1.10/95
「マルチメディアの時代において著作権法はいったい何処へ行くのか」
ということだろうと思います。
あるとき、作家の後藤明生が、こんなことを書いていました。
小説は何処へ行くか、と問われるとき‥‥その問いは、小説は何処から来たか、とい う問いとほぼ同じである。
と指摘したうえで、
「衰弱した小説とは、小説は何処から来たか、というジャンルとしての自己反省を忘れ た小説であり、また、混血=分裂による超ジャンル性すなわち『いかがわしさ』の自己 意識を忘れた小説である。つまり、小説の未来は小説の過去にある。」(群像93年1 月号322頁以下)。
また、後藤明生のこの言葉を引用して、評論家の柄谷行人もこう書いています。
小説の未来は小説の過去にある、と後藤明生が書いている。小説が何処へ行くかを 問うには、それがどこから来たかを問うべきである。ただし、この「過去」は小説史 として語られるところにあるのではない。それがわからない人たちは、小説を書き未 来の小説について語れ、たんなる過去になるために。
これはほかの領域にもあてはまる。われわれがどこへ行くのかを問うには、どこか ら来たかを問うべきである。資本主義の未来は、資本主義の起源にある。しかし、そ れを普通に問えると思う人たちは、経済学者になり未来の経済について語れ、たんな る過去になるために。(批評空間93年NO.9編集後記)
これらと同様に、私たちもこう言うことができる筈です。
「著作権法がどこへ行くのかを問うには、著作権法がどこから来たかを問うべきであ る。著作権法の未来は、著作権法の起源にある。」
しかし、ここで急いでつけ加えなければならないことは、著作権法の起源というもの が、普通の著作権法の歴史によってすんなり明らかになる代物ではないということで
す。この「起源」は現在の産業資本家(及びその代弁者たち)の手によって周到に隠蔽 されているからです。そこで、私たちは、我々自身の手によって、この著作権法の起源
が有していた「いかがわしさ」というものを再び発見しなければなりません(つまり、 柄谷行人が「日本近代文学の起源」を書いたように、誰かが「日本著作権法の起源」を
書かなければならないのです)。
その意味で、著作権法の起源を明らかにすることは、「言うは易き、行い難し」であっ て、むろん私の手に余るものです。が、少しだけ、喋らせて下さい。
著作権法では、著作物とは、人の創作的活動によって作られた芸術作品であるかのよ うに定義されていて、あたかも芸術作品を保護するのが著作権法の目的であるかのよう
な印象を受けます。しかし、これは歴史的に見れば完全なゴマカシです。
第一、大昔からミロのビーナスだの傑出した芸術作品はごまんとありましたが、その頃、誰も著作権 の保護など言い出した者はいなかった(と思います)。著作権が取りざたされるように
なったのは、あくまでもグーテンベルグの印刷術の発明が発端であって、つまり、そこ で、はじめて芸術作品も印刷術というテクノロジーによってシャツや靴下なんかと同
様、市場に出回る商品となることができたのです。だから、著作物の起源とは、芸術作 品とは論理必然性はなく、あくまでも「テクノロジーにより複製可能なもの」という点
にあったはずです。つまり、著作物の誕生は、全て、複製可能を実現したテクノロジー という親のなせるわざであり、その当時、著作物を芸術作品という風に定義したのも、
たまたま当時の複製可能なテクノロジーが芸術作品に関するものだったからという偶然 にほかなりません。
だから、時代とともに新たな複製可能なテクノロジーが出現すれ ば、この新しい親の出現に伴って、新たな著作物という新しい子どもが生まれることに
なります。データベース然り、コンピュータプログラム然りです(もっとも、法律の起 草者たちは「著作権法の起源」を隠蔽するためか或いは単なる過去の惰性か、新しい著
作物が芸術作品と共通すること、つまりみんな同じ親から生まれた子であることを強調 したがりますが)。
芸術作品を保護するのが著作権法だなんて信じている人には、この ような新たな著作物の導入の事態が殆ど理解し難いことでしょうが、しかし、要は芸術
作品の保護が単なる歴史的偶然でしかないことがわかれば、著作権法の歴史はまさに首 尾一貫しており、至って単純明快なのです。
では、この著作物を保護するため、著作者制度を採用したのは、いかなる事情に基づ くものでしょうか。
まず大事なことは、印刷術の発明当時、著作者制度は存在しなかったということで す。何故なら、その当時の印刷の関心はルネッサンスの影響を受けて、専ら古代(ギリ
シャ・ローマ)であり、殆どが千年以上も前の古典の出版だったからです。従って、そ こでは著作者の利益を考える余地すらなかったのです。にもかかわらず、その当時から
出版特権という、著作権と同じ機能を果たす制度が導入されたのです。このプレ著作権 ともいうべき出版特権は一体誰の利益を守るために導入されたか。むろん、印刷業者の
利益のためです。つまり、この当時では、プレ著作権(出版特権)は、現在の産業資本 家の起源である印刷業者の利益を守るための制度であることをハッキリと掲げていたの
です。
では、このプレ著作権からどのようにして、現在のような著作権制度が生まれてきた のでしょうか。面白いことに、それは、印刷業者同士の争いの中で、唱えられた大義名
分として登場したのです。つまり、この出版特権というのは、王様さんから与えられる ものだったのですが、問題は例えば、なぜAという印刷業者に特権を与えて、Bには与
えないのか、その根拠を明らかにする必要が、これまで特権を享受してきた印刷業者と 新興の印刷業者との争いの間で生じたのです(西欧では仁義なき戦いは通用しない。仁
義の御旗を掲げる者でないと生き残れない)。
そこで、登場した大義名分が、
出版特権による出版の独占的保護は、王の与える特権によってはじめて生じるもの ではなく、それはもともと排他的に所有する著作者の精神的所有権の譲渡によるもの である。(阿部浩二「著作権の形成とその変遷」11頁)
というものでした。ここで、人類史上はじめて著作者制度が、当の著作者本人たちから ではなく、現在の産業資本家の起源である印刷業者たちの手によって登場するのです。
おそらく、抗争を繰り広げていた印刷業者たちは、自分たちの特権の根拠を問いつめら れて、そこで日夜必死になって考え続け、ついに「作品の作者の権利=著作権」という
素晴らしいアイデアに巡り会ったのでしょう。これこそ自分たちの利益を守るための、 (唯一著作者を除いて)誰も反論できない最高の根拠だと喜び勇んだことでしょう。こ
うして、著作者制度を錦の御旗にして、印刷業者たちは自己の利益を守ることに成功し たのです。
しかし、この出版特権は、フランスではフランス革命で廃止されてしまいます。そし て、文字どおり、著作権とは著作物を制作した著作者の権利であることが公認されま
す。しかし、このフランス革命の本質が産業資本家の利益のためのものであったよう に、出版特権を廃止した著作権法もその根本的目的は産業資本家の利益を守るためにあ
ったのです。要するに、単にそれまでの封建的な印刷業者に替わって、今度はブルジョ ワ的な印刷業者の利益を守ることになっただけのことです。もっとも、表向きは個人の
尊厳に立脚して著作者の保護を真正面から掲げなければならなかったので、もはや封建 時代のように単純明快な制度ではやっていけなくなりました。そこで産業資本家たち
は、絶えず、著作者の保護とかいう大義名分を掲げながら、しっかり自分たちの利益を 守らなければならなくなったのです。このような二重人格的な振る舞い、偽善者的な行
動パターン、そこに著作権法の他に例を見ない狡猾さ、欺瞞性、難解さ、幻想などの膿 みが発生する根本的な根拠があります(ニッポン著作権法の文章ひとつとっても、悪文
の鏡みたいなもんで、よくぞまあと思うくらいです)。
以上がごくごく大雑把なスケッチです。
従って、以上のような著作権法の起源を考えたとき、例えば、加藤さんのようなイラ ストレーターは著作者の集まりだからといって、著作者の団体に安心して参加すること
は禁物ということになります。なぜなら、そこで重要なことは、著作者かどうかという ことではなくて、個人かそれとも産業資本家かということだからです。単に著作者だけ
だったら、NHKでも民放でも立派な法人著作者です。そして、産業資本家は、目下の ところ、個人の著作者にとって、紛れもない正真正銘の他者(=相手方)だからです(むろん無闇
に喧嘩しろなどと言う積りは毛頭ありません)。そのように宿命的に対立する関係をは らんだ産業資本家と個人の著作者がひとつになった集まりでは、すこぶる不愉快なこと
ですが、著作権法をはじめとして理論的には圧倒的に優位に立つ産業資本家の狙い通り ことが運ぶ結果になるでしょう。マルチメディアをめぐっても間違いなくそういう動き
になっている筈です。
では、どうするか。やはり、やり直すしかないのではないでしょうか。
フランス革命の中で、明らかにされた自由・平等・友愛という近代の基本理念をもう一度著作権法の 中に掲げ直すこと、しかも単に同じことを繰り返すのではなく、かつてその精神が骨抜
きにされたことの原因を考えて、今度はもっと実のある、充実した自由・平等・友愛を 導入することではないか、と思います(加藤さんの実行していることを単に言葉にした
だけともいえる)。
その意味でいうと、今一番必要なことは実はマルチメディアでもなんでもないのかもしれな い。要するに、著作者の個人的な自由・平等・友愛が(とくに産業資本家との間におい て)きちんと保障されることに尽きるのではないでしょうか。
最後に、私は、この間ずっと、個人というものの存在が実は許されないニッポンから 逃れたい一心でしたが、もし、この会議室で自由・平等・友愛の問題を考えていけるの なら、逃げ出さないでしばらくここで頑張ってみようかという気になっています。
突然、ポッと現れて、言いたい放題言って、すみません。ひとまず喋り切ったので、 もし感想・罵倒などありましたら、(産業資本家でも構いません)遠慮なく聞かせて下
さい。
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