著作権とは何かー早坂暁氏への手紙ー

アキラ法律事務所とシナリオとパソコン
----アキラ法律事務所の、ほんとうの開設にあたって----

5.30/89


最高のプロデューサーとは、        
最も勇気のあるプロデューサーのことである。

スピルバーグ

1、私は、実は、ひとつだけギネスブックに載ってもおかしくない世界記録を持っています。それは受験勉強の期間最長記録のことです。

 小学校3年の時、秘かに大学受験へ向けての準備を決意し、由来、大学での2年間半を除いて、29歳までの18年間は、文字通り、来る日も来る日も受験勉強で明け暮れました。このギネスブック級の受験勉強の末、法律家の商売に足を踏み入れることになったのですが、だいたい、この法律家の道に進んだ動機というのが、徹底してサボりまくった大学の2年間でめぐりあえた大好きな仲間たちが、こぞって司法試験というやつを受けるというので、彼らと引き続きつきあいを続けたいばっかしに、死ぬほど嫌いな法律の勉強を始めたことにあるのです。それで、優秀な彼らは、やはり、こぞって、さっさと合格してしまい、相変わらず、法律の問題に小説のような答案を書いていた私は、とうとう、ひとりぼっちになって、ギネスブックのほうで名を成すようになってしまったのです。

 ですから、法律家になった一番の理由は、簡単です。ただ、ギネスブック級の受験勉強にピリオドを打たんがためでした。そして、受験勉強から解放されて、小学校3年以来中断せざるをえなかった、少年時代から29歳までの青春時代までを、是非とも、もう一度体験したかったからでした。その願いは、幸いにして叶えられ、受験勉強解放後7年目にして、私は、それまで、亡霊の如き思いで、形ばかりやってきたに過ぎなかった法律の仕事に対し、初めてその意義を見つめ直してみようという気になりました。

それが、シナリオの制作でした。


2、私は、徹底した落ちこぼれの弁護士が、もし、なにか仕事に意味を見いだすことが出来るとすれば、それはどのようにして可能なのか?、という問いに、ひとつの答えを出すために、アキラという落ちこぼれの弁護士を主人公にして、シナリオを書いてみました。

 この作業のなかで、はじめ、アニメ「小公女セーラ」の主題歌しか歌うことができなかった逃避人間アキラが、最後に、喜びをかみしめて、アニメ「天空の城ラピュタ」の主題歌を歌えるようになったとき、私は、彼が、ようやく、法律の仕事にひとつの意味を見いだしたことを、そしてその意味は、やはり「我々の生きる意味は、つまるところ、死者によって与えられる」という真理から与えられたことを、知りました。そして、アキラが、自分の依頼者の背後に、死んだ赤ん坊の姿を見て、渾身の力を込めて事件を解決しようとしたとき、その奔走する姿を追っていて、はからずも、彼の姿が、「史記」の刺客列伝に登場する刺客たちの姿と、重なりました。そのとき私は、弁護士の本質が了解できたのです。それは、この刺客列伝に繰り返し登場する言葉----士は己を知るもののために死す、でした。

 弁護士には、自分というものがあってはならない。彼は、ただ依頼者の事件の解決のためにのみ、存在するのである。ことにあたって、自己の名誉心なり、功名心なりの自己へのこだわりが、無意識にせよ、脳裏にあるとき、彼は弁護士として、不純であり、結局、堕落していくのである。彼は、常に、自己の存在の全てをあげて、依頼者の仕事に賭けなければならない。
 ということは、反面、そのような全身全霊を賭けて仕事をするに値する依頼者だけが、彼の依頼者たりうるのである。それが、「己を知るもの」であり、彼は、そのような者のためにだけ、死をも辞さぬ覚悟で、ことにあたるのである‥‥

 このように法律の仕事をとらえ直すことが出来た頃、私は、当時知りあった、著作権関係の仕事の人々の中に、「士は己を知るもののために死す」と思えるような信頼できる人々がいることを感じ、その思いを確信したいという一念で、著作権関係の仕事に専念してきました。と同時に、そのような選択は、司法修習生時代に遭遇した、私にとって人生のコペルニクス的転回となった体験----魂の渇望の探求の旅、ということを心ゆくまで続けたいという体験を、法律の仕事の中で、最も生かすことができる最高に素晴らしい選択のように思えたのです。

 事実、映画の著作権事件を担当する中で、黒沢明氏や早坂暁氏のシナリオを、(仕事と称して)読む機会に恵まれたのですから、これ以上贅沢な話はなかったのです。そして、私は、恵まれた人間関係の中で、飛ぶ鳥も落とす勢いで、すっかり有頂天になって、著作権関係の仕事に従事してきたように思います。とりわけ、事務所を独立してからは、心置きなく、マイペースで、仕事にとりかかることができ、私は、ここにきて、初めて、法律家として最高の仕事とは何か、という問題を、自分自身の問題として、意識的に追求する時点まで辿り着くことができたのです。そして、私は、法律家として、未だ嘗てないくらい、最高に充実した状態で、この問題を追求するさなかに、また新しい発見に遭遇したのです。

それは、プロの法律家として進むことを断念することでした。

3、この発見は、いかにも唐突でしたが、しかし、全く自然なものでした。要するに、それまで、私は、自分がやりたいことと著作権の仕事とが、うまい具合に調和できる筈だと信じてきたのですが、それが実は絶対不可能であること、少なくとも自分にはどうしてもやれないのだということが、昨年1年間、一方で、自分のしたい放題のことをやり、他方で、著作権の最も充実した仕事をやる中で、はっきりしたのです。

 昨年中、私の心を一番震撼させた人物は、ルドルフ・シュタイナーでした。私は、彼の自伝を読み、彼こそ、一見乞食と見紛うような一生を送りながら、その実、私が願って止まない「精神と生の、真の冒険」を、最も徹底して成し遂げた人であることを知りました。私は、たゞたゞ彼の人生に圧倒されました。彼のような人物を前にした時、自分がいかに臆病で、小心翼々者であるかが、また、自分が常々口癖にしている、法律家として最高の仕事とかいっている事柄も、その実、根底では、自分のみみっちい野心にしか支えられていないケチな代物であるかが、鏡に写したようにすっかり明瞭になったのです。そしてこの時、私は、人が、もし、何ごとか一つのことを成し遂げることができるとすれば、それは、このシュタイナーのような生き方、つまり、「野心や功名心とは無縁の、たゞ己の欲するところに従って、憑かれたごときエネルギーをもって狂奔する」中でしかあり得ないのではないか、ということを感じたのです。そして、その予感は、まもなく的中しました。
それは、パソコンによるプログラミングでした。

4、私は、このプログラミングに、文字通り、身も心も奪われるくらいのめり込みました。そして、その狂熱のさなか、私は、そうだ!この状態、この感じこそが、シュタイナーの精神状態に一番近いのだ、このような状態で狂奔する中でこそ、人は初めて何ごとかを成し遂げることが出来るのだ、という確信を抱いたのです。ですから、私は、この狂熱を少しでも躊躇うどころか、たゞたゞ歓喜の中で、これを全面的によしとして、プログラミングの作業の中に思うままに浸り切ったのです。

 と同時に、それは、「自分がやりたいことと著作権の仕事とが、うまい具合に調和できる筈だ」という信念の完璧な破綻でもありました。私は、プログラミングに没頭する中で、自分がいかにいい加減な信念の持主であったかを思い知らされ、二兎を追うだけの才能がない以上、もはや著作権の仕事は断念するしかないと観念しました。

 もっとも、この時はまだ、自分が二兎を追うことができないのは、専ら、1日24時間というきめられた時間の中で、両方をこなすことができない自分の無器用さにあるのだ、もしも、時間さえたっぷりあって、余裕さえあれば、自分は、まだまだ両方やれるのだと思い込んでいました

 しかし、それも勘違いであることが、まもなく判明しました。というのは、ドラマの著作権事件が佳境に入り、ある意味で文学裁判の本質にかかわる山場に差しかかった時、本当の理由がわかったのです。
それは、私の本性が、本質的に法律家に向いておらず、結局のところ、自分は、法律家として最高の仕事が絶対にできない、という確信でした。

5、ここ数カ月、私は、著作権事件の最も深いところの作業である作品の構造分析という仕事に携わることができました。それは、私がイメージしていた法律家としての最高の仕事の一つでしたから、私は、嬉々としてこの仕事に取り組んだのです。ですから、仕事に取りかかる時、私は、この作業の中で、きっと、芸術と著作権法の調和に満ちた結合の構造が見い出されるに違いないと、幸福な予感を抱いていました。

 しかし、現実は正反対の結果となりました。
 その仕事というのは、著作権侵害の具体的紛争において、作品の構造をどのようなものとして把握するか、そしてこの構造分析を踏まえて、著作権侵害の具体的な判断基準をどのようなものとして把握するか、というものでした。その検討作業を通じ、私は、著作権法が、科学とは決定的に異なる、芸術本来の構造である重層的構造というものを、一見、自己の検討作業の基礎に置いているかのように振る舞っていて、いよいよ、著作権法なりに、作品の構造を示さなければならない段になると、それまで、法的判断に不可欠な前提事実として大事に扱われていた筈の「芸術本来の構造である重層的構造」は、一瞬、透明人間のように何処か彼方に消えてしまい、再び、その姿が現われた時には、もう作品の構造は、どうやら別のやり方で一義的に確定してしまっている、という、何か狐につつまれたような、誠に奇妙きてれつな、まるでサギまがいの判断がされていることを発見したのです。

 この時、私は、次のことを確信しました。つまり、
いくら、芸術本来の構造を基礎にして、法律上いわれる作品構造というものを発見しようとしても、それは不可能なことである。何故なら、著作権法といえども、法律であることに変りがない以上、著作権法は、どこまで行っても所詮法律でしかなく、芸術に出会うことは決してないからである。また、それは、芸術から見ても、同じことで、芸術は、どこまで行ってもあくまで芸術であり、芸術が法律に心を開くこともないからである。結局、両者が結ばれることは遂にないのだ、と。
 そこで、私は、あの幸福な予感とは正反対の事態に追い込まれました。つまり、あくまで、法律の立場に立って、芸術の構造を決定するのか、それとも、芸術そのものの立場から、芸術固有の構造を擁護するのか、そのどちらかを選択することを余儀なくされたのです。

 私はショックでした。そのショックとは、単に、幸福な予感が裏切られたことではなかったのです。そうではなく、芸術と著作権法の幸福な関係を探究していくうちに、はからずも、著作権法の本性を垣間見たことにあるのです。

 その本性とは、元々、法律が宿命的に背負わざるを得ない性格、それ故、最高の法律の仕事をする法律家といえども避けることができない宿命的な性格でした。すなわち、それは、或る現実の状態に対し、常に、或るひとつの秩序を与えずにはおれない、という「一義的な秩序確定への意志」ともいうべき性格でした。

 実は、私は、これまで単純にも、この世で一番芸術に近いところに位置し、それ故、一番法律らしからぬ筈の著作権法に、他の法律とは異なる、最も文化的な、最も人間的な可能性というものを秘かに期待していたのです。しかし、それは、甘い幻想でした。この著作権法の中に、「一義的な秩序確定への意志」を嗅ぎとった時、私は、思わず、憎悪にも似た激しい反発を覚えました。

 この時の私の反発というものは、全く直観的なものでした。しかし、私は、この時、確かに、文化・芸術の発展に寄与することを使命とする筈の著作権法に、最も、権威主義を感じたのです。著作権法の「一義的な秩序確定への意志」というものが、本来、読者の数だけ作品構造が存しておかしくない、多様性をその本質的要素とする芸術から、その一番貴い多様性を否定し去るものとして、間違いなく、これに、最も、専制君主的な臭いを感じたのです。

 要するに、私は、芸術の首を絞め殺すような著作権法のやり方が、全く気に食わなかったのです。私にとって、一番貴いことは、めいめいが、冒険と探究の末、自己の魂の命ずる根源的な渇望に巡り合うことであり、各自が発見した、この渇望に対し、その内容の多様性をひとしく認めることでした。これに偏差値教育の如き一番・二番という序列をつけることは、或いは、法律判断の如き一義的な秩序をつけることは、自由に対する許し難い冒涜に思えたのです。ところが今、私が、著作権法のやり方に対して感じていたのは、まさに、この自由に対する許し難い冒涜にほかならなかったのです。

 他方、芸術と著作権法との断絶の発見という問題は、この著作権法のやり方に対する私個人の憤りとは別に、もうひとつの形で、私に或る決断を迫ってきました。

 それは、「士は己を知るもののために死す」という弁護士像の再検討という問題でした。

6、私が、かつて「士は己を知るもののために死す」という弁護士像を選択した時、実はそこに、ひとつの信仰が、暗黙のうちに前提としてあったのです。

 それは、芸術に最も関わりのある著作権の仕事に全力を挙げて取り組むことが、当面、自己の魂の渇望の探求を徹底して遂行することであり、と同時に、信頼されている依頼者の期待にも十分応えることである、という信念でした。著作権の仕事を通じ、自己の生き甲斐と依頼者への忠誠心との幸福な結婚が可能だと信じてきたのです。

 しかし、この信念も、一連の体験を通じ、幻想にすぎないことが明らかになりました。元々、自己の魂の渇望の探求といっても、所詮「自己へのこだわり」であることに変わりはなく、そのようなこだわりが、無意識にせよ脳裏にあるときは、弁護士として不純であり、早晩、堕落することに変わりはないのです。

 その上、著作権の仕事というものが、本質のところで、芸術とは無縁のものであることが明らかになった以上、もはや著作権の仕事に全身全霊を賭けて没頭したところで、自己の魂の渇望の探求が存分に行なわれる訳ではないことも明らかです。
 そこで、私は、改めて、自分がどのような弁護士像を選択したらよいのか、自問自答せざるを得ませんでした。

 著作権の仕事が、その本質上、芸術とは無縁のものであるからといって、伊丹十三のように「依頼者の希望を、自分の希望にすり替えて」なお従前通り、自己の生き甲斐を追求する、というようなやり方を取る気は全然ありませんでした。
 しかし、かといって、本質上、芸術とは無縁のものであることが判明した著作権の仕事に、今後とも全身全霊を賭けて取り組むことも出来ません。あとから後悔するのは、火を見るより明らかです。

 そこで、もはや全身全霊を賭けて取り組むほどの重要な意味を持ち得ない法律の仕事を、そう難しく考えることもあるまいとも思ったのですが、しかし、私は、どうしてもそういう風に割り切ることが出来ませんでした。なぜか、法律の仕事の意義を自問自答せざるを得なかったのです。
 しかも、この時の私の自問自答の仕方は、矛盾していて、相変わらず「法律の仕事に満身の力を込めて打ち込めるものがあるとすれば、それは何か?」というものでした。

 そして、この問いに対し、当初私は、自分が欲するがままに生きて、なお法律の仕事に満身の力を込めて打ち込めることができるとすれば、唯一それは、本当にごくごく少数の「己を知るもの」のためにのみ、法律の仕事するときにだけ可能だ、という風に考えました。この考えは、性来無器用な私にとって、ぴったりの筈のものでした。

 しかし、この考えでも、私の気持ちは晴れませんでした。その原因は、新たに生れた、次の不安に由来するものでした。それは、
たとえ、本当にごくごく少数の「己を知るもの」のためにのみ、打ち込んで仕事をするのであっても、苟しくも法律の仕事である以上、それは、「一義的な秩序確定への意志」を宿命的性格として背負うのであるから、結局のところ、自分の向かうところは、自由に対する許し難い冒涜への途ではないか。
 この不安は、私を金縛りにしました。これ以上屈辱的な不安はありませんでした。
私は、一刻も早く、この不安から逃れたい一心で、法律の仕事として、自由に対する許し難い冒涜に至らない途があるものか、あるとすればそれはどんなやり方なのか、考えました。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

7、私は、金のために芸術の仕事をするようなことになるのだけは絶対嫌なのです。かゆをすする生活でよいから、生きんがために、今後とも弁護士の仕事を続ける積りです。そして、いやしくも仕事としてこれをやる以上、「士は己を知るもののために死す」という態度はいささかも揺るがなく貫き通したいと思うのです。

 そこで、性来無器用な私が、欲するがままに生きて、なおこの士の態度をからくも維持することができるとすれば、唯一それは、本当にごくごく少数の「己を知るもの」のためにのみ法律の仕事するときにだけ可能であり、それ以外のどんなやり方も駄目だという気がしました。それで、充分食べていけなくても、それは仕方ないじゃありませんか。人は、結局、自分が生きれるようにしか生きていけないのです。もうこれは、ちょっと、どうしようのないことではないかという気がします。
たゞ、私が、今、ほんとに欲しいと思うものは、次のことだけです
----もっと勇気を!
   もっと勇気を!
 これで、どうやら、すっきりした気分で次に進むことができそうな気がします。
 この時、私は、ふと、早坂暁氏のことを思い出しました。そして、今度こそ本当にアキラ法律事務所の開店なんだなあという気がしたのです。

 今後とも、末長く、おつきあい下さい。

------お わ り------

TO THE HAPPY VERY FEW


コメント
 私は、88年の春、念願の事務所独立を果たしたのち、当初「飛ぶ鳥をも落とさん」勢いで仕事に励んでいたところ、(予定通りというべきか)翌年の春、突然、仕事に行き詰まりを感じ、にっちもさっちも行かなくなってしまった。そこで、事態を打開するために勝手に考えながら綴った文章がこれ。
 今読み返してみて、当の本人でも嫌になるくらいネチネチした文章だと思う。しかし、それは何も本人のせいでなく、ただ当時の行き詰まりが本人に強いた業なのだ。
 だから、最後に至って「これで、どうやら、すっきりした気分で次に進むことができそうな気がします。」なんて締めくくっていますが、あれは真っ赤なウソ。実はこのあとも全然すっきりせず、ずっとグジュグジュしていた。

そこへ、あの天安門事件が起きた。それで、全てがひっくり返ってしまった。

Copyright (C) daba