最近の謎・疑問・出来事(98年7月分)


最近の謎・疑問・出来事(98.07.22

 
昨日、今年の2月に始めて中断したままだったMacintosh用文書をWindows用文書に変換する作業がほぼ完了した。ひとつひとつの作業は、どうってことないのだが、チリも積もれば何とかで、この間保存した文書が大量にたまっていたため、その変換の作業も、当時の仕事や考えを思い出しながらそのポイントを再現することが必要だったため、集中力がひたすら要求された。
 だから、いったん取りかかると、途中でやめるわけにはいかず、この連休の間もずっとバカみたいにパソコンと格闘した。そのおかげだろう、変換の作業が無事終了したときには、思わず、万歳を叫んだ。

 このデータの記録によると、私は、1984年に初めてデジタルデータを作成したことになっている。もちろん、当時は、ワープロでこの種の文章を打ち始めたのであり、1988年秋、友人から捨てる予定のパソコン(PC88)を譲り受けて夢中になったときも、もっぱらBASICのプログラミングだけで、文章作成なんてつゆ思わなかった。転機になったのは、1993年に8年に及ぶ大河ドラマ「春の波涛」裁判の最終準備書面を書くとき(あんまり書くことが多くて、最終準備書面だけで3通に分けて書かざるを得なかった←これではどれが一体最終なのか、分からない)だった。ワープロを使って書いていて、ディスプレイ上にひとつの文書しか出せず、長大な書面のいわばあちこちの有機的な関連を明らかにするという作業をする上で困難を極めた。当時のワープロ文書は一文書の長さに制限があり、すぐ満杯になって、ちょっと長い文章は、4つも5つにも分けて作成せざるを得なかった。そのため、自分の頭の中に、その有機的な関連を暗記させてワープロの編集機能の不備を補おうとしたが、これだけ長大な文章になったとき、私はほとほとワープロのレベルの低さにうんざりした。

 この時の苦い経験が次第にパソコンに目を向けさせることになった。しかし、私は当時のパソコンの変貌ぶりには内心おそれのようなものを抱いていた。第一、あのマウスとかいうケッタイものはなんだ!あれが不思議でならなかった。当時、数学のニセ学生をするために本郷の図書館で勉強していたが、そこの一室で学生たちがマウスを使ってパソコンを操作しているのを見て、自分にはあんなこと、到底できないと思った。そういう気後れを断ち切って、本格的にパソコンをやろうと思ったのは、アメリカに(少しの間)行って戻ってきてからだった。イラストレーターの加藤直之さんの援助もあって、曲がりなりにもマウスを使ったパソコンが立ち上がった。

 そして、事務レベルの横書きの文章はパソコンでもよかったが、当時私の使っていたMacintoshのワープロソフトには縦書き印刷の機能がなく、それで、事務レベルの文章はパソコン、裁判所提出の文章はワープロと、文書作成に二股をかけざるを得なかった。しかし、パソコンに馴染むにつれ、一文書の容量がワープロに比べ抜群に大きいこと、何よりもディスプレイ上にいくつもの文書が開けるのにはビックリ仰天した。

 1996年夏、歴史研究における史料の翻訳・要約をめぐる著作権裁判において、それまでの集大成ともいうべき長文の準備書面を作成したとき、このマルチウィンドウが大活躍した。相手方の事務所にお願いして相手方の準備書面もすべてデジタルデータにして、パソコンのディスプレイ上にこれらの必要な文書をすべて開いておいて、文書から文書へと縦横無尽に渡り歩いた。3年前の「春の波涛」裁判のときの悪夢がまさに夢のようだった。その結果、本文399頁と別紙10頁に及ぶ準備書面が納得いく形で編集できた。まさに、著作権裁判の準備書面の重要な側面が編集作業であることを思い知らされた瞬間だった。

 しかし、このときは別の新しい困難に悩まされた。それは、膨大な準備書面を編集作成する分にはパソコンは威力を大いに発揮したのだが、当時、私はまだパソコンで縦書き印刷できるワープロソフトを使っていなかった。したがって(今から思うと、これもまた悪夢のようだが)、パソコンで編集作成した準備書面は、いったんテキスト文書に変換して(当時、Macintoshでソフトを使っていちいち変換した覚えがある)、次にそれをワープロでまたテキスト形式からそのワープロ特有の形式に変換する作業をして、それから初めてそのワープロで縦書き印刷をするという手順を踏んだ。そのため、数字の(一)とか@とかレイアウトがこれらの変換の作業の中でパーになり、改めて、ワープロで編集し直さなければならなかった。しかし、短い文書ならともかく、300頁以上もある長文の場合、それらの作業はものすごく消耗であり、時間を要した。おまけに、ワープロの印刷は(今では信じられないことだが)1枚ごとに印刷用紙を自分の手で入れては実行するという、手工業的な方法だった。しかも、せっかく、パソコンで長大な文章が一文書に収まったというのに、それをワープロで印刷するために、再び、これを5つも6つにも分割してやらなければならないという時代に逆行するような作業が必要だった。こうして、せっかくパソコンの編集能力の優秀さをたっぷり味わっておきながら、印刷段階で再びワープロの悪夢に戻らざるを得なかった。そのため、パソコンの編集まではスムーズにいったのに、肝心のプリント段階で、手間取って、ワープロとにらめっこしながら、裁判所に「ええっい、本日提出期限の準備書面の印刷ができません!」と情けない電話を何回か入れたことがある。

 ということで、ワープロとの仲はますます険悪となり、一方のパソコンとの一体感を深めるために翌97年、パソコンで縦書き印刷できるワープロソフトを使い始めた。しかし、このワープロソフトは重くて、普段の事務作業や裁判の書面の編集作業をこれでやる気にはなれず、かくして、今度はパソコンレベルにおいて、普段の文書作成用ともっぱら縦書き印刷用と2つのワープロソフトを使うことになった。ともあれ、これで私の文書作成作業の遍歴は、ひとまず終わる筈だった。

 ところが、当時からホームレス(今でいうオフィスレス)の仕事を目指していた私には、携帯のノートパソコンが必需品になる予定だったが、しかるに、当時使っていたMacintoshのアップル社が凋落の一途をたどり、いっこうに軽いノートパソコンができそうにもなかった。
それでもう、Macintoshを見捨てて、(内心好ましく思っていない)Windowsに乗り換えるしかないと思い、97年春、初めてWindowsマシーンに触れた。半年間のウォーミングアップののち、1998年正月、本格的にWindowsで仕事をするしかないと思い定め、それまでMacintoshのHDに保存しておいたワープロ時代に作成した大量のテキスト文書(ついにMacintosh時代には、この文書の整理ができないまま)と、Macintosh時代に作成したMacintosh文書とを、Windowsに引っ越すことにした。それが、この2月から始まった引越しだった。その作業が昨日、ようやくほぼ終了したのだ。

 なんか、初めてデジタルデータを作成した1984年以来の生活にひと区切りを打ったような気分だ。これでやっと、これまでの大量の文書を活用できる体制が整った。だから、ようやくのこと、ノートパソコンを買って活用する甲斐ができる。また、これでやっとこれをデータベースとして活用することを考える状況になった。また、これでやっとホームレスのスタイルを推し進めることができる。
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何と!気がついたら、だらだらとこんなに回想してしまった。やっぱり、何が書きたいことか、実際に書いてみるまで分からない。

では、予定外の事態を終えて、お休みなさい‥‥

最近の謎・疑問・出来事(98.07.10

 
東京地方裁判所にゲームソフト「ときめきメモリアル」の人気キャラクター「藤崎詩織」を無断使用してアダルトビデオを作成・販売していた者を相手に著作権侵害の訴をおこした。その直後、裁判所内で記者発表をする。日テレ・TBS・テレビ朝日・テレビ東京がカメラを持って取材し、夕方と深夜のニュースで放映。たまたま見ていた姪がビックリして電話してきた(こんなもんに、とりたててビックリする必要なんかない)。訴状など詳細は、こちらまで

そのあと、先月末に同じく著作権侵害の裁判を起こした「煮豆売り事件」(東京地裁29部ではこれで通用している)の原告三谷一馬氏の自宅を訪ねる。初めてお目にかかる機会だった。

10年ほど前に訪ねたことがあった吉祥寺の埴谷雄高の自宅みたいな感じの長い時間が刻印された不思議な家だった。そして、本人の仕事場、さらに86歳になる本人自身のエネルギッシュな姿に、久しぶりにビックリしてしまった。こういう機会こそ仕事の上でも滅多にない僥倖だ。また訪問することの許可を得て、帰途につく。今度はデジカメとおやじ持参の積りだ。

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