11.15/89
目 次
<事案の概要 >
Xは知人の協力を得て、昭和48年6月ころ、漢字2万字を収録してそれに読み仮名を付した辞典「用字宛」(以下原告作品という)を完成させ、Xはこれを出版し、昭和58年10月までに16万部発行した。
これに対し、Yらは、「実用字便覧」(以下被告作品という)という辞典を編集し、昭和56年8月ころ、これを発行・販売した。その後Yらは、訴外Zらを相手取って、昭和57年4月、Zらの書籍は被告作品の無断複製物であるとして、2件の出版差止請求事件を提起している。
そこで、XらはYらに対し、昭和58年10月、被告作品は原告作品の無断複製物であるとして、被告作品の製作・発行・頒布の差止め、被告作品等の廃棄及び損害賠償を求める訴訟を申立てた。
本判決はその理由中において、
1、原告作品の著作物性について、
「編集著作物における独創性とは、学問的な完全無欠さを要求するものではなく、素材の選択又は配列に、何らかの形で人間の精神的活動の成果が顕れていることをもって足りる」と前置きした上で、原告作品について「現代生活における実用的な用語辞典という性格上、有益な指針に基づいてレイアウト及び収録語句の選定が行なわれ、結果的にも右目的をほぼ充足する内容となったと認められるから、右の独創性の存在を肯認するのが相当である。」と判断し、原告作品の著作物性を認めた。
2、被告作品が原告作品の複製物か否かについて
まず両作品の類似性について、
両作品の収録語数、編集目的、レイアウト及び収録語句の構成の諸点について比較対照した上で「いわば 『丸写し』に近い書物であると断じざるを得ない」と両作品の類似性を認め、
次いで被告作品の原告作品へのアクセスについて、
Xが無断複製物発見の目的で原告作品に故意に挿入しておいた語句や語句の配列順序を被告作品がそのまま踏襲していることから、アクセスの事実を認め、
結論として被告作品が原告作品の複製物であることを認めた。
3、Xらの損害について、
Yが自ら原告となり提起した別件の出版差止請求事件において、Y自身が被告作品1冊あたりの利益金額と販売部数を主張及び証言していたので、この事実を援用して損害額を算出し、著作権法114条1項に基づいて損害額を認定した。
ここ数年間著作権ビジネスの関係者と私的な勉強会を重ねてきてつくづく思うことがある。それは、著作権法の分野ほど理論水準の低い分野はほかにはないのではないか、ということである。むしろ極言すれば、著作権法には理論(むろん実務に役立つ理論という意味である)というものが根底的に不在なのではないか、ということである。
で、その原因は何か。それは、ひとつには著作権法が今日の現実に決定的に遅れてしまい、現実と著しく乖離してしまった最も幻想的な制度であるということ、そして、にもかかわらず法律家が相も変わらず本稿の如き判例研究に憂き身をやつしているという怠慢さにあることである
現行の著作権法は今や一連の改正作業を終えてひと段落しているように見える。しかし、それは嵐の前の束の間の静けさに過ぎない。というのは、著作権法は実はひと段落しているどころではなく、今や完全に行き詰まっているからだ。その事態は「ゲーデルの不完全性定理」の局面ともいいうるものである(注)。すなわち、著作権法は、現在少なくとも従来の体系の下では解決不可能な二つの課題に直面している。それが片や著作物の私的利用の問題であり、片やコンピュータによる自動製作の問題である。もし、本気でこれらのゲーデル的問題を解決しようとしたら、その時現行著作権法の体系は根底から壊滅してしまうことであろう。その瞬間こそ我々がかつて長い間信じてきた天動説の夢から醒めたように、現行著作権法の幻想の中から目覚める瞬間である。
では、その瞬間のために、つまり現行著作権法の幻想を打破し、著作権ビジネスの現実に肉薄するために、我々は単にこの判例研究を放擲するだけでなく、これに代えて何をしなければならないか。これが今日著作権を志そうとする者の根本的課題である。
2、著作権法の破綻について
現行著作権法は体系的に見て現在二つの面から破綻に直面している。
ひとつは現行の体系を根本から変容しなければならないという体系変容の面であり、もうひとつは現行の体系が現実問題に対する解決基準を持ちあわせていないという体系不在の面である。
1、前者の体系変容の代表的なものが、著作者概念の崩壊である。
とりわけ来たるべきコンピュータの人工知能の到来により、コンピュータが著作物を自動製作するようになった時、従来の著作者概念は透明人間と成り果て、消失する。そこで、透明人間になってしまう著作者概念に代わって、我々は新しい権利者を創造しなければならない。そのような時代の転換期において、これまで我々人間はいつも何をしてきたか。
死せる全ての世代の伝統が悪夢のように生ける者の頭脳を押えつけている。またそれだから、人間が、 一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、未だ嘗てあらざりしものを作りだそうとしている かに見えるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間は己れの用をさせようとしてこわごわ過 去の亡霊どもを呼びいだし、この亡霊どもから名前とスローガンと衣装をかり、この由緒ある扮装と借物 のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである。(マルクス「ブリュメール十八日」伊藤新 一・北条元一訳)
だとすれば、著作者概念に代わる新しい権利者の発明をしようという我々の試みも、やはり過去に遡って著 作権法の歴史というテクストを読み直し、そのなかで著作者概念の起源を探究することから始めるしかない。 つまりもう一度グーテンベルクの印刷術の時代に遡って著作権法制度誕生にまつわる秘密とその隠蔽を解明 し、そのなかで著作者概念を新たに再発見するしかないのだ。
さらに、著作者概念の崩壊と並んで複製権を中核とした著作権概念の崩壊が危急の課題としてある。複製に 関するテクノロジーの大衆化とニューメディアの急速な進歩は、元々著作権ビジネスの市場の出発点において 無断複製さえ禁ずれば著作権ビジネスの産業秩序維持は十分であると考えた複製権概念が完全な時代遅れであ ることを暴露したのみならず、著作者の権利擁護という偉大な幻想を立法目的に掲げ、そのシンボルとして複製権を旗印にした複製権中心主義がもはや誰の支持も受けないことを証明している。
この課題解決の途もやはり著作権法の起源を探究するなかでしか始めようがない。
今後、私はこれらの起源探究の作業の中で、歴史上、著作権法が凡そ芸術の誕生とは無関係に(現に古来から、絵画・彫刻などの美術著作物は著作権法とは無関係に製作されてきた)、専らグーテンベルグの印刷術と いう複製可能なテクノロジーの誕生に伴って誕生した制度であること、しかも著作権法制度は誰が何のために作ったのかというと、それは歴史上、専ら産業資本家が自らの利益を擁護するために著作権ビジネスの産業秩序を維持しようとして作ったものであること、それゆえ、その著作権ビジネスの産業秩序の維持のシステムは本来、複製可能なテクノロジーの発展・変貌に応じて自在に発展・変貌する筈のものであること(例えば、頒布権、 貸与権、所持行為に関するみなし規定などは明らかに著作権ビジネスの産業秩序の維持のシステムとして登場したのであり、複製権中心主義ではもはや説明がつかない)、さらに現代という時代に、もはや著作者の権利 擁護という幻想的な立法目的に支えられた単一体系が通用しないことは明白であるが、さりとてこれに代えて 現実的な著作権ビジネスの産業秩序維持だけを立法目的に持ってきてもこれまた全く不備であること、そこで 現代に真に相応しい体系が考えられるとすれば、それは少なくとも
1.一方で自由権的な立場から、著作権ビジ ネスの産業秩序を維持するため、産業資本家(現行制度下における著作隣接権者・映画製作者・出版権者たち)に産業秩序の侵犯者に対する断固たる制裁の権利(複製権・翻案権などの著作権)を与え、
2.他方で社会権的な立場から、著作物の製作者・解読者(現行制度下における著作者・実演家)の立場を保護するため、彼らと産業資本家
との契約関係の合理的形成を確立するという多数体系性のものしかないことを明らかにしたい。
2、他方の体系不在の代表的なものが、翻案権概念の不在である。
今日ほど翻案権侵害をめぐるトラブルが多発しかつ深刻な様相を帯びてきている時代はない。が、真に深刻 な事態とは、にもかかわらず、これを解決すべき判断基準というものが著作権法の何処を探してみても何ひと つ見当たらないということにある。
この事態の背景には著作物の二次的利用の飛躍的増大といった事情があることはある。だが、忘れてならな いことは、エドガー・アラン・ポーにはじまった作品製作過程の意識化・客観化の途が、今やコンピュータに より作品製作過程の数値化が可能となって作品の修正・加工が極めて容易となり、歴史上未曾有の作品製作の 凡庸化・大衆化が進行しているということである。
では、この翻案権侵害の判断基準という課題を解決するために、我々は少なくとも次の三つの論点を考究し なければならない。
イ、著作物の創作性の意義を、具体的な著作物製作における創造活動のあり方という観点から考究すること。
誰も、無から有の創造があるなどとは思っていない。むしろ「西洋の哲学史はプラトンへの注釈にすぎな い」(柄谷行人)と喝破されたように「創造とは過去のテクストの積極的な誤読である」(ハロルド・ブルー
ム)。
にもかかわらず、この世には、自分の作品の表現内容・表現形式を問わずその痕跡が他人の作品の中に見 つかったといっては著作権侵害を騒ぐ人が少なからずいる。今こそ我々は彼らのような連中との間で共通に 認識できる「創造」というキーワードを発見しなければならない。
ロ、翻案権の保護範囲となる作品の内面形式というものを客観的・一義的に抽出できる手法を考究・確立する こと。
一方で、「芸術がひとつの完成されたフォルムになったとき、それは単一の正しい解釈を生むものではな く、重層的な意味をもつものになる」(ミヒャエル・エンデ)と言われ、作品の内面形式を一義的に決定する ことが不可能であるかのように論じられている。
しかし、我々がここで論ずべき事柄は芸術論そのものではなく、飽くまで芸術論を基礎にした法律論であ る。従って、我々は右の法律論に最も貢献できると思われる芸術論を選択して構わない。その意味で、我々 は「作品の形式の一義的確定」という課題を解決するためには少なくとも解決に一番相応しいと思われる科 学的な芸術論、即ちロシア・フォルマリズム及びその代表的批判者であるミハイル・バフチンとレヴィ・ス トロースやロラン・バルトらの構造主義を考究することが必要なのだ。
ハ、無から有の創造なぞあり得ない著作物の製作過程において、通常、既存の先行著作物がどのような形で活 用され、取り込まれていくのか、著作物の製作過程において先行著作物を素材として活用する一般的なあり 方を考究すること。
というのは、翻案権侵害のトラブルにおいて、仮に作品の内面形式を一義的に決定することが出来たとし ても、原告作品の内面形式が被告作品の内面形式に再現されているかどうかを判断することは実際のところ 極めて困難である。
そこで、右の再現の有無の判断にあたって、被告が被告作品を製作する際に原告作品をどのような形で利 用したか、という「被告作品の製作プロセスにおける原告作品へのアクセスの具体的態様」の点がクローズ アップされてくる。これは従来の複製権侵害のトラブルでは取り上げられなかった新しい紛争構成事実であ る(複製権侵害のトラブルでは単に「アクセスの有無」が問題になったに過ぎない)。だが、この発想こそ まさに、被侵害利益の種類と侵害行為の態様との相関関係から不法行為の違法性を判断するという伝統的理 論に立脚した正統派の立場にほかならないのである。
しかし、原告作品へのアクセスの具体的態様を正確に把握し、かつ正当に評価するというのは実は「言う は易し、行ない難し」の至難の技である。そこでは、もはや伝統的な、机の前で書物に棒線を引くやり方が 通用しない。我々に残された途はやはり自ら足を運んで制作現場に身を沈めるしかないのだ。
例えば、言葉では表わし得ないものを表現するために映画という映像表現が存在する。にもかかわらず、 その映画を製作するために当の言葉で表現したシナリオを使うのだ。このシナリオの置かれたパラドックス
こそ実はシナリオに特有の構造を読み解く鍵になるのだが、これは
制作現場にほうり込まれなければ遭遇し 難いパラドックスなのである。
3、法律学批判としての紛争学の探究
著作権法が今日の現実に決定的に遅れてしまっているにもかかわらず、この遅れを取り戻そうとすることができない理由の一つが判例研究の方法にある。というのは、この判例研究の方法というものも同じく現実の紛争に決定的に遅れてしまった幻想の産物だからである。
では、何故幻想の産物なのか。それは、判例研究というものが暗黙のうちに「法律とは紛争の解決基準を表示する尺度である」と前提にしているからである。しかし、一度でも正真正銘の紛争の渦中を最後まで体験したことがある人なら誰でも心中秘かに確信していることであるが、法律とは或いは法規範とは、実に予め紛争の解決基準を表示するための尺度などでは決してなく、その反対に、紛争の嵐のあとに初めて見い出され、しかも個別の紛争の都度その様相を異にする、絶えず不透明な意味をはらみ続けるテクストのことなのである。
何故なら、たとえ予め紛争というものに法規範という解決基準が内在していると信じたとしても、結局のところ紛争が現実に解決するかしないかは飽くまでも紛争当事者の或いは裁判官の暗闇における命懸けの飛躍に懸かっていることを経験上知っているからである。解決の寸前はいつも「暗黙の中における跳躍」(クリプキ)なのだ――ここがロードス島だ、ここで跳べ!
その意味で、紛争の渦中から洞察を開始する者にとって、『法規範』(但しこれは、一見我々の眼に予め存在するかのように見える法規範のことを指す)が紛争に関する諸事実を統括し、最終的な解決基準を導き出す紛争解決の中心であるというのは単なる幻想にすぎない。現実は、封建時代における武士階級の実態と同じく、『法規範』に何等特権的地位を与えるものではない。『法規範』といえども現実の紛争の中においては紛争を構成する諸事実の中の一つに過ぎないのだ。
そこで、我々にとって必要な判例研究とは、何よりもまず和解の研究であり、次いで文字通りの判例研究である。しかし、問題なのはこの両者の研究方法のことである。つまり、それは和解や判決の結論から法規範を見つけ出すことではなく、その反対に『法規範』もまた紛争を構成する諸事実の一つに過ぎないことを承認した上で、和解や判決の結論のみならず和解や判決に至るまでの全紛争解決過程を分析して、その紛争解決にとって、一体いかなる紛争構成事実がどのような形で作用したのか、最終結論に達するに際し当事者や裁判官はどのようにして暗闇における命懸けの飛躍を遂げたのかを探り当てることである。
例えば、当事者にはめいめいその紛争に割り当てることが出来る持ち時間或いは待ち時間というものがある。たとえどんなに有利な法律要件事実を持ちあわせた当事者であっても、持ち時間が枯渇したため惨めな紛争解決を余儀なくされることがあるのは周知の事柄である。しかし、これも紛争解決のうちである。否、これこそ最も現実的な紛争解決の姿なのであり、ここでは持ち時間という紛争構成事実が『法規範』を圧して紛争解決の切り札として作用したのであり、当事者は持ち時間の枯渇という苦悩に直面する中で最後に暗闇における命懸けの飛躍を遂げたのである。
このような方法で現実の紛争を紛争の渦中から解析しない限り、少なくとも著作権の実務に役に立つ理論の構築はあり得ない。それを実践する学を私はとりあえず紛争学と呼ぶ。現実の紛争とは全て事実であり、事実とは言葉のことである。このようにして紛争学とは結局言語の探究或いはテクストの探究の問題に帰着する。そして弁護士とはまさにこのテクストを解読する党派的、実践的な占い師にほかならない。
しかし、本来の紛争学にとって判例研究は単なるコインの裏側にすぎない。コインにはもっと重要な表側がある。それがいわば訴訟防止研究であり、その延長線上にある訴訟モチーフ研究である。つまり、そもそも或る事実がどのようにして紛争にまで成長したのか、そしてこの成長した紛争に対し当事者が努力した解決策とはいかなるものであって、それはいかなる評価を受けるものなのか、そこからそもそも紛争の成長を未然に食い止めるために或いは訴訟提起の前で解決に至るためには何をなすべきか、といった諸論点を解明するため紛争物語の発生・展開と主人公たちの行動を解読することが訴訟防止研究であり、訴訟提起段階において紛争物語の中に新たに裁判官という主要人物が登場したのは何故か、この主要人物の登場により紛争物語は今後どのように展開していくか、といった諸論点を解明するためそれまでの紛争物語の展開と主人公たちの行動を総括することが訴訟モチーフ研究である。
とりわけ、ありふれた単なる誤解、行き違い、失敗、失態、事故からどのようにして複雑怪奇な紛争に変貌していくのかという紛争の発端の解明こそ屡々紛争解決の鍵を握る。この点、幸か不幸か我々人類はこと紛争に関してここ何千年の間殆ど進歩していない。紛争の発端は、既にギリシャ悲劇或いは司馬遷の史記以来ありとあらゆる角度から語り尽くされている。ただ我々法律家がこれを知らないだけのことである。
4、本件判決について
さて、本来ならば以上の立論を踏まえて本件判決の研究をすべきなのだが、今の私にはこれを行なうだけの準備がない。しかし、一つだけ言及しておく。それは、本件判決をとらえてレイアウトの著作物性を認めた重要判例だなどと指摘する声があるが、これは全く意味のない無駄な議論だということである。
この点について少し説明したい。
判例研究において重要なことは、当該紛争が客観的にみていかなるものか、を解明することではない。問題は誰の眼からみて紛争がいかなるものとして把握されたのか、である。ここでは勿論裁判官の眼からみて紛争がいかなるものとして把握されたか、が重要なのである。現実の裁判過程も全てこの一点を目指して展開される。すなわち、裁判過程において、代理人は観客である裁判官に向かって、テクストの原作者である自己の依頼者の最高の演出家(解読者)として、最も説得力ある物語を披露し、そして相手方代理人の提出してきた異本の物語がいかに根拠のないものであるかを口を極めてディコンストラクションし、鑑賞に耐えないことをアピールする。双方から一連の物語が提出されると、観客席の裁判官は読者として双方の物語を解読し、物語としての一貫性を吟味し、そこから肝心の紛争の争点を眺め、そして最後の審判を下すために、あの暗闇の中で命懸けの跳躍をするのだ。
従って、裁判官が判決主文を決断する際に暗闇の中でどのように跳躍したかを探るためには、一方で、現実の裁判過程において紛争の争点がどのようにして形成されたか、言い換えれば裁判過程というひとつのドラマにおいて両当事者がいかなる紛争構成事実をめぐって激突したかを考察し、他方で、当事者双方が提出した物語について物語としての一貫性を裁判官がどのように把握したかを考察し、その上で、裁判官が争点を判断するために、彼は物語としての一貫性を踏まえて物語のいかなる部分を足掛りにして命懸けの跳躍に出たのかを考察する必要がある。
1、本件紛争において、争点はいかにして形成されたか。
被告の反論の仕方を訴訟記録から見ていくと、当初、被告は「原告作品へのアクセスの不存在」を強調していたが、証拠調べを経て態度を変更し、最終的には実に「原告作品の著作物性」だけを争うという態度に出たの
である。そして、訴訟の全過程を通じ、被告は「両作品の類似性」の点は一度も真正面から争わなかった。
つまり、裁判官の眼には本件訴訟は「原告作品の著作物性」をめぐって激突したのだと映った筈である(現に判 決理由中で、被告の反論を取り上げて再反論しているのはこの争点だけである)。
2、では、裁判官はこの争点判断に際し、本件紛争物語の何処を足掛りにして命懸けの跳躍に出たか。
「原告作品の著作物性」を云々する以上、原告作品の性格が争点判断のベースになっていることは言うまでも
ない。しかし、裁判官が原告作品という対象物だけを丹念に眺め回してこの決断を下したとは到底思えない。その証拠に、原告作品のような編集物に著作物性が認められるためには、一般に「素材の選択又は配列において創作性を有すること」が必要であるが、裁判官は判決理由中で、まずレイアウトのオリジナリティを挙げ、ついで肝心の素材の選択(語句の選定)について「実用性という観点からみて積極的に評価し得る」とか「有益な指針に基づいて」とかいう理由で創作性を認め、結論として著作物性を肯定している。
しかし、第一レイ アウトは元々素材の選択又は配列とは直接何の関係もないし、両者がどういう関係にあるか一言も述べてな い。しかも創作性についても、創作性とは専ら作者固有の表現をいうのであって、それが実用性からみて評価
されまいが有益な指針が認められまいがちっとも構わないのだ。著作権法は作者固有の表現に価値的な優劣を つけないからである。
思うに裁判官の決断はもっと別の場所で果たされたのだ。それは「被告が別件において、自ら原告となって 別の第三者を相手取り、被告作品の著作権侵害訴訟を提起している」という事実の場である。勿論この別件訴
訟で被告は被告作品に著作物性が認められることを大前提にしている。そして本件訴訟で被告は「両作品の類 似性」を一度も真正面から争わなかったのだ。これだけお膳立てが揃えばもう躊躇うことはない。裁判官の腹
は―― ここがロードス島だ、ここで跳べ!
しかし、これが果して不当な跳躍なのであろうか。否、これこそ全く正当な見事な跳躍の見本なのだ。何故 なら、紛争とはその形式こそ訴訟物をめぐる争いという形を取るが、その本質は常に人と人との争いにあり、
従って紛争当事者の対応そのものが紛争物語の重要なテクストを構成するものであることを裁判官は熟知して いるからである。ただ、法による裁判という近代裁判制度のフィクションがこれら紛争物語のスリリングな展
開をいつも注意深く隠蔽してしまうだけのことなのだ。
以上の通り本件紛争は既に著作物性の所で勝負はついていた。しかもその理由づけもズカッと言えば――要するに方便なのだ。裁判官が最初にレイアウトの点を云々したのは肝心の素材の選択の点がいまひとつ根拠薄弱なため、尤もな理由づけが欲しかっただけのことだ。要するに苦肉の策にほかならない。そして、それ以外の論点は全て争いのない事実同然のおまけにすぎない。従って「両作品の類似性」の判断に関する理由づけも実はおまけなのだ。勿論この判断は著作権侵害を認める以上避けて通れない論点であるから、裁判官は紙面を十分割いてはいる。しかし、彼の腹は既に決まっていた。あとは弾みである(現に最後に至っては「いわば『丸写し』に近い書物であると断じざるを得ない」と思わず口走ってしまったくらいである)。従って、その弾みで述べたレイアウトの流用に関する理由づけをおまけ以上に額面通り受け取
ることは意味のない全く無駄なことであると私は考える。
(注)ゲーデルの不完全性定理:
チェコ生れの24歳の数学者クルト・ゲーデルが1930年に数学的に証明した定理で、これによって「いかなる体系もその体系の中では決定不可能な命題が存在する」ことが証明された。
つまり、体系なるものは現実を離れてそれ自身で自立することが不可能であることが証明された訳である。この定理に対し、オッペンハイマーは「人間の理性一般における限界というものの役割を明らかに示した」と評している。
あとがき
工業所有権の学会は情け容赦なく激論するのだそうである。そんな話は著作権法では聞いたことがない。しかし、著作権法は今どんづまりにいて、もはやあたかも現憲法の制定に比すべくような(つまり、根本理念の大転換と権利の複数体系性の採用)コペルニクス的転回しか途はないのだ。だとすれば、我々もここで情け容赦ない議論をするしかないのではないか。激突のなかでしか未知への遭遇もあり得ないからだ。それが本稿を書いた理由である。
但し、本稿は殆ど昨年6月以来私にとって唯一のテクストとなった批評家柄谷行人の一連の作品に触発されて出来たものである。氏は今の私にとって、あたかも「あらゆる問題を考えるためには結局一つの問題が必要であり、それが私にとって『柄谷行人』だったということである」ような人物である。氏は私に、著作権法は、著作権法というシステムの中でいくら考えても決して分からないということ、そのためには著作権法の外から、つまり互いに他者となって激突する「現実の紛争の渦中」という場、そして名状し難い創作の秘密をはらんだ「制作の現場」という場から考え始めるしか途はないということを教えてくれた人である。以後私は、創作の秘密を垣間見るまで「制作現場」に身を沈め、天安門事件と離婚事件とがひとしいものとして見えるようになるまで「現実の紛争の渦中」という場に立ち続ける積りである。
(アキラ)
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