著作権法の幻想について5

----著作権法ビジネスの外と内の世界----
(ニフティの会議室での発言)

1.14/95


コメント
 これも、パソコン通信ニフティサーブのグラフィックフォーラムの「著作権の辛口味噌」において「著作権法の幻想」と題して書いた発言です。
この「著作権法ビジネスの外と内の世界」というテーマも、5年前に喋った「著作権法の未来と過去」という話の続きともいうべきものです。

 前置き
 昨日、副業を片づけて、この会議室の発言を読んでいたのです。前に読んだ原稿返却 の件も面白かったけど、今度のギャラの話はもっと面白いぞ、と読み進んでいくと、突 如、

ギャラですとか原稿返却がどうしたとか いささかテーマが著作権からズレているようです。

 おっ、いよいよ産業資本家のお出ましか、と一瞬神経がビッビッと。
 でも、ちがったみたい。

 本論
 著作権法ビジネスの世界には外と内の世界があります。
 外の世界というのは、ヤーさんなんかが暗躍する、海賊版業者たちの荒稼ぎする無法 地帯のことです。この世界こそ、これまで著作権法が複製権などの様々な著作権を設け て、彼らをを取り締まるために最も華々しく活躍してきた世界です。つまり、この手の 連中に暗躍されては、著作権ビジネスの産業秩序が滅茶苦茶になってしまうので、産業 資本家としては、断じて放置できない。そこで、著作権法を使って彼らを一掃しようと するわけです。例えば、著作権法に、3年以下の懲役という罰則があるのを御存知です よね。あれは、もともとこういった無法者を制圧するためのものです。イラストレータ がたまたま同業の人の作品を下敷きにして作品を制作し、著作権侵害となった場合に、 そのイラストレータを反省させるために牢屋に入れるというかわいい制度なんかじゃあ りません。しかししかし、条文だけ読むと、著作権を侵害した者は懲役3年以下の刑に 処するとなっていて、このイラストレータだって牢屋にぶち込まれてもおかしくないよ うに書いてある(著119条)。この条文、すごく抽象的で、不気味ですよね。イラス トレータなどの著作者がその著作物の製作にあたって、少なくとも刑事罰の責任を受け ることはないという人権保障の観点から、こんな抽象的な規定は大いに問題ありです (しかし、人権を口にする法律家や学者の口から、一度もこのことを指摘されたことな いですね)。しかし、産業資本家にとって、そんなことは痛くも痒くもないことなの で、彼ら自身はこの規定を著作者の人権保護の立場から改めようなんてことは夢想だに しない。
 外の世界に対して、内の世界というものが著作権ビジネスの世界にはあります。これ は、文字どおり、正常な著作権ビジネスの秩序の中の世界ということです。この世界 は、大雑把に言って、著作物を製作する著作者と、それを大衆に提供する産業資本家 と、これを享受する大衆の3種類の人種からなります。そして、この内なる世界こそ、 まさに著作権ビジネスが花開く最も輝かしい世界なのですが、しかし、意外なことに肝 心の著作権法はここでは原則として登場しないのです。で、そこではいかなる法律が働 いているのか、というと、それは法律ではなく(もっとも産業資本家と一般大衆との関 係については、一般大衆保護の観点から、それなりの法律があるので、ここでは、著作 者と産業資本家のことだけに限定して考える)私的自治というものです。それはどうい うものか、ぶっちゃけていえば、

「法律はお前たちの契約関係に関与しない、お前たち当事者の間でよくよく話し合って 契約関係を決定したらよかろう。なぜなら、それが、平等な個人の自由な意思による契 約関係の形成という、近代私法の大原則というものだから。」

つまり、自由競争に委ねるという立場です。
 しかし、こんなやり方が単なる欺瞞でしかないことは、この業界に一日いれば分かる ことでしょうし、そして、労働関係や借地借家関係では、この「平等な個人の自由な意 思による契約関係の形成」という美しいスローガンの欺瞞性がとっくの昔に暴かれ、経 済的弱者を保護するために、法律が当事者間の契約関係の合理的な形成のために積極的 に関与することになったにもかかわらず(例えば、最低賃金の定めとか、解雇に関する 条件の定めとか)、驚くべきことに、著作権法では200年以上も、この美しいスロー ガンが埋葬されずにぬくぬくと生き延びたのです。

 だから、この内なる世界こそ、実は法の存在しない、無法地帯、弱肉強食の世界なの です。ということは、著作者の保護を理念として掲げる著作権法は、この最も肝心要の 内なる世界において著作者のことを守ってくれないのです。だから、加藤さんも、一方 では著作権法、著作権法といいながら、しかし、現実の産業資本家との関係では、著作 権法を自己を守る切り札としてはなかなか有効に使えないでいるのです(例えば、著作 権法に「原稿は著作者に返却しなければならない」ときちんと明記されておったら、加 藤さんもどんなに単純明快にやれることか)。あの黒澤明でさえも、24時間金儲けの ことしか考えない日本の映画会社と激烈に戦わざるを得なかったのも、単に彼が癇癪持 ちだったからではなく、著作権法に戦いの武器が備わっていなかったからで、それ故、 彼は身をもって満身創痍で向かわざるを得なかったのだと思います。
 だから、この会議室で、原稿返却やギャラのことを話し合うのは、まさに著作権の核 心に触れること、つまり著作権法が、総論で著作者の保護を旗印に掲げた根本理念と、 これを各論で見事に消し去った、その欺瞞性を明らかにしていく重要な論点として、核 心的な議論なのです。あとは、この議論をいかに深めていくかです。

 その上、何事にも好機というものがあって、幸い、今は、この内なる世界がもはや私 的自治に委ねておけないという意味で、あたり騒然としてきているのです。つまり、内 なる世界はこれまで、私的な自治に委ねておけばその運営はうまくいくと考えられてき たのですが、今やそれが幻想であることが明白となったのです。つまり、これまで争い といえば、ちょうど資本主義陣営とその外部の社会主義陣営との争いのように、内なる 世界(の産業資本家)と外の世界(の海賊版業者)との争いだったのですが、今や外と 内との争いよりも、ちょうどやカンボジアやユーゴスラビアやロシアみたいに、内なる もの同士の間で激烈な争いが繰り広げられるようになったのです。例えば、産業資本家 と一般大衆との間は、これまで私的複製は問題にされず、著作権法も一切我関せずの立 場で済んだのですが、昨今のテクノロジーの発達で、家庭用の複製機器を用いて、私的 複製がばんばん可能となって来ると、産業資本家たちはこれを放置できなくなり、この 領域に著作権法を導入せざるを得なくなったのです。貸与権の新設(26条の2)や私 的複製に関する補償制度(30条2項)がそれです。

 また、かつて表立って取り沙汰されることの少なかった著作者と他の著作者同士の間 でも今や激烈な争いが繰り広げられています。それは今の時代ほど作品製作において、 著作権侵害の可能性と隣り合わせとなった時代はないということです。
 私が9年間やった大河ドラマの著作権事件にしても、そこで際立って顕著だったこと は、原告(原作者と称する側)が被告のドラマ製作を著作権侵害と考える根拠・見方 と、被告(ドラマ制作者側)が著作権侵害と考える場合の根拠・見方とが全く噛み合わ ず、おまけに裁判官がそのどちらに軍配をあげてよいものか、さっぱり分からないため (むろん著作権法なんかには何も書いてない訳です。だって、本質的に産業資本家と無 法者の海賊版業者との間を規律することを目的にした著作権法に、そんなデリケートな 問題を扱う必要なんてないですしね)、そこで、裁判関係者全員が内心途方に暮れたこ とです(だから、早く転勤したがっていた裁判官もいましたね)。
 このような著作者同士のトラブル多発の事態について、私は5年前、弁護士会の雑誌 に次のように書いたことがあります。

「今日ほど翻案権侵害をめぐるトラブルが多発しかつ深刻な様相を帯びてきている時代   はない。が、真に深刻な事態とは、にもかかわらず、これを解決すべき判断基準と いうものが著作権法の何処を探してみても何ひとつ見当たらないということにある。 この事態の背景には著作物の二次的利用の飛躍的増大といった事情があることはあ る。だが、忘れてならないことは、エドガー・アラン・ポーにはじまった作品製作過程 の意識化・客観化の途が、今やコンピュータにより作品製作過程の数値化が可能となっ て作品の修正・加工が極めて容易となり、歴史上未曾有の作品製作の凡庸化・大衆化が 進行しているということである。 では、この翻案権侵害の判断基準という課題を解決するために、我々は少なくとも 次の三つの論点を考究しなければならない。……(略)」

 つまり、これまでは著作権法は、著作者同士の間のことは私的自治の話し合いに任せ ておったわけです。しかし、もはやそんなことが通用しない時代になった。第一、私が 担当した著作権裁判は全部が全部(但し、あの防弾チョッキの件は、唯一の例外です が)、この著作者同士の争いですから。だから、この領域にも、著作権法は私的自治を 捨てて、著作権侵害の判断基準を導入する必要に迫られているわけです。
そういう意味で、いま目下のところ、著作権ビジネスの内なる世界は前代未聞の嵐が 吹き荒れているわけです。だから、このチャンスを利用しない手はない ・・内なる世界にも、すみずみまで著作権法の基本理念をきっちり導入せよ!と。

 ともあれ、著作権ビジネスはほぼ世界同時進行ですから、この課題も世界同時進行か もしれません。その意味で、我々は今、世界史的な課題の前に立っているともいえるの です。

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