実務家の自己吟味(著作権法における「創作性」とは何か)
第2回:「春の波涛」事件(著作権判例百選[第三版]74)
2002年4月9日
被告NHKらは、1985年1月から川上貞奴ら4人を主役とする大河ドラマ「春の波涛」(被告ドラマという)を放送し、被告ドラマの梗概の記事を中心とした「ドラマストーリー春の波涛」を出版したが、貞奴の伝記「女優貞奴」(原告本という)を執筆した原告から、被告ドラマらは、原告本を無断翻案したものであると主張され、半年余りの交渉ののち、原告は、同年12月、著作権侵害などを理由に名古屋地裁に提訴した。
一審判決 | 94年7月29日 | 原告の請求をすべて棄却。原告、控訴。 |
控訴判決 | 97年5月15日 | 控訴棄却。 原告、上告。 |
最高裁判決 | 98年9月10日 | 上告棄却。 |
1、はじめに
昨年最高裁判決が出た「江差追分(北の波涛)」事件の上告審の準備をしていて気がついたことがあった。それは、それよりほぼ20年前にやった「春の波涛」事件の時と殆ど変わっていないことである。つまり、翻案権侵害訴訟において、この間、殆ど何の理論的進歩もないことである。私はその理論的不毛さに驚いた、一体このような理論的な不毛さは何に由来するものか、と。思うに、その最大の理由は、翻案権侵害訴訟の判断基準に内在する本質的な問題とこの間殆ど誰も真正面から向かい合ってこなかったからではないかと思う(単に「本質的特徴」論といった抽象的なレトリックをいじくり回していただけのことで)。
その意味で、ノンフィクションとドラマにおける翻案権侵害訴訟として真正面から争われた「春の波涛」事件において問われ、格闘せざるを得なかった「翻案権侵害訴訟の判断基準に内在する本質的な問題」をここで取り上げ、問題提起することは今なお十分な意味がある筈である。
2、本質的な課題に直面する前夜
この大事件の被告代理人は、当時、著作権の第一人者と言われた松井正道氏である。私はひょんなことから彼の下で、映画でいう助監督のサードとして、初めて著作権裁判の仕事についた。一審だけで8年余りかかった。しかし、だてに8年もかかったのではない。それなりの訳があったのであり、それを象徴するエピソードがある――裁判の冒頭からお互いに自己の主張と相手に対する反論を激しくやり取りし2、3年が過ぎ、一通り双方の言い分が出尽くしたと思われる頃、左陪席の裁判官が、双方を和解室に呼んで、我々の前でズカッと言ったことがある「私は、この事件をどう判断してよいかさっぱり分かりません。皆さんも、どうですか」ところが、この大胆不敵な発言を前にして、双方の代理人とも返す言葉もなく苦笑するばかりだったのである。
というのは、それまで、原告は、原告本と被告ドラマはこんなに似ているのだ、と似ていると思われる箇所を徹底的に洗い出し、類似性を山のように主張したのであり、他方、被告は、これとは正反対に、原告本と被告ドラマはこんなに違っているのだ、と違っていると思われる箇所を徹底的に洗い出し、同じく非類似性を山のように主張したのであり、また似ていると思われる箇所については、原告と同じ論法で、その部分について、同種の記述が書いてある原告本より先行する資料を探し出し、原告本の記述とて実はこうした先行資料とこんなに似ているのはないかという反論をとめどもなく主張したのであり、こうした物量作戦の結果、裁判所から見ると、原告の主張を見ていると確かに似ているとも見えるし、他方、被告の主張を見ていると今度は似ていないとも見える。要するに、似ているとも似ていないとも言える。その結果、裁判所は、さながら「マクベス」の魔女の言葉「きれいはきたない、きたないはきれい」通り、決定不能な状態に追い込まれてしまったのであり、その挙げ句、「では、そのような場合に、最終的な結論を導き出す基準を皆さんは果して持っているのですか!」と裁判官にズバリ問い詰められたとき、実はこれに回答する言葉を持ち合わせていなかった双方の代理人とも、ニヤリと笑うしかなかったのである。
しかし、当然なことながら松井弁護士は当初からこの論点を予想しており、そのため、当面、物量作戦で時間を稼ぐあいまに、この理論的問題を解決すべく、世界中の著作権法と世界中の翻案権に関する文献をくまなく収集して、判断基準を説いた文献を探し出そうと作業を進めていた。しかし、数年間に渡る文献収集と調査の結果判明したことは――そのような判断基準が書かれた文献はどこにもない、ということだった。
こうして問題は振り出しに戻った。その結果、我々の手に残された唯一の方法とは、「似ているとも似ていないとも言える」作品同士の間の翻案権侵害の判断基準を、自力で発見すること(正確には発明すること、言い換えれば芸術作品の制作と同様、これを創造すること)であった。これが、我々が、この事件で本質的な課題に直面したときの状況だった。
3、本事件で直面した本質的な課題1――「俗情・俗論との結託」の打破をめぐって――
とはいえ、この種の問題では常につきまとう宿命的なことであるが、我々は、決してまっさらなゼロの状態から、こうした問題と取り組む訳ではなかった。我々の目の前には、古くからの誤った偏見、俗論、予断といったものが幅を利かせていて、既に裁判官らの頭を押さえつけていたのであり、まずは、こうした偏見の打破からスタートしなければならなかった。そうした忍耐強い啓蒙的精神が求められた困難な論点として、次のようなものがあった。
◆芸術の本質をめぐる対立
実はこれが本裁判の根底で主調低音を形成した最大の論点である。その対立を原理的な形で言えば、芸術とは「教え」=作者のメッセージを読者に伝えるものと考えるべきか、それとも「表現」=メッセージではなく、あくまでもユニークな表現を読者の前に提示するものと考えるべきかという対立である。
著作権法が、著作者の「思想・感情」を保護するものではなく、あくまでもその「創作的な表現」を保護するものであるという立場からすれば、芸術の本質について、後者の立場に立つべきことがごく自然に導かれるように思われるが、しかし、ことはそう単純ではない。なぜなら、我々は、明治以来、国語教育の中で、作品から作者の気持ちを読み取る訓練をいやというほどやらされてきたのであり、暗黙のうちに、芸術とは作者のメッセージを読者に伝えるものだという固定観念が染み付いているからである。
さらに、原告の伝記作家としての信念がこれに輪をかけた。原告は、原告本(伝記)について、原告が初めて発見した「女優を女の職業とした開拓者」という視点で、「主体性を確立した貞奴像」という人物像を初めて描いた作品であることを終始強調しており、この立場を芸術一般にも及ぼそうとした、つまり芸術の本質について基本的に前者の立場に立っていた。そのような者にとって、芸術においていかにユニークな表現を造形し、これを読者に呈示するかという(後者の立場の者にとって本質的な)議論は実はどうでもいいこととなる。その結果、被告のドラマに、ちょっとでも原告の発見した「視点」「人物像」の片鱗を窺わせる人物や出来事が登場すれば、それで著作権侵害が疑われることになる。そこで肝心なのは、作者が発見した新しい視点であり、新しい人物像であり、新しい立場なのである。
しかし、著作権法上は言うまでもないが、芸術自身の立場においても、芸術は本来、作者の視点・立場・メッセージを読者に伝えるものではない。そんなことをしたかったら、端的にプロパガンダの文章を書けばいいのである。その最も明快な証左が音楽である。この点、ミヒャエル・エンデは、次のように語っている。
私が、音楽を聴いて、頭で理解すべきことはありますか?‥‥音楽に理解はいらない。そこには体験しかない。私がコンサートに出かける、そこですばらしい音楽を聴く。帰り道、私は、ああ今夜はある体験をした、という思いにみたされている。でも、私は、コンサートに行く前とあととを比べて、自分がいくらかりこうになった、なんて思うことはありませんよ。
シェークスピアの芝居を見にいったとする、そのときもです。私は決して、りこうになってかえるわけではありません。なにごとかを体験したんです。
すべての芸術においていえることです。本物の芸術では、人は教訓など受けないものです。前よりりこうになったわけではない、より豊かになったのです、心が豊かに(エンデと語る)
しかし、それは何によってか?――作者の視点・立場・メッセージによってではなく、作者が造形してみせた表現の完璧さによってである。この点、タルコフスキーもまた、ゴーゴリの言葉を引用して、次のように述べている。
『……宣教することは私の仕事ではありません。芸術はそれでなくとも、はじめから教訓なのです。私の仕事は生きたイメージで語ることであり、議論することではありません。私は人生についてあれこれ解釈するのではなく、人生を人の面前に呈示しなければならないのです。』
これはなんという正確な言葉であろうか。さもなければ、芸術家は自分の思想を、観客に押しつけることになるだろう。(映像のポエジア)
従って、「芸術家や詩人にとって大事なのは世界の説明ではなく、さまざまな世界を表現することなの」(ミヒェエル・エンデ「エンデのメモ箱」)であり、「芸術、または詩の持つ説得力は、あくまでも形象理念の具現、その完璧さのなかにだけある」(同上)、つまり、人生や自然の解釈にあるのではなく、人生や自然を造形してみせた表現の完璧さの中にある。
もしこのような正しい芸術観を自覚していたならば、本裁判も、原告の発見した新しい視点でも人物像でもなく、原告本の中で原告が「造形してみせた表現の完璧さ」を端的に問題にし、そのような創作的な表現が被告ドラマに再現されていたかどうかをズバリ問えばよかったのである。しかるに、当時、誰もが確信を持ってこの正しい芸術観に立脚した議論をできなかったため、原告が発見したという新しい「視点」や「人物像」に引きずられて、その片鱗が被告ドラマに読み取れるかどうかが翻案権侵害の鍵となるといった不毛な主張に長期間引きずり回された。
◆原作のあり方をめぐる偏見
さらに、本裁判で幅を利かせた偏見が原作のあり方をめぐる観念だった。つまり、原作というからには原作のほぼ忠実な映像化・再現にちがいないという固定観念である。原告は、この固定観念の下に次のような論法を展開した――本件で原作とされた作品と被告ドラマはちっとも似ていない、むしろ原告本のほうこそ被告ドラマに似ている。原作とされた作品が被告ドラマとこれほど似ていない以上、被告ドラマは原告本の翻案権侵害と疑われてもしょうがない、と。
しかし、実はこれは、原作のあり方について完全な幻想の上に立つ主張である。そもそも、ドラマが原作の忠実な映画化・再現などということは今日ではむしろ皆無に近い現象である。それは単に現象がそうなのではない。映画の本質に照らして本来あるべき姿になっただけのことである。既に40年前、自身が数多くの文芸作品の脚本を書いてきた新藤兼人は、次のように書いている。
脚色する方法には二通りあると思うのです。どんな場合でも原作の精神をシナリオに生かさなければならないのは勿論ですが、『風と共に去りぬ』のように、小説のダイジェスト的に、ストーリーの発展過程を忠実に追っていく方法と、『エデンの東』のごとく、膨大な小説の三代にわたる、孫の代だけをとって、前の代は全部既成事実としてシナリオのなかにもちこんでしまう方法です。どちらかといえば、『エデンの東』のやり方のほうが、脚色術の本質だと思います」(シナリオ読本)
また、山田洋次も、かつて、橋本忍と一緒に、松元清張「砂の器」を原作にした脚本作りをしたときのことを、次のように語っている。
‥‥(『砂の器』)はたいへんおもしろい小説で、ひと息に読んでしまったのですが、さてこれを映画化するとなるとさっぱり見当がつかない。あまりにもストーリーが複雑すぎて映画にはちょっと無理ではないかというのが私の感想でした。‥‥私は橋本さんと会い、その席で正直に、これはとても無理でしょうといったのですが、橋本さんは「いや、この作品にはひとつだけいいところがある。それは山田君、ここなんじゃないかと俺は思う」といって、彼が赤エンピツで線をひっぱったところを指さしました。‥‥そういわれてみますとなるほどイメージがうかんでくる。‥‥私も、なるほどこれはいけるかもしれませんね、ということから『砂の器』の脚本は出発したのです。(映画をつくる)
また、何本もの文芸作品の映画化を制作してきたタルコフスキーは、次のように言う。
文芸作品の映画化は、映画監督が文芸作品から離れて、なにか新しいものを作り出したときにのみ成功するのだ、と私は信じています。『僕の村は戦場だった』『惑星ソラリス』『ストーカー』これらの映画は文芸作品の映画化です。しかし、もしここに成功していると言えるものがあるとすれば、それは私たちが、どのような場合であれ、作家のすぐあとをついていかなかったからです。例えば、レム(『惑星ソラリス』の原作者)との場合ですが、シナリオを自分の望むように作らせてもらえなかったというまさにそうした理由で、私は、『惑星ソラリス』に対して何よりも不満なわけです。‥‥
『ストーカー』に関して言えば、原作はすっかり書き直されてしまい、原作の中で残されたものはストーカーという職業だけです。それすら映画の展開の中ですっかり違うものになっています。(タルコフスキー、好きっ!)
そして、被告ドラマもまた、これらのケースと同様、原作のあとを忠実についていくことはせず、脚本家中島丈博氏のオリジナリティが全面的に発揮されたのである。だから、原作とされた作品と被告ドラマが似ていなくてもあやしむに足りない。しかし、原告は、これを原告本の著作権侵害を免れるための方便にほかならないと主張して譲らなかった。その上、被告すら、当初、これを正面から反論する確固たる信念を持ち合わせず、その結果、ズルズルとこの種の俗論に引きずり回された。
◆ドラマ化に関する偏見
当時、遂に突き止めることはできなかったが、今にして思えば、本件がかくも長期化した最大の理由は原告自身の無意識の確信として次のような芸術観があったからだと思う――芸術とは、伝記と同様、真実に立脚して制作されるものであり、そして、自分こそ初めて貞奴の真実なる人物像を発見したもので、そうである以上、この自分の作品をさしおいて、貞奴を主役にしたドラマ化なぞ絶対に不可能であり、それを自分に無断でやってのけた被告は著作権侵害というほかない、と。
しかし、本来、芸術とは、伝記とは異なり、決して真実を描くものではない。この点、ミヒャエル・エンデも、こう言っている。
ピカソはこう話したことがあった。『芸術が真実とまるで関係ないことはみんな知っている。芸術は嘘、私たちに真実を見せてくれる――かもしれない――嘘なのです』。これは極端な言い方だけれど、正しい。そしてピカソの例を続けるならば、彼の「ゲルニカ」にとって、あの無防備な町の爆撃はただのきっかけにすぎない。ピカソはそこから偉大な絵を描いた。(エンデのメモ箱)
とはいえ、真実の発見を第一義的な目的とする仕事に就いていた原告が、芸術を伝記と同列に考え、ドラマ化について間違った確信に陥ってしまったとしてもそう責める訳にはいかないだろう。むしろ、訴訟提起前の交渉段階で、「ドラマと原作の関係、伝記における著作権保護のあり方」について知りたいと思っていた原告に、このことを理解させ得なかったこと=コミュニケーションの失敗が、その後15年近い不毛な裁判をもたらしたのである。しかし、これは誰かの責任という問題ではない。端的に日本の著作権事件における見識の低さがこうした悲劇をもたらしたのである。
4、本事件で直面した本質的な課題2――翻案権侵害の判断基準の探求――
(1)、翻案権侵害の判断基準の意味
では、これから、著作権の「創作性」の問題において我々に突き付けられた本題に入る。それは、以前にも述べた通り、こうした著作権侵害裁判の判決において、判決理由として語られる「表現形式上の本質的特徴部分」だの「創作的な内面的表現形式」といった著作権侵害の判断基準について、あれこれ詮索したところで無意味であり、肝心なことは、こうしたレトリックの下で現実に取り上げられ、吟味検討された問題に目を向けることである。
そこで、まず最初に、翻案権の正当な位置づけを再確認しておく必要がある。なぜなら、複製権中心主義の立場を採る従来の著作権法の下では、翻案権も所詮、主役たる複製権のただの派生物としか考えられてこなかったからである。
しかし、翻案権は、その性質上、複製権と全くちがうものである。元々複製権が念頭においていたのは、アウトローの連中が製作・販売する海賊版の取締まりであるのに対し、翻案権が問題となる状況というのは、本件がそれを如実に示すように、クリエーター同士の創作をめぐる争いである。そこでは、先行著作物の著作権保護とあとの著作物の著作者の表現の自由とが衝突し、両者の調整が問われるが、そのようなシビアなことは複製権では元来全く予想していない。その意味で、元々は翻案権もまた複製権の穴を埋めるものとしてその派生物として登場したのであるが、その本質に照らせば、その正しい位置は、ちょうど憲法に登場した生存権などの社会権的人権がそれまでの自由権的人権とは一線を画するものとして並列して位置づけられているのと比すべきである。
もっとも、翻案権は、社会権的人権と異なり1条しかない。しかし、それは翻案権が、翻案における「先行著作物の著作権保護とあとの著作物の著作者の表現の自由との衝突を調整する」一般条項でしかないことを意味する。しかるに、現実の翻案とは、著作物をめぐってありとあらゆる形態が可能であり、現に実行されている。そこで、我々は、ここから、翻案権が現実の裁判規範として使い物になるように、これを分野別に具体化する必要がある。その重要な一分野としてドラマ化権というものがあり、本件では、抽象的な翻案権侵害の判断基準一般ではなく、(より厳密に言うと、典型的なドラマ化に関する)ドラマ化権侵害の具体的な判断基準が問われたのである。
(2)、ドラマ化権侵害の具体的な判断基準
しかし、抽象的ではない、現実の裁判に役立つような「ドラマ化権侵害の具体的な判断基準」の探求と言っても、その手がかりが世界中の著作権法と著作権の文献にもない以上、その実行はどのようにして可能か。手がかりは、原理にしかない――法律が対象とすべき社会現象に対し、科学的、客観的な認識を行なうこと――としたら、それを実行するしかなかった。
しかし、それで道のりは目標の半分にも満たない。なぜなら、たとえドラマ化という社会現象に対する科学的、客観的な認識に成功したとしても、さらに、その認識を踏まえて、そのようなドラマ化において、どのような両作品の類似性が認められた時に、それが法的にも翻案権の侵害と評価するのが適切かという「価値基準の吟味・選択の問題」が残っている。そして、この問題もクリアして、無事、適正な「ドラマ化権侵害の具体的な判断基準」を発明し得たとしても、さらになお、それを本件の原告本と被告ドラマ(法廷に提出されていたのはシナリオである)に実際に適用して、生きた料理をしてみせなければならなかったからである。そして、この料理は容易なことではなかった。なぜなら、そのためには、一種特異な言語著作物であるシナリオが読めなくてはいけなかったからである。
そこで、私は、ドラマ制作現場に向い、シナリオ執筆と理論書の勉強に向った。その中で出会った最も信頼できるシナリオの理論書が野田高梧の「シナリオ構造論」であり、具体例を最も分かりやすく紹介していたのが舟橋和郎の「シナリオ作法四十八章」だった。我々の目標は、これらに基づいて「ドラマ化という社会現象に対する正確な認識」を獲得し、それに適用すべき「価値基準の吟味・選択の問題」を解決して「ドラマ化権侵害の具体的な判断基準」を発明し、それを本件に当てはめて結論を出すことだった。
シナリオ執筆とシナリオ理論書の一連の検討の中で、ドラマ化の構造に関する認識を徐々に獲得していったのち、私は、「価値基準の吟味・選択の問題」に関して次のように考えた――典型的なドラマにおける基本条件として備わっていなければならないものとは何か?そのようなものがもし他人の作品から無断で利用されたとしたら、それこそドラマ化権の侵害と言っていいのではないか。つまり、それを基準にドラマ化権の侵害を判断していいのではないか。では、その基本条件とは何か?その答は、若き新藤兼人が、自作のシナリオを師の溝口健二から酷評されたという次のくだりに示されている。
「これはシナリオではありません、これはストーリーです!芝居がぜんぜん書けていない、こんなことじゃだめだね」(青春のモノクローム)
つまり、ストーリーや単なる構成や粗筋・梗概ではドラマの基本条件たり得ない。そこには筋(プロット)が必要なのである。筋とは、
選択された素材の各々が主題によって調整され、適宜に有機的に因果関係を保って論理的な系列の中に置かれること(野田高梧「シナリオ構造論」)
分かりやすく言い換えれば、「登場人物の具体的な出来事・行動が因果関係の連鎖で結ばれていて、その出来事・行動を通じて、登場人物の感情のうねりが具体的に表現されていること」である。そして、この筋において核心をなすのは「因果関係の連鎖」である(ストーリーにはこれがない)。これが描けているかいないかで「芝居がぜんぜん書けていない」かどうかが決まる。つまり、表現方法レベルで考えた場合、これがドラマ創造の源泉であり、それゆえ「ドラマ化権侵害の判断」の分かれ目となるのである。
そこで次に、私は、「因果関係の連鎖」の探求に向った。途上であったが、その中で分かったことは次のようなことであった。つまり、「因果関係の連鎖」とは、
ある登場人物が相手の登場人物に対し、いかに切迫した呼びかけをするか、そして相手がこれに対していかに鋭く反応するか、という対話的な交流を描くこと(小森陽一意見書35頁)
人物の科白・行動・出来事がただ時間的経過と共に描かれているだけでは全く駄目で、人物の科白・行動・出来事が、あくまでも、一方から他方へ呼びかけ、これに対し他方から一方に呼び返すという具合に、寄せては返す波のごとく、対話的交流を積み重ねていく形をとっていなければならない。(同36頁)
トライとリアクションの関係(同36頁。舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」104頁以下)
こうして、私は、「ドラマ化権侵害の具体的な判断基準」とは、両作品の「筋」が同一であるかどうかであると、すなわち「登場人物の具体的な出来事・行動が因果関係の連鎖で結ばれていて、その出来事・行動を通じて、登場人物の感情のうねりが具体的に表現されていること」が両作品において同一であるかどうかであると解釈した。
それから、我々は、このキーワードを使って、いよいよ原告本と被告ドラマの「筋」を具体的に明るみに出す作業に向った。実は著作権裁判の最大の快楽はこうした細部にわたるテキスト分析に成功した時である。そのとき、それまで単に平板な文字の羅列にしか見えていなかったシナリオが、一変して「寄せては返す波のごとく、緊密な対話的交流の積み重ね」の下に見事に統一され構築されている様を発見する。そこは作者にとってドラマ創造の源泉の場であり、そのときこそ「ドラマ化権侵害の判断」の成果を発見した瞬間なのである。
ところが、ここで(予想していたとはいえ)ひとつの暗礁に乗り上げた。それは、原告本のテキスト分析が首尾よくできなかったのである。というのは、ドラマ化権侵害に関する我々の主張は、一般の場合と同様、次のようなものだったからである。
《原告本の作品全体を貫く「筋」が被告ドラマの作品全体を貫く「筋」と同一であるかどうか》
を判断することにほかならない、と。
しかるに、原告本については、被告ドラマで成功したような作品全体を貫く「筋」を抽出することができず、そのために肝心の「両作品の対比」という最終コーナーに持ち込めなかった。その理由は単純明快だった――原告本には、もともと被告ドラマに認められるような典型的なドラマの基本条件たる「筋」が存在しなかったのである。
そこで、いよいよ本件に特有な事情をすべて盛り込んだ本件の最終方針を立てる段階に来た。それは、通常、著作権侵害の判断で言われている「両作品の対比=両作品が類似しているかどうかを判断するための対比」を本件ではやらないというものだった。なぜなら、「両作品の対比」とはそもそも当該侵害に関し対比に値する表現形式が両作品ともに備わっていることを前提として、類似か非類似かを問うものであり、もし初めから一方の作品にそれが備わっていない場合には、そもそも対比は不可能だからである。分かりやすい例で言えば、黒澤明の「夢」のように、ゴッホの「ひまわり」の絵に触発されてドラマを作ったとしても、「ひまわり」の絵とドラマを対比して類似性を検討するまでもなく、ドラマ化権の侵害がなかったことを誰もが認めるであろう。本質的にはそれと同じことである。よって、本件は、「類似していない」(非類似)からではなく、「類似が不可能」がゆえにドラマ化権侵害にならないのである――これが私が到達した最終方針だった。
とはいえ、本件は、絵や音楽のように一見してドラマの基本条件たる「筋」がないことが明らかなケースとは異なり、緻密なテキスト分析の末に初めてそれが言い得るものであり、その証明の実行は「言うは易し、行い難し」であった。
しかし、私は本件ではこれしかゴールはないと確信していた。なぜなら、我々はこれまで散々、両作品の「内面的表現形式」を対比しようとしては、その都度失敗し退却を余儀なくされてきて、もはや新しい道を踏み出すしか手はなかったからである。その上、私には密かに理論上の確信があった。それが数学のガロアの理論だった。つまり、人々は、代数方程式がどうやったら解けるか、それまでは、その解き方を一生懸命探ってきたのだが、ガロアはそのやり方をすっかり変えてしまった。彼は、そもそも代数方程式が解けるための条件とは何かに着眼し、その条件を明らかにし、その条件を満たしているかどうかを検討する中で、5次以上の代数方程式を一般的には解くことができないことを証明することに成功した。これを知った時、私は、このやり方はここでもそのまま使える筈だと思った――これまで、我々は、どうしたら両作品が類似していないことを明らかにできるかを必死になって解こうとしてきたが、そのやり方を全面的に改め、そもそもドラマ化が可能であるための条件とは何かに着眼し、その条件を明らかにし、その条件を満たしているかどうかを検討する中で、原告本には被告ドラマのような典型的なドラマ化ができないことを証明することに成功する筈だ、と。
しかし、これに対しては、我々の陣営の中でも次のような反対があった、そもそも原告本自体に「ドラマ化権は存在しない」などと言い切っていいものだろうか、第一、原告本を原作にして貞奴のドキュメンタリー映画を製作することは可能なのではないか、また、原告本に一般論として翻案権を認めているのに、そう簡単にドラマ化権だけを否定することはできるのだろうか、と。
これらについては逐一反論が可能だったが、そこには実は、それ以上にもっと根本的な問題が横たわっていた――「そもそも権利はいかにして生成されるのか」という権利という価値の成立根拠を問う問題である。確かに権利は立法によって成立すると言える。しかし、翻案権が著作権法で認められたからといって、我々は一体どこまでその権利の正体・全貌を知っているのだろうか。殆ど知らないにひとしい。だからこそ、本件も一審だけで8年もかかったのだ。しかし、それは何も我々の怠慢ではない。我々が、翻案権という価値の正体を知らないのは、そうした価値なるものが、本来「純粋に社会的なものである」からにほかならない。つまり、翻案権などの権利という価値は、言語や商品の場合と同様、これを一つ一つ独立の著作物として眺めたところで、これをどうひねりくりいまわしても翻案権という価値を掴むことはできず、あくまでも著作物と別な著作物との出会い・衝突・交通といった社会的関係においてのみあらわれるものであり、その本質上、そのような具体的な社会的関係を通じてのみしか自らの正体・全貌を明らかにするほかないものだからである。だから、我々は、本裁判を通じて、伝記と典型的なドラマとが出会い・衝突し、そのような社会的関係の中でこそ初めて、ドラマ化権の何たるかをまざまざと教えられたのである。そのような社会的関係を離れて、世界中の著作権法や著作権の文献に何も書いてないのは当然のことである。つまり、ドラマと他の著作物とが出会い・衝突する、そのような交通の社会的関係の場こそがドラマ化権発明の源泉なのだ。もしドラマ化権という価値を発明したかったら――ここがロードス島だ、ここで跳べ!
こうして、最後の2年間ほど、我々は、ドラマ化権という価値を発明するためにしゃにむに進んだが、最終口頭弁論直前にハプニングが発生し、ついにドラマ化権発明を完成させることができなかった。とはいえ、裁判所は、その間、我々の料理を十分に堪能し、結論は出ていた。但し、これを判決文にどう表現するかという法律構成の段になって、我々が完成させ得なかったドラマ化権の不在のせいで、彼らは旧来の法律構成でお茶を濁すしかなかった。その意味で、こんな法律構成をまともに受け取っても意味がない。
5、残された課題
(1)、ドラマ化権発明の完成
本件では、懸案のドラマ化権侵害の判断基準は完成できなかったが、それはのちに一応の完成を見、「江差追分(北の波涛)」事件(百73)上告審に提出された(もっとも、たった1回の口頭弁論しか開かない最高裁が、この発明を真正面から採用するのを躊躇った気持ちはよく分かる)。
その後、キャラクターの翻案的利用という新しいタイプの翻案権侵害事件を担当した時、ドラマ化権のバリエーションとして、その翻案権侵害の判断基準を探求した。それが「続タイガーマスク」事件だった。
また、目に見えない改変という新しいタイプの事件を担当した時も、これを翻案権侵害=著作物の内面的表現形式の無断利用と対比させて、同一性保持権侵害=著作物の内面的表現形式の無断改変の判断基準について、これを探求した。これが「ときめきメモリアル」事件(百58)であり、こうして、本件は、その後の私にとって、権利という価値の発明を探求する上での出発点となった。
(2)、対決を免れた問題――創作性の判断の不可能性について――
本裁判では、我々は翻案権侵害を否定すればよかったので、これと直面することを免れたが、翻案権侵害を肯定するにあたっては、避けることのできない困難な問題がある。それが、「作品対比」にあたって、対比すべき表現方法が果して「創作的」なものかどうかを判断することである。
つまり、著作権の基本からすれば、著作権法が保護するのは、著作物のうちあくまでも「創作的な表現方法」の部分である。従って、両作品の表現方法がいくら似ていたとしても、そこに「創作性」が認められない限り、著作権の侵害とはならない。そこで、著作権侵害を判断するためにはそれが「創作的」な表現方法に該当するのか否かが問われなければならない。
しかし、これはあくまで理屈であって、実行となると話は別である。なぜなら、ここはまだ不明朗なことだらけだからである。例えば、一体、ここでいう「創作性」とは何か?そもそも作品にはその著作者の「創作性」と言えるものがあるのだろうか?実際上、それはほぼ先人の創作性の踏襲でしかないのではないか?また、仮に「創作性」が認められるとして、そんな専門的な工夫について誰がどうやって判断するのだろうか?
この点をめぐって激しくやりあったのがその後の「続タイガーマスク」事件であり、「壁の世紀」事件(百5)だった。今振り返ってみて、思うに、この問題もまた前述の価値の原理からスタートするしかないのではないか――先人の著作物と自分の著作物との出会い・衝突・交通といった社会的関係においてあらわれる諸相を観察し、その具体的な社会的関係を通じて自らの「創作性」の正体を明らかにするという。
その上で、そのような場で、「法律が対象とすべき社会現象に対し、科学的、客観的な認識を行なうこと」を吟味することになる。そして、「創作性」の正体に関して、私が参考に値すると考えた認識は以下のようなものである。
「今や普通の芸術がそうですからね。ゼロからのクリエーションというのは神話にすぎない」と断じる浅田彰は、「つまるところはセレクション(選択)とコンビネーション(組み合わせ)でしょう』(フラクタルの世界)とクリエーションの本質を説く。
作家の後藤明生も創作性=自分の言葉・自分の文章について、次のように指摘する。
ここで断っておきたいのは「自分の言葉」というものはけっして作家が自分勝手に作り出した「新語」や「珍語」のことではない。「新語」や「珍語」を新発明するということではない。これは当り前のようで、実はよく誤解されるようであるが、小説の言葉というものは、どの国語辞典にでも載っている、ふつうの日本語以外のものではない。
その、ふつうの日本語のどれを選び出して、どう組み合わせるか、ということである。その選び方がその小説家の「自分の言葉」ということであり、その組み合わせ方がその小説家の「自分の文章」ということなのである。(小説−いかに読み、いかに書くか)
黒澤明もまた、創造性について、以下のような見識を表明している。
誰かが言っていたと思うけど、創造というのは記憶ですね、自分の経験やいろんなものを読んで記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんで、無から創造できるはずがない。
但し、肝心なことは、ここでいう「記憶」とは、必ずしも「覚えていること」ではなく、むしろ「忘れて無意識の中に沈んだもの」のことである。ミヒャエル・エンデも、それに関してこう述べている。
忘れる能力を持っているということは意味ふかい。いちど記憶したものが、消えていってくれる‥‥それはどこに行くと思いますか?無意識のなかへですよ。それは私の人生の全継続性の基礎になります。ふとした機会によみがえる記憶もあるだろう。が、たいていのものは無意識の深みの中で、すっかり変形、変容し、それらが膨大な意識下記憶の総和が、私に自分がひとつの人格だ、という感情を可能にしてくれます。
そのように変容されたものは、とつぜんファンタジーや、アイデアや、イメージとなって、私の目の前に現われます。‥‥たとえば、私の本の中に出てくるものは、すべて私が過去に――遠い遠い過去も含めて――忘れたものなのです。(エンデと語る)
以上の認識の中から、私はつい、先人の著作物の利用に関してどのような作品制作のプロセスを辿った場合に、それが法的にも先人の著作物の著作権侵害であったり或いは自分の著作物の創作性が否定されると評価するのが適切かという「価値基準の吟味・選択の問題」について、ひとつの定式化を試みたい誘惑に駆られる――先人の著作物であっても、それが「忘れて無意識の中に沈んでしまった」ような記憶については、それが甦って自分の作品に刻印されたときには当人の創作性と呼んで構わないのではないか、それゆえ、それはもはや著作権侵害と非難されることもない、と。
しかし、仮に首尾よく「創作性」の判断基準を発明することができたとしても、さらになお、それを実際の著作物に適用してみて、「生きた料理」をしてみせなければならない。しかし、それは機械が行なうような自動的なものではあり得ない。だとしたら、「創作性」の判断基準を現実の著作物に適用するに際しても、「いかにしてこれを実行するか」という独自の困難な問題が横たわっていることを覚悟しておかなければならない(その実例については、「壁の世紀」事件において詳述する)。さもないと、我々もまた、40年前、「サド」裁判などにおいて「わいせつ」とは何かをめぐって、被告人の渋澤龍彦や検察官たちが、それはもともと証明不可能な「永遠の水掛け論」なのだと無力感に陥ってしまったのと同様の不毛な事態を反復することになるだろう(大野正男「フィクションとしての裁判」参照)。
さしあたり、この「創作性という判断を誰がどのようにするのだろうか」という点について、私が参考に値すると考えた認識とは、ミヒャエル・エンデの以下のような発言である。
芸術の質やレベルや位といった、これらもろもろの問題は論証することができない。証明することも、論拠をあげて否定することもできない。(エンデのメモ箱)
では、どのようにしてそれは判断され得るか。
修養を積んだ人だけが、この問題でちがいがわかる。芸術の問題では客観化できるものはなにもない。だが、そうだからといって、そこには主観的な判断基準しかないというわけでは全くない。主観や客観など、これらのカテゴリーは自然科学では妥当かもしれないが、芸術においては全く役に立たない。芸術ではただ個人のオーソリティだけ、あくまでもこれだけが有効なのである。つまり、練達者と精通者である。練達や精通はしかし、また、芸術との長く熱心な付き合いによってのみ得られる。この世界に関するあらゆる知識、あらゆる認識をもってしても、それには代えられない。そして、練達者と精通者だけが他の練達者と精通者を見抜くことができる。(同)
6、おわりに
10年以上前、NYでこんな話を聞いた、番組制作会社の代表者である30代の女性が、弁護士が頼りにならないので、自分が弁護士になるといって資格を取るために週末、猛勉強していると。著作権侵害裁判は著作者自らが法律家としてこれを担当するのが理想である。それは余りに芸術の精髄に関わらずにはおれないからである。21世紀とはそうした時代である。
本裁判に関する書面などの詳細については、次のサイトを参照されたい。
◆参考文献
1、ミヒャエル・エンデ「エンデと語る」(朝日選書)
2、タルコフスキー「映像のポエジア」(キネマ旬報社)
3、ミヒャエル・エンデ「エンデのメモ箱」(岩波書店)
4、新藤兼人「シナリオ読本」(白樺書房)
5、山田洋次「映画をつくる」(大月文庫)
6、追悼集「タルコフスキー、好きっ!」(イメージ・フォーラム)
7、野田高梧「シナリオ構造論」(宝文館)
8、舟橋和郎「シナリオ作法四十八章」(映人社)
9、新藤兼人「青春のモノクローム」(朝日出版社)
10、後藤明生「小説−いかに読み、いかに書くか」)(講談社現代新書)
11、大野正男「フィクションとしての裁判」(朝日出版社)
12、マルクス「資本論」第一部第一篇第一章第三節 価値形態又は交換価値