7.7/98
人気ゲームソフト「ときめきメモリアル」の内容が無断で変更されたとして、ゲームのデータを保存したメモリーカードを輸入販売した「スペックコンピュータ」を相手に、損害賠償と謝罪広告を求めて、大阪地裁に提訴。この事件の控訴審における控訴人コナミの第3回目の準備書面。
この書面の目的は、審理のこれまでの到達点と今後の課題を明らかにするものであった。つまり、これまでの審理では、「本件の改変とは具体的にどういうレベルのところにどんな風に生じているか」という改変の状況を即物的に明らかにしてきたが、今や、「本件の改変が意味するもの」について、正面から取り組むべきであることをアピールしたものである。
しかし、このことの重要性が殆ど裁判所に理解されなかったことが今新たにこの裁判の最大の課題となっている(より正確には、この時点で、裁判所は、これ以上、事件に本腰を入れて審理しようという気が全くなかった)。
*なお、ホームページ上で見やすいように、適宜、段落で区切ってある。
事件番号 | 大阪高裁民事第八部 平成9年(ネ)第3587号 著作権侵害損害請求控訴事件 |
一審:大阪地裁民事第21部 平成8年(ワ)第12221号 損害賠償等請求事件 | |
当事者 | 控訴人(原告) コナミ株式会社 |
被控訴人(被告) スペックコンピュータ株式会社 | |
一審訴提起 | 96年11月27日 |
一審判 決 | 97年11月27日 |
控訴提起 | 97年12月8日 |
控訴判決 | 99年 4月27日 |
控 訴 人 コナミ株式会社
被控訴人 スペックコンピュータ株式会社
平成一〇年 七月 二日
控訴人訴訟代理人
弁護士 柳 原 敏 夫
大阪高等裁判所
民事第八部 御中
一、本書面の目的----審理のこれまでの到達点と今後の課題---- 三頁
二、「アナログ中心主義」から見た場合の本件ゲームソフト著作物の「改変」のイメージ
五頁
三、「アナログ中心主義」が陥った誤り 六頁
四、本件ゲームソフト著作物の面白さ(=意味するもの)について 九頁
五、次回の準備 一三頁
以 上
一、本書面の目的----審理のこれまでの到達点と今後の課題----
1、文芸評論家の柄谷行人は、我々が或る事態を理解するということについて、『意味の変容』の作者森敦の言葉を引用しながら、次のように言っている。
《いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ構造することができず、構造することができなければ、いかなるものもその意味を持つことができない》(「批評とポストモダン」の「断章」福武文庫版二八一頁)
本裁判の「著作物の改変」の問題においても、控訴人はまず、「改変の意味」するものを取り去って、ひたすら「改変の構造」なるものを明らかにすることに専念した。つまり、これまでの二回の審理の中で、本件メモリーカードの作成によって本件ゲームソフト著作物がいかなる改変をうけるかについて、まず「本件の改変がそれがどういう意味や評価を帯びるものなのか」についてはこれをカッコに括って、ひたすら「本件の改変とは具体的にどういうレベルのところにどんな風に生じているか」という改変の状況だけを即物的に明らかにしようとしてきた(控訴人準備書面(1)二一頁以下、同準備書面(2)三頁以下参照)。そして、幸い、裁判所にも、実際にゲーム機を使用して本件ゲームソフト著作物を(恋愛シュミレーションゲームとして十分味わってもらったかは不明としても)ともかくにも経験してもらえた。
その意味で、本件の「改変の構造」なるものがつぶさに明らかにされた今こそ、初めて「本件の改変が意味するもの」について、正面から取り組むことができるというべきである。
2、しかし、今回、甲第一五号証の久保田意見書でも指摘されたように、ゲームソフト著作物のようなデジタル著作物における「改変」のイメージをリアルに把握することは、実は意外に困難なことである。なぜなら、我々は、これまで長い間、ゲームソフト著作物のようなデジタル著作物とは対照的な、小説とか絵画とか映画とかといったアナログの著作物にずっと馴染んできており、そのため、著作物の「改変」をイメージする際にも、つい、このようなアナログ著作物の「改変」の場合のイメージから出発してしまうからである。そのため、ゲームソフト著作物のようなデジタル著作物に固有な構造に関する「改変」のところが見逃されてしまう。
そこで、以下、本件ゲームソフト著作物の「改変」を正当に意味づけ、評価しようとするものにとって、アナログ著作物の「改変」の場合のイメージがいかに危険なものであるか、そして、そのような罠から逃れるためにはどのようなことが必要かについて、吟味してみたい。
二、「アナログ中心主義」から見た場合の本件ゲームソフト著作物の「改変」のイメージ
ここでまず、小説、絵画、映画といった、我々がずっと馴染んできたアナログの著作物に関する「改変」のイメージから出発して考える立場を、今仮に「アナログ中心主義」と呼ぶことにする。
そうした場合、この「アナログ中心主義」からすると、これまで、著作物の「改変」とは何よりもまず、その改変の様子が、読者(鑑賞者・観客)に対し、はっきりと目に見える形でなされてきたのである。たとえば、清純な主人公がアダルト的な主人公に改変されたり、微笑えむモナリザの顔が怒った表情に変えられたり、セリフが今までにはない新しいセリフに変えられたりという具合に、要するに、元の表現にはない新たな表現に変更されたことが現象的、外形的に明確に把握できたのである。
ところが、本件においてはどうだろうか。たとえ本件メモリーカードを使用した場合であっても、本件ゲームソフト著作物は、たとえば、清純な藤崎詩織のキャラクターがアダルト的なものに変貌するわけでもないし(従来通り、清純なキャラクターのままである)、今までにはあり得なかった新しい表情を藤崎詩織が見せるわけでもないし(従来示す表情通りのものが表現されているにすぎない)、さらに、今まで喋ったことのない新しいセリフを藤崎詩織が口にするということもない(全く同じセリフを口にしているだけである)。その意味で、事態を現象的、外形的に眺めた場合、ここではとくに、元の表現にはない新たな表現に変更されたというような著作物の「改変」の状況は認めがたいものと思えてくるのである。そして、「改変」として考えつくのは、精々、
@ゲームのラストで愛の告白を得られる確率が高まっただけのこと
Aゲームの途中で登場する女生徒の登場時期が若干早まっただけのこと
Bプレイヤーのパラメーターの数値が変更になっただけのこと
といったことぐらいで、これらは、「アナログ中心主義」から見たら、些末な、どうでもいいような改変にすぎないのではないか、と思えてくる。
三、「アナログ中心主義」が陥った誤り
右に述べた内容は、「アナログ中心主義」の立場からすれば、間違いなく首尾一貫した帰結である。その意味で、これを否定する気はない。しかし、問題は、その先にある。つまり、本件の著作物がもしアナログの著作物ならば、右の主張に全面的に賛成するしかないが、しかし、本件の著作物はこれとは対照的なゲームソフト著作物というデジタル著作物である。従って、そこにはアナログ著作物にはない、デジタルのゲームソフト著作物に固有の表現形式上の工夫といったものが存在し、その部分に関する改変のことが「アナログ中心主義」という視点からではすっかり見落とされてしまうからである。
では、本件において、「アナログ著作物にはない、デジタルのゲームソフト著作物に固有の表現形式上の工夫にまつわる改変」とは一体何を指すのか?
その最たるものは、既に何度もくり返した通り「インターラクティブ性」をめぐる改変である。つまり、本件における改変の核心とは、映画や小説といったアナログ著作物にはない、ゲームソフト著作物に固有の表現形式上の工夫である「インターラクティブ性」を具体化した、主役であるプレイヤーの人物設定をめぐる改変が行なわれた点にある。このことは、既に何度も詳述した通りである(控訴人準備書面(1)二八頁以下、同準備書面(2)三頁参照)[*末尾注1]。
しかし、ここでの問題は、では、この改変の様子がなぜ、伝統的なアナログの著作物における「改変」のときのように、はっきりと目に見える形で我々の前に現われてこないのだろうか、にある。
ひとつにそれは、本件ゲームソフトを制作した控訴人会社の制作担当者が、本件の恋愛シュミレーションゲームにおける「インターラクティブ性」を具体化するにあたって、主役となる登場人物(=プレイヤー)が登場する場所を、伝統的なアナログの著作物の場合のように、画面上に我々の目に見える形で具象化せず、画面の外に、それも
《「画面上とプレイヤーの間(はざま)」のような特異な場所に主人公が存在する》(甲第一五号証久保田意見書三頁二〇行目)
ように仕組んだからである[*末尾注2](但し、例外的に、日常コマンドを実行中の画面や運動会の競技のときなどに主人公がチビキャラとして登場することはある)。そのため、相手役の藤崎詩織たちは画面上に登場することはあっても、遂に主役であるプレイヤーは画面上に姿を見せず、それゆえ、本件がこの主役であるプレイヤーの人物設定をめぐる改変であるにもかかわらず、その改変の様子を画面上でつぶさに観察することがもともと適わないのである。
もっとも、仮に本件ゲームソフト著作物をロールプレイングゲームの大ヒット作「ドラゴンクエスト」のように、主役となる登場人物が画面上キャラクターとして登場するような構成にしたとしても、実は、主役であるプレイヤーの人物設定をめぐる改変の様子は必ずしも我々の目に見える形で明快には現われてこないだろう。なぜなら、ここでの改変のポイントは、たとえば、容姿を変えるとか、顔の表情を変えるとか、セリフを変えるとかといったレベルのことではなく、主人公のステータスを意味するパラメーターの数値を変えることだからである。それゆえ、この数値が驚異的な高数値に置き換えられ、「あたかも、ごくありふれた凡人という人物設定が、突如、無敵のスーパースターに変更してしまったようなもの」(控訴人準備書面(2)四頁七行目)だとしても、しかし、画面上、外形的、現象的には、特段変化の相は現われてこないのである。では、そうすると、このような変更は本件ゲームソフトのゲーム展開上、一体、いかなる「意味の変容」をもたらしたものというべきなのか?
そこで、これを理解するためには、まず、もともと本件ゲームソフト著作物はいかなる面白さを目指して制作されたものなのか、いわば「本件ゲームソフト著作物の意味するもの」について知らなければならない。
四、本件ゲームソフト著作物の面白さ(=意味するもの)について
今や「ゲームの神様」とまでいわれる、「ドラゴンクエスト」の作者であるゲームデザイナー堀井雄二について、彼のゲームソフト制作の秘密は、
《データはただの数字の山。単に数学的な確率論を応用すると平凡なバランスになる。》ところが、《ゲームバランスを取らせると堀井は天才的》(甲第二〇号証の一。六四頁二段目二行目以下)
な点にあるといわれる。つまり、ゲームソフト「創作の鍵」は彼一流の「ゲームバランス」にある。そして、この理は、恋愛シュミレーションゲームである本件ゲームソフト著作物においても変わりはない。
ただし、裁判官には今さら「高校生の恋愛」では身が入らないかもしれないので、この「ゲームバランス」が何たるかを理解してもらうために、ここでは恥を承知で敢えて控訴人代理人のような大人をモデルにした、もっと身近な「生活シュミレーションゲーム」なるものを想定して、それでもって「ゲームバランス」のイメージをごくごく大雑把に解説してみたい。
それは、共働き家庭の中年男性を主人公にした場合であって、彼の生活には@仕事の遂行とA家事の分担とB子供の世話の分担とCプライベートな時間の充実、という四つの柱(パラメーター)がある。もちろん、彼の喜びは今ではC(小説や脚本を書くといった)プライベートな時間の充実にあるのだが、しかし、それに夢中になっていると、つい夜更かしがたたって、@仕事やA家事B子供の関係がすぐ悪化し、依頼者から仕事を切られ、夫婦喧嘩が勃発し、子供がグレ出す。そこで、彼は、生活を首尾よく進行させていくために、この四つの柱(パラメーター)をバランスよく取ることを余儀なくされる。従って、このような中年男性の現実をシュミレートした「生活シュミレーションゲーム」なるゲームを構想する場合、ゲームの面白さは、いかにも実際の生活が実感として味わえるように、この四つの柱(パラメーター)の設定をどのようにバランスよく工夫するか、にかかってくる筈である。このように「生活シュミレーションゲーム」を例に取るなら、控訴人代理人でも「ゲームバランス」の妙、デリケートさというものが痛いほどよく分かる。そして、控訴人会社の制作担当者から、
《それと同じくらいの「ゲームバランス」の妙、デリケートさをもって、本件ゲームソフト著作物は、高校生の現実の恋愛を反映するように、主人公のパラメーターの数値の設定ほか様々な点で「ゲームバランス」を工夫しながら、恋愛シュミレーションゲームを作り上げていったのです》
と言われたとき、本件ゲームソフト著作物における「ゲームバランス」の妙、デリケートさのことがもう少し合点が行く。
そして、本件ゲームソフト著作物における「ゲームバランス」の妙、デリケートさは、決して単なる漠然としたアイデアのレベルではなくて、本件ゲームソフト著作物の表現形式として、たとえば前述した、
@ゲームのラストで愛の告白を得られる確率をどのように設定するか
Aゲームの途中で登場する女生徒の登場時期をどのように設定するか
Bプレイヤーのパラメーターの数値をどのように設定するか
といった点にきちんと具体化されている。
だから、控訴人がなぜ本件メモリーカードの作成を怒っているかということも、ここからして察しがつくと思う。一言でいってそれは、本件メモリーカードにより、右@からBに掲げたような、制作者がもっとも苦心をこらした、本件ゲームソフト著作物における「ゲームバランス」を壊されてしまったからである。これは、伝統的なアナログ著作物における著作物の改変の場合には、まずあり得なかった、その意味で、デジタルのゲームソフト著作物において初めて出現した、未知との遭遇ともいうべき新しい現象にほかならない。
そしてまた、これが、前述した《このような変更は本件ゲームソフトのゲーム展開上、一体、いかなる「意味の変容」をもたらしたものというべきなのか?》(九頁六行目)という問いに対する控訴人の回答でもある。もっとも、これはあくまでもごく概括的な回答にすぎず、デジタルのゲームソフト著作物において世界に初めて出現したというべき未知の現象に対する説明としては余りに簡単すぎる。そこで、今後、この本件ゲームソフト著作物における「ゲームバランス」の具体的内容について、本格的な主張・立証を準備したいと思う。
五、次回の準備
今回、控訴人は、後記に掲げる通り、一連の書証を用意し、
《以上の通り、今回の「ときめきメモリアル」裁判は、ゲームソフト業界にとってはもちろんのこと、知的財産権関連業界全体にとっても、裁判で問われている問題は単にゲームソフトにとどまらず、凡そコンピュータを使ったデジタル著作物の保護のあり方に重大な影響を及ぼすものとして、著作権法学会をはじめとする様々なところで、知的財産権関連業界全体にとっての重要な事件として大きな注目を集めております。》(甲第一五号証久保田意見書二頁一〇行目以下)
ことを立証した。
そこで、次回には、本書面で問題提起した「本件の改変が意味するもの」について、明快なるイメージを示すため(そして、これさえ明らかになれば、本件は解決したも同然である)、ゲームソフト著作物一般における「ゲームバランス」の重要性及びその具体的なイメージ、そして、本件ゲームソフト著作物における「ゲームバランス」の重要性及びその具体的な内容について、控訴人会社の制作担当者自身による解説と、もっかゲームソフト業界の第一線で活躍しているゲームデザイナー、プログラマーたちによる解説を準備・提出する予定である。
注1
「インターラクティブ性」は、もともと伝統的なアナログ著作物の世界では馴染みのない概念であり、それゆえ、正直言って、この概念を頭の中で生き生きとイメージすることは容易ではない。そこで、参考までに、伝統的なアナログ著作物の中で「インターラクティブ性」を導入したユニークなケースを紹介しておきたい。それは世界的ベストセラーになったドイツの作家ミヒャエル・エンデの作品『はてしない物語』である。この作品の中に登場する主人公バスチアンは、たまたま手にした本「はてしない物語」の読者でありながら、次第この本の魅力に取りつかれこの本の世界の中に入り込んでいき、ついには完全にこの本の世界に飛び込んでしまい、この本の中での登場人物となってしまう。その関係を図にしたものが別紙図1である(小森陽一ほか「読むための理論」二一頁より引用)。そこでは、「読者としてのバスチアンと登場人物としてのバスチアン」という二重の関係が成立している。まさに、この二重性こそ「インターラクティブ性」の具体的な現われである。
注2
本件ゲームソフト著作物においても、右の『はてしない物語』のケースと同様、「鑑賞者としてのプレイヤーと登場人物としてのプレイヤー」という二重の関係が成立しているが、しかし、右のケースや「ドラゴンクエスト」の場合などとは異なり、「登場人物としてのプレイヤー」が存在する場所は、画面上の目に見える場所ではなく、画面の外の「画面上と鑑賞者であるプレイヤーの間(はざま)」という特異な場所である。参考までに、「ドラゴンクエスト」の場合の「インターラクティブ性」を図にしたものが別紙図2であり、本件ゲームソフト著作物の場合の「インターラクティブ性」を図にしたものが別紙図3である。
以 上
一、甲第一五号証 コンピュータソフトウエア著作権協会(略称ACCS)専務理事久保田裕作成の意見書
二、甲第一六号証の一〜三 雑誌「発明」九八年四月号(抜粋)
三、甲第一七号証 ソフトウエア情報センター発行の雑誌「SLN」九八年一月二六日号
四、甲第一八号証の一〜三 雑誌「パテント」九八年四月号(抜粋)
五、甲第一九号証の一〜三 新聞「ゲームマシーン」九八年一月一・一五日号(抜粋)
六、甲第二〇号証の一、二 雑誌「アエラ」九六年三月一八日号(抜粋)
七、甲第二一号証 書籍「ときめきメモリアル公式ガイド」
以 上
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