著作権とは何か

著作権というのは、著作物を創作した人(これを著作者といいます)に発生する権利のことです。

ここでいう著作物というのは、小説や脚本、論文、講演、或いは作曲や作詞、絵画、漫画、建築や地図、映画や写真、コンピュータ・プログラムやデータベースなどの分野で、人が創作的に表現した作品のことをいいます(注1)。

このような著作物を創作した人は誰でも創作と同時に、その著作物について著作権を持つことになります。
創作に関して、プロであろうとアマチュアであろうと関係ありません。いやしくも、自分なりに創作的に制作さえすれば著作物と評価され、その人は著作権を持つことになります。
また、著作権の発生のためには創作さえすれば足り、それ以上、どこかに登録するとか審査を受けるとか公表するとは一切必要ありません。この点、特許や商標などと全く異なります。

著作権は、さらに2つのタイプの権利から構成されています。ひとつのタイプが同じ用語で紛らわしいのですが著作権。これは、その著作物を複製したりして著作物の利用を通じて経済的利益をあげることを保護するために認められた権利のことです。これに対し、もうひとつのタイプが著作者人格権。これは、著作物を著作者に無断で公表されない、氏名の表示を決められない、内容を改変されないといった著作者の人格的な利益を保護するために認められた権利です。要するに、著作権には、大別して、財産に着目した著作権(だから、これを著作財産権と呼ぶ人もいます)と、精神に着目した著作者人格権の2つのタイプの権利があるということです。

そして、前者の財産に着目した著作権は、さらに細かくいくつもの権利から出来ています。しかし、これらの権利の発想は、だいたい主に2つのタイプにまとめられます。ひとつのタイプは複製権、つまり元の著作物をコピーして利用する権利。海賊版などで問題になる複製権がその典型ですが、それ以外にも、上演権、演奏権、上映権、公衆送信化権などがあります。
これに対し、もうひとつのタイプが、元の著作物を翻案・編集・改作して利用する権利です。法律の条文では翻案権と一口に括られていますが、その中身は、翻訳権、編曲権、変形権、脚色権、映画化権、翻案権といった具合に多岐にわたる権利が含まれています。そして、実は3番目のタイプの権利があります。それは、以上の複製権や翻案権のタイプにも含まれないもので、レンタルCDのときに問題になる貸与権や頒布権、譲渡権がそれです。これらは、いわば著作物の流通過程をコントロールしようという点で、以上の2つのタイプとは根本的に異なるものです。

以上のことをまとめて体系化した法律が著作権法と言われるものです。
 この間、著作権法は、21世紀の知的財産権のエースとして一躍脚光を浴びてきました。しかし、この法律の本質は、いまだ全く克服されていない前近代的な殆ど封建的身分制社会そのままとしか思えないようなガンが巣食っています。
 それは、一言で言うと、表向きは、著作物を制作する著作者(クリエーター)、著作物を演じる実演家(アーティスト)の権利を保護するための法律という体裁を取っていますが、しかし、その内実は、そうした個人の権利擁護のための法律とは無縁の、単純明快なまでに、著作権ビジネスの経済的秩序を維持するための法律でしかないのです。言い換えれば、著作権法とは市民のための権利保護法などではなく、著作権ビジネスの産業資本家のための秩序法です。そのことは、昨今の話題の音楽のネット配信ひとつ取っても、そこで登場して方向を決めていくのはレコード会社などのお偉い方ばかりで、肝心の音楽家、アーティストの声はちっとも反映されないということからも明らかです。

その結果、どういうことになるかというと、著作権法は、規制緩和や自由放任といった美名の下に、世界の文化を生み出す源泉となっている人たち、著作権ビジネスの価値を生み出している創造者たちが、その創造的な作業に相応しい経済的、精神的な扱いを受けることなく、単に弱肉強食の論理のままに、彼らの運命は殆ど個々人の必死なる努力に委ねられていることを容認しているのです。それどころか、著作権ビジネスの産業資本家のリクエストがあれば、それに応じて、自由放任どころか、もっと強者を助け、もっと弱者を挫こうと協力を惜しまないあり様です。その典型が、映画製作者(映画会社のことです)に、例外的に特別な著作権の譲渡方法を認めてあげた「映画製作者の権利」(著作権法29条)(注2)であり、レコード会社やテレビ局などに、実演家の実演の利用を極めて容易にするために特別に認められた「ワン・チャンス主義」(これは条文すらない)といったものです。

さらに、注目すべきことは、著作権法には、消費者というものが存在しないのです。もちろん、その内実においては、個人の著作者(クリエーター)、実演家(アーティスト)もまた著作権法で存在しないにひとしいものですが、しかし、表向きには立派に主体として認められています。しかし、消費者になると、表向きにすら主体してどこにも存在していないのです。これはちょうど、人格を持った人間として長らく認められなかったアメリカの奴隷の人たちに匹敵するのではないでしょうか。
その意味で、著作権法は、生産者(クリエーター・アーティスト)にとっては、一応、主体が認められたが、その実質を何ら伴わないため、その欺瞞的な制度を改めるために闘われたいわば1960年代の公民権運動の段階にあるのに対し、消費者にとっては、もっとずっと前の19世紀の奴隷解放以前の段階といえましょう。

以上の通り、著作権法のエッセンスとは、弱肉強食をさらに推進した「強きを助け、弱きを挫く」という点にあります。
その意味で、著作権法というのは、数ある法律中でも市民にとって最も悲惨な法律、いわば「法律のアフガン」或いは「法律のガン」というべきものです。著作権法は、資本主義の最先端を規制する法律と言われていますが、そこから分かることは「著作権法を見れば、資本主義の最先端が見えてくる」ということです。そこからまた、私たち市民にとっての課題も鮮やかに示されてくると思います。

柳原敏夫(法律家・2003.5.30)

著作権に関するより詳しい解説は、以下を参照のこと。


注1 法律では次のように定義されています。

著作権法 2条1項
1 著作物
   思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。


注2 法律では次のように定義されています。
  
著作権法29条1項

(映画の著作物の著作権の帰属)
第二十九条 映画の著作物(第十五条第一項、次項又は第三項の規定の適用を受けるものを除く。)の著作権は、その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは、当該映画製作者に帰属する。

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