記述はない。
 さらにまた、原告は、追分の起源について、原告が第一提唱者であるのに、被告らが本件番組でそれに言及せずに本件番組を放送したという不作為により、原告の名誉権が侵害された旨主張するものと解されるが、被告らには、そのような不作為が違法性を有するような作為義務はない。
 なお、原告の「北の波濤に唄う」等を発表した江差追分の研究者、作家としての名誉については、本件番組との抵触はなく、名誉権侵害の問題とはなり得ない。
(2) ステラ一一月九日号及び新聞社向け宣伝資料については、いずれも本件番組の内容の紹介にすぎず、何ら原告の名誉に言及しておらず、原告の名誉を毀損する事実摘示が存在しないことが明白である。
(3) 被告布川は、本件返書において、「本件番組は、民族音楽の専門学者である被告谷本の協力と助言を受け、かつ、ユーラシアの諸地方に探訪取材したうえで、ドキュメンタリー番組として構成した」との番組製作の経緯を説明し、そのうえで、本件小説が、本件番組と同じく江差追分のルーツという民族音楽の問題を取り扱っている上に、原告が被告谷本からいろいろと助言を受けてきた経緯があったところから、本件小説が本件番組と類似する部分があっても不思議はないという説明を付加しただけであり、それ自体原告の名誉を毀損すべき記述事項ではない。
 また、本件返書は、少数(三名)の特定された者への返信であり、不特定多数人への頒布ではないから、原告の名誉を毀損しない。
(4) 本件コメントのうち北海道新聞のコメントは、被告布川のコメントを正確に記事にしていないが、被告布川は、北海道新聞の取材に対し、本件番組は被告NHKがオリジナリティをもって作り上げたものであり、原告の著作権も名誉も侵害していない旨の発言をしているのであり、何ら原告の名誉を侵害していない。
 本件コメントのうち週刊新潮のコメントも、被告布川が「原告にお断りしなかったのは悪かった」旨の発言をしたことはなく、被告布川のコメントを正確に記事にしていないが、仮にそのとおり被告布川が発言したとしても、何ら原告の名誉を侵害するものではない。
5 名誉毀損行為について被告らの責任はあるか、あるいは、違法性阻却事由は存するか。
(一) 原告の主張
(1) 被告NHK
 被告NHKは、本件番組の放送によって原告の権利を侵害しないように注意すべき義務を負うにもかかわらず、原告の再三の警告を無視して、本件番組を放送した。また、被告NHKは、被告仁平及び被告布川の使用者としてこれを監督する義務があるにもかかわらず、それを怠った過失がある。
 なお、新聞等マスメディアの報道の場合には、名誉毀損の違法性の判定には、報道の自由について公序良俗規範が作用すると共に、社会的評価を低下させられる人の不利益と当該情報を知ることによる他人の利益(報道の自由ないし知る権利)との比較衡量が重要であるが、本件番組は、学会に研究発表されておらず、学問的論証や専門家の支持も全くない仮説に基づいたにすぎないものを、学者による実証、ドキュメンタリーと偽って製作されたものであり、本件番組の放送行為自体、国民の知る権利に奉仕するどころか、国民を欺瞞する表現行為であるにすぎない。
(2) 被告仁平
 被告仁平は、原告が追分節ウラル源流説を創作し、本件小説においてこれを展開していることを熟知していたにもかかわらず、原告を被告谷本に置き換え、被告谷本が立てた仮説として本件番組を製作した。
 このことは、函館局には江差追分に関する番組製作の実績がなく、資料も十分でなかったこと、被告NHK国際局の佐藤が本件小説を基にテレビ番組化を発案し、それが函館局との共同提案となったのに、函館局が単独提案として、本件小説を原案とする国際局AのNHKスペシャルの企画案を盗み、独自の取材、企画と称して、原告を被告谷本に置き換えて、本件番組を製作したとの経緯、函館局の番組提案書(甲七のもの)に、本件小説「ブダペスト悲歌」そのものの題名と、本件小説の中で主人公が書いたノンフィクションの「彷徨える旋律」という題名を使用し、「かつてユーラシア大陸を西へ東へとさすらったひとつの旋律があった」と、本件小説の表紙の帯にある文章と同一の記載があること、また、世界追分祭実施計画書(甲一一の2のもの)中にもNHK放送計画(予定)として、「彷徨える旋律」という番組タイトルが記載されていること、前記2(一)の原告の主張のとおり、本件ナレーションは、「北の波濤に唄う」の文章を実質的に利用していることから明らかである。
(3) 被告布川
 被告布川は、本件番組が本件小説の著作権を侵害しているおそれが大きい旨の原告の平成二年一〇月一二日付け被告NHK札幌放送局長宛の警告書等を無視して、本件番組の放送を許可し、また、事実関係を十分調査確認せずに、原告の名誉を毀損する本件返書を不特定多数人に送付し、新聞雑誌に対し本件コメントを行った。
 また、被告らは、本件返書について、真実と信じるにつき、相当な理由があるとして、被告谷本の陳述書(乙九五のもの)を相当性の根拠として主張するが、学者である被告谷本が学術上何らの支持もない追分節ウラル源流説を原告に説明したとはありえない話であり、原告が原告の仮説について被告谷本に学者としての助言を求めたという事実はない。
(4) 被告谷本
 被告谷本は、江差追分について研究したことはなく、江差追分の起源に関する著書、研究報告等の学問的実績のない全くの門外漢であり、本件番組において述べられた「江差追分のルーツはソ連ウラル地方のバシキールに求められ、そこから広がった。」という仮説の持ち主ではなく、しかも、ハンガリー取材旅行に際し便宜を図ってもらった謝礼の意味で原告から本件小説を贈呈され、その内容を本件番組製作前に十分知っていたにもかかわらず、本件番組に出演して、原告に入れ替わって、右仮説をあたかも自己の研究に基づく仮説であるかのような発言をしたのである。
 また、被告谷本は、追分節の起源について、一般的知見など存在せず、その起源については現時点では学問的に論証不可能であることを熟知しているにもかかわらず、本件番組において追分節ウラル源流説が自己の仮説ないし学会における一般的知見であるかのように発言したことは、一般視聴者を愚弄するものであり、学者としてのその社会的地位に鑑み、極めて悪質である。
 すなわち、追分節ウラル源流説が一般的知見ではないことは、ヴィカール・ラスロー教授のインタビュー(甲四九のもの)及び江差・世界追分祭報告書中の小島美子の記述(乙五の同報告書一二頁)並びに公開討論「追分節のルーツ/歌の系譜」における柘植元一及び藤井知昭の発言(同四三頁、四八頁)からも明らかである。また、被告谷本は、追分タイプの歌が、@モンゴルから日本へ移動したことについては、小泉文夫、長尾真道等の騎馬民族説を根拠とし、Aウラルから東方へ移動したことについては、「日本語の起源に関するアルタイ語説」、「日本民族の起源に関する騎馬民族説」、「ある文化要素が遠くに行くほど精緻なものになる」という民族学の理論を根拠とし、そして、B「同心円的な地理的分布」とか「その同心円の中心に位置する場所での濃さ」も江差追分ウラル源流説の根拠である旨主張する。しかし、@の騎馬民俗説については、著名な民族音楽学者である小島美子によれば、まだいろいろと問題があるといわれている(被告NHK教育テレビ「人間大学」平成四年一月〜三月期のテーマ「音楽からみた日本人」のテキスト)のであり、一般的知見であるということもできない。また、Aについても、「日本語の起源に関するアルタイ語説」、「日本民族の起源に関する騎馬民族説」は、定説になっておらず、また、Bについても、地理的中心であるからルーツであるというのは根拠となり得ず、結局、被告谷本の右根拠を裏付ける学説はない。さらに、被告谷本自身、本件番組の放送直前の平成二年九月一一日付け北海道新聞の記事においても、また、同月一四、一五日に開催された国際民族音楽シンポジウムにおいても、江差追分ウラル源流説については一言の言及もしていないのである。にもかかわらず、被告谷本は、本件番組と、江差・世界追分祭報告書四九頁以下において、追分節ウラル源流説を述べ、本件番組の全国放送中止とともに同説を放棄しているのである。例えば、被告谷本は、本件番組の二ヵ月後に出版されたライオンズクラブ機関誌「ザ・ライオン」平成三年二月号のインタビュー記事において、「追分タイプの歌と五音音階を持っている民族を並べると日本からハンガリーまで帯ができるというところまで確認できました。・・・ルーツというのは、実際難しいものでして、これはあくまでいまのところ、いくつかの事実を背景にした仮説ですね。あの話も、非常にロマンチックな仮説なんですけれども・・・あまりルーツはどこかということに、いまはこだわらないようにしています。」と述べているのである。
(二) 被告らの主張
(1) 被告NHKの函館局は、昭和三八年に始まった江差追分全国大会に当初から加わって、同大会の司会、審査委員長を歴代つとめ、大会の模様をニュースや番組で度々取り上げてきたが、特に同五七年のNHK特集「熱唱二五時間〜江差追分全国大会〜」は、全国の追分ファン、民謡愛好家に多大の感銘を与えた。函館局は、このように江差追分に関する番組を数多く製作してきており、その資料の蓄積を持っていた。
 そして、函館局の放送部の源川チーフディレクターは、昭和六三年に、江差町の文化センターのこけら落としに、国際的な民謡大会を開催するアイデアを同町の観光課長と話し合っていた。被告仁平は、そこへ平成元年七月に着任し、源川と話合ったり、追分のルーツを本州の馬子歌に求めた番組を視聴するなどして、追分のルーツはユーラシア大陸とのロマンあふれる説をテーマにNHKスペシャルのような全国放送ができないか、それには世界民謡祭とか世界追分祭のような大きなイベントの開催を考えてみることが必要ではないかと考えていた。
 函館局は、そのころ、国際局の佐藤から、函館局とテレビ番組を共同製作できないかとの打診を受けた。被告仁平は、佐藤が右番組の企画において本件小説を話題としていたが、本件小説を読んで、これが恋愛小説であるうえ、古代蝦夷の首領阿弖流為がフン族の王アッティラの子孫で、フン族がハンガリーに追分節の原型を伝え、それをまた日本に伝えたという部分は文字どおりの物語で、これを資料にドキュメンタリー番組を製作してNHKスペシャルに提案することは成り立たないと判断した。そのため、被告仁平は、佐藤にその旨と世界追分祭のようなイベントを開催すれば番組化しやすいことを述べた。
 被告仁平は、平成元年九月二四日、被告谷本と会い、ユーラシア大陸の各地に江差追分に似た民謡があることや世界中に幅広い人脈があることなどを聞き、世界追分祭やNHKスペシャル番組を提案したいと考えていることなどを説明し、被告谷本がこれに対し協力することを約した。被告仁平は、平成元年一〇月下旬、被告谷本と共に江差町役場を訪れ、観光課長や町長と会って、世界追分祭の開催を提案し、被告谷本の協力が得られることを伝えたところ、江差町も全面的に賛成し、一年後の「江差・世界追分祭」へ向けての準備が始まった。
 函館局は、この時点で、江差追分のルーツを求めてユーラシア大陸を横断し、追分に似た歌をもつ民族を現地で映像としてとらえると同時に一つの旋律の底に流れる民族の想いを描こうとする企画に向けての作業が始まり、太田を担当ディレクターに決めた。
 国際局と函館局は、平成元年一一月二九日、NHKスペシャルへの共同提案についての打ち合せを行った。国際局の提案は、一九九〇年の東欧の動乱期、特にハンガリーの総選挙の時期に取材を行うことに力点をおいたものであるのに対し、函館局の提案は、世界追分祭と追分のルーツをさぐることを番組内容とするものであった。右同日の国際局と函館局との打ち合せは、物別れに終わったが、その後、国際局が譲歩し、函館局案で共同提案することが合意され、国際局と函館局の共同提案が平成元年一二月に正式に被告NHKの東京・編成局に提出された。
 函館局は、右共同提案後、被告谷本の説明によりウラルからハンガリーとモンゴルから日本までの追分の流れについては、これまでにも数多くの研究があるが、ハンガリーとモンゴルの間の音楽の流れが問題であり、その中間にあるウラル地方がポイントになると思われたため、平成元年一二月にソ連に出張することになった被告谷本を通じ、ソ連の民族音楽学者ゼムノフスキーに江差追分に似た民謡がウラル地方を中心とした地域にあるかどうかの調査を依頼した。また、函館局は、NHKスペシャルへの提案が不採択になった場合に備え、北海道ブロック放送のための準備も必要と考え、平成二年一月、「ほっかいどうスペシャル」提案として「甦る絆〜世界追分祭」(甲五のもの)を札幌局に提出し採択された。
 国際局案と函館局案とは、共同提案が前提で、追分のルーツを日本からハンガリーに求めるという同一のねらいを持っていることから、表現の一部やルーツ捜しという内容の点で結果として類似ないし同一のものがあっても、その提案内容の力点の置き方や主催対象等に明らかな隔たりがあり、全体としてみた場合、両者はその内容において全く異質のものである。
 国際局と函館局のNHKスペシャルへの共同提案は、平成二年二月、不採択となり、その結果、右共同提案の計画は終了した。函館局は、同年一月、北海道スペシャルとして「甦る絆〜世界追分祭」の提案を行って採択されていたが、その提案も共同提案の函館局案(甲七のもの)と同じく、世界追分祭を重視し、追分ロードの検証をめざすドキュメンタリー番組を意図するものであった。したがって、本件番組は、函館局が独自に製作するものであり、本件番組の提案書は、もともと製作意図の異なる国際局案の内容とは明確に異なるものとなっている。被告仁平と被告谷本は、同年三月、ゼムソフスキーから届けられたウラル地方を中心とした民謡のテープを検討したところ、メロディも伴奏も最も追分に似ているのがバシキールの民謡であったため、未だ外国のテレビ取材が入ったことのないバシキールでの取材ができれば、本件番組の目玉になると判断した。
 函館局は、平成二年六月末から八月にかけて、モンゴル、バシキール、ハンガリー、ルーマニアと取材を続けながら、学者や歌手とも打ち合せをすませ、四〇日間のロケを無事終了したが、特に、バシキールでは、結婚式で歌われる別れの歌、尺八とよく似た音色のクーライ、馬が生まれそこから東西へ散っていったという伝説のある湖などを取材することができた。函館局は、平成二年七月末、バシキール取材を盛りこんだ番組の全国放送の提案をし、同年九月に、秋期特集として同提案が採択された。
 一方、世界追分祭の準備も進められ、平成二年四月一一日、実行委員会設立総会が開催された。
 国際局の岡本は、平成二年八月、函館局の布川に対し、「NHKスペシャルの共同提案を検討した経緯からして、函館局が秋期特集の提案を出す際には連絡をしてほしかった」旨の電話をしたが、被告布川は、共同提案後、函館局独自の調査取材を踏まえて、秋期特集中の別の番組として函館局が独自に提案を出していたことから、「正式に採択が決定された後に岡本に伝えるつもりであった」旨答えている。また、札幌放送局長は、平成二年八月末、佐藤から同年一一月三日放送予定の函館局提案の秋期特集番組について抗議の手紙を受け、同年一〇月一二日付で、原告から右番組が本件小説の著作権を侵害しているおそれが大きく、速やかに適切な措置を取るべきことを希望する旨の手紙を受領した。函館局は、著作権侵害はないと判断していたが、原告と話合う機会を持とうとしたものの、日程の調整が付かず、平成二年一〇月一八日、本件番組が予定通り、北海道ブロック放送として放送された。
(2) 追分節の起源がバシキールであるとの被告谷本の仮説は、@追分様式と呼ばれる民謡が、騎馬民族の影響を受けたユーラシア大陸の各地(韓国、中国、モンゴル、カザフ共和国、バシキール、ハンガリー等)に客観的に存在していること、Aハンガリーの追分タイプの民謡は、四世紀にはフン族、九世紀にはウラルからマジャール族が現在のハンガリーに定住し影響を与えており、また、一三世紀には、モンゴル帝国がハンガリーにも影響を与えているとの歴史的事実、Bバシキールには追分様式の最も古い素朴な原型を残している民謡が残っていることが被告らの現地取材によって確認されており、また、日本からハンガリーまでの追分ロードの中心に位置するのがバシキールであること、Cバシキールもモンゴル同様家畜を追って移動する遊牧民であること、Dハンガリーの民族音楽の最近の研究ではハンガリーの民謡に似ているのは、フィヌ・ウゴール系の民族の民謡より、トルコ系の民族の民謡であるとされ、バシキールはトルコ系の民族であること、Eトルコ族とモンゴル族とは、民族的、発生地的、文化的親縁関係があること、F民族や文化の移動、交流は、常に東あるいは西に偏ることなく行われており、日本も大陸の動きと一体のものであること、G楽器の音色に対する趣向(バシキールのクーライ、モンゴルの馬頭琴、日本の尺八)が共通していること、H世界追分祭の交流討論でのバシキール作曲家同盟議長のガシゾフの話など、かなりバシキールやトルコ系の民族に焦点を当てて行われた討論の内容、以上を総合的に判断した結果得られたものである。
 このように、被告谷本の右仮説は事実に関する知識を重ねて総合的に判断した結果得られた知識であり、一般的知見ないし一般的知見の枠の中のものであり、また、本件番組は、右の客観的事実が存在することを紹介し、そこから合理的に推論された内容を紹介したものであり、仮にそれが虚構の創作内容とたまたま同様の結果になったとしても、それをもって右虚構の創作内容を盗用ないし依拠したとするのは筋違いであり、主張自体失当である。また、原告も、客観的諸事実を根拠にして、合理的に推論した結果、右仮説に至ったとしても、相互に客観的諸事実を根拠にして合理的に推論した結果同様の結論に至ることについては、盗用ないし依拠という問題は生じない。
 また、被告谷本は、江差追分の研究歴があり、原告のハンガリー取材の際、原告に対し、ウラル、モンゴル、トルコとの関係を研究している学者に絞って三名紹介し、ハンガリーと日本との関係を調べる場合、特にハンガリーとウラルとの民族音楽上の関係が大切であること、フィヌ・ウゴール系の民族音楽とハンガリー民謡との間には深い親縁関係の存在が指摘されていることとその研究者名、ハンガリーと日本との関係についてウラルがポイントであること等を説明し、原告の要請でハンガリーとフィヌ・ウゴールとの民族音楽上の関係を書いた「ハンガリー音楽小史」「ハンガリーの民族音楽」など書籍数冊を提供し、さらに、五音音階メロディーの旋律構造、特にハンガリーの古い層の民謡とフィヌ・ウゴール系民族のマリ族の民謡が同一構造であることや葬送歌のこと等を説明し、古代マジャール民謡の旋律をレコードやテープで原告に聴取させ原告にハンガリーの民族音楽の学者を紹介したほか、被告谷本の長女も原告のハンガリーでの取材の通訳等に協力しているのである。
 以上のとおり、本件番組の内容は、被告谷本の経歴も含め、真実であるし、また、その内容は公共の利害に関する事実であり、もっぱら公益を図る目的に出たものであることも明らかである。よって、被告らが本件番組を放送した行為については、違法性がない。また、仮に、右の真実性の証明が十分になしえなかったとしても、本件においては、被告らが右の事実を真実と信じることについては相当の理由があるから、被告らの右行為には故意又は過失がない。またさらに、本件番組の放送は、いわゆる公正な論評の法理に照らし、違法性はない。
 なお、原告の札幌放送局長への手紙は、直接には一一月三日放送予定の全国放送番組に対する著作権侵害の問題であり、函館局では、全国放送番組はまだ完成していなかったものの、番組のテーマ、構成のいずれをみても原告の指摘するような著作権侵害はないと判断した。しかし、函館局は、原告の誤解を解くために話合いを求め、原告とその打ち合わせをしていたが、その間に本件番組の放送が行われたのである。
(3) 被告布川は、次のような事実があったために、一つの有り得る成り行きとして本件返書を記載したのであり、本件返書の内容は、虚偽の記述ではなく、十分な根拠があったのである。
@ 被告布川は、本件番組製作過程で被告谷本の諸々の教示に接していた。
A 被告谷本は、昭和五一年ころ江差追分、モンゴル民謡、ハンガリー民謡の関係を追跡しようという構想の北海道のラジオ局の放送番組に出演関与していた。
B 被告谷本は、北海道学芸大学、北海道教育大学においてハンガリーやロシアの民族音楽について研究し、ハンガリー文化交流功労者賞、バルトーク記念メダル受賞などの栄誉を受け、ハンガリーをはじめ民族音楽の専門家として高名である。
C 札幌テレビ放送が追分節のルーツをテーマとする番組の企画を立て原告がハンガリー取材に同行することになった際、被告谷本は、原告に対し、ハンガリーの民族音楽学会の研究状況、研究者名、及び、ハンガリーとモンゴル、モンゴルと日本との間に民族音楽上の親縁関係を指摘する諸説があり、ハンガリー民族がかって居住していたウラルがポイントであること、並びに、ハンガリー民族と日本人との間には、人類学上、言語学上、民族学上共通性があること等について説明し、「ハンガリー音楽小史」やゾルターンコダーイ著「ハンガリーの民族音楽」ほか数冊を提供し、後者の本については、ハンガリーの古い層の民謡とフィヌ・ウゴール系の民族であるマリ族の民謡とが同一構造であることを説明した。
D これらの被告谷本の協力や助言の片鱗が本件小説の中に数多く出ている。
 以上のとおり、本件返書の内容は、真実であるか又は被告布川が真実と信ずるにつき相当の理由があったのであり、また、追分節の分布ないしルーツに関する事実は一般公衆の関心事であり、公共の利害に関する事実であるから、被告布川が視聴者に対し本件返書を送付した行為は、違法性はないか有責な行為とはいえない。
 また、被告布川が本件返書を送付した行為が仮に原告の社会的評価に負の影響を生ずると仮定しても、いわゆる公正な論評の法理に照らし、違法性はない。
第三 争点に対する判断
一 本件番組の製作、放送は、原告が本件小説について有している翻案権及び放送権並びに氏名表示権を侵害しているか。
1 本件番組は、本件小説を翻案したものであるか。
 本件番組が本件小説の翻案権を侵害したものであると認めるためには、被告らが本件小説に依拠して本件番組を製作し、かつ、本件小説における表現形式上の本質的な特徴を本件番組から直接感得することができることが必要である(最三小判昭和五五年三月二八日・民集三四巻三号二四四頁参照)。
(一) 依拠について
 本件番組の製作責任者である被告仁平は、本件番組を製作する前に、国際局の佐藤と連絡を取り、原告の本件小説を読んだ上で、国際局との共同企画の立案をしていたものである(甲四八、乙一二)。また、被告谷本は、本件番組の製作に当たり、被告仁平らに助言、指導し、コメンテーターとして本件番組に出演しているものであるが、原告から本件小説の第一稿の送付を受けこれについてコメントをし、また、本件小説刊行時に原告から本件小説を贈呈され、これを読了している(甲二二)。
 したがって、本件番組の製作責任者の一人である被告仁平及び本件番組の出演者であり、コメンテーターの一人である被告谷本が本件小説を読んでいたとの事実は右のとおり認められる。
(二) そこで、本件番組が客観的にみて本件小説を翻案したものであるといえるか否かについて、次に判断する。
 著作権法は、著作物において表現されているアイデア自体を保護するものではないから、原告の著作物と被告らの著作物との間にアイデアの同一性があるとしても、そのことにより直ちに翻案権侵害が認められるわけではなく、むしろ、本件番組が本件小説を翻案したものであるか否かは、前記のとおり、本件小説における表現形式上の本質的な特徴を本件番組から直接感得することができるか否かにより決すべきである。
 本件小説は、前記第二、一2認定のとおり、(1)組織の主流からはみ出した社会部の新聞記者の秋間が、三年前から休暇を取っては江差町に出かけるようになり、追分節に託して自分の胸中を描いたノンフィクション「彷徨える旋律」という本を執筆したが、その本がきっかけで、日曜版に連載する「世界歌物語」の執筆スタッフに抜擢された、(2)秋間は、そのころ、札幌の大学で民族音楽論を講じる谷川英之と会い、ハンガリーのセーケイ教授より、最近ブダペストの国立音楽アカデミーにある録音テープの中から、日本の追分節とウリ二つの曲が見つかったとの連絡を受けたとの話を聞き、右の曲と追分節との関係を探り、世界歌物語を執筆するため、ハンガリーへ取材旅行をすることになった、(3)秋間は、ブダペストで、セーケイ教授から江差追分とウリ二つの曲のテープを聞かされ、かつ、その曲が葬送歌であるとの説明を受け、江差追分も葬送歌である旨を説明した、(4)セーケイ教授によれば、右葬送歌は、四、五世紀ころからウラル山脈に居住しているオスチャークやヴォグールによって現在まで歌い継がれているとのことであった、(5)秋間は、ブダペスト滞在中に、五年前から国立リスト音楽院ピアノ科で学んでいる日本人留学生野島友子と出会ったが、友子は、ハンガリー人の恋人ミクロシュとの別れを決意したところであり、秋間の著書「彷徨える旋律」を通して、秋間に惹かれていく、(6)秋間は、追分節とハンガリーの葬送歌との関係について取材を続け、@フン族については、五世紀末ころ、アッティラの死後に、その息子チャバに率いられて、東の果てまで駆けて、ヨーロッパに現れるよりはるか以前の故郷へ帰ったのであるが、それは大海のほとりであるとの伝説があったこと、A続日本紀によれば、八世紀ころ、東北地方に勢力を張った蝦夷一族の英雄阿弖流為がいて、大和朝廷軍を相手に騎馬兵を率い、毒矢を放って果敢に抵抗したことで知られており、いったん退却すると見せかけ、敵を油断させておいて急襲するとの戦法もとったことが記載されていたこと、Bアッティラとは、古代ハンガリー語でアテレ又はエテレと発音され、阿弖流為(アテルイ)と類似の発音であることと、いったん退却すると見せかけて急襲するという戦法は、アッティラのフン族と全く同じ戦法であることを総合すれば、チャバがたどりついた大海のほとりとは、日本海であり、阿弖流為は、フン族のアッティラの子孫であると推測されること、以上@ないしBから、チャバが五世紀末に東へ駆け、ボルガを渡りウラルを越えるときに、途中で幾つかの種族がこれに合流したが、当時ウラル山脈付近で遊牧生活を送っていたオスチャーク、ヴォグール、及び、ハンガリー人の先祖マジャール族の一部やマジャール族の歌姫もこのときこれに合流し、オスチャークやヴォグールが今も歌っている葬送歌(ハンガリーで発見された葬送歌)は、このとき東への旅に出て、チャバにより日本へ伝えられ、追分節として残っているのであり、長い歳月をかけてユーラシア大陸をさまよった右葬送歌の西の終着駅はハンガリー、東の終着駅は江差であるとの構想を得たものであり、帰国後に「ユーラシアの悲歌」と題して右の構想で執筆する予定であった、(7)ハンガリーでの取材をほぼ終わった秋間は、友子とトカーイへ旅をして結ばれ、その後、友子がリスト音楽院を卒業したら迎えに来ることを約束して帰国する、(8)日本に帰った秋間は、補足の取材を行い、一週間かかって、前記の構想に基づいた原稿を書き上げ、そのタイトルを「ブダペスト悲歌」としたが、その原稿については社内の局長会議での了承も得られ、編集幹部からもねぎらいの言葉を受けた、(9)秋間は、東北旅行の計画をし、一方、友子も、年末に一時日本に帰国することになり、一緒に東北へ旅行することになったが、友子は、そのころピアノのコンサートへの出演依頼を受け、帰国をあきらめていたところ、ミクロシュに連れ出され、交通事故のため死亡する、(10)秋間は、友子と一緒にくるはずだった恐山で、友子の死の知らせを受けるが、傷心の秋間の耳に、ラジオの音か、チャバや阿弖流為の葬送歌か、遠くに幽かな歌声が聞こえた、というものである。
 本件小説は、このように、追分節とよく似た葬送歌がハンガリーにあることから、追分節とその葬送歌との関係を探り、追分節の起源を探求していくことを一つの重要なテーマとし、また、主人公秋間と友子との悲恋をもう一つの重要なテーマとして、両者を経糸及び緯糸として織り込みながら構成されているものである(なお、本件小説において追分節ウラル源流説が記載されているか否かの詳細については、後記三2認定のとおりである。)。
 これに対し、本件番組は、前記第二、一3のとおり、北海道教育大学学長の被告谷本を番組のコメンテーターとして出演させ、被告谷本のコメントとナレーション、及び、ハンガリー、バシキール、モンゴル等への取材により、江差追分のルーツに迫ろうとしたものであり、また、世界追分祭の様子も伝えているものであるところ、その内容は、(1)追分節と類似の曲が、騎馬民族の影響を受けた日本、韓国、中国の東北部、内モンゴル、モンゴル、そしてソビエトのカザフ共和国、バシキール、さらにハンガリー、ルーマニアまでユーラシア大陸に帯のように存在し、一万キロに及ぶ追分ロードがある、(2)九月に江差町で年に一回江差追分全国大会が開かれ、町は一気に活気づくのであるが、今年は、海外からも参加者が訪れる、(3)被告谷本は、二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた、(4)モンゴルには、オルティンドゥーという追分によく似た歌があるが、馬とともに暮らす民が、広大な草原の中で人間の狐独を唱ったのがオルティンドゥーである、(5)バシキールにも追分に似た歌がある、(6)追分の名人青坂満が、追分とは、別れの歌であり、故郷をしのびながら父や母への思いを歌うものであると語る、(7)追分の原形は、七世紀ころ、大和朝廷が農耕のため、大陸から馬を輸入し、馬とともに大陸から渡ってきた馬飼いが歌を伝えたともいわれているが、オルティンドゥーも追分も人間の狐独を歌う点で共通している、(8)追分ロードの東の端が日本であるのに対し、西の端がハンガリーであるとの考えは、被告谷本が三〇年にわたってユーラシアの民族音楽を研究する中で、ハンガリーのエルディ地方(トランシルヴァニア)の不思議なメロディー「兵士の歌」に出会ったときに生まれたものであり、ハンガリーの東洋的なタイプの民謡は、騎馬民族がもたらしたものである、すなわち、四世紀にはフン族、九世紀にはウラルからマジャール族がヨーロッパへ侵攻し、一三世紀にはモンゴルが大帝国を築き、ハンガリーにも影響を及ぼしている、(9)五音音階でこぶしがはいっている古いハンガリー民謡と似た民謡は、現代のハンガリーを取材してみたが、見つからなかった、(10)九月の世界追分祭は、ユーラシア大陸の各地に散らばる追分タイプの民謡を比較するシンポジウムやコンサートを開く初めての試みである、(11)被告谷本は、ウラル山脈がアジアとヨーロッパを分ける場所であること、バシキールの民謡が素朴であることからすると、ハンガリーから江差までの一万キロの追分ロードの中心は、ウラル地方であり、そこから追分タイプの歌が東西へ伝わっていったといってよいと考えている、(12)バシキールの結婚式では、バシキールの追分に当たる別れの歌が歌われる、(13)ウラル山脈の山奥に馬の群れが現われて、東西へ散っていったという伝説の湖があるが、この湖の源にある洞窟の馬の絵は、馬と暮らす人間は別れの悲しみを一つの歌に託し、その歌がやがてユーラシア大陸の各地へと伝わっていったとの空想へと駆り立てる、(14)世界追分祭のコンサートでは、韓国、モンゴル、バシキール、ハンガリーの民謡が歌われ、被告谷本は、その多くが離別、悲しみを歌っていると語る、(15)ユーラシア大陸、東西一万キロ以上に及ぶこの大陸に、かって民族から民族へ伝えられ、時代を超えて歌い継がれてきた素朴な民の歌があるが、大地の無限の広がりと、人々の狐独を歌うその歌は、今も各地で歌われている、というものである。
 右によれば、本件番組と本件小説が、いずれも追分節と類似の民謡が騎馬民族の影響を受けて、ユーラシア大陸に存在し、西の端はハンガリー、東の端は日本であること、追分節の起源がウラル山脈周辺の地域であることをそのメインテーマとして表現しているものであることは認められるが、ウラルから日本へ追分節を伝えたとされる主体と時代の特定については、本件小説では、五世紀末のアッティラの息子のチャバに率いられたフン族と、当時ウラル山脈付近で遊牧生活を送っており、このときこれに合流したオスチャークやヴォグールやハンガリー人の先祖マジャール族の一部であり、オスチャークやヴォグールが今も歌っている葬送歌(ハンガリーで発見された葬送歌)は、このとき東への旅に出て、チャバにより日本に伝えられたことが述べられているのであり、これに対し、本件番組では、ハンガリーに東洋的なタイプの民謡をもたらしたのは四世紀のフン族、九世紀のマジャール族、一三世紀のモンゴル大帝国である旨を述べているが、日本へいつ誰がどのようにして追分節を伝えたかについては、本件小説のように具体的には述べておらず、単に騎馬民族の影響によりとしていること、また、本件番組では、ウラルが追分節のルーツである根拠としては、地理的な中心であることと、バシキールの民謡が素朴であることを理由付けとしているものであって、この点も本件小説とは異なるものである(原告は、右のような理由は、追分節のルーツがウラルであることの根拠とはなりえないと主張している。)。このように、本件番組は、追分節のルーツをウラルに求めている点で、本件小説とそのメインテーマを共通にし、また、追分節と似た民謡が、騎馬民族の影響を受けて、西はウラル、ハンガリー、東は日本にまで存在することから追分節のルーツを探求していること、追分節と類似の歌が四世紀のフン族の移動によりハンガリーに伝搬されたと述べていることなど一部共通した要素を表現してはいるものの、追分節が日本へ伝えられたとする時代や主体、経路及びその根拠となる理由付けに関しては、本件小説の前記のような基本的な筋や構成を表現しているものとはいえないことは明らかであり、本件小説の表現形式における本質的な特徴と、本件番組の表現形式における本質的な特徴とは異なるものであって、本件小説における表現形式上の本質的な特徴を本件番組から直接感得することができるということはできない。すなわち、本件小説のような文芸作品の場合は、著作者の思想、感情の創作的な表現形式としての基本的な筋、構成等に依拠し、これと同一性の認められるものがあれば、それは表現形式の本質的特徴を直接感得できるものとして翻案と考えることができるのであるが、しかし、文芸作品の全編に流れる創作的なテーマについては、それが文芸作品における最も重要な生命というべきものであり、これを翻案の判断において当然に考慮すべきであるとしても、文芸作品におけるテーマとは同作品における基本的な筋、構成によって表現されているものである以上、基本的な筋、構成と密接な関係をもって存在しているものであるから、基本的な筋、構成と一体として翻案の判断をなすべきであり、そのような基本的な筋、構成と離れて抽出される抽象的なテーマ自体は、アイデアとして著作権の保護範囲外にあるものと考えるべきである。よって、本件番組は、追分節のルーツをウラルに求めるという独創的なアイデアにおいて本件小説と共通するアイデアを表現しているものではあり、また、前記のとおり、追分節とよく似た民謡が騎馬民族の影響を受けてウラル、ハンガリーにも存在しているとする部分や、四世紀のフン族についても触れている部分等は一部共通しているところもあるが、本件小説の基本的な筋、構成を表現しているものとまではいえないものであるから、基本的な筋、構成と一体として翻案の判断をなすべきであり、本件小説における表現形式上の本質的な特徴を本件番組から直接感得することができず、本件小説を翻案したものであるということはできない。
 この点について、原告は、「内面的表現形式が同一の場合の外面的表現形式の変更は、著作物の翻案に当たる。文芸作品の場合には、その具体的表現自体を利用するものでなくとも、文字等で表現されている著作者の思想、感情の表現形式としての基本的な筋、構成等に依拠するものであれば、翻案と考えるべきである。・・・文芸作品においては、基本的な筋、構成だけでなく、全編に流れる創作的なテーマを内面的表現形式から除外することはできない。すなわち、文芸作品における最も重要な生命というべきものは、テーマであり、これを抜きに文芸作品は成り立たず、その点でいかに独創性を有するかによって作品の優劣が決定されるといっても過言ではない。文芸作品の根本となる中心的な思想がテーマであり、具体的な文章の内容のあらすじが要旨であるところ、・・・本件小説においては、追分節ウラル源流説が主人公の内面を動かして長期の旅へと駆り立て、追分節の起源を追求する情熱の根源として扱われているのであり、物語がこのテーマの内包する謎から出発し、それの解明へ向けて一貫して流れていることは明らかである。本件小説の冒頭から結末に至るまで滔々と流れるテーマは、追分節ウラル源流説であり、それが本件小説の内面的表現形式であり、著作物の外面的表現形式に即して認識され得る具体的展開体系である。・・・前記被告谷本の仮説は、本件小説で原告が発表した創作を剽窃したものであって、単なる史実や事実の模倣とは次元を異にし、本件小説の内面的表現形式の盗用である。すなわち、本件番組は、追分節ウラル源流説を核とする本件小説の仕組、構成に大きく依存した二次的著作物であって、何人が見ても本件小説の本質的特徴を連想させるのであり、本件番組が本件小説の翻案権を侵害していることは明らかである。」と主張する。しかし、右に述べたとおり、文芸作品の全編に流れる創作的なテーマが文芸作品における最も重要な生命というべきものであり、これを翻案の判断において無視することができないとしても、文芸作品におけるテーマとは同作品における基本的な筋、構成によって表現されているものである以上、基本的な筋、構成と密接な関係をもって存在しているものであるから、基本的な筋、構成と一体として翻案の判断をなすべきであり、本件番組は、右にみたとおり、本件小説と基本的な筋、構成において異なるものである以上、本件小説を翻案したものと認めることはできない。
2 結論
 よって、原告の被告らに対する、本件番組の製作、放送が本件小説の翻案権及び放送権並びに氏名表示権を侵害するものであることを理由とする請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。
二 本件番組中の本件ナレーションの製作、放送は、原告が「北の波濤に唄う」の本件プロローグについて有している翻案権及び放送権並びに氏名表示権を侵害しているか。
1 「北の波濤に唄う」における本件プロローグの著作物性について
 「北の波濤に唄う」における本件プロローグは、別紙目録四上段のとおりである。
 「北の波濤に唄う」の本件プロローグにおいては、(一)江差が昔鰊漁で栄え、その漁期の四、五月が一年の華であったこと、(二)当時の江差町の様子(追分の前歌に歌われる津花の浜や海べりの下町、山手の新地が、ヤン衆、旅芸人、その他の人であふれた様子、漁がはじまる前後の漁師たちの様子、「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」との有名な言葉の紹介、鰊漁が江差にもたらした莫大な富についての記録)、(三)鰊漁が去った江差の町の現在の様子(そのにぎわいも明治の中ごろを境に次第にしぼんだ、鰊の去った江差に、昔日の面影はない、冬の太陽に似た、無気力な顔、けだるく陰欝な北国のただの漁港、鰊を煮た鍋の残骸等)、(四)その江差が、九月の二日間だけ、日本中の追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるため、とつぜんはなやかな一年の絶頂を迎え、町は、生気をとりもどし、かっての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく旨を記述している。
 本件プロローグは、「北の波濤に唄う」の中の短編「九月の熱風」のプロローグとして記述されているものである。すなわち、「九月の熱風」は、原告が初めて江差追分全国大会を聞きに行ったときの、大会の参加者や観客の様子等を描写し、同大会の独特の熱狂と感動を描写した短編であるが、そのプロローグとして、江差町の過去と現在の様子を紹介し、江差追分全国大会を昔の栄華が甦ったような一年の絶頂としてとらえたものが本件プロローグである。(甲二)
 しかし、江差町においては、八月の姥神神社の夏祭り(姥神大神宮祭、姥神神社の例祭)を、江差町の町全体が最も賑わう行事としてとらえるのが一般的な考え方であり、九月の江差追分全国大会を江差町が最も賑わう行事としてとらえる考え方は一般的ではない。すなわち、この夏祭りにおいては、町内から一二、三台の山車が繰出し、三日間にわたって町を巡行し、昼間は幼児から児童生徒、主婦らが多数加わり、夜は大勢の若者が綱を曳き、沿道は人並みで埋まり、帰省者、各地からの親類縁者、祭り見物の観光客、祭り取材のアマチュアカメラマンなどが江差町内に溢れ、商店街、飲食店も賑わい、町の人口がいつもの数倍に膨れあがるなどとマスコミで報道される賑わいとなるものである(甲七二ないし七五の各1・2)。また、「江差町史(第六巻)」は、夏祭りについて、「祭日の二日間は全江差住民はあげて祭典気分を満喫し、市中は平常の人口が数倍にふくれあがり、山車行列の豪華絢爛さと相まって、往時の繁栄を再現するとともに、江差人の気概をこれに向けて発散するのである。一方江差で生まれ育ち他出した者にとって、錦を着て帰郷し祭典に参加するのが夢であり、この祭りこそ江差人を故郷とかたく結んで離さない絆なのである。」と記述し、その賑やかさを克明に表現している(甲七七)。
 これに対し、江差追分全国大会は、江差町にとって夏祭りと同様に毎年開催される重要なイベントの一つであるが、江差追分会の全国支部会員の中から支部予選を経て全国大会に出場し、予選を勝抜いた者が翌日の決勝に臨み、江差追分日本一の優勝を競うものであり、大会出場者及び聴衆は、江差追分会の支部会員とその家族、支援者、指導者等で占められており、一般の町民の参加は僅かしかなく、また、参加者は、ホテル、旅館、民宿、知人宅等に宿泊し、一日中、全国大会の会場に詰めていることが多いため、町内の料理飲食店、観光土産物店等への影響はほとんどなく、むしろ、大会参加者は、大会を厳格な自己鍛錬、修業の結果を発表する場と考えており、お祭り気分で浮き浮きするような雰囲気は見られないものであって、町全体が賑わうというようなことはない(甲七二ないし七五の各1・2。なお、乙一四五の映画「江差のうた」には「江差の人口は、大会期間中は、二倍にもふくれあがります」とのナレーションがあるが、右ナレーションは、甲八五の1ないし3によれば、誤りであることが明らかであり、採用し得ない。)。
 以上によれば、江差町が一年で最も賑わうのは、客観的にみれば、八月の姥神神社の夏祭りと表現されて然るべきであるところ、原告は、客観的事実としてはたいした賑わいでもない九月の「江差追分全国大会」を原告独自の視点から「一年の絶頂」としたものであり、これは、原告の江差追分に寄せる一種の憧憬がもたらした文学的独創ともいうべきものである。また、原告は、本件プロローグにおいて、江差追分全国大会を「一年の絶頂」と表現するために、江差町が昔鰊漁で栄えたころ「江差の五月は江戸にもない」といわれた賑わいであったことと、鰊漁が去り、昔日の面影が見られない現在の江差町の様子をその歴史的素養をもとに文学的表現を用いて的確に描写したうえで、江差追分全国大会を「かっての栄華が甦ったような一陣の熱風」、すなわち、昔鰊漁で栄えたころの賑わいが江差町に甦ったような「はなやかな一年の絶頂」と表現しているものである。したがって、本件プロローグは、江差追分全国大会を江差町における「一年の絶頂」とみるとの原告独自の思想ないしアイデアを右のような特徴を有する表現形式のもとに表現したものであり、全体として思想又は感情を創作的に表現した文芸の著作物に当たるものであることは明らかである。
 被告らは、本件プロローグは、歴史的事実や社会上の事実の単なる記述にすぎない旨主張するが、本件プロローグが単なる歴史的事実や社会上の事実の単なる記述にすぎないものではないことは、右に述べたところから明らかであり、本件プロローグの著作物性を否定する被告らの主張はいずれも理由がない。
2 本件ナレーションは、「北の波濤に唄う」の本件プロローグを翻案したものであるか。
 本件ナレーションが「北の波濤に唄う」の本件プロローグの翻案権を侵害したものであると認めるためには、被告らが本件プロローグに依拠して本件番組中の本件ナレーションを製作し、かつ、本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を本件ナレーションから直接感得することができることが必要である(前掲最三小判昭和五五年三月二八日参照)。
(一) 依拠について
 函館局が本件番組を製作したときに、原告の「北の波濤に唄う」を参考文献の一つとしていたことは、前記第二、一6のとおりである。
(二) そこで、本件ナレーションが客観的にみて本件プロローグを翻案したものであるといえるか否かについて、次に判断する。
 著作権法は、著作物において表現されているアイデア自体を保護するものではないから、原告の著作物と被告らの著作物との間にアイデアの同一性があるとしても、そのことにより直ちに翻案権侵害が認められるわけではなく、むしろ、本件ナレーションが本件プロローグを翻案したものであるか否かは、前記のとおり、本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を本件ナレーションから直接感得することができるか否かにより決すべきである。
 「北の波濤に唄う」の本件プロローグにおいては、前記のとおり、「(一)江差が昔鰊漁で栄え、その漁期の四、五月が一年の華であったこと、(二)当時の江差町の様子(追分の前歌に歌われる津花の浜や海べりの下町、山手の新地が、ヤン衆、旅芸人、その他の人であふれた様子、漁がはじまる前後の漁師たちの様子、「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」との有名な言葉の紹介、鰊漁が江差にもたらした莫大な富についての記録)、(三)鰊漁が去った江差の町の現在の様子(そのにぎわいも明治の中ごろを境に次第にしぼんだ、鰊の去った江差に、昔日の面影はない、冬の太陽に似た、無気力な顔、けだるく陰欝な北国のただの漁港、鰊を煮た鍋の残骸等)、(四)その江差が、九月の二日間だけ、日本中の追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるため、とつぜんはなやかな一年の絶頂を迎え、町は、生気をとりもどし、かっての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく旨を記述している(なお、「北の波濤に唄う」の講談社版においても、右(一)ないし(四)の骨子となる部分においては何の変更もなく、単に、朝日文庫版では、鰊を煮た鍋等の文章が一部付加されているだけである(乙一三一)。)。
 これに対し、本件ナレーションは、「(一)江差町が古くは鰊漁で栄え、(二)「江戸にもない」という賑わいをみせた豊かな海の町でした、(三)鰊は既に去り、今はその面影を見ることはできません、(四)九月、その江差が、年に一度、かっての賑わいを取り戻します。民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」旨述べているものである。(甲三、乙一、検甲一)
 右によれば、両者は、江差町がかつて鰊漁で栄え、その賑わいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと、現在では鰊が去ってその面影はないこと、九月に二日ないし三日間江差追分の全国大会が開かれ、年に一度、かっての栄華ないし賑いを取り戻し、町は一気に活気づくことを表現している点で共通しているということができる。
 ところで、江差町については、「北海道南西部、檜山支庁にある町。一九〇〇年(明治三三)町制施行。五五年(昭和三〇)泊村と合併。江差線の終点。民謡の「江差追分」で知られる。北海道の最古の歴史を有し、江戸時代はニシン漁を中心として繁栄し、「江差の五月は江戸にもない」とうたわれた。明治中期からのニシン不漁による衰勢は、一九二九年(昭和四)の漁港修築、三六年の江差線開通によって回復しつつある。ヒノキ材、イカ・ホッケ・マス・コンブ・ワカメの産が多い。アオトドマツ自生南限、アスナロの自生北限地。景勝地として知られる鴎島、慶喜(五厘沢)温泉がある。人口一万五三八〇」(JAPONICA・小学館・昭和四三年五月二〇日初版発行)、「北海道南西部、渡島半島西岸にある町。
檜山支庁の所在地。1900(明治33)年町制を施行。・・・本州に近く、船の停泊につごうがよいので、江戸時代のニシン漁期には、「江差の5月は江戸にもない」と歌われたほど栄えたが、現在はそのおもかげはない。五稜郭駅(函館市)から分岐する国鉄江差線の終点。「江差追分」の発祥地で、鴎島、姥神大神宮、五厘沢(慶喜)温泉など史跡も多い。」(学芸百科事典・旺文社・昭和四八年一二月五日初版発行)、「北海道檜山支庁、渡島半島の西岸で鴎島に対する。丘陵山地が海に迫り、町は海岸段丘上に発達した。早くから松前、函館とともに開け、ニシン漁で繁栄をうたわれたが、明治にはいって漁場の移動と小樽港の整備でさびれた。人口は盛時の半分だが、なお付近漁港の中心地。民謡の江差追分で知られ、付近には慶喜温泉など、観光・名勝地も多い。江差線の終点。人口一万六一二八。」(世界原色百科事典・小学館・昭和四〇年一〇月一五日初版発行)、「北海道南西部、渡島半島、檜山支庁にある町。町名はアイヌ語の「エサシ」(コンブ又は出崎の意)に由来。・・・かってはニシン漁で栄え、江差の五月は江戸にもないといわれ、人口三万人を数えたが、いまはそのおもかげはなく、イカ、サケ、マス、スケトウダラなどが漁獲される。当時の廻船問屋中村屋(国の重要文化財)、横山家、姥神大神宮、幕末の軍艦開陽丸の引き揚げ場、慶喜温泉などがある。また、民謡「江差追分」の発祥地で、全国大会が開かれる。・・・」(日本大百科全書・小学館・昭和六〇年四月二〇日初版第一刷り発行)との記載があり、他の国民百科事典・平凡社にもほぼ同趣旨の記載がされており、また、「江差追分物語」館和夫著(平成元年二月二八日初刷り発行)にも、かって「江差の五月は江戸にもない」といわれていたことなどが記載されており、したがって、江差町ではかって鰊漁が盛んであり、「江差の五月は江戸にもない」といわれていたが、今は鰊が不漁になり、その面影がないことは、一般的知見に属することということができる(乙一一八ないし一二三、一三三)。
 しかし、現在の江差町が一年で一番賑やかになるのは、姥神神宮の夏祭りのときであることが江差町民の一般的な認識であり、江差町が江差追分全国大会のときに「幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎え・・・町は生気をとりもどし、かっての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく。」との認識は、一般的な認識とは異なるものであって、江差追分に対する特別の情熱を持つ原告に特有の認識であり、いわば本件プロローグにおける文学的独創の部分であり、本件プロローグの結論となっている部分であることは前記のとおりであるところ、本件ナレーションも、「九月、その江差が、年に一度、かっての賑わいを取り戻します。大会の三日間、町は一気に活気づきます。」と述べ、この点を本件ナレーションの結論としている点で本件プロローグと同一である。そして、江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであったことと、鰊の去った江差にその面影がないことが、一般的知見に属することであったとしても、その結論に至る説明において、江差町に関し、前記の百科事典に記載されているような一般的知見に属する事柄の中から、江差町がかって鰊漁で栄え、江戸にもないという賑わいであり、鰊漁が莫大な富をもたらしたこと、鰊の去った江差にその面影がないことを選択して述べ、その上で、江差町が江差追分全国大会のときに一年に一度かっての栄華が甦る、ないし、かっての賑わいを取り戻す様子を描写しているとの表現形式における本質的な特徴部分で、両者符合するものである。
 さらに、本件全証拠に照らしても、江差町と江差追分全国大会について、本件プロローグないし本件ナレーションにみられるような順序で、鰊漁で栄えたころの江差町の過去の栄華と鰊漁が不振になった現在の江差町の様子を描写し、その上で江差追分全国大会の熱気を江差町の過去の栄華が甦ったものと認識するとの独特の表現形式を取っているものは他に見当たらないものである。
 そして、「北の波濤に唄う」と本件ナレーションとをより詳細に比較してみても、本件ナレーションは、「北の波濤に唄う」にはない「日本海に面した北海道の小さな港町」という表現を用いているが、江差町が日本海に面した北海道の小さな港町、海の町であることは、江差町を知る者にとってはごく当たり前のことであるし、また、本件ナレーションの「古くはニシン漁で栄え」とある部分が、「北の波濤に唄う」の「むかし鰊漁で栄えた」との部分と対応し、本件ナレーションの「「江戸にもない」という賑わいをみせた」とある部分が、「北の波濤に唄う」の「人、人、人であふれた」「「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」の有名な言葉が今に残っている」との部分と対応し、本件ナレーションの「豊かな海の町でした」とある部分が、「北の波濤に唄う」の「鰊がこの町にもたらした莫大な富」との部分と対応し、また、本件ナレーションの「鰊は既に去り、今はその面影を見ることはできません」の部分が、「北の波濤に唄う」の「鰊の去った江差に、昔日の面影はない」との部分と対応し、さらに、本件ナレーションの「九月、その江差が、年に一度、かつての賑いを取り戻します」「民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです」「大会の三日間、町は一気に活気づきます」との部分が「北の波濤に唄う」の「その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える」「江差追分全国大会が開かれるのだ」、「町は、生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けていく」との部分と対応しているのであり、外面的な表現形式においても、その具体的な表現は少しずつ異なるものの、基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く、しかも、右にみたようにほぼ同じ趣旨の表現がほぼ同じ順序で記述されているものであり、この点からも両者の表現形式上の本質的な特徴の同一性を感得することができるのである。
 以上によれば、本件ナレーションは、本件プロローグの基本的な骨子となる部分のみを同じ順序で表現しているものであり、外面的な表現形式においても、基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く、本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるものであって、本件プロローグを翻案したものであると認めるのが相当である。
 なお、被告らは、江差では誰もが一年の絶頂は八月の夏祭りであると考えているとの事実は存しない旨主張するが、被告らの右主張は前掲各証拠に照らし採用し得ない。
 また、被告らは、原告が江差追分を敗北者・敗残者・あぶれ者の「恨み節」「怨念の唄」ととらえ、また、現代の江差町の人々の江差追分を歌い、聴く姿勢を「敗残者」である先祖と同一視する視点に固執する偏った立場をとっている旨主張し、そのうえで、本件番組は、民謡江差追分をもって敗残者の唄と解する偏った原告の視点に立つものではなく、むしろ、江差追分を、いわば、江差の「生命の歌」、さらには「人間賛歌」とする、「町おこし」の視点をふまえた上で構成製作されていることが明らかであるから、原告のいう「内面的表現形式」とは全く異質のもので、本件プロローグの翻案権侵害の原告主張は失当である旨主張するが、そもそも、原告は、江差町の人々を「敗北者・敗残者」などと断定しているのではなく、江差町の人々がいかに追分節を愛し生きがいとし力強く暮らしているかを、「北の波濤に唄う」の中の「道場二代」の床屋親子の話、「夫婦追分」の中年夫婦の物語等で描写し、追分節なしには考えられない人間像の明るく積極的な一面を活写しているのであり(甲二)、本件プロローグ自体も、江差追分に対する原告の憧憬、情熱から江差追分全国大会を江差町における一年の絶頂としたうえで、その後「九月の熱風」の章の中で大会参加者の熱意、真剣さ、喜び等を描写しているのであり、江差追分及び江差追分全国大会を高く評価している点で、原告の本件プロローグと本件番組との間に何ら有意的な差異はない。
 むしろ、原告は、「北の波濤に唄う」の中の「北の鎮魂歌」の章を最終章とし、その中で「現代の江差の人たちの多くも、やはりそうした心細さを胸に、おそらくは食いはぐれ者の敗残の思いを重く背負って、内地から渡ってきた出稼ぎ者の子孫だからだろうか。追分を歌うときの彼らは、先祖の心になりきっている。人々は実はそうやって、先祖の魂をしのびながら、今を生きる自分たちの切なさ、辛さを慰め、明日への熱源を追分に求めようとしているように思える。
江差追分が聴く者の心をとらえて放さない秘密は、そうした虐げられた者たちの歴史の投影にあるだろう。北の鎮魂歌・・・。江差の旅を重ねるにつれ、私はそう確信するようになった。」と表現していること等からも明らかなように、江差追分を「北の鎮魂歌」と規定するものであり、一方、「敗残(北)者の歌」、「食いはぐれ者の歌」等は、北限の蝦夷地(北海道)をめざした人々の流転の生活・人生が追分節にどのような影を落としているかの側面からとらえた歌の性格、すなわち歴史の投影を述べた表現であって、「北の波濤に唄う」の最終章で、前代において「北に流転した敗者たちの歌」だった追分節が、時を経るにつれて成熟し輝きを増して、ついに洗練された「北の鎮魂歌」になったことを描写しているものである(甲二)。そして、このような原告の江差追分に対する見方は、例えば、江差出身のテレビプロデューサー脇哲、及び、札幌市在住の民謡研究家高田裕等によっても、「この人の江差に対する思いのたけの深さは、こちらをたじろがせるていのものがある」とか、原告の「追分の歴史観になにがなし抵抗を感じるといいながら、再読した気持ちは「ヨクゾカイテクダサッタ」というほかない」などと、高く評価されているものであり(甲七九ないし八一)、また、読売新聞の「フラッシュ」欄は、「この本は、「江差追分」に魅いられた新聞記者が、余暇をあげて没入して書いた江差追分賛歌である。そのせいで、思い入れが少し強すぎるように思われるが、明治の十年代、ニシンブームが去ってのち、この唄(うた)を守り、育ててきた江差の人のうらがなしい熱気が、いろいろなエピソードを通して、じっと伝わってくる。追分好きの人が死ぬと通夜では追分がうたわれる。それは坊さんのお経より人々の涙をさそうという。……熱気は、全国にひろがって、江差追分会には三千八百人の会員がいる。その代表が年に一回、九月にこの町に集まってコンクールを開いている。」と記述しているのであり(甲八二)、被告らの前記主張(原告が江差追分を敗北者・敗残者・あぶれ者の「恨み節」「怨念の唄」ととらえ、また、現代の江差町の人々の江差追分を歌い、聴く姿勢を「敗残者」である先祖と同一視する視点に固執する偏った立場をとっている旨の主張)は、原告が「北の波濤に唄う」において江差追分をとらえている観点の歴史的な一面のみを強調するものであり、原告の江差追分観を正確にとらえたものということはできず、右主張を前提として、本件プロローグと本件番組とを全く異質のものとする被告らの主張は、到底これを採用することはできない(被告らが提出する乙一三九も前掲各証拠に照らし採用し得ない。)。
3 翻案権、放送権、氏名表示権の侵害
 被告NHK及び被告仁平が本件プロローグを原告に無断で翻案した本件ナレーションを含む本件番組を製作、放送した行為は、原告の本件プロローグについての著作権(翻案権及び放送権(著作権法二八条))を侵害したものであり、また、本件番組においては、原告の氏名が表示されていなかったものであるから、被告らの右行為は、原告の本件プロローグの著作者としての氏名表示権をも侵害するものであると認められる。
4 被告NHK及び被告仁平の責任
 被告NHKは、「北の波濤に唄う」を参考文献として本件番組を製作、放送したのであるから、「北の波濤に唄う」の本件プロローグの著作権(翻案権及び放送権)並びに著作者人格権を侵害しないように注意すべき義務を負うところ、これを怠り、右著作権及び氏名表示権を侵害したものであり、右著作権侵害行為及び氏名表示権侵害行為により生じた損害について責任を負うことは当然である。
 被告仁平は、本件番組製作前に「北の波濤に唄う」を読んだことはない旨主張するが、前記のとおり、函館局が本件番組製作に当たり「北の波濤に唄う」を参考文献の一つとしていた以上、被告仁平は、仮に被告仁平自身が「北の波濤に唄う」を読んでいなかったとしても、少なくとも原告及び国際局の佐藤から著作権侵害の警告を受けた段階で、本件番組の製作担当責任者として、そのスタッフが参考文献とした「北の波濤に唄う」の著作権及び著作者人格権を侵害しないように注意して本件番組を製作するする義務を負うものであるところ、右義務を怠り、右著作権及び氏名表示権を侵害したものである。
よって、被告仁平は、本件ナレーションによる「北の波濤に唄う」の本件プロローグの翻案権及び放送権侵害行為並びに氏名表示権侵害行為により生じた損害について、責任を負うものである。
三 原告が主張する名誉(社会的評価)は、存在していたか。
1 原告が「北の波濤に唄う」及び本件小説を創作した経緯と両著書に対する社会的な反響
 証拠(甲二二、原告第一回)及び後記括弧内の各証拠によれば、次の事実が認められる。
(一) 原告の経歴
 原告は、昭和三八年に東京大学文学部西洋史学科を卒業しているが、在学中は、古代における東西交渉史、特に、シルクロードと遊牧騎馬民族等の問題に関心をもっていた。原告は、卒業後朝日新聞に入社し、同社において、経済部、政治部等を担当した後、同五八年に東京本社編集委員(北海道在中)、同六三年にアエラのスタッフライターとなっている。
(二) 江差追分との出会いと「北の波濤に唄う」の刊行
 原告は、昭和四二年、朝日新聞京都版で「ふるさとの歌」と題する連載記事を執筆していたが、その際の現地取材で、京都府北部の丹後半島で「岩滝追分」に出会い、以後江差追分への関心を強めた。
 原告は、昭和五二年に、朝日ジャーナル勤務となったのを機に、週末や有給休暇などを利用して、個人として私費で江差町へ合計七回江差追分についての取材旅行を行ない、同五四年三月に「北の波濤に唄う」を刊行した。
 「北の波濤に唄う」は、江差町で追分節に関わる人たちの様々な人間模様を描き、人物もすべて実名で登場させたノンフィクションである。また、原告は、この中で、東本願寺江差別院に残る膨大な過去帳を調査して、江差追分を今日の姿に近い形まで練り上げたとされる伝説上の人物座頭佐の市が実在したことを初めて実証し、さらに、追分節には葬式の際に別れの歌として歌われる古習がある事実に焦点を当てて、「通夜の追分」という言葉を造語し、江差追分に挽歌、鎮魂歌としてのありようを見出し、読者から大きな注目を浴びた。
 「北の波濤に唄う」については、北海道新聞、読売新聞、朝日新聞の天声人語、週刊文春、週刊朝日、東京新聞などに書評が掲載され、北海道新聞の夕刊では「江差追分を描いてベストセラー」の見出しでトップニュースとして報道され、地元江差町でも、四〇〇〇部が売れた。また、「北の波濤に唄う」の割引定価による売上利益は、追分節の記念碑修復費用に役立てられ、原告は、昭和五四年の江差追分全国大会の席上、江差追分の存在を全国にアピールし、その文化財的価値を見直すうえで貢献したとして、江差追分会より感謝状を授与された(甲三一、乙一七の1の1ないし5)。さらに、「北の波濤に唄う」を題材又は原作としたテレビラジオ番組が次のとおり製作され、被告NHK製作の番組には、原告が原作者として出演もしている。
(甲五五)
@ NHKラジオ第一「午後のロータリー」
 (昭和五四年、四五分、東京製作)
A NHK・FM「日本ステレオ紀行ー追分の聞こえる町」
 (昭和五五年、三〇分、札幌製作)
B NHK総合テレビ「北海道7・30」
 (昭和五六年、三〇分、札幌製作)
C 札幌テレビ放送・テレビ「みんなの赤レンガ・江差」
 (昭和五九年、一五分)
D 札幌テレビ放送・ラジオドラマ「遥かなる追分」
 (昭和六二年、六〇分)
((二)全体について、甲二、三一、原告第二回)
(三) その後の著作等
 また、原告は、昭和五四年一〇月五日付けの朝日ジャーナルに、毎年江差町で開かれる江差追分の全国大会についてルポルタージュを執筆し、その後もほぼ毎年江差追分の全国大会に出席している。また、原告は、昭和五五年四月から一二月まで、江差町発行の広報えさしに「江差はうたう海」と題して、江差町及び江差追分についてのエッセイを連続して掲載している。(甲三九の1ないし9、四〇、四二)
 さらに、原告は、昭和五五年一二月には、江差追分歌いの第一人者青坂満との対談を含む対談集「何を夢みて」を発表し、同五六年には、一七編の短編中二編で江差追分をテーマにした「賽の河原紀行」を発表した。(甲四六、弁論の全趣旨)
 またさらに、原告は、昭和五八年四月二九日から五月五日までの間に合計六回、朝日新聞編集委員として、朝日新聞北海道版に「江差の春は」と題して、江差町及び江差追分にまつわるエピソードについて執筆した(甲四一の1ないし6)。原告は、また、昭和五八年三月号の「宗教と現代」に「北の鎮魂歌「江差追分」」と題して江差追分の鎮魂歌としての側面を記載したエッセイを執筆し、また、同五九年八月号のPL(美術生活社発刊)には、「母守歌を教えてくれた人 江差追分名人・青坂満さん」と題するエッセイを、さらに、同五九年九月号の「旅」には、「陶酔!江差追分全国大会」と題して、江差追分の全国大会の異様な熱気とどよめきについて執筆し、同年九月一九日の朝日新聞にも「江差追分に刻まれた叫び」と題して、全国大会や江差追分について執筆している。(甲四二ないし四五)
(四) 本件小説の刊行
 原告は、昭和六〇年、札幌テレビ放送のディレクター小山俊郎から、開局三〇年記念番組として、追分節をテーマとした番組を作成したいとして、内々にその原作の作成依頼を受け、同年一一月三日から同月二四日まで、右ディレクターとともに自費でハンガリーの取材旅行をした。原告は、その旅行中、ハンガリーの民族音楽研究者、歴史学者らに直接面談して取材し、広範に現地を調査した結果、追分節の起源を主題とした本件小説の構想を得た。
 なお、原告は、ハンガリー留学中の被告谷本の長女にハンガリーでの通訳を依頼していたため、ハンガリーへ旅行する前に、小山の紹介で被告谷本の妻と会食しているが、被告谷本とは直接会ったことはなかった。原告は、ハンガリーでは、被告谷本の紹介でハンガリー国立音楽アカデミー民族音楽主任ヴィカール・ラスローほか二名と会っているが、相手の名前は、会う直前に被告谷本の長女から知らされたものである。
 原告は、昭和六二年一一月、本件小説の第一稿を完成し、これを出版社に送る一方、被告谷本にもこのコピーを郵送した。被告谷本は、二週間後、原稿を返送してきたが、ハンガリー語の地名、人名表記の誤りについて、数箇所指摘し、「面白いですね」等の感想を電話で述べていた。原告は、昭和六三年二月、本件小説の第一稿を一部削除、加筆、再構成して、第二稿を完成し、平成元年四月に本件小説を発刊し、被告谷本と西ドイツ滞在中の長女に各一冊ずつ、本件小説を贈呈した。
2 本件小説に追分節ウラル源流説が記載されているか。
(一) 本件小説には、次のような記述がある。
(1) 手紙には、ブダペストの国立音楽アカデミーに保存されている録音テープのなかから、つい最近、日本の追分節とそっくりの曲が見つかったと書かれていた。それもただ旋律や雰囲気が似ているというだけでなく、音の構造自体がウリ二つだと強調してあった。
(略)
「よくテレビ番組で、モンゴルやチベットの民謡何かと追分節を比較するだろう。似てますね、似てますねって。ああいうのを俗論っていうんだ。こんど発見された曲は、そんなのとは違って、どうやら本格派らしい」
(略)
「ハンガリーとは意外ですね」
「そこなんだ。しかし、さっきの話の通り、ハンガリー人は千年以上も前に、東側からカルパティア山脈を超えてヨーロッパへ移動して行ったアジア系民族だ。音楽が日本と共通点を持つとしても少しも不思議でないさ。たぶん、こんどセーケイ教授が発見した曲ってのもアジア起源だ。問題はその曲がどれくらい古いか、そして追分節と何処でどう結びつくかだと思うよ。」
 谷川はそう言って、じっと秋間の顔を見た。(本件小説一七〜一八頁)
(2) やがて教授は話にきりをつけると、立ち上がった。
「お待ちかねでしょうから、さっそくお聴かせしましょう」
 テーブルの隅に置かれたテープレコーダーのボタンを押した。
(略)
(なつかしい五音音階だ。似ている、たしかに似ている……)
 女の声が地の底に吸い込まれるようにして熄んだとき、秋間は、行きつけの居酒屋の有線放送で追分節を聴いたあの晩と同じように、躯がふるえた。
「いかがですか?秋間さんの耳にはさぞ心地よい音楽だったと思いますが」
民族音楽の世界的な権威である教授は、得意そうに言った。
「はい驚きました」
 これを確かめにきたはずなのに、現実に耳にしてみると、信じられない気がした。
「日本に帰ったような気分です。北海道の江差で聴く追分節とそっくりでしたから」
「たしかに、似ていますね。
あえて違うところを探せば、追分節の方がやや音域が広く、こちらの旋律に一部、半音が混じるといったところでしょう。それもほとんど気にならない程度です。」
(略)
「それで歌われている言葉の意味ですが」
(略)
「とおっしゃいますと、弔の歌、でしょうか?」
「はい。葬送歌、あるいは挽歌とも悲歌とも言えるでしょう」
(略)
「驚きました。実は日本の追分節も、弔に歌われることがあるのです。」
(略)
「ところで、この葬送歌の起源ですが……」
「ええ、千五、六百年、いやもっとさかのぼるかもしれませんよ」
教授は自信たっぷりにそう言うと、
(略)
秋間は頭のなかを整理してみた。まず第一にテープの曲が葬送歌だとわかった。ここに追分節との関係を考える大きな鍵がありそうだ。そして、千五、六百年以上もさかのぼる歌の起源……。千五、六百年前と言えば、ヨーロッパから朝鮮半島に至るユーラシア大陸の各地で、フン族やゲルマン族などの大規模な民族移動が起きた時代ではないか。まだ神話時代にあった当時の日本列島にも、大陸から続々と人や物が渡ってきたらしいことは、様々な考古学上の史料が物語っている。
(もし、追分節の起源もその時代に求められるとすれば……)
(略)
「さて、起源の問題ですが、秋間さんはソ連領ウラル山脈の麓、オビ河の流域で生活するオスチャークやヴォグールのことは、ご存じですか?」
一口すすって教授が訊いた。
「確か、ハンガリー人と同系の少数民族だったですね」
教授が彼らの音楽の権威であることは、出発前に谷川から聞いた。
「そうです、我々の本家筋に当たると言えばいいでしょうか。ハンガリー人は現在でこそヨーロッパに定着していますが、千五、六百年前まではウラル山脈から西シベリアにかけての地域で彼らと一緒に暮らしていたのです。共通の言語を話し、同じ歌を歌っていた。現代語だって、そっくりですよ。手はケーズとケーツ、魚はハルとフル、とせいぜい方言の違いです」
「そして、このテープの葬送歌もそのころから歌われていた、と?」
「はい、その通りです」
「それは証明できるのですか?」
「同じ曲をオスチャークとヴォグールが今日も歌っています」
「ほう……」
「私もこの耳で聞きましたが、まさにウリ二つ、です。まさか現代になって、我々がレコードかなんかで教えたなどとは、お考えにならないでしょうね。」
と、教授は笑った。
「この発見をしたとき、私は躯がふるえました。とにかく、何千キロと離れて行き来の絶えた同士が、千数百年の間、ひとつ旋律を心に暖めつづけ、歌い継いできたというのですから。限りある人間の命が、繰り返し繰り返し歌に再生されつづけてきた、とでも言えますかね。民謡はその民族の遠い原郷の記憶と言いますが、見事にそれを物語っている」(同二九頁〜三四頁)
(3) 「伝説ではチャバは父の死後、東の果てまで駆けて、フン族がヨーロッパに現れるよりはるか以前の故郷へ帰ったと伝えられている。それは大海のほとりであるという。では、その大海がいったい何処なのか。それがわかればフン族の謎も解けるのですが、未だ諸説あって真相は霧のなか。しかしフンは、紀元前後の中国北方に勢力を張った匈奴と同一の騎馬民族という説もあるくらいですから、相当遠方まで駆けたと思います。彼らがたどりついた大海とは、黒海かカスピ海か、それともバイカル湖か……」
「もっと東の果てなら、日本海かもしれませんね」
 このときは、ほんの軽い気持ちで、秋間は口にした。
「はい。その可能性も否定できません。バイカル湖から東の満州、沿海州、そして朝鮮半島北部にかけてはフンのアジア時代の先祖と見られる匈奴が勢力を及ぼした地域ですからね。そこから日本海はさして遠くない」
ガーボルはまじめにうなずいた。博物館の学芸員だけに、アジアの歴史にも詳しい。(同一一八頁)
「ところでアッティラという名前に、意味はあるのですか?」
と、秋間はガーボルに質問した。
「はい、アッティラという名は西洋風の呼び方で、古代ハンガリー語ではアテレ、またはエテレと発音されたようです。(略)」
(略)(チャバのたどりついた大海が、もし本当に日本海だとしたら……)
彼はホテルに戻ると、さっそくノートをひらいた。そして、
<文章作法A古代幻想ーアッティラ・チャバ・阿弖流為>と記入した。
 阿弖流為とは奇妙な名前だった。日本史に登場するが、大和民族とは思えない。かと言って、朝鮮系の渡来人とも違う。(略)アテルイ、あるいはアテリイと読んだのだろう。
(略)
 阿弖流為は、日本列島にまだ統一国家が生まれていなかった千二百年ほど前の八世紀、東北地方に勢力を張った蝦夷一族の英雄で、北上してきた大和朝廷軍を向うに回して、得意の騎馬兵をひきい、毒矢を放って果敢に抵抗したことで知られる。(同一二一頁〜一二二頁)
追分節と葬送歌のメロディー、セーケイ教授の話、チャバ伝説、チャバハロムの丘の光景……。あれやこれやと考えているうちに、眠りに落ちたようだった。
(略)
「我々はこれから海を渡る。行き先は倭の国の北部。そこには我々の近縁の種族が棲みついているはずだ。彼らと力を合わせ、新しい国を建てるのだ」
(略)
(あれはフン族のチャバだ)
秋間がそうつぶやいたとき、隣に甘い匂をさせて女がきていた。
「おや、友子さんじゃないか」
(略)
「いいえ、私は一族の歌姫ですわ」
女は不思議そうな顔をして秋間を見つめた。
「歌姫だって?」
「ええ、戦いに斃れた戦士を弔う葬列の先頭に立って、私が歌うのですわ」
(略)
そう言って立ち上がると、足元まですっぽりと隠した長い紫の衣裳を小刻みにふるわせながら葬送歌を歌い始めた。……
「それは、マジャールやオスチャークやヴォグールが歌う葬送歌だ」
秋間は叫んだ。
「あら、よく知ってらっしゃるわね。でも、あなたはこの葬送歌を一番昔から歌っていたのがアッティラ王のフン族だったことは、ご存じなさそうね」
「フン族の葬送歌だって?」
「そうよ。もともとフン族もマジャール族も、それからオスチャークやヴォグールも、お互いに皆親しく付き合っていたわ。ユーラシアの一つの大きな輪のなかでね。そこでは歌も踊りも、あるいは言葉さえ共通だったわ。時代とともに、その輪がばらばらに崩れ、兄弟たちは西に東に散りぢりになったの。もちろん葬送歌もね」
「一つだけ教えてくれないか」
「何かしら?」
「チャバハロムの丘の葬送歌は、いったいフン族の名残なのか、それとも後にウラル山脈から出てきたマジャール族の歌なのか?」
 秋間はこの夢がさめないうちに、興奮して尋ねた。
「さあ、そんな後世のことは私にはわからないわ。たぶんフン族がまずハンガリーに伝え、後はマジャール族が歌い継いでいったのでしょうね」
「わかった。それで友子さん、いや、きみもフン族の娘なのか?」
「私はチャバの一行に途中で合流したマジャール族出身の女ですわ」
「合流したって?」
「そうよ。ウラル山脈の西で一行に加わったの。マジャールの本体は西へ向かったけれど、私たちの一族は羊を生贄にして占った結果、チャバと運命をともにすることにしたの。チャバはアッティラ大王の死後、故郷をめざして東へ東へ駆けたと話しているわ。ボルガを渡り、ウラルを越え、ゴビの砂漠を突っ切り、そして今ようやくここまでたどりついたというわけなの。(略)そして、今、海を渡って倭国へ行こうとしているところなの」
 女の話を聞いてこれは、俺の描こうとしている物語とそっくりだ、と秋間は驚いた。
「いったい、今は何時代なのだ?」
「五世紀もあと残り少なくなったわ」
「えっ、五世紀だって?千五百年も昔じゃないか」
秋間がびっくりしていると、そこへ白馬にまたがったチャバがきた。
「そう、今は五世紀だ。あと三百年後、蝦夷の国を見ていてくれ」
チャバが馬上から言った。(略)
「蝦夷の国というと、日本の東北地方のことか?」
「そうだ。きみもよく知っている岩手県の北上川流域地方だ。そこに我が父アッティラの再来が現れるであろう」
「わかった。それは阿弖流為のことだな?」
「ご明察だ。そのことを、きみの物語にぜひ書いてほしい。」
(略)
そこで我に返った。我に返っても、いま見たのが夢だったのか、それとも物語の構想を頭のなかでなぞっていて勝手に空想した映像なのか、秋間にははっきりしなかった。(一四四頁〜一四八頁)
 電話を切ってから、秋間は机に向かった。頭のなかで漠然と考えている物語の組み立てを具体的にデッサンしてみて、ローラント教授に会ったとき意見を求めてみたい、
と思った。(略)<物語>だから、筆者の想像力に基づく虚構は許される。しかし客観的事実にウソがあってはならない。そこをバランスよく描き分けるのが難しそうだった。
 彼は机の抽出しからホテルの便箋をとりだし、一番上に大きく「ユーラシアの悲歌」と書いた。アカデミーではじめてテープの葬送歌を聴いたときから、胸に温めていたタイトルだった。それから取材ノートを見ながら、書いたり消したり、文章と文章の間に線をひいたり印をつけたりして、構想を練り上げていった。要はハンガリーの葬送歌と日本の追分節を一つの布に織り上げればいいのだ。秋間の頭のなかでキイワードは決まっている。フン族の大王アッティラと古代東北の蝦夷の首領阿弖流為だ。
 ……フン族の王子チャバは、父アッティラの急死後、ひたすら故郷をめざして東へ駆けた。ボルガを渡りウラルを越えた。途中で幾つかの種族が合流した。そのなかには当時まだウラル山脈付近で遊牧生活を営んでいた現代ハンガリー人の先祖マジャールやヴォグール、オスチャークの一部も含まれていた。例の葬送歌もこのとき彼らとともに東への旅に出た。
 一行はモンゴル高原を突っ切り、やがて日本海を望む地へとたどりつく。ハンガリーから大陸の果てまで約一万キロ、現代人の間隔でも気の遠くなる距離だ。しかし当時の騎馬民族は一日に数百キロを平気で駆けた。なんの不思議もない。むろん、ここに到達するまでには幾度もの挫折があったに違いない。彼らが最初にめざしたであろう先祖、匈奴の故地はすでに言葉の通じない種族の支配下にあり、入り込む余地はなかった。
 チャバは戦乱に明け暮れる大陸を捨て、海を渡ることを決意する。日本列島の東北部に自分たちと近縁の種族、蝦夷が棲みついていることを知っていた。身を寄せようと考えたのだ。その時期はおそらく五世紀末、つまりアッティラが死んだ西暦四五三年から三、四十年後のことと思われる。もちろん日本の史書はチャバの渡来について一行も語ってはいない。
 八世紀に至り、阿弖流為を名乗るチャバの後裔が歴史の舞台に登場してくる。彼は日本列島統一をもくろんで北上する大和朝廷の勢力を相手に、東北地方の蝦夷をたばねて奮戦した。その勇猛ぶりは兵一人で大和勢の十人に匹敵した、と官撰の史書「続日本紀」が記している。強さの秘密は大陸渡来の快速馬と弓だった。弓は馬上から射ることのできる機動性にすぐれたフン族ゆずりの短弓で、トリカブトの根から抽出した毒液を鏃に塗っていた。
 この騎馬軍団をひきいた阿弖流為こそ、フン族の大王アッティラの生まれかわりだった。子孫に秀でた統率者が現れるならば偉大な大王アッティラの名を継ぐべし。それはチャバの遺言であり予言であった。アッティラは古代ハンガリー語ではアテレあるいはエテレと発音された。ボルガ河の意味だ。ボルガ河の川辺で生まれた男の子とでも言うのだろう。阿弖流為はこのアテレ、エテレの漢字表記にほかならない。
 ……このように推理したとき、ハンガリーの葬送歌と日本の追分節の関係は、もはや明白である。二つの曲は、千五百年前までは一つの曲だったのだ。チャバ一行と海を渡った流れは追分節となった。一方、ハンガリーの地に残り、後にウラル山脈方面からカルパティアを越えてやってきたマジャール族によって歌い継がれたのが、音楽アカデミーに保存されているテープの曲の元になった。
 追分節は主に日本海地方で歌い継がれてきた。いや、正確に言えば山深い内陸部にも、その系譜をひく旋律はしっかりと生き残っている。それは阿弖流為の敗北後、東北蝦夷の多くが、囚われの身として各地に強制移住させられた悲しい歴史と関係あるだろう。
 いずれにしても、チャバや阿弖流為に連なる人々の、或る者ははるかに大陸を望む海辺の町で、また或る者は山奥の村で、長い長い年月、望郷に胸を揺さぶられながら孤独にさまよう一族の魂を歌いつづけてきた。そして北海道の江差では、今もチャバの時代とかわらず死者を送る通夜の曲として生き続けている……。(一七二頁〜一七五頁)
「きのうはお話しませんでしたが、秋間さんの阿弖流為の仮説が気になって気になって、数日前ついに「続日本紀」を読みました」
(略)
「この記述のなかで、私の興味をひいたのは、阿弖流為の戦術です、いったん退却すると見せかけ、敵を油断させておいて急襲している。これはアッティラのフン族とまったく同じです。四世紀ギリシャの歴史家アミアヌス・マルケリヌスがラテン語で著した史書にも、フン族の特異な戦法としてそのことが書かれています。歴史に有名なオルレアンの戦いや、昨日お話したカタローニャの戦いなどで、フンはその独特な戦法とともに恐怖の記憶を、ヨーロッパに植えつけたのです。また面白いのは、阿弖流為軍と戦った朝廷軍の死者に、弓で射られた者が二百三十五人もいた事実。これまた、雨あられと矢を射かけて相手を殲滅したフンの戦法を暗示していますね。阿弖流為はアッティラの生まれかわりとする秋間説と、この点でも見事に符合するのではありませんか?」(同二三八頁、二三九頁)
ユーラシア大陸の奥深くで生まれた一つのメロディーが、長い長い歳月をかけてたどりついたハンガリーと江差という、西と東の二つの終着駅の双方を、わずかひと月のうちに自分の足で訪れたことが、まるで夢の中のできごとのように思えてきたのだった。(同二六一頁)
((一)全体について、甲一)
(二) 本件小説に追分節ウラル源流説が記載されているか。
 本件小説においては、右(一)(1)のとおり、日本の追分節とウリ二つの歌がブダペスト国立音楽アカデミーに保存されている録音テープの中から、つい最近発見されたこと、右(一)(2)のとおり、ハンガリーにおいて発見された歌は葬送歌であり(追分節も弔に歌われることがある)、その歌の起源は、一五〇〇、一六〇〇年前であること、その理由は、ハンガリー人は、一五〇〇、一六〇〇年前まではウラル山脈から西シベリアにかけてオスチャークやヴォグールと一緒に暮らしていたのであるが、オスチャークやヴォグールは、現在もウラル山脈の麓、オビ河の流域で生活しており、今日でもテープの葬送歌と同じ歌を歌っていること(千数百年の間、何千キロと離れて行き来の絶えた民族同士がひとつの旋律を歌い継いできたこと)が記載されている。また、本件小説においては、右(一)(3)のとおり、@フン族は、五世紀末ころ、アッティラの死後に、その息子チャバに率いられて、東の果てまで駆けて、ヨーロッパに現れるよりはるか以前の故郷へ帰ったのであるが、それは大海のほとりであるとの伝説、及び、A続日本紀によれば、八世紀ころ、東北地方に勢力を張った蝦夷一族の英雄阿弖流為がいて、大和朝廷軍を相手に騎馬兵を率い、毒矢を放って果敢に抵抗したことで知られており、いったん退却すると見せかけ、敵を油断させておいて急襲するとの戦法もとったことが記載されていること、Bアッティラとは、古代ハンガリー語でアテレ又はエテレと発音され、阿弖流為(アテルイ)と類似の発音であることと、いったん退却すると見せかけて急襲するという戦法は、アッティラのフン族と全く同じ戦法であることを総合すれば、チャバがたどりついた大海のほとりとは、日本海であり、阿弖流為は、フン族のアッティラの子孫であると推測されること、そして、チャバが五世紀末に東へ駆け、ボルガを渡りウラルを越えるときに、途中で幾つかの種族がこれに合流したが、当時ウラル山脈付近で遊牧生活を送っていたオスチャーク、ヴォグール、及び、ハンガリー人の先祖マジャール族の一部やマジャール族の歌姫もこのときこれに合流し、オスチャークやヴォグールが今も歌っている葬送歌(ハンガリーで発見された葬送歌)は、このとき東への旅に出て、チャバにより日本へ伝えられ、追分節として残っていること、右の推理の結果、ハンガリーの葬送歌と日本の追分節は、一五〇〇年前は一つの曲であったことは明らかであり、オスチャークやヴォグール等によりウラルで歌われていた葬送歌は、チャバ一行と日本海を渡って追分節となり、一方、その前にフン族によりハンガリーに伝えられた歌は、後にやってきたマジャール族により歌い継がれてきたのであることが記載されているのである。
 ところで、前記(一)(3)の記述中には、秋間の夢のなかに出てきたマジャール族の歌姫が、アッティラ王のフン族がオスチャークやヴォグールやマジャール族よりも先に一番昔からこの葬送歌を歌っていたと述べた旨の記述があり、また、本件小説においては、フン族は、四世紀ころハンガリーに達し、五世紀ころアッティラ王が現在のハンガリー南部の都市セゲド付近を本部所在地としてフン帝国を築き、ローマ帝国を攻撃したこと、及び、紀元前後の中国北方に勢力を張った匈奴と同一の騎馬民族という説もあるが、未だ諸説あってその正体が不明であること等が記載されており(甲一・一一六頁〜一一八頁、一二六頁等)、五世紀ころフン帝国を築く以前のフン族の起源については定かではないことが記載されている。しかし、本件小説では、フン族と葬送歌との関係については、前記(一)(3)のとおり、秋間の夢の中に出てきたマジャール族の右歌姫が「一番昔から歌っていたのがアッティラ王のフン族だった」と述べた後に、「もともとフン族もマジャール族も、それからオスチャークやヴォグールも、お互いに皆親しく付き合っていたわ。ユーラシアの一つの大きな輪のなかでね。そこでは歌も踊りも、あるいは言葉さえ共通だったわ。時代とともに、その輪がばらばらに崩れ、兄弟たちは西に東に散りぢりになったの。もちろん葬送歌もね」と述べているのであり、この「お互いに皆親しく付き合っていたわ」「そこでは歌も踊りも……共通だったわ」等の表現と本件小説の前記「ハンガリーの葬送歌と日本の追分節は、一五〇〇年前は一つの曲であったことは明らかであり、オスチャークやヴォーグル等によりウラルで歌われていた葬送歌は、チャバ一行と海を渡って追分節となり、一方、その前にフン族によりハンガリーに伝えられた歌は、後にやってきたマジャール族により歌い継がれてきたのである」との記述を総合すれば、右の「ユーラシアの一つの大きな輪」とは、広いユーラシア大陸のことではなく、複数の民族が親しく交流し、歌も踊りも言葉も共通にできる範囲の土地、すなわち、オスチャークやヴォグールが住んでいたウラル山脈とその周辺の地域も含む地域のことを意味しているのであり、一五〇〇、一六〇〇年前にウラル山脈周辺の地域でオスチャークやヴォグール、マジャール族、及び、フン族によって歌われていた一つの曲(葬送歌)が、そのころフン族によってハンガリーに伝えられ、同地では後にマジャール族によって歌い継がれ、また、五世紀末にはフン族とオスチャークやヴォグール又はマジャール族の一部によって、東方へも伝播されていったことが記述されているものと解するのが相当である。したがって、本件小説は、歴史的にみて起源が定かではないフン族については、右のような若干曖昧な表現を用いながら、少なくとも一五〇〇、一六〇〇年前には、ウラルにおいてオスチャーク、ヴォグール、マジャール族といっしょに右葬送歌を歌っていたことが述べられているのであり、当然ながらそれより以前のことは不明である以上、これについては何も触れていないのである。(原告第一回94ないし126項。なお、右認定に反する乙一〇七の1・2は採用し得ない。)
 以上によれば、原告は、追分節とハンガリーの右葬送歌は、一五〇〇、一六〇〇年前までは一つの曲であり、ウラルにおいてオスチャークやヴォグール、マジャール族、フン族によって歌われていたこと、及び、右葬送歌は、五世紀末ころフン族のチャバ一行及びこれと同行したオスチャーク、ヴォグール、マジャール族と共に日本海を渡って追分節となり、一方、その前にフン族によりハンガリーに伝えられた歌は、後にやってきたマジャール族により歌い継がれてきたのである旨を記述しているものであり、追分節の源流が四、五世紀ころのウラルにまで求められることを記載しているものと認められる(以下「追分節ウラル源流説」という場合は、右の意味で使用するものとする。)。そして、本件小説を全体として見た場合にも、本件小説は、一方で主人公の秋間と友子との悲恋の物語を織り込みながらも、他方で右のような追分節ウラル源流説をもう一つの大きなテーマとして叙述しているものであることは明らかである。(甲一)
 被告らは、本件小説には、追分節ウラル源流説の記載はなく、あるとすれば、追分節はフン族を起源とするという記述、すなわち「フン族は、漢に追われて中国北部から中央アジアを経てハンガリーに移動した民族であるから、右葬送歌の起源は、ウラル山脈とは限らず、中国北部から中央アジアのどこかである」との記述がある旨主張するが、右に認定したとおり、本件小説は、
追分節のルーツについては、四、五世紀ころウラルで歌われていたということを解き明かしているのであり、それより以前のことまで述べているものではないのであるから、被告らの右主張は採用の限りではない。
3 追分節ウラル源流説の独創性について
(一) いわゆる追分節モンゴル源流説との違い
 証拠(甲二二)及び後記括弧内の各証拠によれば、次の事実が認められる。
(1) 長尾真道は、昭和五一年、その著書「正調小室(諸)節集成」の中で、追分節の古形である小室節、あるいは、一般に馬子歌と呼ばれる民謡は、モンゴルから馬とともに渡ってきたとするいわゆる追分節(小室節)モンゴル源流説(以下単に「追分節モンゴル源流説」という。)を記述している。すなわち、長尾は、奈良時代に全国に三二の勅使牧が置かれ、その半分の一六牧が信濃の国にあり、その中で最大のものが小諸市の御牧ケ原に置かれたこと、馬の輸入とともに牧場経営の技術者として多くの蒙古人が渡来して帰化し、蒙古にいにしえより伝わる「駿馬の曲」を伝えたこと、そしてこの曲は小室節のメロデイと極めてよく似ていることなどから、小諸付近に渡来したモンゴル系の牧人が追分節の原形である小室節を伝えたとしており、また、この駿馬の曲は、日本ばかりでなく、一三世紀におけるジンギスカンのヨーロッパ侵攻の結果ハンガリーにも伝えられ、ハンガリー田園交響曲として残っていることも述べている。(乙一〇三)
(2) 元東京芸大教授小泉文夫も、昭和五八年三月一七日、NHK教育テレビで放送した番組「ジュニア大全科 これが日本音楽のルーツだC〜馬がはこんだ日本のうた〜」の中で、「奈良時代の終わりころ、大陸からはいってきた馬をかう朝廷直轄の牧場が全国に作られ、うち大半が長野県におかれ、その中心地である小諸に「小室節」という馬子歌が伝わり、追分節の元祖ではないかと言われている。そして、モンゴルのオルティンドゥーは追分節に似ていること、日本の馬は全部蒙古種であることからすると、はっきりとした証拠はないけれども、モンゴルの人達が馬とともに民謡を伝えたということも考えられる。また、追分節やモンゴルのオルティンドゥーと同じ拍子のはっきりしないタイプの歌としては、イランではアーヴァーズ、トルコではウズンハワ、ハンガリーではパルランドルバートと呼ばれる歌が存在している。トルコ族は、六世紀の末ころ、中国東北部にいたが、九世紀には中央アジアに進出し、一一世紀にはメソポタミアを攻略し、さらに東ヨーロッパ、アフリカまで移動していった民族である。その結果、オルティンドゥーのような歌い方が東ヨーロッパまで伝わっている。」旨を述べている。(乙三)
(3) 東京芸術大学講師で民族音楽学者の小島美子は、昭和五六年六月一二日、NHK教育テレビで放送した番組「NHK文化シリーズ 生活の中の日本史 民謡紀行第二回江差追分」の中で、「オルティンドゥーがメロディーの動き方も、それから音階もリズムも全く江差追分と同じであり、馬頭琴という楽器を使うところや、小節の使い方も江差追分と似ていて、追分節の起源というものは、ひょっとしたら、モンゴルかツングースかチベットかわからないけれども、馬に乗って向うの方からきた人たちが歌っていたオルティンドゥーみたいなものではないか」との趣旨を述べている。(乙四)
(4) モンゴルとウラルとは地理的に隔たっており、また、歴史的にも民族的にも別個の文化圏に属する。すなわち、モンゴル高原で遊牧生活を営んだのはモンゴル系とトルコ系民族であるのに対し、古代におけるウラルの主要民族は、現代のハンガリーやフィンランド、エストニアの諸族にほぼ該当するフィノ・ウグール族であり、両者は、文化圏を異にする。
(5) 以上によれば、モンゴルとウラルとは、右(4)に述べたとおり、地理的にも異なっており、歴史的、民族的にも全く別個の文化圏に属するのであり、したがって、追分節ウラル源流説と追分節モンゴル源流説とは、それぞれ全く異なる独創的な見解である。また、原告の追分節ウラル源流説は、ウラルを軸とし、追分節の日本への伝播者を五世紀末のフン族と特定しているのに対し、長尾、小泉両説は、モンゴルを軸とし、追分節の日本への伝播者を、朝廷直轄の牧場が設置された八世紀の奈良時代に日本にきたモンゴル系の牧人としており、原告のウラル源流説とは、時代の隔たりが大きい。また、追分節のハンガリーへの伝播者は、原告の説では、五世紀以前のフン族であるのに対し、長尾説は、一三世紀のジンギスカンのヨーロッパ侵攻であり、小泉説は、九世紀のトルコ族の中央アジア、東ヨーロッパへの進出である。したがって、原告の追分節ウラル源流説と従前の追分節モンゴル源流説とは、この点からも実質的に異なる見解であるということができる。
(二) 他の文献との関係
 追分節と他の民謡との類似性について述べるものはあっても(乙一一五の1・2、一一六の1)、追分節と当該民謡との起源について、史実を踏まえて歴史的な事実と整合性のある仮説として述べるものは、本件小説発刊以前においては、本件全証拠によるも、右の追分節モンゴル源流説以外の説が存在することを認めるに足りる証拠はない。
4 本件小説刊行後の反響
(一) 本件小説については、平成元年五月一日の産経新聞夕刊、歴史読本同年七月号のコラムで好意的な紹介がなされているが、後者では、「追分節とウリ二つの曲がブダペストで発見されたが、それは葬送歌であり、日本の追分節も騎馬民族によりユーラシアのどこかから伝えられた葬送歌であるところ、二つの旋律がどうつながるか、フン族の伝説の王アッティラとその息子チャバの大海のほとりに帰ったとの伝説、八世紀の蝦夷の英雄阿弖流為」との内容紹介を行い、「大胆な仮説は歴史の闇から解放されない、民族の彷徨を描くロマン」との感想が述べられている。(甲三二、三三)
 また、サンデー毎日同年五月二一日号では、本件小説は、書籍の売行きの今週のベスト一〇でフィクション部門の九番目に紹介されるなどしている。(甲三四)
 さらに、原告は、平成元年六月、FM東京の「モーニング・ジャーナル」に、また、同年七月には、「FMさわやかスタジオ土曜日 朝のコラム」と題する番組に、それぞれ本件小説の著者としてゲスト出演し、本件小説が、追分節とよく似ているハンガリーの民謡とのルーツについて触れていることや、日本人の一派(東北地方を中心に住み着いた人達)とハンガリー人共通のルーツがウラル山脈だったことについての謎解きを試みたとの説明をしているが、前者の番組はFM東京で放送され、後者の番組は、FM群馬、FM岩手、FM山陰等で放送された(甲六四、六五の1・2、六六、六七)。さらに、原告は、平成二年四月一四日、FM群馬、FM長野、FM新潟放送の「FMサウンド・マップ」で本件小説の著者として出演し、同年九月二〇日には、文化放送、東海ラジオ、ラジオ大阪ほか放送の「ワールド・ホットライン」にも、本件小説の著者として出演している。なお、その番組の紹介文には、「ユーラシア大陸にいた民族が、ウラル山脈を境に西と東に分かれ、一つがハンガリー人、もう片方が日本人になったのだと思う。・・・ハンガリーにいくと、ひとの顔がとても日本人に似ている。・・・ヨーロッパの人々では考えられないほど日本人に近い。言葉や思想よりも音楽が民族のルーツをもっとも色濃く語る。・・・ハンガリーの民謡は日本の民謡やモンゴルの民謡に近い。ルーマニア国境地方のトープには、特に古い民謡が残り、明治期の追分節とは小節がそっくりだ。」との記載がある。(甲六八、六九)
(二) 本件小説については、後記四1(二)、(三)のとおり、被告NHKの国際局のAが、平成元年六月、追分節の起源を探ることを主たるテーマの一つとした本件小説を読み、また、当時東欧ではハンガリー経由でウィーンへの人口移動が激増しており、NHK解説委員の加藤雅彦から「ハンガリーをきっかけとした東西ドイツ統一の可能性」等の情報を得ていたため、原告の独創的な追分ロードの推理を第一主題、現在の各国の激動を第二主題とするドキュメンタリーを企画した。右企画は、函館局との共同製作で、NHKスペシャルとして提案されることになった(採択はされなかった。)。また、本件番組放映後には、後記四1(九)のとおり、原告の本件小説及び「北の波濤に唄う」の読者から被告NHKに対し、「本件番組の内容と本件小説とが極めてよく似ている」「原告の本を愛読している人なら、必ず「盗んだな」と思う。
」等の抗議の手紙が少なくとも三通送られており、後記(九)の手紙からも、原告ないし本件小説が読者から高く評価されていることが窺われる。
5 結論
 以上によれば、原告は、「北の波濤に唄う」を発表して江差追分についての伝説上の人物である座頭佐の市が実在したことを実証し、また、江差追分に挽歌、鎭魂歌としてのありようを見出して、読者から大きな注目を浴び、その後、江差追分に関するさまざまなエッセイ等を執筆した後、ハンガリーへ取材に出かけたことを契機として本件小説を著作して、追分節ウラル源流説という歴史的事実と整合性のある独創的虚構を小説という形式で発表し、これについても江差追分の起源について人々の関心を集め、社会的反響も呼び、その読者ないしは北海道を中心とした江差追分に関心を持つ人々から、江差追分の研究家として、そして、独創的な虚構である追分節ウラル源流説を提示した本件小説の著者として、高い評価を受けてきたものであると認められる。
四 被告らの行為によって、原告の名誉が毀損されたか。また、名誉毀損行為について被告らの責任はあるか、あるいは、違法性阻却事由が存するか。
1 本件番組の製作及び放送の経緯並びに本件番組放送後の反響と原告と被告らとの交渉の経緯
 以下の事実は、後記括弧内の各証拠により認められる。
(一) 原告と被告谷本との出会い
 原告は、昭和六〇年一一月、ハンガリー取材旅行に出発する直前、この旅行を企画した札幌テレビディレクター小山俊郎から被告谷本の名前を教えられ、同月二日、ハンガリー留学中の被告谷本の長女に現地での通訳を依頼するなど便宜をはかってもらうことへの挨拶として、札幌市内で谷本夫人と会食をした。
 原告は、ハンガリーにおいて、被告谷本の紹介でハンガリーの民族音楽の研究者三人(ヴィカール・ラースローほか二名)とブダペスト市内で面談した。
 原告は、帰国後の昭和六一年一月、札幌市内のホテルではじめて被告谷本に会い、「ハンガリー音楽小史」(ソボールツイ・ベンツェ著、被告谷本訳)を贈られ、ハンガリー旅行について雑談をした。
 原告は、昭和六二年夏から秋にかけて被告谷本にコダーイ・ゾルターンの研究やリスト作曲「ダンテソナタ」の旋律等について電話で問合せをした。
 原告は、昭和六二年一一月、本件小説の第一稿を書き、出版社に送る一方、被告谷本にそのコピーを送付し、気付いた点を指摘してほしい旨伝えた。被告谷本は、ハンガリー語の人名、地名の表記の誤りについて数箇所指摘し、「面白いですね」等の感想を電話で述べていた。
 原告は、昭和六三年二月、本件小説の第一稿を一部削除、加筆、再構成して、第二稿を完成し、平成元年四月に本件小説を発刊し、被告谷本と西ドイツ滞在中の長女に各一冊ずつ、本件小説を贈呈した。
((一)全体について、甲二二、原告第一回)
(二) 国際局の佐藤の企画
 被告NHKの国際局の佐藤は、平成元年六月、追分節の起源を探ることを主たるテーマの一つとした本件小説を読み、また、当時東欧ではハンガリー経由でウィーンへの人口移動が激増しており、NHK解説委員の加藤雅彦から「ハンガリーをきっかけとした東西ドイツ統一の可能性」等の情報を得ていたため、原告の独創的な追分ロードの推理を第一主題、現在の各国の激動を第二主題とするドキュメンタリーを企画した。佐藤は、右提案をする前に、前函館放送局長の鈴木昌之に函館局で過去に同様の提案がなかったかを聞いたところ、提案はないとの返答を得た。佐藤は、右提案をする前に、本件小説について原案者を確認する必要があると考えたが、原告とは連絡が取れなかったところ、同年七月二五日、被告NHKの元音楽部ディレクター成沢玲子の紹介で被告谷本と面談をする機会を得た。被告谷本は、本件小説における追分節とハンガリー民謡等との関連は、原告の独創である旨説明した(被告谷本一二六項)。佐藤は、さらに、日本ウラル学会理事深谷志寿ほか内外の多数の民族音楽研究家に会い、国会図書館で学術論文紀要、小泉文夫の著書、音楽事典等を調査し、原告の追分節ウラル源流説を公表した者が原告以外にはいないことを確認し、同年七月末に、国際局に「江差町で九月に江差追分全国大会が開かれること、ハンガリーで追分節と同じ旋律の歌の録音テープが発見されたこと、五世紀から六世紀にかけてユーラシア大陸では騎馬民族の大移動が起き、一つの旋律が西と東にさまよったこと、及びアルシュサミットの政治宣言を受け、ハンガリーに日本の自動車会社が初めて合弁事業を開くこと」等を題材とし、「さまよう旋律〜江差追分のルーツをたどる〜」という仮題のドキュメンタリー番組の提案(ラジオ日本スペシャル及びテレビ番組用の提案)を国際局内部で行った。
((二)全体について、甲四八、乙一四)
(三) 国際局と函館局のNHKスペシャルの共同提案
 国際局は、平成元年八月、函館局に対し、佐藤の前記提案の番組を函館局と共同製作でNHKスペシャルの番組として提案したい旨打診し、佐藤は、被告仁平に対し、本件小説の存在と被告谷本ほかの学者を教え、同月九日、同趣旨の書面とともにラジオ日本スペシャルへの提案書、被告谷本の履歴書等をファックスで送付した(甲四八、乙一二、一四、九七の1、被告仁平第二期日四〇、四一項、)。また、佐藤は、同年九月初めころ、太田に対し、韓国の民謡のテープを送付し、また、ハンガリーでの取材についての情報とハンガリーの労働歌の旋律が江差追分とほぼ一致することを伝えるとともに、平成二年夏にハンガリーの総選挙があるので、早期にハンガリーを取材するほうがよいという加藤雅彦解説委員の意見を伝えた。(乙九七の2、一〇二)
 佐藤は、平成元年九月中旬、北海道でイカ漁と江差追分全国大会を取材したが、その際、被告仁平との間で、本件小説を基にしたNHKスペシャル番組の共同製作、及び、世界追分祭のようなイベントを開くことが話題となった。(甲四八、乙一二、被告仁平第一期日五九ないし六二項、被告仁平第二期日一八ないし二八、一三七項)
 佐藤は、被告仁平に対し、平成元年九月二一日、右出張の礼とともに、加藤雅彦解説委員の名刺を添えて、ハンガリーの総選挙が平成二年六月の予定であることをファックスした(乙九七の三)。また、佐藤は、そのころ、被告仁平に、
被告NHKが昭和五八年にテレビ放送した「馬がはこんだ日本のうた」等の追分節に関する資料を送付した。(甲四八、乙三、被告仁平第二期日四二ないし四四項)
 佐藤は、平成元年九月二五日ころ、被告谷本に会い、世界追分祭への協力を取り付け、また、被告仁平も、同年九月末、被告谷本に会い、世界追分祭への協力を依頼してその承諾を得、その際、NHKスペシャルへ提案する番組への被告谷本の協力も取り付けた。(甲四八、乙一二、被告仁平第一期日二一ないし二四項)
 佐藤は、平成元年一〇月六日、原告と会い、NHKスペシャルへ提案する番組の企画を説明し、原告の承諾を得、本件小説が原告本人の独創であることを確認した。(甲二二、四八)
 被告仁平は、平成元年一〇月末ころ、被告谷本とともに、江差町当局に世界追分祭を提案し、被告谷本の協力も得られる旨話したところ、同町の賛成を得て、一年後のイベントに向けての準備が始まった。(乙一二、一〇二、被告仁平第二期日三三、三四項)
 太田は、平成元年一〇月下旬、被告仁平とともに、被告谷本に会い、被告谷本から、ハンガリー民謡とウラル民謡、モンゴル民謡との関係等NHKスペシャルへ提案する番組の参考になる事項を聞き、ハンガリー音楽小史」、「ハンガリーの民族音楽」、「民族接触」(北方言語・文化研究会編)を参考文献として紹介され、以後、太田は、被告谷本と何度も打合せをした。また、太田は、ノーボスチ通信社の鴨川和子から、ソビエト連邦のツアー自治共和国に江差追分や韓国の歌と似た歌があり、同国の中央音楽演劇場総支配人のムンズクが映画のデルス・ウザーラに出演したことがあり、現地の民謡を採譜し、その楽譜を沢山持っていることを聞き、さらに、お茶の水女子大学の徳丸吉彦に追分タイプの歌の見分け方や世界に広く追分タイプの歌が存在することから民族移動と追分タイプを直接結びつけるのが困難であること等を聞いた(乙一〇二)
 佐藤は、平成元年一一月七日、モンゴル作曲家協会のジャンサントロプと会い、同人の紹介でユネスコ・アジア文化センターでモンゴル民謡のテープを受領したが、その後、被告仁平の要請で、右テープを複製して函館局に送付した。本件番組中で、被告谷本が聞いているテープは、このテープである。(甲四八)
 佐藤は、平成元年一一月一六日、朝日新聞社内で原告と会い、番組の提案が通ったときに、原作者としてハンガリーに同行取材することを依頼し、原告は、これを快諾した。(甲二二、四八)
 太田は、平成元年一一月末、上京し、国際局の岡本、佐藤と会った。国際局の番組の提案書は、タイトルを「追分ロード一万キロ」とし、「ねらい」を「・・・来秋はそれに加え、江差町で初めての世界追分大会が開かれる。この大会には韓国、モンゴル、ソビエト、そしてハンガリーの歌手が参加し、いずれも追分に似た自国の歌を歌う。・・・ハンガリーは今東欧の激しい変化の波にもまれ世界の注目を集めている。・・・ブダペストの国立音楽学院で、民族音楽の権威バルジャス教授は古いテープに聞きいる。第二次大戦の戦没者墓地で老女が歌う挽歌だ。教授は江差追分と同じメロディーだと話す。・・・五世紀にユーラシア大陸で民族大移動が起きた。人々はウラル山脈のふもとから大草原を渡った。遊牧民の生活と経験に根ざした歌は、東は江差、西はハンガリーで脈々と形を変えながら生き続ける。この一万キロに及ぶ草原の道を、仮に追分ロードと名付けよう。時間と空間を越えた一つの旋律に寄せる人々の思いと、ユーラシア大陸に脈打つ感性を日本、ハンガリー、モンゴルを舞台に、メロディーを通して浮び上らせる。」とし、「取材、構成など」を「1 ニシンの消えた海 江差の秋は全国大会とともにやって来る。かって江戸にもないと謳われた江差の五月の賑いが、静かな町によみがえる。・・・」「2 ドナウの真珠 ・・・バルジャス教授はハンガリーの古い哀悼歌が江差追分と同じメロディーだという。韓国や日本の追分も別れの歌、鎮魂歌なのだ。・・・」「3 風渡る大草原 ・・・ソ連のマリ共和国にも同じ旋律の民謡がある。ハンガリー同様、大草原からフン族の通過した地だ。・・・風はユーラシア大陸の一筋の歌の道を吹き抜けていく。・・・」「4 地球の上に追分が流れる・・・今、世界各国の追分が日本の北海道の江差で、一つになって流れていく。」とするものである。(甲八)
 これに対し、函館局の番組の提案書は、タイトルを「彷徨える旋律〜追分ロード一万キロ〜」とし、「ねらい」を「かってユーラシア大陸を西へ東へとさすらった一つの旋律があった。・・・来年9月、この同じ旋律を歌う民族が初めて集まる「世界追分大会」が、北海道の江差町で開かれる。・・・北海道教育大学学長の谷本さんは、「はるか昔、ユーラシア大陸を疾駆した騎馬民族が、それぞれの追分を育んできた」と推測している。・・・(モンゴルの)遊牧民が馬にまたがり歌うオルティン・ドゥーというその歌は、まさに追分節そのものである。13世紀半ばにモンゴルの侵攻を受けたハンガリー。その首都ブダペストにも追分に似た民謡が残っている。第二次大戦直後、年老いた女が小さな墓石の前で歌っていたという悲歌(エレジー)である。谷本氏とともに追分の研究をしているヴィカール・ラスロー教授は、江差追分と同じメロディーだと話す。モンゴルの西北、ソ連のトゥワー自治共和国では遊牧民が追分に似た歌を歌い・・・さらにウラル山脈の西のマリ共和国にも同じ旋律が残っている・・・。歌が結ぶ一万キロにも及ぶ不思議なつながり・・・番組では、知られざる追分ロードの歴史を掘り起こしながら、「世界追分大会」で初めて明らかにされる、ソ連、モンゴル、中国、韓国、日本における一つの旋律に込められた民族の想いを描いていく。」、「取材、構成案など」を「1 第一回世界追分大会」「2 谷本学長の現地調査」「3 モンゴル族の大移動 ・・・歴史に残るモンゴル族の大移動は紀元4世紀に起きた。・・・その後13世紀にはチンギス・ハンが大帝国を築き、モンゴルはユーラシア大陸に大きな影響を及ぼした。」「4 ブダペスト悲歌 ラースロー教授は、ハンガリーの古い哀悼歌「シラトー」が江差追分と同じメロディーだという。別れの歌という点も日本の追分と共通している。・・・」「5 西シベリアに追分節が響く 長年、民族音楽を研究してきた谷本学長が今最も注目しているのは、まだほとんど知られていないソ連の少数民族の民謡である。中でも、マリ共和国と西シベリアのトゥワー自治共和国には追分と似た民謡が残っていることが最近わかった。・・・」というものである。(甲七)
 なお、この函館局の提案書のうち、「ブダペスト悲歌」は、本件小説の題名と同じであり、また、タイトルの「彷徨える旋律」は、本件小説の主人公が書いたことになっているノンフィクションの題名と同一であり、さらに、「ねらい」の冒頭の文章である「かってユーラシア大陸を西へ東へとさすらった一つの旋律があった。」は、本件小説の帯に記載されている冒頭の文章と同一である。(甲一)
 この函館局の案は、国際局の案を一部取り入れて作成したものではあるが、太田と佐藤が、この国際局の案と、函館局の案のどちらを提出するかで対立し、そのアドバイスを求めるために、NHKスペシャル事務局副部長の中田茂に会った。そして、事前に函館局だけが同人に提案書案を送付していたことがそのときに判明したこと等から、太田と佐藤とが対立し、国際局と函館局との共同製作の話は、いったんは暗礁に乗り上げそうになったが、その後、函館局と国際局とで調整して、前記函館局の案で同年一二月一日付けでNHKスペシャルとして共同提案をした。(甲四八、乙一二、九八、一〇二、被告仁平第一期日四九ないし五二項、同第二期日六四ないし七三項)
 函館局は、平成二年一月二五日、NHKスペシャルの提案が通らなかったときに備えて、北海道ブロック放送も準備しておくことも必要と考え、「北海道スペシャル」の提案として、「甦る絆〜世界音楽祭〜」との題名で、「ねらい」を「(江差追分の)ルーツを大陸に求めるならば、かってユーラシア大陸を東西に疾走した騎馬民族の旋律であると言われている。そのユーラシア大陸の旋律を現代に甦らせ、その絆を確かめ合おうという「世界音楽祭」が、江差町で・・・開催される。出席する音楽家と学者は、国内は勿論、ハンガリー・マリ共和国(ソ連)・モンゴル・中国・韓国からやってくる。」、「メモ」を「世界追分祭」「ハンガリーから日本を結ぶ一つの旋律 かって、ユーラシア大陸を東西へさすらった旋律を採譜し、その研究をフィールドワークとしている谷本教授とハンガリーのラースロー教授は、ハンガリーから日本を結ぶ一つの旋律が追分と同一のものと推測している。」「谷本一之教授 民族学者。特にアイヌの民族音楽、北方民族音楽の権威。NHKでは「北極圏」を始め、ハンガリー・ソ連等の海外取材では「民族学」の立場から、協力を仰いでいる。ウラル学会理事、日本ハンガリー友好協会副会長。今回の「世界追分祭」の委員長でもある。」との提案を札幌局に提出し、採択された。(乙一二、一五)
(四)本件番組製作の経緯
 本件番組は、前記北海道スペシャルの提案に基づいて製作されたものである。
 世界追分祭については、平成二年九月一五日の開催予定日をめざして、その準備が進められ、同年一月末には、ラスロー教授等招請する学者と歌手の候補が一部決まった。ただし、ハンガリーとモンゴルについては、学者や歌手の招請、民謡を録音したテープの入手も容易であったが、ウラル山脈については、現地で民謡の取材ができるのかどうか、また、学者や歌手が江差に来られるのかどうかとの問題があった。そのため、被告谷本は、平成二年一月末から、北方民族の民族音楽調査のためソビエト連邦へ出張した際に、民族音楽学者のゼムソフスキーに江差追分に似た民謡がウラル地方を中心とした地域にあるのかどうかを調べてもらうよう依頼した。なお、太田は、佐藤に対し、同年一月二九日付けの手紙で、世界追分祭の準備の進捗状況と被告谷本のソビエト連邦出張について連絡をした。(甲五二の1,2,乙一二、一〇二、被告仁平第二期日八八ないし九五項)
 しかし、国際局と函館局のNHKスペシャルのための共同提案は、平成二年二月不採択となった。佐藤は、同年二月一〇日、朝日新聞社を訪れ、原告に対し、右提案が保留になったことを報告した。
 函館局は、平成二年三月、ゼムソフスキーから届いたバシキール、タタール、カザフスタン等の民謡のテープを聞いて、バシキールの民謡が、メロディーやクーライの伴奏が最も追分に似ていることから、海外取材の焦点をバシキールに決めた。(乙一二、一〇二)
 なお、原告は、平成二年四月一一日、世界追分祭の実施計画書を入手したところ、NHK放送計画として、平成二年一一月三日NHKスペシャル「彷徨える旋律〜追分ロード一万キロ〜」とあったが、「彷徨える旋律」は、本件小説の中の主人公が書いたことになっているノンフィクションの題名であり、また、原告が無断で世界追分祭の実行委員会役員の参与とされていたことから、江差町当局に抗議と事情説明を求めて電話をしたが、参与とは名前だけのものとの説明があったため、参与を引き受けることにした。佐藤は、右の件について、江差町商工観光課長浜谷一治に電話で問い合わせ、佐藤から話を聞いた広報室主幹鈴木昌之も、被告布川に電話で問い合わせたところ、後日、原告に説明に行くとの話であった。被告仁平は、四月中旬、原告を訪問し、約三〇分面談したが、被告仁平の説明の趣旨は特に明確なものではなかった。(甲一一の1・2、二二、四八、乙一一二、原告第一回七八ないし八〇項、被告仁平第二期日一一八、一一九項)
 太田は、バシキール取材の前に、東大の山内昌之氏から話を聞き、バシキールとタタールとは、民族的にフィンウゴールとトルコが混血したうえに、一二〜一三世紀にモンゴルと混血しているが、その中でもトルコ系の影響が強く残っていること、ユーラシア大陸を有機的につなげ、まとめたのがモンゴル帝国なので、バシキールに追分につながる小節が残っていても不思議ではないこと、一九八七年にタタール民族大アンサンブルという歌舞団が来日したが、その歌は追分のこぶしに似ているなどの説明を受けた。また、太田は、同年六月中旬、追分節の名人青坂満に会い、先祖が苦労して江差に来て、その苦労の想いを伝えるのが江差追分である、大陸各地に江差追分に良く似た歌があるとすれば、先祖が流れて今の土地に辿り着く苦労を歌にしたらたまたま同じ旋律になったんじゃないだろうか等の話を聞き、流転を続ける民族の悲しい歴史が共通の歌を生んだとの観点も取り入れて本件番組を製作しようと思った。(乙一〇二)
 函館局の太田とカメラマン一名は、同年六月三〇日から八月七日まで、モンゴル、バシキール、ハンガリー及びルーマニアのトランシルバニア地方を四〇日かけて取材し、これらの地の民謡や楽器(モンゴルの馬頭琴、バシキールのクーライ)等を録取し、バシキールでは、馬が生まれ東西に散っていったという伝説のあるヤルカ・サッカン湖、二万年前の馬の壁画等を取材し、また、取材と合せて世界追分祭出席者に会い、趣旨説明や招請状の手交、演奏曲目、日程の確認を行った。なお、太田は、同取材中にハンガリーのカタリーン女史に聞いたところによると、江差追分とハンガリーの古い民謡は、構造上は良く似ているが、同じ旋律の民謡を探すのは難しいということであったので、トランシルヴァニア地方を訪れたが、そこでも古い民謡に出会うことはできなかった。(甲三、乙一、五、一〇二、検甲一)
 函館局は、平成二年八月九日、バシキールでの取材が成功したことから、バシキールでの取材と世界追分祭を柱にした全国放送の秋期特集の番組の提案をし、同提案は、八月末に採択されたが、右提案は、その題名を「遥かなるユーラシアの歌声〜追分ロード一万キロ」、「ねらい」を「ユーラシア大陸にかって民族から民族へ伝えられ、歌い継がれた歌がある。谷本学長は、「遥かな昔、ユーラシア大陸を往来した遊牧民族が、互いに交流しながらそれぞれの追分を育んできた。」と推測している。谷本さんは、この旋律の原形は、ウラル山脈のふもとで生まれたと推定している。アジアとヨーロッパの境に位置するウラル山脈は、かってこの山を越えて東と西の民族が出会う交流の場であった。バシキール自治共和国で、今も遊牧民が歌う民謡の調べは、まさに追分節の源流がここで生まれたことを思わせる。9世紀、東方の民族の圧迫を受けたこの地域の原住民は現在のハンガリーへ移動した。この時、歌も一緒に伝わったのではないかと言われている。一方、東西を疾駆して民族の移動を促したモンゴル系の騎馬民族は、13世紀に大陸を統合してモンゴル帝国を築いた。その結果、ユーラシアの歌・追分も西から東へ一万キロにわたって伝わっていったのである。」、「取材・構成など」を「1 第一回世界追分祭、2 新説「追分ロード」(谷本学長はソビエトやモンゴルの民謡の比較研究を長年続けてきた。その結果、追分節型の民謡はウラル山脈で生まれ、やがて東西に伝播していったのではないかという「追分」ロード説が生まれたのである。)、3 ブダペスト悲歌(ラースロー教授は、ハンガリー民謡の五音音階の形は、バシキール地方に起源があるという。ハンガリーの農村で歌い継がれているこれらの民謡は、江差追分と非常に似ている。)、4 ウラル山脈に追分節が響く(バシキール共和国の民謡が追分節と同じ構造であることが、谷本学長やヴィカール教授の研究で明らかになった。)、5 騎馬民族が追分節を運んだ(一三世紀にチンギス・ハンが史上最大の大帝国を築いたが、この騎馬民族の大移動が「追分ロード」をユーラシア全土に広げたと考えられている。)」とするものであった。(甲六、乙一二、一一二)
(五) 世界追分祭前の国際局と函館局とのやりとり
 佐藤は、平成二年八月、函館局の北海道スペシャル及び全国放送・秋期特集への提案を知り、国際局の岡本幸雄に知らせたところ、岡本は、同月中旬ころ、被告布川に、NHKスペシャルへの共同提案は不採択になったが、共同提案した経緯があるのだから、函館局が秋期特集への提案を出す際には連絡してほしかった旨の電話をし、被告布川は、秋期特集は、NHKスペシャルの共同提案とは内容や構成が異なるので、事前の挨拶はしなかった旨返答した。(甲四八、乙一一二)
 また、佐藤は、同年八月二九日付けで、被告NHKのC札幌放送局長に対し、次の趣旨の手紙を送付した。(乙一一二、一一三)
「函館局の秋期特集への提案は、自分が平成元年七月に国際局で提案した原案と題名、趣旨、構成、内容とも同一で、世界追分祭も自分が最初に提案したものであり、その実施に函館局の協力を得た方がよいとの岡本幸雄の助言で、NHKスペシャルに共同提案し、保留になった。自分は、原提案を作成する際、被告谷本ほかに取材し、特に原提案のきっかけとなった追分ロードの可能性を発案した原告に会い、原案者としての原告の立場を尊重するという条件で番組化の了承を得た。
NHKスペシャルの提案が保留になった際、被告仁平は、岡本幸雄に、全国放送に再提案する際は国際局との共同提案として提出すると約束したのに、函館局は、単独提案し、岡本幸雄が被告仁平に釈明を求めたが誠意ある回答は得られなかった。原告は、函館局長に、「朝日新聞の記者はNHKの番組と関係がない。」と言われ、原案権を否定されたと言っている。函館局は、自分が接触するまで追分ロードの説を知らなかったこと、秋期特集の題名や内容が自分の原提案と同一であることから、原告の原案によることは明らかである。現時点では、自分は提案を函館局に一方的に剽窃されたという思いがある。共同提案を途中から無断で単独で提出し、しかも最初に追分ロードの可能性を考えた原告の原案権を無視して被告NHKに対する不信感を抱かせたことは、人間の信義に反し、オリジナリティを尊重するという文化の根源にかかわる問題である。しかし、国際局は、通常テレビ番組を作成していないので、このようなトラブルに対しての対応に慣れていない。そこで、国際局庶務部長の経験があり、かつ、今回の秋期特集への提案の責任者である永井札幌放送局長の判断を仰ぎたい。」
 永井は、佐藤の右手紙を受けて、函館局にその内容を伝え、事実調査して佐藤に説明するよう指示し、また、佐藤が海外出張中であったため、国際局の佐藤の上司に、函館局に対応させる旨佐藤に伝えるよう連絡したが、佐藤の上司からの国際局と函館局で話をするので任せてほしいとの申出により、両局に任せることとした。(甲一三)
(六) 世界追分祭の開催
 世界追分祭前々日の平成二年九月一二日の新聞記事では、函館局「ではこの夏、三九日間にわたる海外取材を敢行し、「中央アジアで生まれた歌が西はハンガリーに入り、東はウラル山脈を越えモンゴルを経て日本に伝わった」という谷本説が間違いないという確証をつかんで帰国した」等の記事が報道された。
 そして、平成二年九月一四日から一五日にかけて、江差町で世界追分祭が開かれた。
 被告谷本は、世界追分祭のパネルディスカッションの冒頭で、江差追分は、「モンゴルの歌なんかと関係があるのではないか、さらにモンゴルだけでなく、その先ユーラシアの草原を風が吹き渡るようにマジャール族の住むハンガリーにまでその関係は及ぶのではないかと、いろいろな人に言われてきています。最近では木内宏さんが書かれた小説「ブダペスト悲歌」のなかでもこのことが扱われています。まだ読まれていない方にはぜひ読んでいただきたいと思います。」と、本件小説について紹介し、続いて、江差追分のルーツについて、「当然古ければ古い方が先に生まれている訳ですからひょっとすると元歌というようなことにも話が及ぶかもしれませんが、私はそこまでの予想はしておりません。」とし、まとめとして、「ある方向を定めないことには道の始めでためらっているだけで、何もしない、出来ないということになります。ある方向、つまりこの場合には追分スタイルの歌を持っている民族が連なっていることが確認できれば、次にはそれらの関係を手繰っていくという方向に向かうことになるのではないかと思います。この種の問題はすぐに白黒がつけられる訳ではありません。時間をかけじわじわやっていくうちにしだいに物が見えてくるというものだろうと思います。」と述べている。
 また、同音楽祭で講演した小島美子は、「民謡の伝播には偶然的な要因が強く働く・・・そして今、私たちにとって必要なことは、江差追分に代表される追分様式の民謡の系譜、ルーツを探るということではないだろうか。・・・これは私の推測というよりロマンといった方がいいような想像だが、この追分様式の歌が日本に持ち込まれたのは、・・・少なくとも6世紀以前ではないかと思っている。今ここにおいでの外国のお客様方がご紹介下さった追分に似たメロディの古代の形がもしわかるなら、それらを比較したときに、この追分の系譜の解明も現実のものになるのではないだろうかと思う。」と述べ、少なくとも現段階において科学的に追分節のルーツが解明されているわけではないことを前提にして、その意見を述べている。さらに、ラースロー教授も、同音楽祭に寄稿した論文において、五音音階の構造を持った民謡がモンゴル、バシキール、ハンガリーに見られること等を述べているが、追分節との類似性やその起源がどこであるかについては全く触れていない。
 またさらに、東京芸術大学教授拓殖元一は、同音楽祭におけるパネルディスカッションにおいて、「つまるところ少なくとも五つ位の可能性がある訳ですから、表面的に音楽がよく似て聞こえるからといってすぐにルーツがここだ、あそこだというふうに結論づけるのは控えねばならないと思います。ただ、そういうことを言ってしまいますとロマンがなくなってしまい、我々の研究の楽しみもなくなってくるわけです。」と述べ、また、国立民族学博物館教授藤井知昭も、同パネルディスカッションにおいて、「追分のルーツという言い方を仮にしていますが、このルーツは多くの場合に永遠の謎であり、学問の中にロマンを持ち込むためには非常にいい課題であると思います。ルーツはそういう意味で考え続けた方が、これからいろいろ議論が膨んでいって面白いと思います。」と述べている。
 なお、被告谷本は、右報告書中の「OIWAKEシンポジウムを終えて」と題する寄稿文の中で、「「追分スタイル」では「ハンガリー・バシキール・モンゴル」という関係がもっとも強いつながりとして浮び上がってきます。問題はこういう地理的分布、つまり空間をどうやってその伝播過程の先後の関係、つまり時間へ転換させるかということですが、同心円的な地理的分布とかその同心円の中心に位置する場所での濃さ、さらには技巧の洗練度等から、バシキール・タタール地方を追分スタイルの拡散の中心とするのは、目下の知見の枠の中では妥当な見解と言えると思います。」として、追分スタイルの歌のルーツをバシキール・タタールに求める旨を記載しているものの、世界追分祭開催前の平成二年九月一一日付けの北海道新聞夕刊に「歌のシルクロードに期待するもの」と題した文を寄稿し、その中で、追分節とモンゴル民謡との類似性やハンガリー民謡とマリ民謡とのつながりについて触れたうえで、「目下のところはロマンティックな仮説にとどまっているユーラシアの平原を縦断する「追分ロード」、「歌のシルクロード」を検証しようというのが、
この・・・「国際民族音楽シンポジウムの」の狙いである。」と記載して、ユーラシアの平原を縦断する追分ロードをロマンティックな仮説と述べている。また、被告谷本は、世界追分祭が開催された後の毎日新聞(日付け不明、乙五の末尾から二丁目表のもの)のインタビュー記事において、「「追分のルーツはどこだ」ということを軸に第一回を開くことになったんです。・・・シンポは、それぞれ追分タイプメロディーが「似ている」ことを前提に、単に直感だけでなく、科学的に確かめてみようと論議しました。その結果、どこが源か分からないけれども、追分スタイルの帯があるんじゃないか。一つはハンガリーからウラル山脈を越え、カザフスターン、モンゴル、中国の東北部、日本海沿岸、そして江差と。隣り合った民族が、重なり合いながら、追分タイプの歌を途切れさすことなく持ち続けている。追分ロード、歌のシルクロードと呼べるのではないか。元歌は今のところ分からないが」と述べており、ここでは、追分節に似た歌がユーラシア大陸の各地に存在していることは述べられているが、そのルーツがどこかは分からない旨を述べている。
 また、「江差・世界追分祭 報告書」に掲載されているその余の講演、論文、パネルディスカッションにおける発言の中でも、追分節の起源がどこであるかを明確に述べたものは、見当たらない。
 さらに、平成二年九月一八日付けの北海道新聞の社説において、「江差追分のルーツ探しに期待」と題して、「肝心のルーツについては、むろん一度で結論の出るような話ではないが」と記載したうえで、被告谷本の「ハンガリー、中央アジア、そしてわが国との間で「追分の帯」があるという仮説に自信を深めた」との談話を載せている。
 ((六)全体について、甲六一、六二、乙五)
(七) 原告と被告NHKとの交渉の経緯
 被告NHK札幌放送局長の永井は、平成二年一〇月、函館局の番組の正式発表があった後に、佐藤から同年八月の手紙に対する返答が欲しい旨の手紙を受け、函館局及び国際局に対し、早く対応するよう指示したが、函館局からは、番組提案は北海道内の大学教授の指導を受け構成を検討しているものであり、国際局担当者には再度説明するとの連絡を受けた。
(甲一三、四八)
 原告は、平成二年一〇月八日、佐藤から函館局製作の「遥かなるユーラシアの歌声」が同月一八日に放送されるとの知らせを受け、同月一二日付けの手紙を、札幌放送局長の永井に対し送付したが、右手紙の要旨は、次のとおりである。(甲一二、二二、四八)
 「佐藤からの連絡で、函館局製作の「追分ロード一万キロ」が全国放送されることを知った。右の番組は見てないのでその内容の詳細は知らないが、本件小説の著作権を侵害している恐れが大きく、何らかの手立てを講じない場合、後々問題がこじれると思う。原告は、平成元年秋、佐藤から本件小説を原作として番組を作りたいとの話があり、原則として承諾したが、数カ月後、佐藤からあの話は延期してほしいとの連絡があった。函館局の番組については、佐藤や番組の試写を見た者たちから、「明らかに原告の作品の著作権の侵害している」との話があった。それによると、番組の構成から、一見して、それが本件小説から着想し、本件小説を原案として番組作りをすすめたことは明瞭だということである。また、佐藤が本件小説をもとにNHKスペシャル候補として提案した企画案とも構成、編集両面でほとんど同一であり、この点でも剽窃していると聞き、非常に驚いた。原告も、うすうす感じていたが、それは、平成二年二月、江差町役場から送られてきたシンポジウム計画の中に、NHK企画として、本件小説の中で主人公が書いたことになっているノンフィクションのタイトルと同じ「彷徨える旋律」と題された番組があるのを見て、目を疑ったことがあったからである。これはどういうことかと函館局に照会したところ、慌てて取り下げたことがあった。いずれにしても、番組のコンセプトが本件小説を下敷きにしていることは、本件小説の読者であれば一目瞭然となるはずである。一一月三日の全国放送前に、早急に事実調査を進めて、速やかに適切な措置をとることを希望する。原告がこの手紙を書いたのは、何よりも自作の名誉のためであり、
名誉の持つ意味は極めて重い。」
 札幌放送局長永井は、原告に対し、平成二年一〇月一五日付けの返書で、同年夏に佐藤から手紙を受け取って以降の自分の行った指示等を簡単に説明するとともに、原告の手紙の内容はすぐに函館局に伝え、これまでの経緯を聞くとともに、関係者に早急に事情を説明するなどの措置をとるように函館局に要請したので、原告にも函館局の責任者が説明すると思う旨を記載して、これを送付し、原告は、同月一七日、右返書を受領した。(甲一三、二二)
 函館局は、世界追分祭でのシンポジウムの後、バシキール等での取材の結果をまとめ、被告谷本と協議をしたうえで、本件番組独自のメッセージとして、バシキールを追分節のルーツとすることに決めた。すなわち、函館局は、追分節のルーツがウラル地方(バシキール)にあると本件番組において明示することをこのときに初めて決めたものである。函館局は、その後、平成二年一〇月一一日、本件番組の編集を終了した。(乙一〇二、被告仁平第一期日七二ないし七四項、同第二期日九六項)
 被告仁平は、平成二年一〇月一六日、朝日新聞社の原告に電話をし、面会を求めたが、原告の都合で、二一日に改めて面談の日時を決めることになった。(甲二二、乙一一二)
 被告NHKは、平成二年一〇月一八日、本件番組を北海道において放送した。
(八) 本件番組の内容
 本件番組の内容の概略は、前記第二、一3に認定したとおりであるが、追分節ウラル源流説と密接に関連する部分は次のとおりである。
 本件番組は、北海道教育大学学長の被告谷本を番組のコメンテーターとして出演させ、被告谷本のコメントとナレーション、及び、ハンガリー、バシキール、モンゴル等への取材により、江差追分の起源に迫ろうとしたものであるところ、その内容は、(1)追分節と類似の曲が、騎馬民族の影響を受けた日本、韓国、中国の東北部、内モンゴル、モンゴル、そしてソビエトのカザフ共和国、バシキール、さらにハンガリー、ルーマニアまでユーラシア大陸に帯のように存在し、一万キロに及ぶ追分ロードがある、(2)被告谷本は、二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた、(3)バシキールにも追分に似た歌がある、(4)追分ロードの東の端が日本であるのに対し、西の端がハンガリーであるとの考えは、被告谷本が三〇年にわたってユーラシアの民族音楽を研究する中で、ハンガリーのエルディ地方(トランシルヴァニア)の不思議なメロデイー「兵士の歌」に出会ったときに生まれたものであり、ハンガリーの東洋的なタイプの民謡は、騎馬民族がもたらしたものである、すなわち、四世紀にはフン族、九世紀にはウラルからマジャール族がヨーロッパへ侵攻し、一三世紀にはモンゴルが大帝国を築き、ハンガリーにも影響を及ぼしている、(5)被告谷本は、ウラル山脈がアジアとヨーロッパを分ける場所であること、バシキールの民謡が素朴であることからすると、ハンガリーから江差までの一万キロの追分ロードの中心は、ウラル地方であり、そこから追分タイプの歌が東西へ伝わっていったといってよいと考えている、(6)ウラル山脈の山奥に、馬の群れが現われて、東西へ散っていったという伝説の湖があるが、この湖の源にある洞窟の馬の絵は、馬と暮らす人間は別れの悲しみを一つの歌に託し、その歌がやがてユーラシア大陸の各地へと伝わっていったとの空想へと駆り立てる、(7)ユーラシア大陸、東西一万キロ以上に及ぶこの大陸に、かって民族から民族へ伝えられ、時代を超えて歌い継がれてきた素朴な民の歌があるが、大地の無限の広がりと、人々の孤独を歌うその歌は、今も各地で歌われている、というものであり、原告の本件小説については何の言及もしていない。
(九) 一般視聴者の具体的な反応
(1) 棚橋孝子(江差町在住)は、平成二年一〇月一九日(本件番組が放送された日の翌日)、永井札幌放送局長宛に手紙を出したが、その中で、「本件番組を見終わって後味の悪いやり切れない思いがした。原告の作品又は著者の紹介がなされなかったことに強く疑問を感じた。世界追分祭の発案者は、原告だと思っていたが、パンフレットにも名前はなく、シンポジウムにも出席してなかった。
原告の本件小説を読んで本件番組を視聴したものは、本件番組が原告の著作を参考にして製作されたものであるということを強く感じる。そうであるならば、著作権法に基づいて著作者の承諾を得、著作物の出所を明示しなければならない。原告とは面識がないが、江差と江差追分を多くの人々に紹介してくれた氏に対し、江差の住人として申し訳ないと思う。本を読んだ周りの者も放送で何も紹介されなかったのはおかしいと言っていた。」という趣旨を記載していた。(乙一六の1)
(2) 木村淳子(江差町在住)は、平成二年一〇月一八日付けの札幌放送局長宛の手紙で、「本件番組を見ているうちに、追分のルーツについての大胆な仮説が原告の本件小説と「北の波濤に唄う」の二つの本に述べられているところと、極めてよく似ていることに気付いた。本件番組で提示された仮説の根拠を明示するのが、そのような知識やヒントを与えてくれた先達の業績、努力に対する最低限の礼儀であると思われるが、本件番組はその点についての配慮がされていない。」という趣旨を述べている。(乙一六の2)
(3) 大野喬子(札幌市中央区在住)は、平成二年一〇月一九日付けの札幌放送局長宛の手紙で、「本件番組を見て非常に疑問に思った。本件番組で説明されている追分の起源は、原告の「北の波濤に唄う」に詳しく記載されていることであるし、ハンガリーで追分にそっくりな録音を見出し、トランシルヴァニアに訪ねて行くというのは、原告の本件小説とそっくりである。これは、原告の二冊の本を読んでいる人間なら誰でも持つ感想である。参考文献として原告の本を使用したなら、番組の中でそれなりの断わりがあるべきであるし、他人のルポや小説にヒントを得てそっくりそのまま作るというのは感心しない。原告の本を愛読している人なら、必ず「盗んだな」と思う。」と述べている。(乙一六の3)
(4) 阿部幸市(故人・元札幌市中央区在住)は、新聞記事への投書が縁で原告と知合い、その後二度直接会ったことのある間柄であるが、平成二年一一月四日の原告宛の葉書で次の趣旨を書いている。(甲五四)
 「NHK函館の江差追分の源流のテレビを見た時、当然この番組の編成には木内さんが参与していると思っていました。例の小説の内容と殆ど同じ個所がいくつもあり、予て源流の話をおききしていたからです。ところが昨日の道新で悶着のあることを知りました。どうか最後まで筋を通して下さい。」
 原告は、この葉書をもらってすぐに阿部に電話で事情を説明したところ、阿部は、「テレビを見終わった時は、なんだ木内さんの源流説は、谷本さんの受け売りだったのか、と思いました。なにしろ北海道で札教大の学長の権威は大変なものですよ。そういうこととは知らず、誤解して悪いことをした。」と話していた。(甲五四、原告第二回一三ないし一六項)
(5) 原告の長男が通っていた札幌の市立中学校のPTA役員だった女性は、原告の自宅に電話をしてきて、平成二年一一月七日付け北海道新聞で、被告谷本がハンガリーの勲章を受けたとの記事と、本件番組の全国放送も中止になったとの記事も新聞で読んだうえで、「リポーター役の先生は、大学の学長でそのうえ外国で勲章までもらった人であるから、原告がいくら自分の説だと言い張っても誰だって偉い先生のいうことの方が正しいと思う。仕方がない。」という趣旨のことを語った。(原告第二回八、九項)
(6) 本件番組を見て、原告が被告谷本の仮説を本件小説で借用したとの印象を持ったことを、直接原告に対し伝えてきた視聴者はいなかったものの、原告は、原告と親しい江差町の人から間接的に原告に対する幻滅感や不快感を述べる者が多いことを聞いている。
((1)ないし(6)全体について、甲五六、原告第二回)
(一〇) 被告布川の本件返書の送付行為
 被告布川は、本件番組の視聴者三名(前記棚橋、木村、大野)から、それぞれ手紙で本件番組と原告の本件小説との関係について前記のような疑問が提出され、その説明を求められたため、被告仁平の意見を聞いたうえで、平成二年一〇月二二日付けで、「今回の番組は、北海道教育大学学長で、民族音楽学者の谷本一之先生の学問的推論をもとに制作したものです。谷本先生は、長年ユーラシア大陸の民族音楽を収集、研究され、追分節と良く似た民謡がユーラシア大陸の1万キロにわたって広がっていることに気付かれ、ルーツは1つではないかという仮説をお持ちになって来ました。私どもの制作スタッフは今回の番組をつくるにあたって、早くから谷本先生にお会いし、先生の推論の内容やその根拠等をくわしくうかがい、そのもとで1年間にわたる取材を開始しました。ご指摘の木内宏さんの著書にも同じテーマが取扱われているとのことですが、これは木内さんも、谷本先生の推論を聞き、そこからヒントを得て書かれたのではないかと思われます。つまり木内さんは先生のお話をもとに本を書かれ、私どもは先生のお話をもとに事実を追究したドキュメンタリー番組を制作したことになります。」と記載した本件返書三通を右視聴者三名に対しそれぞれ発送している。
 なお、被告NHKの永井札幌放送局長も、前記木村に対し、同月二二日付けの返書で、「番組は函館放送局のスタッフが北海道教育大学の谷本学長のご研究をもとに当学長の直接のご指導を仰ぎながら取材制作したものときいております。木内氏の著作との関連についてご指摘がありましたが、小生、残念ながら読んでおりませんのでコメントできず申し訳なく存じます。ただ、私どもの職員から聞いたところでは木内氏も当学長の研究発表や学長からの取材でヒントを得られるなどして本をまとめられたのではないかときいております。いずれにしましても番組の制作責任者からくわしくご説明させるのが適当と存じますので、ご指摘の内容を伝えました。」と記載している。
 前記棚橋は、同月二四日、朝日新聞社に勤務中の原告に直接電話をかけてきて、「原告の「北の波濤に唄う」を読んで以来、原告の熱心な読者になったが、本件番組と本件小説があまりに多くの共通点を持つことに疑問を感じ、永井札幌放送局長宛に照会の手紙を出したところ、被告布川の「本件番組は、北海道教育大学の谷本先生の研究をもとに、先生の直接の指導を得ながら取材制作したものである、原告も谷本先生の推論を聞き、そこからヒントを得て本件小説を書いたと思う」との回答の書簡を得て、原告の本件小説の出所は被告谷本なのかと思い、非常にがっかりした。」との電話をしてきた。
 (以上につき、甲一〇の1・2、二二、三五及び三六の各1・2、五七の1・2、被告仁平第二期日一二〇ないし一二二項)
 また、本件返書は、本件番組の視聴者三名に対し、発送されたものであるが、三通とも、原告の小説の読者、あるいは原告を講師として招いた読書サークルの人たち等を経て、原告の手元に届けられたものであり、このように本件返書は宛名人の三名以外の人々に広く伝播されているものである。そして、このようにして、本件返書を読んだ人たちは、被告NHKの説明に虚偽はないと信じている者が多く、原告は、個人的に可能な範囲でこれらの人たちに直接電話をする等の手段により、原告の追分節ウラル源流説が独創的なものである旨を説明する等の努力をしたが、その説明をした相手に限っても原告の言い分を信用してもらうことは困難な状況であった。(甲五六、原告第二回四四ないし五二項)
(一一) 本件番組放送後の交渉
 被告仁平は、平成二年一〇月二一日の原告との電話で、いったんは同月二三日に原告と朝日新聞社で会うことになったが、原告が多忙であることから、函館局の考え方、製作の経緯をファックスで送って欲しい旨を申入れてきたので、同月二二日、原告に対し、次の内容のファックスを送付した。(甲一四、二二、乙一一二)
 「函館局は、本件小説をもとにNHKスペシャルの番組を共同製作しようとの国際局の提案を受けて、被告谷本とも相談していたが、その結果、江差町の協力を得て、各国の民謡歌手、学者を招いて世界追分祭を開催し、北海道スペシャル「甦る絆〜世界追分祭〜」という番組も提案することになった。右提案は、国際局との共同提案とは、別な内容の提案である。その後、国際局と共同提案した「彷徨える旋律〜追分ロード一万キロ〜」はNHKスペシャルの選考に落ちた。世界追分祭実行委員会発足のとき、右共同提案は不採用となったので、掲載しないように江差町に伝えていたのに、江差町が原告のもとに送った文書に「彷徨える旋律」等の記載を載せてしまった。函館局は、モンゴル、ハンガリー、ルーマニア、バシキールの海外ロケを行い、函館局の提案に基づく本件番組を製作した。また、函館局は、右北海道スペシャルを全国放送提案として提出し、平成二年八月末に正式採択されたのが「遥かなるユーラシアの歌声〜江差追分のルーツを求めて〜」である。本件番組の内容は、被告谷本の学問的推論として、ハンガリーから日本にいたるユーラシア大陸各地の追分節を紹介したもので、本件小説の内容とは異なっている。本件小説は小説であり、自分たちが一年がかりで被告谷本と協議しながら作った本件番組は、事実を基にしたテレビドキュメンタリーである。ハンガリーには、本件小説に描かれたような追分節に似た民謡はない。本件番組の核心は、原告も取材しようとした、ハンガリーの民族的ふるさとともいえるウラル山脈のふもとのバシキール自治共和国で見つけた江差追分のようには洗練されていない素朴で飾り気のない追分節である。本件番組は、被告谷本の学問的推論を基に、被告NHK独自の長期で広範囲にわたる取材を通して製作したドキュメンタリー番組で、これまでの推論や学説を実証し、更に推し進め得たと思っている。」
 原告は、平成二年一〇月二三日、本件番組のビデオを入手し、また、前記のとおり、同月二四日、棚橋から、「本件番組を見た感想を札幌放送局長宛に手紙を書いて送ったところ、被告布川から、原告が谷本先生の推論を聞き、そこからヒントを得て本件小説を書いた旨の手紙を受領した」旨の電話を受けた。(甲二二、乙一六の1、原告第二回一一項)
 原告は、右のような経緯から、平成二年一〇月二五日、被告NHK島会長に対し、全国放送の中止を求める次の内容の手紙を送付した。(甲一六)
 「 本件番組を見て、本件番組が本件小説及び「北の波濤に唄う」の著作権を著しく侵害し、原告個人の名誉を傷つけていることが明らかになったので、一一月三日の全国放送を中止するよう求める。
 本件番組の核心は、江差追分のルーツをウラル山脈地方に求めることができるという仮説である。本件番組では、この仮説を立てたのは北海道教育大学学長の被告谷本とされ、ナレーションでは、被告谷本を「二〇年来、江差追分のルーツの謎にとりつかれた研究者」と紹介している。しかし、ウラル山脈を江差追分のルーツとする仮説は、本件小説で原告がひとりの作家としての創造力と調査に基づいて着想し、構想を練り上げたうえで展開したもので、それ以外に同じ推理を公表した具体的な研究論文、小説、ノンフィクションも今日まで存在しない。小泉文雄のように、ユーラシア大陸に追分節の仲間が広く分布するとの一般的な見解を発表した学者はいるが、少なくともウラル山脈に焦点を当て、古代フン族の民族移動などにまで触れて仮説を立てた研究者はいなかった。
 被告谷本は、アイヌ音楽とエスキモー音楽のすぐれた研究者であり、ハンガリー、ソ連などに多くの民族学者の友人を持つ尊敬すべき先達であるが、江差追分に関しては少なくとも「とりつかれた」人物とはいえない。本件番組製作者は、それを承知で被告谷本の誤った人物像をでっちあげ、あたかも被告谷本が仮説を立てたかのごとく付託し、それによって無理やりに番組製作を成り立たせようとしたものと考えられる。このことは仮説のオリジナリティーを有する本件小説を、そっくり被告NHKが剽窃したことにほかならない。自作の名誉を重んじる原告としては、断じて看過できない。
 なお、函館局放送部長が、視聴者に対し、「あの仮説は原告が谷本教授の話から得たものだ」と回答しているが、これは全く虚偽の作り話である。
 本件番組のプランが本件小説の発刊直後から動き出したこと、江差世界追分祭実施計画書に、NHK放送計画としてNHKスペシャル「彷徨える旋律〜追分ロード一万キロ〜」とあり、本件小説の中で主人公が書いたことになっているノンフィクションのタイトルが使われていることからも、本件番組が本件小説から栄養分を盗みとり、仮説まで奪っていることが明らかである。
 本件番組の江差町に関するナレーションは、九月の追分大会に昔日の復活を視る視点等、原告の「北の波濤に唄う」の文章を盗作したものである。
 一一月三日の放映を中止する以外に、NHKの権威と品位を守り、一作家・ジャーナリストの名誉を回復し、谷本一之教授の立場を守ることは不可能である。」
 被告布川は、その後、被告谷本の仲介もあって、被告布川から、原告に対し、番組の終わりに「協力 木内宏」というテロップを入れることで納得できないかとの打診をしたが、原告は、小手先のごまかしは論外だとして、右提案を拒否した。(甲二二、乙九九、一一二、原告第二回一八ないし二一項)
(一二) 全国放送前のマスコミ等の報道
 被告NHKは、前記第二、一7のとおり、本件番組をもとにした全国放送のために、新聞社向け宣伝資料(平成二年一一月三日放送予定分)において、次の(1)のとおり記載し、被告NHK発行のステラ一一月九日号において、次の(2)のとおり記載し、新聞雑誌を通じて、被告谷本の追分ロード説に基づき、モンゴル、ソ連、ハンガリーで取材が行われ、本件番組が製作されたこと等を全国放送前に宣伝広告した。
(1) 「民謡・江差追分はユーラシア大陸各地の民謡と深いつながりがあるとする仮説に基づいて、先月、北海道の江差町で「世界追分祭」が開かれた。大会を提唱したのは北海道教育大学の谷本一之学長。彼の、日本からハンガリーまで一万キロに及ぶ追分ロード説に従い、取材班はモンゴル、ソ連、ハンガリー各国で一か月半にわたって取材を続けた。谷本さんが追分のルーツと考えるソ連の秘境、ウラル山脈の奥地にも初めてカメラが入り、伴奏の楽器までが尺八そっくりの民謡を発見した。東西一万キロの歌の旅路には何が隠されているのか。ユーラシア大陸をさすらった一つの旋律をめぐって、歌とそこに住む人々との関わりを探る。」
(2) 「民謡・江差追分は、ユーラシア大陸各地の民謡と深いつながりがあるという、北海道教育大学の谷本一之学長の仮説に基づき、世界追分祭が開かれた・・・谷本学長のたてた、ハンガリーから日本までの一万キロにおよぶ、追分ロード説に従ったモンゴル、ソ連、ハンガリーでの取材は一か月半におよんだ。谷本学長が追分のルーツと考える、ソ連のバシキール自治共和国にも初めてテレビカメラが入った。バシキール人の暮らすウラル山脈の秘境の地には、尺八そっくりの楽器で伴奏する民謡が存在していた……。」
(一三) 全国放送の中止とその後の江差町の状況
 函館局製作の平成二年一一月三日放送予定の秋期特集の全国放送は、その直前に中止された。
 原告が被告NHKに対し、前記のとおり、本件番組が原告の本件小説についての著作権を侵害する旨を内容証明郵便で抗議し、被告NHKが本件番組を再編集したものを全国放送する予定であったのを中止した結果、江差町の役場の職員や江差追分会の人々の間では、(1) 原告は、谷本先生の研究を小説に盗作していながら、自分が盗作されたと騒いでいるらしい、けしからんやつだ、(2)原告が被告NHKに対し抗議をしなければ、全国放送が実現した、とんもないことをしてくれた、という風評が広まった。
 原告は、これまで親しくしていた江差町の知人らに対し、何度も電話で説明したり、手紙を書いたが、役場職員や江差追分会関係者をはじめとして町民の多数は、被告NHK側の言い分を信じており、原告の説明に対して耳を貸すものは少数にすぎず、原告に対し、幻滅感や不信感を持つものが多く、平成三年の江差町住民から原告に対する年賀状の数も激減した。
 原告は、これまでに、江差追分の取材や江差町の人々との交流を図るため、自費で何度も江差町を訪問してきたが、本件紛争が表面化した後は、江差町を訪問することが極めて困難な状況になり、近いうちに江差追分に関するライフワークともなるべき作品を発表しようと考えていたが、江差追分に対する情熱も日々に萎えていく現状にある。
((一三)全体について、甲五六、原告第二回一一項、二三ないし四三項、五五ないし七二項)
(一四) 全国放送中止後の被告布川のコメント及び原告と被告NHKとの交渉
 全国放送中止後に、マスコミに掲載された被告布川のコメントは、次のとおりである(前記第二、一9)
(ただし、右コメントが被告布川の発言を正確に記載したものかどうかについては、被告らはこれを争っている。)。
(1) 北海道新聞(平成二年一一月三日付け)
 「さまざまな学説がある中、番組を作り上げ、オリジナルという点では自信がある。
しかし、クレームがついた以上、検証する時間が必要であり、三日の放映は見送った。」
(2) 週刊新潮(平成二年一一月一五日発行)
 「木内氏にお断りしなかったのは悪かったが、あれは参考文献のワンオブゼムに過ぎない。盗作だなんてとんでもない。中止ではなく、いずれ内容を手直しして放送したい。」
 原告は、平成二年一一月二日及び一四日付けの手紙で、被告NHKの島会長に対し、全国放送が中止に至った経緯、判断根拠を明確に説明すること、並びに、本件番組のビデオテープの廃棄、及び、NHKのテレビ放送での謝罪、新聞でのお詫び広告により、その作品についての名誉を汚され、著作権を侵害されたことに対する救済を求めたが、被告NHKは、同月二一日付けの函館放送局長伊藤政美の手紙で、原告の著作権侵害の主張には承服できず、その要求には応じられない旨返答した。
 原告は、その後、平成三年一月一〇日、被告NHK及び被告谷本に対し、原告の代理人弁護士名により前同様の内容の内容証明郵便を送付し、これに対し、被告谷本は、同月二二日付けで同代理人弁護士名により、「追分タイプの歌がウラル地方から各地に拡がったという考えは、民族音楽学会における一般的知見に属することであるし、著作権侵害の事実もない。」旨を書面で返答しており、また、被告NHKも、著作権侵害等の原告の主張に対し種々反論した。原告は、同年二月八日付けの内容証明郵便で、その代理人弁護士を通じ、それぞれ被告NHKと被告谷本に対し、「本件番組において、二〇年来江差追分のルーツの謎解きにつかれた研究者としての谷本が、「江差追分のルーツはソ連ウラル地方に求めることができ、日本には騎馬民族の移動によってもたらされた」との仮説を提示したが、右仮説は、原告が本件小説において創造し、展開したものであり、本件小説以前に、右仮説を展開した文獻は存在しない。本件番組及びそのナレーションは、原告の本件小説及び「北の波濤に唄う」の著作権を侵害するものであるので、本件番組のテープの廃棄、原告への謝罪文、原告の名誉回復のための適切な措置を講じること」を要求し、被告NHK及び被告谷本は、
同月二二日付けの内容証明郵便で、その代理人弁護士を通じ、原告の要求には応じられない旨返答し、双方の主張は並行線であったため、本訴に至っている。(以上につき、甲一八ないし二〇、二二、二三及び二四の各1・2、二五、二六、二七及び二八の各1・2、二九、三〇)
2 本件番組の内容の真実性について
 次に、本件番組の内容が真実であったのか、また、真実ではない部分があるとして、その部分が原告の名誉を毀損する結果になったのか、さらには、被告らにおいて真実ではない部分の内容が真実であると信じるについて相当の理由が存在したのか、との問題について判断する。
(一) 追分節のルーツについて
(1) 追分節のルーツがウラル地方に求められることは、民族音楽学会における一般的知見か。
 本件番組は、北海道教育大学学長である被告谷本を「二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分が一つの絆で結ばれているとの思いを持ち続けてきた学者」として登場させ、その被告谷本の仮説として、江差追分の起源はウラルのバシキールであると述べさせ、そして、本件番組のバシキール取材の結果、江差追分と類似の歌が同地に存在することが確認されたというものであり、江差追分と類似の歌がモンゴル、ウラル、ハンガリー等に存在し、また、その江差追分の起源は、ウラル地方のバシキールにあることを主題とするドキュメンタリー番組である。本件番組は、右のとおり、被告谷本の右仮説が民族音楽学会における一般的知見であるとまで述べてはいないが、被告谷本は、前記のとおり、その代理人弁護士が本件番組放送後に原告に対し返答した内容証明郵便において、「追分タイプの歌がウラル地方から各地に拡がったという考えは、民族音楽学会における一般的知見に属することである」と記載し、また、被告らは、本訴において、同様に、右の考え方は、民族音楽学会における一般的知見に属する旨を主張して争っている。
 そこで、第一に、江差追分の起源がウラル地方ないしバシキールにあるとの学説が民族音楽学会において存在しているのか、あるいは、そのような考え方が同学会における一般的知見であるのかについて、次に検討する。
 まず、前記三3(一)のとおり、追分節のルーツについては、追分の源流である小室節の発生の地は信州であること、さらに、モンゴルのオルティンドゥーと日本の追分との類似性と、奈良時代に多数の国営牧場(勅使牧)が信州に作られたことと、日本の馬が蒙古種であることから、蒙古から馬を運んできたモンゴル人がモンゴルの歌を日本に伝えそれが追分になったのではないかとの追分節(小室節)モンゴル源流説がある(乙三、四、四〇、九〇、一〇三)。
 また、前記四1(六)のとおり、追分節と類似性を有する歌が、東は日本、西は、モンゴル、ウラル、ハンガリーまで点々と存在しているとの有力な意見は存在している(乙一〇三)。しかし、次の(2)に述べるとおり、そもそもハンガリーに追分節と同じタイプの民謡が存在するかどうかについてすら、これを否定的に解するハンガリーの有力な専門家の意見もあるのであり、まして、類似する歌が存在するということと、歌の起源とは全く別の問題であり、類似する歌が存在することから単純に歌の起源が同一であることを推論することはできないのであり、前記四1(六)のとおり、世界追分祭のシンポジウムや講演、論文を見ても、追分節の起源がどこであるかを明確に述べているものはほとんどなく、むしろ、追分節の起源については、その立証は困難であり、現在のところ不明であるといわざるを得ず、その起源がウラルやモンゴルにあるという仮説については、ロマンチックな仮説という評価しかなされておらず、今後の研究課題であるという意見が圧倒的に多い(前記1(六)、原告第一回三六項、五六項)。
 また、前記四1(六)において述べたほかにも、小島美子は、被告NHK発行の「人間大学」1994年1月●3月号において、「日本では、追分タイプの民謡とモンゴルのオルティンドー(長い歌)といわれる民謡のタイプが似ているというので、オルティンドーに追分のルーツを求める説がかなり広がっている。しかし、内蒙古の音楽史の研究者は、オルティンドーや民謡音階が広がったのは、ジンギス・ハーン以後であるという説も唱えている。まだ、断定は早すぎる。……こういう民謡音楽を伝えた人々はだれなのか。江上波夫氏の壮大な騎馬民族征服説にのって、この騎馬民族がもってきたと考えると、これはまことに大ロマンに展開していく。しかし……そう考えるにはいろいろ問題がある。」としている。(甲五九)
 さらに、被告谷本自身も、その本人尋問の中で、追分節のルーツがウラル地方であるという学説上の見解や一般的知見はないことを概ね認めているのであり(被告谷本九四ないし九六項、一一六、一一八項)、昭和五二年六月一七日付けの北海道新聞夕刊においても、「系譜」と題して、北海道のあるラジオ局が「江差追分のふるさとはモンゴルかー江差追分源流考」というタイトルの番組を放送したことについて、その番組が「追分節とモンゴル民謡との類似性と騎馬民族説に着目して、追分、信濃追分ーモンゴル民謡ーハンガリ民謡という関係を追跡した気宇壮大なものであるが、放送で取り上げられたモンゴル民謡は追分によく似ているが伝統的なものとは違っている」ことを指摘し、「モンゴル民謡ーハンガリー民謡というのも有名ではあるが、ロマンチックな仮説というのが現状である」旨を記載しており、また、本件番組が放送された後のライオンズクラブの機関誌平成三年二月号においても、追分節のルーツというのは難しいものであり、これはあくまでもロマンチックな仮説であり、騎馬民族渡来説といっても詳しいことはわからないのであるから、ルーツはどこかということについては、今はこだわらないようにしている旨述べている(甲六三)。
 したがって、追分節ウラル源流説は、民族音楽学会における一般的知見とはいえないことは明らかであり、さらに、追分節の起源については、本件小説発刊以前には追分節モンゴル源流説があったのみであり、また、これも単なる仮説であり、学術的に立証された学説は存在しない。
(2) ハンガリーに追分節と同じタイプの民謡が存在するか。
 本件小説における追分節ウラル源流説も、本件番組における被告谷本の仮説も、ともに追分節と同じタイプの民謡がハンガリーにも存在していることをその前提として展開されていることは前記のとおりである。
 被告谷本及び国内の専門家は、これを肯定する者が多いが(甲六三、乙五)、本件番組のハンガリーの取材においても、追分と類似のタイプの民謡を発見できなかったことは、前記四1(四)認定のとおりであり、また、国際的に見ると、例えば、ハンガリーの国立民族音楽主任のヴィカール・ラースローは、「@追分に近いタイプはモンゴル民謡であるが、ヨーロッパにはこれと対(パートナー)になるようなものはない。Aハンガリーとボルガ地方の民謡とは類似性が認められるものの、その類似性が同じ時代に発生したものか、同じ場所から出てきたものかの証明は困難である。B民謡のルーツを決めることは簡単なことではなく、それを証明することは非常に困難である。C前記谷本の仮説については、追分タイプの歌がどのようなものであるかもわからない。ハンガリーの民族音楽には、追分のようなたくさんの種類の装飾をもった歌は存しない。谷本仮説は、現時点の資料と記録からは十分に説得力を持ち得ない。D追分タイプの歌とハンガリーの民謡を同じタイプの歌ということはできない。」と述べており(甲四九、乙一八の1・2(甲四九のインタビューについては、乙一八の1・2の抗議の手紙がきているが、その手紙の抗議内容からして、甲四九の記載内容の信憑性に疑いを持たせるものとまでは認められない。以下同じ。))、ハンガリーの民族音楽と追分が同じタイプの歌といえるかどうかについてすら、否定的な意見を提示しているのであり、まして、ハンガリーの民族音楽と追分のルーツの同一性については全くわからないことであり、学会における一般的知見ということはありえない旨を述べているのである。
 なお、ハンガリー人の発生地は、ウラル山脈の地域であるといわれており、ハンガリー人の歌う葬送歌は、シベリアのオスチャークやヴォグール、ノーガイ・タタール族、アナトリア・トルコ族、バスキリ族などの旋律と共通するものであり、ハンガリー民族音楽の痕跡にアジアの痕跡がひそみハンガリー民族音楽と古代東方文化圏とが深いつながりを持っていることは、学問的に研究が進められてきているが(乙一一、四一、五二、六一)、ハンガリーの民謡とウラルの民謡との間に類似性があるからといって起源が同じということが直ちにはいえないことは当然であり、両者の起源が同一かどうかについても、その学問的な証明はなされていないとの有力な意見も存在する。(甲四九)
(3) 結論
 以上(1)、(2)によれば、追分節の起源については、学会の一般的知見は存在しないのであり、また、追分節の起源をウラル地方に求めることについては、有力な学説すら存在しないものであり、本件小説発刊後の現在においても、追分節の起源をウラル地方に求めることは、単なるロマンチックな仮説でしかなく、仮に、追分節と類似の歌がバシキールに存在することが本件番組の取材により確認されたとしても、類似の歌が存在することから追分節の起源をその歌が存在する地にあると合理的に推論することはできないのであり、右のような取材から追分節の起源がウラル地方のバシキールにある可能性が高いことをドキュメンタリー番組において実証することはそもそも困難な状況であったと認められる。
(二) 被告谷本は「二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分が一つの絆で結ばれているとの思いを持ち続けてきた学者」であるか。
 被告谷本は、二〇年以上も前からハンガリーやルーマニアの民族音楽の研究者であるとともに、アイヌ音楽、エスキモー音楽等の北方民族の優れた研究者でもあり、それらの分野に関する著書、訳書は多いし、テレビ番組にも出演している(前記第二、一1(三)、乙六、八、一一、一九の1・2、二〇、二一の1ないし6、二三の1ないし3、六一、六八、七六、九四、九五。なお、乙六七では、被告谷本は、アイヌの泣き歌とハンガリーのシラトー(葬送歌)の共通するものを今後検討することが重要である旨を述べている。)。しかし、江差追分については、昭和四五年ころ以降、渡島半島の芸能の研究を行ったり、昭和六二年ころ、北海道教育委員会の委嘱を受け文化庁の全国民謡緊急調査の一環である「北海道の民謡緊急調査」の中で、労作歌、祭り歌、祝い歌、踊り歌、舞踊、座興歌など日本民謡四〇七曲、アイヌ民謡二六三曲を収録した中で、追分タイプの民謡の調査を行ったことはあるが、追分タイプの歌を専門の研究領域としていたわけではない。したがって、被告谷本は、多数の著書がある中で、特に追分タイプの歌についての著書があるわけではないし、本件番組以前の被告NHKの江差追分関係の番組に出演したこともなく、また、江差町で毎年開催されている江差追分全国大会に出席したこともないのである(甲四七、五五、乙三、四、六、九九、一〇一、被告谷本五四ないし五七項、六四、六七項)。
 なお、被告谷本は、前記四2(一)(1)のとおり、昭和五二年六月一七日付けの北海道新聞夕刊においても、「系譜」と題して、北海道のあるラジオ局が「江差追分のふるさとはモンゴルかー江差追分源流考」というタイトルの番組を放送したことについて、その番組が「追分節とモンゴル民謡との類似性と騎馬民族説に着目して、追分、信濃追分ーモンゴル民謡ーハンガリ民謡という関係を追跡した気宇壮大なものであるが、放送で取り上げられたモンゴル民謡は追分によく似ているが伝統的なものとは違っている」ことを指摘し、「モンゴル民謡ーハンガリー民謡というのも有名ではあるが、ロマンチックな仮説というのが現状である」旨を記載し、追分節の起源を探ることについては、むしろ冷淡な見方をしているのである。
 むしろ、被告谷本は、「本件番組は、被告谷本の仮説に基づいて製作されたというものではない。被告谷本は、本件番組の製作者でも監修者でもなく、情報提供者の一人であり、本件番組は、むしろ、被告谷本の仮説というよりも、被告NHKの意図により製作されたものである」旨、その本人尋問において述べているのであり(被告谷本七六ないし七九項)、追分節のルーツをウラル地方に求めるということは、被告谷本が相当年数以前から考えてきたことではなく、前記四1(七)のとおり、世界追分祭終了後、被告谷本と協議のうえ、函館局が決定したことなのである。
 また、被告谷本は、前記四1(六)のとおり、世界追分祭のパネルディスカッションでは、江差追分のルーツについて、「当然古ければ古い方が先に生まれている訳ですからひょっとすると元歌というようなことにも話が及ぶかもしれませんが、私はそこまでの予想はしておりません。」とし、まとめとして、「ある方向を定めないことには道の始めでためらっているだけで、何もしない、出来ないということになります。ある方向、つまりこの場合には追分スタイルの歌を持っている民族が連なっていることが確認できれば、次にはそれらの関係を手繰っていくという方向に向かうことになるのではないかと思います。この種の問題はすぐに白黒がつけられる訳ではありません。時間をかけじわじわやっていくうちにしだいに物が見えてくるというものだろうと思います。」と述べながら、右報告書中の「OIWAKEシンポジウムを終えて」と題する寄稿文の中で、「バシキール、タタールを追分スタイルの拡散の中心とするのは、目下の知見の枠の中では妥当な見解と言えると思います」との趣旨を唯一述べてはいるものの、同じころの新聞のインタビューにおいては、追分節のルーツは、今のところわからない、目下のところはロマンチックな仮説にとどまっている趣旨を述べている。そして、被告谷本は、前記(一)(1)のとおり、本件番組が放送された後のライオンズクラブの機関誌平成三年二月号においても、追分節のルーツというのは難しいものであり、これはあくまでもロマンチックな仮説であり、騎馬民族渡来説といっても詳しいことはわからないのであるから、ルーツはどこかということについては、今はこだわらないようにしている旨述べているのである。
 以上によれば、追分節のルーツについては、実際は、学会における定説もなく、また、被告谷本も江差追分の専門家でもなかったため、この点について従前から確固たる考えをもっていたわけでもなく、函館局が本件番組において追分節のルーツをウラルのバシキールと表現しようとしたのは、函館局が本件番組を企画し、バシキール等を取材した結果、その取材の成果を踏まえ、被告谷本とも協議のうえ決定したものであり、被告谷本は、それを被告谷本の仮説として本件番組において述べたにすぎないのである。よって、函館局が、本件番組において、二〇年来江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分が一つの絆で結ばれているという思いを持ち続けてきた学者である被告谷本が、相当以前から追分節のルーツがウラルであると考えてきたように表現している部分は、もはや脚色の域を超えたものであり、虚偽であるといわざるをえない。
 追分節のルーツについては、前記のとおり、現在のところロマンチックな仮説が存在するだけで立証困難な問題であり、これについて追分節のルーツがウラル地方のバシキールにある可能性が高いことをドキュメンタリー番組において実証することは、そもそも困難なことであったのであるが、本件番組は、追分節のルーツがウラル地方のバシキールにあることをドキュメンタリー番組のメインテーマの一つとしたことから、被告谷本を二〇年間江差追分に取り付かれ、江差追分とユーラシアの歌との絆を思い続けてきた学者であるとしてナレーションで紹介し、その被告谷本の仮説に基づいてバシキールを取材して追分節と類似の民謡が存在していることを確認し、その仮説の確認作業を一歩前進させたとの構成を取ったものと推認される。しかし、本件番組における被告谷本に関する右のナレーションの部分は、前記のとおり虚偽の内容であり、そして、本件番組中の右の虚偽の部分により、原告の本件小説についての名誉を毀損した結果になったことは次に述べるとおりである。
3 本件番組の放送及び被告布川の本件返書その他により原告の名誉が毀損されたか。
(一) 本件番組の放送と原告の名誉毀損
 本件小説は、追分節の起源については、前記三2のとおり、「追分節とウリ二つの葬送歌がハンガリーの国立音楽アカデミーで保存されいる録音テープの中に存在していること、及び、その葬送歌は一五〇〇、一六〇〇年前位からウラル山脈周辺に居住しているオスチャークやヴォグール(ハンガリー人と同系の少数民族)によって今も歌い続けられていること、また、ハンガリーへは当初はフン族により伝えられ、後にはウラルからハンガリーに移住していったマジャール族によって今日まで歌い継がれてきたこと、そして、日本には、五世紀末ころ、アッティラの死後にチャバに率いられ東方へ移動したフン族と当時もウラルに居住していてそれに合流したオスチャークやヴォグールやマジャール族等の民族によって伝えられ、フン族と右の各民族によって右のとおり日本に伝えられたとの事実については、八世紀ころ蝦夷の英雄として活躍した阿弖流為についての続日本紀中の記載によってその歴史との整合性のある説明が可能になること、そして、追分節とハンガリーの右葬送歌は、一五〇〇、一六〇〇年前までは一つの曲であり、ウラルにおいてオスチャークやヴォグール、マジャール族、フン族によって歌われていた」ことを記述しているものである。
 また、追分節のルーツについては、前記三3及び4のとおり、そのルーツをモンゴルに求める説はあるが、そのルーツをウラルに求める説は、本件小説発刊前は存しなかったものである。
 これに対し、本件小説発刊の翌年に放送された本件番組においては、前記のとおり、「北海道教育大学学長の被告谷本を番組のコメンテーターとして出演させ、被告谷本のコメントとナレーション、及び、ハンガリー、バシキール、モンゴル等への取材により、江差追分の起源に迫ろうとしたものであるところ、その内容は、(1)追分節と類似の曲が、騎馬民族の影響を受けた日本、韓国、中国の東北部、内モンゴル、モンゴル、そしてソビエトのカザフ共和国、バシキール、さらにハンガリー、ルーマニアまでユーラシア大陸に帯のように存在し、一万キロに及ぶ追分ロードがある、(2)被告谷本は、二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた、(3)バシキールにも追分に似た歌がある、(4)追分ロードの東の端が日本であるのに対し、西の端がハンガリーであるとの考えは、被告谷本が三〇年にわたってユーラシアの民族音楽を研究する中で、ハンガリーのエルディ地方(トランシルヴァニア)の不思議なメロデイー「兵士の歌」に出会ったときに生まれたものであり、ハンガリーの東洋的なタイプの民謡は、騎馬民族がもたらしたものである、すなわち、四世紀にはフン族、九世紀にはウラルからマジャール族がヨーロッパへ侵攻し、一三世紀にはモンゴルが大帝国を築き、ハンガリーにも影響を及ぼしている、(5)被告谷本は、ウラル山脈がアジアとヨーロッパを分ける場所であること、バシキールの民謡が素朴であることからすると、ハンガリーから江差までの一万キロの追分ロードの中心は、ウラル地方であり、そこから追分タイプの歌が東西へ伝わっていったといってよいと考えている、(6)ウラル山脈の山奥に、馬の群れが現われて、東西へ散っていったという伝説の湖があるが、この湖の源にある洞窟の馬の絵は、馬と暮らす人間は別れの悲しみを一つの歌に託し、その歌がやがてユーラシア大陸の各地へと伝わっていったとの空想へと駆り立てる、(7)ユーラシア大陸、東西一万キロ以上に及ぶこの大陸に、かって民族から民族へ伝えられ、時代を超えて歌い継がれてきた素朴な民の歌があるが、大地の無限の広がりと、人々の孤独を歌うその歌は、今も各地で歌われている」というものである。
 原告の追分節ウラル源流説と被告谷本が本件番組で述べた追分節のルーツがウラルのバシキールであるとの説とは、右に見たとおり、どちらも追分節のルーツがウラルであるとの基本的な考え方において同一である。そして、これをさらに分析すれば、被告谷本がその根拠とするところ、及び、被告谷本が、一三世紀のモンゴル大帝国についても触れていること等異なる点があることも認められるが、追分節と似た民謡が、西はウラル、ハンガリー、東は日本にまで存在することから追分節のルーツを探求し、そのルーツをウラル地方と推定していること、追分節と類似の歌が四世紀のフン族の移動によりハンガリーに伝搬されたと述べていること、追分節がユーラシア大陸において、騎馬民族により民族から民族へ伝えられていったことなど、追分節のルーツについて、従前の見解には見られない独創的なアイデアにおいて類似している部分が多いことも事実である。
 また、本件小説と本件番組とが追分節のルーツに関する考え方において類似している部分が多いという点は、前記のとおり、本件番組放送後に被告NHK宛に投函された前記棚橋、木村、大野三名の一般視聴者の手紙のいずれにおいても強調されていることからも明らかである。
 そして、本件番組は、その番組の内容や信頼性に関し国民の間で高い評価を得ている被告NHKが、モンゴル、バシキール及びハンガリー等を取材して製作したドキュメンタリー番組であり、しかも、そのコメンテーターである被告谷本も北海道教育大学学長であって、本件番組中で、二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた学者として紹介され、その考えとして、追分節と類似の曲がハンガリーやウラルに存在し、そのルーツがウラル(バシキール)に求められると述べていることからすれば、追分節と類似の曲がハンガリーやウラルに存在し、そのルーツがウラル地方に求められるとの考え方は、民族音楽学会における被告谷本らの有力な学者の仮説として相当以前から存在し、それが今回の被告NHKのバシキール取材によりその確認作業が一歩前進したものと理解した視聴者が相当数存在していたであろうことも容易に推認できるところである(被告谷本の代理人弁護士が原告に対する内容証明郵便で、本件番組における追分節のルーツがウラル(バシキール)であるとの説は学会の一般的知見である旨を述べており、本訴においても同様の主張をしていることは前記のとおりである。)。
 したがって、本件小説と本件番組間に追分節のルーツについての独創的なアイデアについて前記のような類似性があるが故に、本件小説の読者で、その後に本件番組を見た視聴者の中には、原告の本件小説に記載されていた追分節ウラル源流説は、本来極めて独創的な虚構ないし仮説として高く評価されていたものであったのに、本件小説は、単に、民族音楽学会における被告谷本のような有力な学者の仮説を利用して記述されたにすぎないものであると誤解し、本件小説における追分節ウラル源流説という独創的な虚構ないし仮説の故に原告の本件小説を高く評価していた者の中には、原告に対し少なからず落胆や幻滅を感じ、その評価を低下させた者も相当数存したであろうことは、容易に推認することができる。現に、前記1(九)(4)ないし(6)の阿部幸市や原告の元へ電話をしてきた女性のように、原告よりも被告NHK又は北海道教育大学学長の被告谷本の方を信用した者が少なからずいたことは、右事実を実証するものである。
 以上によれば、本件番組は、真実に反し、「北海道教育大学の学長である被告谷本が、二〇年前から江差追分に取り付かれ、江差追分とユーラシアの歌とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた学者が、相当以前から、追分節と類似の曲がハンガリーやウラルに存在し、そのルーツがウラル地方に求められると考えていたものであるところ、今回の被告NHKのバシキールの取材により、ウラルに追分節と類似の民謡が存在することが確認された」と表現しているものであり、これは、前年に発刊された原告の本件小説と本件小説における江差追分のルーツに関する独創的な仮説を高く評価していた人たちとの関係に限定して述べれば、追分節のルーツがウラルであるという考え方は、民族音楽学会における有力な見解であり、原告の本件小説における追分節ウラル源流説は、何ら原告の独創的なものではなく、単に被告谷本のような有力な学者の仮説を元にしたものにすぎないものであることを間接的に表現したものと同視できるのである。したがって、被告らは、北海道で本件番組を放送したことにより、主として北海道において、原告の本件小説を読み、原告の本件小説における追分節のルーツについての独創的虚構を高く評価している人々との関係で、原告に対する右評価を低下させたものであり、原告の名誉を毀損したものと認められる。
(二) 被告布川の本件返書の送付行為と原告の名誉毀損
 被告布川は、被告NHKの函館局の放送部長という重責にあるところ、本件番組放送直後の一〇月二二日付けの本件返書において、「本件番組は、被告谷本の学問的推論をもとに制作したものであること、原告の著書にも同じテーマが取り扱われているが、原告も被告谷本の推論をもとに本件小説を書いたものである」旨を明言している。そして、本件返書は、前記のとおり、前記三名に対し発送された後に、三通とも様々な人の手を通して原告の元へ届けられ、その間に右三名以外の人々に直接又は間接的にその内容が広く伝播されていったであろうことは容易に推認されるところ、右のような被告NHKの責任ある地位に立つ者が断定的に記載した右の手紙が北海道、特に江差町や札幌周辺の一般の人々に対し与えた影響力はかなり大きかったものであることが認められる。すなわち、本件番組を見て、原告が被告谷本の学問的推論をもとに本件小説を書いたと思った者はもちろんであるが、本件番組と本件小説との関係について直ちにそのようには判断しなかった者や、逆に被告NNKが原告の本件小説を参考にして本件番組を製作したのではないかと疑っていた者までも、被告NHKに対し一般人が持っている高度の信頼感及び被告布川の函館局放送部長との地位からみて、被告布川の本件返書を読めば、本件番組における被告谷本の学問的推論と原告の本件小説における独創的仮説との関係を本件返書のように解釈する者が増えたものであることは容易に推認されるところである。現に、原告の著書の熱心な読者であり、本件番組放送直後は、被告NHKが原告の本件小説を参考にしたと考えていた前記棚橋までもが、本件返書を受領した後は、原告の本件小説の独創的仮説の出所が被告谷本なのかと思い、非常にがっかりした旨を原告に対し電話で述べてきたことは前記のとおりである。
 しかし、前記三1(四)及び四1(一)ないし(三)認定の事実、及び、証拠(甲二二、四八、七一、被告谷本一二六項)によれば、原告は、これまで江差追分について調査研究してきた知識、素養に加え、ハンガリーへ取材旅行をしたことから、本件小説の構想を得て、独自に本件小説を執筆したものであり、本件小説執筆前に、被告谷本から追分節のルーツについて何らかの教示ないし示唆を受けたことは全くないのである(乙九五、九九は採用し得ない。)。
(三) (一)と(二)のまとめ
 以上によれば、追分節ウラル源流説は、原告が本件小説において初めて述べた歴史的整合性のある独創的虚構であるのに、右棚橋のように原告の本件小説等の熱心な読者であった者も含めた相当多数の視聴者が、本件番組の放送及びその直後の被告布川の本件返書の送付行為により、本件小説において述べられている追分節ウラル源流説(あるいは、追分節と類似の曲がハンガリーやウラルに存在し、その起源がウラル地方に求められるというようなよりシンプルな考え方)は、何ら原告の独創的虚構ではなく、原告は単に民族音楽学会における被告谷本らの有力な学者の仮説を参考として、あるいは、被告谷本の仮説に基づいて本件小説を記述したにすぎないと考えるに至ったものと推認することができ、本件番組の放送及び本件返書の送付行為は、原告が右のような追分節ウラル源流説という歴史的整合性のある独創的な仮説を本件小説において表現したとの原告についての前記社会的評価を低下させ、原告の名誉を毀損したものであると認めることができる。
(四) 新聞社向け宣伝資料等と原告の名誉毀損
 全国放送前の被告NHKの新聞社向け宣伝資料やステラ一一月九日号には、前記のとおり、日本からハンガリーまで一万キロに及ぶ追分ロード説があるとの被告谷本の仮説に基づき取材が行われ、本件番組が製作されたこと、及び、被告谷本がバシキールを追分節のルーツと考えていることが記載されているのであるが、全国放送用の新聞社向け宣伝資料は、被告谷本が「二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた」学者であるとの記載は特になく、被告谷本がいつごろから追分節のルーツがウラル地方であるとの考えを有していたかを明記するものではない。ただし、新聞社向け宣伝資料は、本件番組の放送後、一一月三日の全国放送までの間、すなわち、被告布川の本件返書又はその記載内容が江差町民等を中心に広く伝播されていったころにマスコミで報道されたものであるから、本件番組の放送と被告布川の本件返書に記載された内容を漠然と補強する効果を有していたことは推認される。しかし、右の記載は、いずれも単に追分節のルーツがウラル地方であるとの被告谷本の仮説に基づいて取材が行われ本件番組が作成されたことを述べるにとどまるものであり、それ自体は、被告谷本が、原告が本件小説を創作する前からそのような考え方を取っていたことまで述べているものではないから、右の記載だけでは原告の名誉との関連性が希薄であり、これにより直ちに原告が被告谷本の仮説を参考にして本件小説を創作したとの印象を与える文章であるということはできず、したがって、新聞社向け宣伝資料は、単に、本件番組の全国放送の宣伝をしているだけであり、原告の名誉を毀損するものということはできない。
 なお、全国放送が中止された後に、北海道新聞や週刊新潮に掲載された被告布川のコメントは、前記のとおりのものであるが、右の記事が被告布川のコメントを正確に表現したものかどうかについて確認ができないだけでなく(被告布川は、乙一一二で、一部の内容を否認している。)、紛争が生じた後の一方の当事者のコメントとしては通常の範囲内のものであり、その内容は、特段、原告の名誉を毀損するものではない。
4 被告らの過失責任
(一) 間接的名誉毀損行為についての過失責任
 被告らが、本件番組において、二〇年前に江差追分と出会って以来、江差追分に取り付かれ、ユーラシアの歌と江差追分とが一つの絆で結ばれているのではないかとの思いを持ち続けてきた北海道教育大学学長の被告谷本が、追分節のルーツはウラル地方にあると相当以前から考えてきており、今回、バシキールを取材したところ、追分節と良く似たタイプの民謡が存在していることが確認された旨をナレーション及び被告谷本のコメントにより説明したことにより、原告がその前年に本件小説を発表し、本件小説において追分節ウラル源流説を表現し、その独創性の故に高い社会的評価を得ていたものであるにもかかわらず、本件番組を見た者が、原告は、民族音楽学会における被告谷本らの有力な仮説を参考として本件小説を記述したにすぎないものであり、本件小説における追分節ウラル源流説は従前考えられていたような原告の独創といえるものではなかった旨誤解した者が相当数生じ、これにより原告の社会的評価が低下し、その名誉が毀損されたものであることは、前記3認定のとおりである。
 ただし、本件番組は、直接、原告又は本件小説について言及しておらず、したがって、原告あるいは本件小説について直接その名誉を毀損する表現を用いていないにもかかわらず、本件番組の放送により、原告の本件小説の著者としての名誉ないし江差追分の研究家としての信用が毀損される結果になったものであり、このような場合は、基本的人権としての表現の自由の保護との関連からいっても、通常の名誉毀損行為の場合と異なり、被告らの故意又は過失(責任)を考えるにあたって、慎重な考慮を要すべきことは当然であるところ、本件のように、直接原告ないし本件小説を名指ししない間接的な表現行為により原告の名誉を毀損する結果に陥った事例については、被告らに本件番組の放送により原告の名誉を毀損する結果を生ぜしめることについて故意があったと認め得る場合か、あるいは、被告らにとって本件番組の放送により原告の名誉を毀損する結果になることが予見可能であったと認め得る特別な事情がある場合に限り、被告らの名誉毀損行為について、故意ないし過失責任を認めることができるというべきである。
(二) 被告NHK、被告仁平、被告布川の過失責任
 そこで、被告谷本を除く被告らが、本件番組放送により原告の名誉を毀損する結果となることが予見可能であったと認め得る特別な事情が存したかどうかを検討するに、前記認定事実から明らかなように、被告NHKの函館局が、国際局と共同提案した番組は、日本とハンガリーに存在する追分節と類似の葬送歌のルーツを、四、五世紀のフン族の移動等の史実や伝説、及び続日本紀の記載等から、ウラルに求めた本件小説を基にして、追分節のルーツをメインテーマの一つとして、NHKスペシャルとして企画提案された番組であり、そのため、函館局の当初の番組の提案書中には、本件小説の題名や、本件小説の主人公が記載したとされているノンフィクションの題名、及び、本件小説の表紙の帯に記載された文言が使用されているものである。また、本件番組は、右共同提案の番組が不採択となった場合に備えて、函館局が北海道スペシャルとして企画提案した番組であり、その企画の内容は、右共同提案した番組の企画の延長線上にあったものである。さらに、被告NHK及び函館局は、本件番組の放送前に原告及び国際局の佐藤から著作権の問題及び名誉の問題があるとの警告を何度も受けていたものであることは、前記のとおりである。
 このように、被告谷本を除く被告らは、原告の本件小説から出発した企画を基に、その延長線上において本件番組を製作していったものであり、本件小説の存在、内容、それに対する社会的評価を十分に知っており、本件小説と特別に密接な関係を有していたこと、及び、原告及び国際局の佐藤から前記のような警告を数回受けていたことを考慮すれば、被告NHKの函館局は、本件番組を放送して、追分節の起源がウラルにあることが、二〇年来江差追分に取り付かれ、江差追分のルーツを思い続けてきた有力な学者の仮説であるとの虚偽の事実を報道し、今回のバシキール取材で追分節に似た曲がバシキールに存在することが確認されたとのドキュメンタリー番組を放送すれば、その僅か一年前に発行された原告の本件小説に記述された追分節ウラル源流説は、何ら原告の独創ではなく、単に、民族音楽学会における被告谷本らの有力な学者の仮説を参考にして記載されたものであったこと、すなわち、原告及び本件小説において原告が記載したメインテーマの独創性に対する社会的評価をおとしめる結果を生ぜしめることは、十分に予見し得たものというべきである。
 以上によれば、本件番組を放送した被告NHK及び函館局の放送部副部長として本件番組を製作した直接の責任者である被告仁平、及び、函館局の放送部長として被告仁平の上司の立場で本件番組の製作を監督すべき立場にあった被告布川は、本件番組の製作、放送によって、原告の名誉を毀損する結果となることが予見可能であったのに、これを予見せずに本件番組を製作、放送したものであるから、その結果生じた損害を賠償すべき責任を負うものである。
(三) 被告谷本
 被告谷本については、前記のとおり、被告谷本が二〇年来江差追分に取り付かれ、江差追分のルーツを思い続けてきた学者であるとの虚偽の説明部分が、本件番組のナレーションの部分であるため、その過失責任については別途慎重に検討する必要がある。
 被告谷本は、前記のとおり、原告が本件小説を著作する前にハンガリーに取材に行ったときに、原告に対しハンガリーに関する情報を提供し、その関係で、原告から本件小説の第一稿の送付を受け、第一稿についてコメントを述べ、本件小説発刊後は、原告から本件小説の贈呈を受けた者であり、本件小説の内容についてはこれを熟知し、また、本件小説の追分節の起源に関する記載が独創的なものであることも知っていたものである。また、被告谷本は、本件番組の製作に当たって、当初から被告仁平らに協力し、情報を提供し、これを指導してきただけでなく、自ら本件番組のコメンテーターとして出演し、追分節のルーツがウラル(バシキール)にあると述べたものである。しかし、被告谷本は、本件番組の編集責任者ではなく、また、前記のような立場から、本件番組のナレーションも含めた最終的な製作編集作業について関与したこと、特に、被告谷本が二〇年来江差追分に取り付かれ、江差追分のルーツについて思い続けてきたとのナレーションの部分についてまで関与し、これを了承していたことについては、これを認めるに足りる十分な証拠はない(被告谷本五四項等参照。本件番組の最終的な製作編集作業が、被告NHKの本件番組の製作編集担当者によりなされているときに、本件番組に密接に関与してきたとはいえ、外部の大学教授であり、本件番組の編集責任者ではない被告谷本が、右のナレーションも含めて、本件番組の最終的な製作編集過程に具体的にどのように関与したのか、あるいは関与していなかったのかについては、本件においては明確には立証されていない。)。
 仮に、本件番組において、被告谷本が二〇年来江差追分に取り付かれ、江差追分のルーツについて思い続けてきたとの前記ナレーションが存在せず、単に、被告谷本が本件番組中で、「今回のバシキール取材の結果、追分節のルーツがウラルであるとの考えを持つに至った」旨を述べるだけであれば、本件において生じたような名誉毀損の問題は生じなかったものと考えられるし、また、被告谷本が、本件番組製作当時に、バシキールの取材結果を検討したうえで、学者として追分節の起源がウラルであると考えるに至った旨を本件番組中で述べること自体は、被告谷本が本来自由になし得る行為である。
 したがって、被告谷本が二〇年前から江差追分に取り付かれ、江差追分のルーツについて思いを持ち続け、学者として本件小説発行の相当以前から追分節の起源がウラルであると考えていたこと、すなわち、本件小説発行の相当以前からそのような仮説が学会において存在したと表現していると解し得る部分が本件番組における問題の部分であるから、被告谷本が本件番組の編集を担当し、あるいは、右のナレーション部分について関与していたとか、これを了承していたとかの事実が認められない限り、前記で述べたような原告の名誉を毀損した結果についての予見可能性を認めることはできない。したがって、被告谷本については、右の立証が十分ではなく、その過失責任を認めることは相当ではない。
(四) 違法性阻却事由その他
 マスメディアによる報道と名誉毀損の問題においては、当該情報により社会的評価を低下させられる人の不利益と当該情報を知る利益(報道の自由ないし知る権利)との比較衡量が重要であるところ、報道によりその対象とされた人の社会的評価を低下させることになった場合でも、当該行為が公共の利害に関する事実にかかり、専ら公益を図る目的にでた場合において、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、また、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、右行為には故意又は過失がなく、結局不法行為は成立しないものと解するのが相当である(最一小判昭四一・六・二三民集二〇・五・一一一八)。
 被告らは、「本件番組の内容は、被告谷本の経歴も含め、真実であるし、また、その内容は公共の利害に関する事実であり、もっぱら公益を図る目的に出たものであることも明らかである。よって、被告らが本件番組を放送した行為については、違法性がない。また、仮に、右の真実性の証明が十分になしえなかったとしても、本件においては、被告らが右の事実を真実と信じることについては相当の理由があるから、被告らの右行為には故意又は過失がない」と主張するが、前記四1、2に認定したことろによれば、「被告谷本が二〇年来江差追分に取り付かれ、江差追分のルーツについての思いを持ち続けてきた学者であり、相当以前から追分節のルーツがウラル地方であると考えていた」との事実は真実ではないし、また、被告らが右事実を真実と信じるに足りる相当な理由があったものということができないことも明らかである。
 本件は、右に述べたように、番組の一部に真実ではない表現行為があり、これにより間接的に他人の社会的評価を毀損したケースであり、そもそも真実と信じるに足りる相当な理由もないのに、真実ではない虚偽の情報を報道すること自体が、報道の自由ないし知る権利の名の下に保護すべきものであるということができないものであることはいうまでもない。
 また、被告らは、「本件番組の放送は、いわゆる公正な論評の法理に照らし、違法性はない」と主張するが、公正な論評の法理の当否はさておき、右法理は、意見の開陳を目的とした批評、論評による名誉毀損についての不法行為の成否に関する法理であるところ、本件においては「被告谷本が二〇年来江差追分のルーツについての思いを持ち続けてきた学者であり、相当以前から追分節のルーツがウラル地方であると考えていた」との虚偽の事実を伝えることが、原告の名誉を毀損する結果を招来したのであり、このような虚偽の事実を伝えることが公正な論評の法理により保護されるものと認めることはできない。
(五) 被告布川の本件返書の送付行為について
 被告布川が本件返書を送付した行為が原告の名誉を毀損するものであることは、前記のとおりである。そして、被告布川は、本件返書において、原告が被告谷本の説を参考として本件小説を書いたとの原告の名誉を毀損する事実を述べているのであるから、本来、原告及び被告谷本に会って直接右事実の存否を確認すべきであったところ、右のような確認もせずに、単に被告仁平等から事情を聞いただけで本件返書を送付したものであり、本件返書送付行為について過失があったことは明らかである。また、被告仁平についても、被告布川と同様に、本件番組の製作、放送のみならず、本件番組放送後の視聴者及びマスコミとの対応、処理に当たっていたものであるから、被告布川の本件返書の送付行為について被告布川と共同して責任を負うものである。
 被告らは、本件返書の内容は、真実であるか又は被告布川が真実と信ずるにつき相当の理由があったのであり、また、追分節の分布ないしルーツに関する事実は一般公衆の関心事であり、公共の利害に関する事実であるから、被告布川が視聴者に対し本件返書を送付した行為は、違法性はないか有責な行為とはいえない旨主張するが、原告は、前記のとおり、本件小説において追分節ウラル源流説という独創的な虚構を独自に記述したものであって、本件返書中、原告が被告谷本の推論をもとに本件小説を書いたとの記載部分が真実であると認めることはできない。また、被告布川が右事実を真実と信じるにつき相当の理由があったことを認めるに足りる証拠もないことは明らかであり、被告らの右主張はその余の点について判断するまでもなく理由がない。
 なお、被告らは、被告布川が本件返書を送付した行為が仮に原告の社会的評価に負の影響を生ずると仮定しても、いわゆる公正な論評の法理に照らし、違法性はない旨主張するが、公正な論評の法理の当否はさておき、右法理は、前記のとおり、意見の開陳を目的とした批評、論評による名誉毀損についての不法行為の成否に関する法理であるところ、本件返書中、原告が被告谷本の推論をもとに本件小説を書いたとの記載部分は、事実についての記載であって、右のような虚偽の事実を伝えることが、原告の名誉を毀損する結果を招来したのであり、このような虚偽の事実を伝えることが公正な論評の法理により保護されるものと認めることはできない。
(六) 被告NHKの使用者責任
 被告NHKは、本件番組を放送した主体であり、本件番組の放送により原告の名誉を毀損した結果生じた損害を賠償すべき義務を負うことは前記(二)のとおりであるが、被告NHKは、被告布川及び被告仁平の使用者であり、被告布川の本件返書の送付行為が、被告NHKの業務遂行の一環としてなされた行為であることは明らかであるから、被告NHKは、右被告らの使用者として、右各行為により生じた損害を賠償すべき義務を負う(民法七一五条)。
五 原告の損害
1 名誉毀損行為による損害について
 証拠(甲五六、原告第一、二回)及び後記括弧内の証拠並びに前記認定の事実によれば、次の事実が認められる。
 原告は、昭和四二年に江差追分に興味を抱き、同五三年以来ほとんど毎年、多い年は年に数回も江差町を訪れ、地元の江差追分の愛好者との交流や取材をしたり、仕事を離れて江差追分を聞いたり、地元の人たちと江差追分を通じて交流を深めていた。原告は、その間、昭和五四年に「北の波濤に唄う」を発表して、江差追分や江差追分の全国大会にまつわるさまざまなエピソード、江差追分を愛好する人々の人生の模様や江差追分への思い入れを紹介しながら、「北の波濤に唄う」の最終章で、前代において、北に流転した敗者たちの歌だった追分節が、時を経るにつれて成熟し輝きを増して、ついに洗練された「北の鎮魂歌」になったことを記述しているものである。また、「北の波濤に唄う」の割引定価による売上利益は、江差町の追分節の記念碑の修復費用に役立てられ、さらに、「北の波濤に唄う」の刊行後は、テレビ各局が江差追分を扱ったドキュメンタリーを盛んに製作するようになった。
 原告は、江差追分の取材のために常に私費で江差町に旅行しており、町民有志で発行する雑誌から原稿依頼があれば、原稿料無料でこれに応じてきたものである。このように、原告にとっては、江差町の人々と江差追分とその風物に接することが最大の喜びであり、本件小説を発刊した後も、近い将来江差追分に関するライフワークとなるべき作品を発表したいとさえ考えていたところであった。
 そして、原告は、前記のとおり、本件小説において、追分節ウラル源流説という歴史的整合性を有する独創的な仮説を表現した小説家ないし江差追分の研究者として高い社会的評価を得ていたものであった。
 しかし、前記のとおり、被告NHKの本件番組の製作、放送及び被告布川の本件返書の送付行為により、原告の本件小説等の熱心な読者であった者も含めた相当多数の視聴者が、本件小説において述べられている追分節ウラル源流説は、何ら原告の独創ではなく、単に、民族音楽学会における被告谷本らの有力な学者の仮説を参考として、あるいは、被告谷本の仮説に基づいて記載されたにすぎないと考えるに至ったものであり、原告は、被告らの右行為によりその社会的評価を著しく低下させられたものである。
 また、本件紛争が表面化してからは、原告は、江差町を訪れることもできなくなり、また、江差町から来る年賀状の数も平成三年から激減し、原告と親しくしている人たちも、原告を弁護するには勇気がいる状況である。さらに、原告自身も、このような状況の中で、ライフワークを執筆しようとする情熱が次第に萎えていく状況にある。
 またさらに、原告は、本件小説発表後は、前記三4の通り、本件小説の著者として、FM放送の番組数本にゲスト出演していたが、本件紛争が表面化してからは、番組出演の企画も頓挫し、番組出演の依頼も全く途絶えている(甲七〇)。
 以上のとおり、本件番組の製作、放送、及び、被告布川の本件返書の送付行為により原告の名誉が毀損され、原告に対する社会的評価が低下したこと、及び、本件紛争発生後、これと関連して原告と江差町の人々との交流ができなくなってきたとの状況等の本件の事情を総合すれば、原告の本件名誉毀損行為により生じた社会的評価の低下を慰藉するには金一五〇万円が相当であると認められる。なお、本件番組においては、直接原告ないし本件小説を名指ししてその名誉を毀損するような表現があったわけではなく、番組の一部に被告谷本に関する虚偽の内容のナレーションがあり、これにより、間接的に原告の名誉が毀損される結果に至ったものであることや、その他本件に現われた一切の事情を考慮すれば、謝罪広告まで認めるのは相当ではないものと認められる。
 また、弁護士費用については、前記認定の損害の額、本件訴訟遂行の難易度その他諸般の事情に鑑みれば、金三〇万円を相当因果関係の範囲内の損害と認めるのが相当である。
2 「北の波濤に唄う」の翻案権等侵害による損害について
 「北の波濤に唄う」を本件番組のナレーションの一部に原作として使用する場合の使用料相当額については、本件に現われた諸般の事情を総合すれば、金二〇万円と認めるのが相当である。また、原告が、本件ナレーションの原作者として原告の氏名を表示されなかったことによる慰藉料としては、本件に現われた諸般の事情を総合すれば、金二〇万円と認めるのが相当である。
 なお、謝罪広告については、右の著作物使用料相当損害金及び慰藉料の支払いにより、被告らの著作権及び著作者人格権侵害行為により生じた損害については、相当程度填補されているとみられること、並びに、本件に現われた諸般の事情を考慮すれば、謝罪広告まで認めることは相当ではない。
 さらに、弁護士費用については、前記認定の損害の額、本件訴訟遂行の難易度その他諸般の事情に鑑みれば、金二〇万円を相当因果関係の範囲内の損害と認めるのが相当である。
六 結語
 よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 設樂隆一 橋本英史 長谷川恭弘)

別紙目録一ないし三(省略)
目録四
北の波涛に唄う
 むかし鰊漁で栄えたころの江差は、その漁期にあたる四月から五月にかけてが一年の華であった。鰊の到来とともに冬が明け、鰊を軸に春は深まっていった。
 彼岸が近づくころから南西の風が吹いてくると、その風に乗った日本海経由の北前船、つまり一枚帆の和船がくる日もくる日も港に入った。追分の前歌に、
●松前江差の 津花の浜で
すいた同士の 泣き別れ
 とうたわれる津花の浜あたりは、人、人、人であふれた。町には出稼ぎのヤン衆たちのお国なまりが飛びかい、海べりの下町にも、山手の新地にも、荒くれ男を相手にする女たちの脂粉の香りが漂った。人々の群れのなかには、ヤン衆たちを追って北上してきた様ざまな旅芸人の姿もあった。
 漁がはじまる前には、鰊場の親方とヤン衆たちの網子合わせと呼ぶ顔合わせの宴が夜な夜な張られた。漁が終れば網子わかれだった。絃歌のさざめきに江差の春はいっそうなまめいた。「出船三千、入船三千、江差の五月は江戸にもない」の有名な言葉が今に残っている。
 鰊がこの町にもたらした莫大な富については、数々の記録が物語っている。
 たとえば、明治初期の江差の小学校の運営資金は、鰊漁場に建ち並ぶ遊郭の収益でまかなわれたほどであった。
 だが、そのにぎわいも明治の中ごろを境に次第にしぼんだ。不漁になったのである。
 鰊の去った江差に、昔日の面影はない。とうにさかりをすぎた町がどこでもそうであるように、この町もふだんはすべてを焼き尽くした冬の太陽に似た、無気力な顔をしている。
 五月の栄華はあとかたもないのだ。桜がほころび、海上はるかな水平線にうす紫の霞がかかる美しい風景は相変わらずだが、人の叫ぶ声も船のラッシュもなく、ただ鴎と大柄なカラスが騒ぐばかり。通りががりの旅人も、ここが追分の本場だと知らなければ、けだるく陰鬱な北国のただの漁港、とふり返ることがないかもしれない。
 強いて栄華の歴史を風景の奥深くたどるとするならば、人々はかつて鰊場だった浜の片隅に、なかば土に埋もれて腐蝕した巨大な鉄鍋を見つけることができるだろう。魚かすや油をとるために鰊を煮た鍋の残骸である。
 その江差が、九月の二日間だけ、とつぜん幻のようにはなやかな一年の絶頂を迎える。日本じゅうの追分自慢を一堂に集めて、江差追分全国大会が開かれるのだ。
 町は生気をとりもどし、かつての栄華が甦ったような一陣の熱風が吹き抜けて行く。

ほっかいどうスペシャル
「遥かなるユーラシアの歌声
〜江差追分のルーツを求めて〜」

 日本海に面した北海道の小さな港町、江差町。古くはニシン漁で栄え、

 「江戸にもない」という賑いをみせた豊かな海の町でした。

 しかし、ニシンは既に去り、今はその面影を見ることはできません。

 九月、その江差が、年に一度、かつての賑わいを取り戻します。民謡、江差追分の全国大会が開かれるのです。大会の三日間、町は一気に活気づきます。
目録五
ブタペスト悲歌
 組織の主流からはみ出した新聞社の社会部記者秋間俊介は、追分節に託して思いっきり自分の胸中を描いてみようと考え、二年半ほど江差に通って、その成果を『彷徨える旋律』という本にした。その間に、妻と別れることになるが、本がきっかけで、日曜版に連載する「世界歌物語」の執筆スタッフに加わる。秋間は、札幌の大学で民族音楽論を講じる谷川英之から、ブタペストの国立音楽アカデミーにある録音テープの中から、追分節にうり二つの曲が見つかった、という話を聞き、ハンガリーへ取材に出かけた。
 ブタペストに滞在中、秋間は、交通事故に巻き込まれそうになった日本人留学生、野島友子と出会う。五年前から国立リスト音楽院ピアノ科で学ぶ友子は、ハンガリー人の恋人カトナ・ミクロシュとの別れを決意したところであった。秋間の大学時代からの友人でブタペスト駐在の商社員の家で、友子が娘の家庭教師をしていたことから、友子は秋間の著書を手にし、国立音楽アカデミー教授の家で秋間と再び会った後、それを読む。
『彷徨える旋律』を通して、秋間と友子は互いに惹かれてゆく。
この間、秋間の取材は進み、追分にうり二つのハンガリーの曲が墓の側で歌われていたこと、江差追分も弔いの席で歌われること、フン族のアッティラ大王と蝦夷一族の英雄の阿弓流為の類似等々から、フン族の王子チャバは、父アッティラの死後、故郷を目指して東へ移り、それに当時まだウラル山脈の付近にした現代ハンガリー人の祖先等いくつかの種族が合流する。チャバは日本海を渡ることを決意し、阿弓流為はチャバの後●である。ハンガリーで見つかった曲と追分節は千五百年前まで一つの曲で、チャバ一行と海を渡った流れは追分節となり、一方、ハンガリーの地に残り、後にウラル山脈方面から来たマジャール族に歌い継がれたのが、音楽アカデミーに保存されているテープの曲の元になった、という物語の構想をふくらませる。
 取材をほぼ終わった秋間は、友子とトカーイへ旅をして、そこで二人は結ばれる。そして、友子がリスト音楽院を卒業したら迎えに来ることを約束して、帰国する。
 日本に帰った秋間は、補足の取材を行い、世界歌物語の原稿を練りあげる。そして東北への旅行を計画する。一方、友子が一時帰国をすることになり、秋間は、友子との再会を楽しみに、一緒に東北を旅行することを約束する。しかし、友子は帰国直前に、昔の恋人ミクロシュに連れ出され、交通事故のため死亡する。
 秋間は、でき上がった世界歌物語の見本刷りをもって、友子と一緒に来るはずだった恐山で、友子の死の知らせを受ける。傷心のの秋間の耳に、ラジオの音か、チャバや阿弓流為の葬送歌か、遠くに幽かな歌声が響く。

ほっかいどうスペシャル
「遥かなるユーラシアの歌声
〜江差追分のルーツを求めて〜」

 江差追分に代表される追分と同じような音楽的特徴を持った歌が、ユーラシア大陸各地にある。
 北海道江差は、日本海に面した小さな港町、年に一度、江差追分の全国大会が開かれる。今年は国内ばかりでなく海外からも参加者があった。江差追分は多くの人を引き付ける。その魅力はスケールの大きさ。一つの民謡の枠を越えた遥かな拡がりを感じさせる。
 北海道教育大学学長の谷本一之さんは、江差追分と大陸各地の民謡が深い絆でむすばれているのではないかという考えを抱いてきた。
 モンゴルの民謡オルティンドゥーを歌い継いできたのは遊牧民。遊牧民の生活を支えているのは馬である。馬とくらす遊牧の民が広大な草原で人間の孤独を歌ったのがオルティンドゥーである。
 江差追分をはじめとする追分節の原形は大陸から馬とともに伝わった長野の古い馬飼いの歌だといわれている。長野から江差まで、追分節を歌い継いだのは、馬方や旅芸人、花街の女や漁民たちだった。江差追分も、故郷を離れ見知らぬ土地へ向かう人々の孤独をにじませた歌である。
 谷本さんは、ハンガリーのエルディー地方に古くから伝わる民謡のテープを持っている。東洋的な音楽の痕跡が残っている曲である。ハンガリーはアジア系民族の国。しかし現在歌われている民謡の中には、江差追分にそっくりといえる歌はない。定住化や、戦争の悲しみの中で古い民謡も忘れられ、教会の歌の中に、わずかに東洋の痕跡を残す歌があった。
 江差町では、追分タイプの民謡が残る世界各地の歌い手が集まり、世界追分祭りが開かれた。
 参加地域の一つソビエトのバシキールには素朴な追分タイプの歌がある。谷本さんは、バキシールが追分ロードの中央に位置すること、世界各地の追分タイプの歌の中で、バシキールの歌が最も素朴であることから、ここから追分タイプの歌が東西に拡がっていったのではないかと推論する。バシキールはガンガリー人の祖先マジャール族がかって住んでいた地域である。今も、遊牧生活を続ける人達がいる。バシキールの人たちが民族の故郷と呼ぶウラル山脈の奥に、馬が生まれたという伝説の湖があり、近くの洞窟に、一万六千年前に描かれたという馬の壁画がある。この壁画は、この地で馬が生まれ、やがて馬とともに、追分タイプの歌が各地に伝わっていったかもしれない、という空想に、私たちを駆り立てる。
 世界追分祭では、韓国、モンゴル、ソビエト、それにハンガリーの歌いたちが、それぞれの追分タイプの歌を熱唱した。いずれも離別の悲しみや、肉親や恋人を想う歌であり、人々の哀感を強くにじませた曲であった。ユーラシア大陸で、民族から民族へ伝えられ、時代を超えて歌い継がれた歌が、今も、各地で歌われている。