1995.09.24
(・・・自由の森に保存)
1、M先生へ
一九九五年三月二八日
先日は、お忙しい中をどうもありがとうございました。とてもよい思い出に残る最後の父母会でした。実は私はこの会で先生と一番話したかったのです。そして、かなりお話出来て満足しています。にもかかわらず、言い足りなかったところがあったので、(生意気を承知で)書きます。
まず、私はよく息子のアホとか脳天気とかを口にしますが、しかし、それで決して彼を非難したり、或いは自森を非難したりする気は全くありません。何故なら、彼の「アホ」ぶりや「脳天気」ぶりは元来すべて親の私に由来することだからです。
昨日もちらっと申しましたが、私は家が貧しいために田舎の出身にもかかわらず、小3のときに密かに大学受験のための受験勉強をはじめようと思い立ち、以来、大学の2年半を除いて29歳まで18年間延々としょうもない受験勉強に明け暮れました。この恐るべき不毛な18年間にピリオドを打ってくれたのが、ほかならぬ息子の誕生でした。散々に消耗しきっていた私は、彼の出現とその強烈な生命力に打たれて、それまでどうしても越えられなかった司法試験のハードルを奇跡的に越えたのです。その意味で、彼は私にとって文字どおり救世主であり、天使でした。だから、彼と出会った頃からずうっと、彼のありのままの生命力を肯定することが私の信条でしたし、彼に対しても「汝の欲するままにおこなえ」ということ以外には考えられませんでした。
その結果、彼は何よりもまず自分の欲するところに従ってまっしぐらに突き進むタイプの人物になったのです、たとえその欲する内容がもっかのところ、日本資本主義の「アホ」ぶり「脳天気」ぶりに徹底して影響を受けているとはいえ。
そして今でも、私は基本的にその生き方は間違っていないと考えています。そして、もっかのところ殆ど日本資本主義の「アホ」ぶり「脳天気」ぶりの申し子のような状態の彼に対し、彼が目覚めるのはやはり「無知の涙を流す」中でしかないのではないかと考えています。私がそのことを痛感したのは、数年前に他界した作家中上健次のことを読んだ時のことです。中上という作家は非常に生命力溢れる男ですが、ものすごい不幸な生い立ちを経てきた彼は、彼自身に言わせると、高校時代まではただ「ボーとしていた」だけの生徒だったそうです。それが大きく変貌するのが、上京して大学に行く振りをして新宿のジャズ喫茶に入り浸りになって毎日脳天気な生活を送っていた頃、同じ新宿で同世代の永山則夫の連続射殺事件が起きたことによります。この事件にものすごい衝撃を受けた彼は、永山と同様そこで「無知の涙を流す」経験をしたんだそうです。以来、彼は突如として猛烈に勉強するようになり、勉強を通じ、自分というもの、自分を取り囲む世界というものを徹底的に認識するようになったというのです。
そして、私は、いつも生命力の中心にいるような性格という点でこの中上と息子に共通点を感じています。 但し、ここまで書いてきて、もしかして中上が「無知の涙を流す」ことができるようになるためには、単に或る一つの衝撃的な事件があっただけではダメなのであって、その前に、「無知の涙を流す」に足りるだけの力量を蓄えておかなければならなかった筈だという気がしてきました。どうも中上は、それを子供の頃に「路地」という場で実践された子供会(戦後民主主義の熱情がまだ燃えさかっていた時代の子供会)でものすごい栄養を吸収することによって身につけたらしいのです。これはひょっとして、自森という場の存在意義とも深く関係しそうなことですね。
また、先月、私が衝撃を受けた「ゆきゆきて神軍」という日本映画を息子と一緒に見たとき、見終わった彼は、即座に「この映画を作った人にオレ会いたいな」と洩らしたのです。この映画に登場する主人公が、また或る意味で息子に非常によく似た人物なのです。つまり、「己の欲するところのままに行く」人物なのです。それで、彼は天皇にパチンコを飛ばし、旧日本軍の上官たちの犯罪を情け容赦なく追求していくのですが、その彼がそのように己の信念に従って行動するように至ったのは、決して最初からそうだったのではなく、かつてただ好きなようにフラフラ生きていた時代に、誤って人を殺傷してしまうという過ちを犯したとき、彼はそこで「無知の涙を流す」ことが決定的な転機になっているのです。この主人公もそこで、猛烈に勉強し始めるようになるのです。
そして、私はたまたま今回の父母会の直前にミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を読み返したのです。そうしたら、(うすうす予感していたのですが)私が今ここで書いていることと殆どそっくりのことが書いてありました。
「汝の欲することをなせ」という教えに従って行動する主人公バスチアンがファンタージエン世界で散々失敗と過ちを体験した末に、自分のやってきたことに気がつくときが訪れたのです。それはこんな風に描かれています。
「ぼく、みんなまちがったことをしてしまった。」バスチアンは言った。「みんな、考え違いをしていたんです。月の子は、僕に沢山のものをくださったのに、僕はそれでもって、自分にもファンタージエンにも悪いことばっかりしてしまったんです。」
アイゥオーラおばさんはバスチアンを長いこと見つめていた。そして、言った。
「いいえ、私はそうは思わない。これまであなたは『望みの道』を歩いてきたの。この道は決してまっすぐではないのよ。あなたも大きなまわり道をしたけれど、でもそれがほかでもないあなた自身の道だったのよ。……それで、あなたは、いのちの水の湧き出る泉さえ見つければ、人間世界に戻れるの。でも、そこはファンタージエン世界でも最も深く秘められた場所なのよ。だから、そこへゆく道は簡単ではないわ。」
そして、しばらく口をつぐんでいた。それからまた言葉をついだ。
「でも、そこへ通じる道なら、どの道も結局、正しい道だったのよ」
それを聞くと、いきなりバスチアンは激しく泣き出した。なぜだか、自分でも分からなかった。しかし、それは胸の中で固くなっていたわだかまりが解け、涙になって流れ出したような気持ちだった。
すすりあげ、しゃくりあげ、あとからあとから、とめどもなく涙が流れた。アイゥオーラおばさんはバスチアンを膝に抱き上げ、やさしくやさしくなででくれた。バスチアンはおばさんの胸の花の中に顔を埋め、思う存分、泣いた。泣いて泣いて、泣きつかれるまで泣いた。
(五四〇頁)
私にとって自森というのは、息子が荒々しい消耗な受験勉強の体制から逃れることの出来る、一種のファンタージエン世界というべきものです。彼はこの世界ではじめて思う存分、自分のしたいことをやり、そして様々な経験を積むことが可能になったと思うのです。ですが、エンデも書いたとおり、彼の『望みの道』も決してまっすぐではない。様々な紆余曲折を避けられない。その意味で、私は彼が、自森というファンタージエン世界の中で、ジグザクの『望みの道』を歩いて歩き抜いて、いつか『いのちの水の湧き出る泉』を見いだすことを願っています。
そして、それはあくまでも彼が自ら見い出さなくてはならないものです。なぜなら、どんな名目にせよそこに管理や強制を導入したときには、人は決して自分の中に本当の『いのちの水の湧き出る泉』を見い出すことなんかできないからです。
ただ、そこで思うことは、じゃあ、学校というのはそこで何が出来ることなのだろうか、ということです。それは家庭と置き換えてもいいです。家庭というのはそこで何が出来ることなのだろうか。
私はもともと教師(或いは親)というものに殆ど期待をしていないのですが(教えるなんてこんな傲慢不遜なことはないという気持ちがあるものですから)、にもかかわらず、もし何か期待するものがあるとすれば、目下のところ、それは「生徒自身に憧れを呼び覚ますこと」ぐらいです。そしてそれは、とどのつまり教師自身のおのれの憧れを語り、それを実践することしかないのではないかと思うのです。もしも教師自らが何の憧れも抱いていないのならば、それを聞く者にどうして「憧れを呼び覚ますこと」ができるだろうか。昨日申しましたように、例えば、この自然界において光くらいケッタイな神秘的なものはないと思うのですが、もしこの光というものの存在に限りない謎と憧れを抱いてしまった者(教師)にとって、光の謎を解明するあらゆる探求(物理学・美術・映画など)は、全てその教師の光に対する憧れに裏打ちされた、その憧れを実践する授業とならざるを得ないと思うのです。そうした授業だけが生徒に或る種の憧れを呼び覚ますことが可能なのではないかという気がするのです。
そして私の目から見て、現在の自森で、少なからずそのことに成功しているのは、(ごくごく大雑把な言い方ですが)音楽や美術や体育(和太鼓等)や工作といった芸術に関する授業ではないでしょうか。言い換えれば、これらの授業では、息子なんかもそこで自分自身というもの(=自分自身の憧れといったもの)を見い出せるという実感が持てるのです。これに対し、例えば数学や理科や英語の授業では、往々にして、そこでは自分とは何の縁もないただの知識が語られているという実感しか持てないのではないでしょうか。つまりそこでは、「オレのことが語られていない、オレのことがまったく問題にされていない」という感じで、自分というものが全く見い出せず、そんな授業は受験や点数といったニンジンをぶら下げていない息子たちにとっても単に退屈なだけではないでしょうか。これに対し、歌を合唱し、太鼓を打つとき、息子たちはそこで自分自身の中にそれまで知らなかった、新しい豊かな感情と出会い、その豊かな感情に対し、もっともっとこれを深く体験したいという憧れを抱いているような気がします。だから、進んでこれに参加し、喜びをもって経験するのだと思います。
その意味で、受験や点数といったニンジンをぶら下げていない自森の生徒たちこそ、一体いかなる授業が我々の憧れを本当に呼び覚ますものなのか、これをまざまざと明らかにしてくれる(すごくシビアなリトマス試験紙)という気がするのです。そこで、ごく乱暴な言い方をすれば、この間の自森の授業実践が明らかにしたものというのは、音楽や美術だけではなく、数学や理科といった知的な分野の授業もやはり芸術というスタイルを大いに尊重して行われるしかないということではなかったでしょうか。
私自身はここ3、4年、ニセ・チンピラ学生をしてきて分かったことですが、今の大学であれ放送大学であれ、そこでやられる数学や物理といったこの種の授業は、正直言ってどれもこれも魅力がなく、すこぶる退屈でした(だから、この殺伐たる空虚な気分から、ひと思いにオウムに走る者が出てきたとしても何ら怪しむに足りない。だから、オウムは〈先日誰かが壇上で述べたような〉偏差値、受験教育の弊害の結果なんかでは決してなく、まさに我々の科学そのものの嫡出子です)。しかも、それは単に文部省の管理があるとかないとかといったレベルのことではないのです。そこには、間違いなく、現代文明そのものの行き詰まりがはっきりと反映されていると思うのです。つまり、論理的に首尾一貫していることを至上命題とする自然科学を基礎にして築き上げられてきた現代文明が今や完全に行き詰まっており、我々はもうこれ以上、この道が我々を幸福にしてくれるなどとは信じられなくなった状態、つまり誰も自然科学をもう憧れの対象にすることが出来なくなった時代にいるのです。そして、そのことに最も敏感なのが子供たち、とりわけ受験や点数といったニンジンをぶら下げていない自森のような子供たちだと思うのです。数学や理科をやって一体どういう未来が開けてくるのか、それを核兵器の開発やサリンの開発などではなく、それとは正反対の「我々の憧れの対象」としてどのように語ることができるのか、そのことの不可能性を直感的に一番敏感に察知しているのが、実は自森の子供たちなのではないかと思うのです。
だから、我々もそのことを卒直に認めて、科学を基礎にして築き上げられてきたこれまでの教育の方法をもう一度芸術という観点から見直して、子供たちが自らを発見し、見い出すことが可能な芸術という立場から見直すことが必要なのではないでしょうか。
どうです、すごく大雑把で実に生意気でしょ。
でも、率直なこと、素直なことが何より大事ですよね。だから、私の場合、どんなにドン・キホ−テみたいに思われようと、これが今、自森について最も切実な関心を抱いていることなのです。そしてこのことを共に語り合える人を捜しているのです。それで、とりあえず先生にこうして手紙を書いた次第です。
以上、あまりに大きな問題に対して、今回、あまりに大雑把な言い方しかできませんでした。しかし、これは第一歩です。引き続き考えては、考えたことを書いていく積りです。ここまで読んでいただき、感謝しています。
追伸
私が最も心惹かれる作家ミヒャエル・エンデの講演録を同封します。これは、芸術と科学についてとても深いことを語っているものです。
2、U先生へ
一九九五年六月六日
私は、六月三日の「教育を考える会」のときに、先生に初めてお目にかかった者です。そして正直言って、先生のご自分の現状に関する率直な話しを聞けて嬉しかったです。私自身、そういうあけすけな、ざっくばらんな話が自森でもしたかったのですが、私がこれまで接した限り(まあ殆ど接してきませんでしたが)、自森の先生となかなかそういう雰囲気で話することはできなかった。だから、余計嬉しかったですね。
ということもあって、先日の会合(あのあとの二次会も貴重な話ができまして)の感想を残しておこうと思い、文書としてまとめてみました。もちろんこれは純然たる私的な感想ですから、読まずにごみ箱に捨てても何しようが構いません。また、先生にその感想を求めるものでもありません。ビラやチラシみたいに気楽に扱って下さい。
それで、この感想文に関して、ちょっと補足させて下さい。それは私がここで殆ど注釈なしに取り上げている「日本資本主義」のイメージに関してです。むろん私は経済の専門家でも何でもありませんから、経済的に日本資本主義のことを語る資格はありません。ここで私は自分の受けてきた体験から殆ど直感的に語っているだけです。例えば、私は日本の教育制度の最悪の産物である司法研修所というところで教育を受けてきました。この時の経験およびその後の法律家としての経験から、日本法曹界というのは日本資本主義が崩壊するときにはまっ先に、ちょうどソ連や東欧が崩壊したように崩壊するであろうような、ガチガチのどうしようもない制度であることを確信しています。
そのほかの経験も含め、私は日本で生活してきてこれまでずっと殆どノイローゼのような状態でした。それで、本気で日本からの亡命のことを考えてきました。昨年、それを実行に移すべく、生来モノグサな私は初めて渡米し、アメリカをうろつき回りました。不思議なことに、いざそういう行動に出てみて初めて自分がしたいこと、或いは自分がしたらよいことが何であったか分かったのです(まるで自森の生徒みたいですね)。つまり、私は場所としてのアメリカにこだわる必要は毛頭ないこと、亡命ということについて本質的に重要なことは何もアメリカに移り住むことではなく、要するに日本とかアメリカとかいった国(システム)のどこにも属さないような生き方、すなわち無国籍的な生き方にあるのだということに初めて気がついたのです。それで、ようやく気持ちが落ち着きまして、ここしばらくは、このどうしようもない日本という場所を仮の住まいとして、無国籍人として頑張ってみようと思ったのです。
まあ、そんな風に日本(日本資本主義)を見ていますから、そして自森のことも「日本における自森」あるいは「好むと好まざるを得ず、日本資本主義に属している自森」というふうに見ていますから、自森のおかれた現状についても、明るい未来が持てるような材料は何一つないといった認識にいます。
しかし、そのような私が驚かざるを得なかったのはここ自森には、そういう現状を分かっていても、にもかかわらずなお希望を捨てないで、創造的たらんと努力し続ける人たちがいるということでした。その「あきらめない」人たちの存在が私を惹きつけます。
私もぜったいあきらめたくないのです。今回の感想に書きました私のやりたいことである、人間の尺度で物事をとらえ直す新しい科学の探究(実は、このことは何も自然科学だけを言っているのではなく、社会・日本語・英語といった社会科学も含めた、さらにはもっと、我々の自然と社会に対する生き方全体を総体的に問い直すものですが)、この科学の探究が、たとえ全然うまくいかず、今すぐこれといった「成果」がないとしても、しかし、私にとっては、人間が再び人間らしく生きるために努力すること、そのために「成果」がなくとも絶対あきらめないこと自体が意味があると思うのです。我々は資本主義(社会主義にしても同様ですが)の世界にどっぷりつかっているため、「成果」という考えに余りに価値を置きすぎる癖がついているのかもしれません。しかし、「成果」ではなく「プロセス」自体こそ実は最も重要なものであることを今やしっかりと再確認する必要があると思います。
だから、私にとって最も大事なことは「あきらめないこと」ですし、自森に「あきらめない」人々がいるということです。もしかして自森の生徒にとって、これ以上の貴重な学びはないのではないでしょうか。
私の息子にしたって、彼が自分が大切に思ったことはどんなことがあってもあきらめないこと、これさえ身を持って学んでくれればもう十分だと思う。しかし、このことを、この最も貴重な学びを、今の日本で自森以外のいったいどこで学べるというのだろうか、と思うのです。それくらい自森は貴重な場だという気がしてなりません。(私もちょっと興奮気味ですが)
でも、こう言ったからといって、あんまり緊張しないで下さい。第一、私は決して理想主義者ではありませんから。だいたいのところ「人は努力する限り、いつも迷うものだ」という風に考えている者で、自分自身殆どいつも失敗と誤りをくり返してばかりいる者です。だから、私は「あきらめない」人間になるしかないのです(カミさんに対して、しょっちゅうそんなことばかり考えている)。
どうか引き続き、いろいろ率直なお話が聞かせて下さい。
前回同様、まだまだ考えが浅く抽象的です。が、今後は自森の中で実際に自主講座自主講座なりを開いて、そう
いう場における探究を通じ、引き続きより具体的に考え続けていく積りです。ここまで読んで下さり、あ りがとう(この感想続く)。
(1995年9月24日)
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