11.26/01
コメント
これは、法律関係者のボランティア団体LLWの活動の中の、「市民のための法律講座」の一つとして書いた著作権法の解説です。
だから、これは元々、法律の素人の人が読んで理解できるようにという積りで書かれたものでしたが、書いていく中で、著作権法が抱えている幻想性や欺瞞性といったものを明るみにするために、比喩やレトリックを使うのではなく、あくまで法律の本質から説き起こして展開したいと思ったので、そのため、否応なしに難しくなってしまった。しかし、これは、ある意味で、私のこれまでの20年間の法律の仕事に対しケリをつけるという意味を持つもので、どうしてもいい加減な比喩などでお茶を濁すわけには行かなかったのです。
つい先ごろ、3年ぶりに再開した自分のホームページの副題に、「著作権保護からシステム構築へ」と付けたように、私は、著作権保護をうたう著作権法に完全に見切りをつけていた。あんな幻想的なものにいくら期待を抱いたところで無駄だ、と。それで、方針を転換して、重要なことは幻想的な権利要求などではなく、クリエーター・アーティストの経済的自立に必要なシステムの構築だと目標を立て直したのです。
そのことの正しさは、今でも変わらないと思っています。しかし、だからといって、著作権法に対して見切りを付けるのはそれで本当にいいのか、それはちょっと早すぎるのではないかという疑問が頭をもたげ、この著作権法の解説を書いていくうちに、そのことを完全に了解しました。
つまり、現実の著作権法は、もうどうしようもない代物だけれど、しかし、そこで単に見切りを付けるのではなく、これに対し、カントの言う統整的理念としての「著作権法」なるものが一度でもいいから構想され、世に提起されることはいいことなのだ、というより、理念喪失の現代にあってそれは必要不可欠なことですらあるということに気がついたのです。
つまり、今までいっぺんでも共同体を越える普遍的な世界法であったことがなく、単に共同体内部の法でしかなかった現実の著作権法に対し、お前は、一度でもいいから、共同体を越える普遍的な共存原理を盛り込んでみろ、と挑発することは、憲法の場合と同じく、それが現実に実現することがないとしても、そのような統整的理念の挑発自体にそれなりに十分意味があるのだということに気がついたのです。
これは、そうした「統整的理念としての著作権法」の構想の第1歩というべきものです。
実は、私のみならず殆ど大多数の法律家は自分の商売道具である法律の本質をよく分からないまま商売をしているのだと思います。なぜそんなことができるのか?それは、法律とは詰まるところ或るシステムであり、そのシステムの正体が何であるかを分からなくても、そのシステムの内部で教えられた通りに上手く泳ぎまわりさえすれば、それで法律家として十分商売はやっていけるからです。むしろ、法律家とは、自分の商売道具である法律というシステムそのものの意味を問わない専門家のことだと言っていいと思います。
事実、このやり方でこれまで何世紀もやってこれたのです。しかし、200年以上続いてきた大量生産、大量消費、大量廃棄の資本主義システムの限界がいよいよあらわになって、これに代るオルタナティブなシステムを模索・構築していかなければならなくなった現代においては、このようないわゆる伝統的法律家というのでは粗大ゴミの最有力候補として名をはせるぐらいでしょう。
そこでもし、粗大ゴミに成り果てずに、何がしかの価値ある仕事を遂行するためには、法律家自身が、法律というシステムそのものの意味を問い直すことを強いられるのだと思います。その意味で、この文章は、私自身がゴミにならないために書き留めておこうとしたものです。
2、 法律の本質
法律の仕事をやっていて、一番躓くのは、憲法という法律のことを考えるときです。なぜなら、第一に、憲法くらい、憲法が命ずる規範と現実とのズレに、恐ろしいまでの正反対のズレに出会うことはないからです。
ついで、第一の点に関連しますが、こんなに物議を醸し出す人権のようなものがどうして認められるに至ったのか、実はこれまで、それに関する十分得心のいく説明に出会ったことがいっぺんもありませんでした。
第一の点について、他の法律では、かくも激しい亀裂・分裂は殆どありません。戦争放棄を定めた憲法9条は言うまでもないことですが、それ以外にも沢山あります。
例えば、憲法は、憲法26条において教育の自由を保障しており、子供たちに、十分な教育を受けることを要求する権利は認めていても、学校教育を受ける義務などはどこにもうたっていない。しかるに、現実には、不登校の子供に対しては、教師も含めて、あたかも義務教育の義務に違反したような目で、あたかも問題児であるかのように見られることが多い。なぜ、彼らは非難の目で見られなければならないのか。憲法の理念からすれば、それはちょうど、我々に健康で文化的な生活を営む権利があり、しかるに大量投与のシステムの今の病院制度に嫌気が差して、患者が病院に対して不通院を起こしたとしてもそれが何ら非難される理由がないのと同じことなのに。
或いは、憲法は、憲法22条において経済活動の自由を保障しており、誰もが原則として自由に経済活動を営む自由があることになっている。しかるに、現実には、いろんな口実を設けて、個人の経済活動の自由を奪っている。
例えば著作権の管理団体を設立して管理業務を営むことは、憲法が保障する経済活動の自由に照らして本来原則として自由にできていい筈なのに、戦前の国家総動員体制時代の産物である仲介業務法が戦後も生き延び(今年の9月まで)、この法律の名の下に、こうした著作権管理業務の営業の自由を奪ってきた。
また、営業の自由は、当然のことながら、営業資金調達に関する営業の自由も含み、そのような活動促進のために、出資者に有限責任(出資額の限度)しか負わせない投資事業有限責任組合法が98年に制定されたにもかかわらず、この法律で出資することができる相手を中小の株式会社に限定していて、それ以外の有限会社、協同組合、NPO法人、民法上の組合などに対する出資を認めていないのです。これは、こうした投資事業の営業活動の自由に対する不当な剥奪にほかなりません。
さらに、憲法は、憲法22条において移動の自由を保障しており、誰もが原則として自由に国内外を問わず移動する自由があることになっている。しかるに、現実には、とりわけ国際間における移動の自由(=入国の自由)に関して、私たちは、国家にとって好ましくない人物だという烙印を押されると、なぜか、国家の自由な裁量によって私たちの入国の自由は好きなように制限・剥奪されることがあるのを知っています。
しかし、この不愉快なくらい激しい亀裂・分裂こそ、実は逆に、私たちに、法律というシステムの本質を暴き出す手がかりとなるのです。その意味で、この躓きから目を背けてはならない、ここにこそ法律の本質が照射されているのだから。
そのような眼でここに立ち止まる時、私にとって、図形問題の解法のときと同様、法律の本質を導き出す際のいわば補助線の役割を果してくれたのが、柄谷行人の「世界宗教について」「スピノザの無限」(「言葉と悲劇」所収)と「倫理21」でした。彼は、それらの中で、一口に宗教といわれるものの中に、実は2つの全く異質な性格のものが含まれていることを指摘します。つまり、一方が、共同体内部で人が集団で生きていくために強制されるような構造・システムとしての宗教、つまり共同体の宗教。もう一方が、この共同体の宗教に対する批判として登場した、共同体と共同体の外に立つような宗教、つまりモーゼや仏陀や孔子やイエスたちが始めた世界宗教。そして、これをキルケゴールの言い方にならって、前者の共同体の宗教を宗教A、後者の世界宗教を宗教Bと呼ぶことができる。
しかし、ここで示された認識は、単に宗教のみならず、法律にも妥当するものです。
つまり、法律と呼ばれるものの中にも、実は2つの全く異質な性格のものが含まれていて、一方が、共同体内部で人が集団で生きていくために強制されるような掟としての法律、つまり共同体の法律(=伝統的な法律)。もう一方が、この共同体の法律に対する批判として登場した、共同体と共同体の外に立つような法律、つまりアメリカ革命時の人権宣言やフランス革命時の人権宣言や第一次世界大戦後の人権宣言や第二次世界大戦後の人権宣言が示すような世界法(=普遍的な法)。ここでも、キルケゴールの言い方にならえば、前者の共同体の法律を法律A、後者の世界法(=普遍的な法)を法律Bと呼ぶことができるのです。
ここから見るとき、法律というシステムの意味や憲法がさらされている激しい亀裂・分裂の訳が理解できるようになります。つまり、私たちは、具体的な法律を眺めるとき、それが果して法律Aのことなのか、それとも法律Bのことなのかを(厳密には、憲法のようにひとつの法律の中で、法律Aと法律Bが混在しているということも含めて)見極めなければならないのです。また、法律Bの典型である憲法においてこそ、いわば共同体を越える普遍的な法としての規範と、共同体内部の掟をあくまでも死守しようとする現実との間に激しい葛藤・Struggleが否応なしに生じるのです。それが例えば、不登校児をめぐる憲法の理念と現実(共同体の掟)との間の厳しい緊張関係にほかなりません。
従って、第二の点についても、既にかなり明らかになったのではないかと思います。
しかし、そのイメージをより鮮明にするため、ここでもまた補助線として、さきほどの柄谷行人の解説を導入したいと思います。
彼は、世界宗教の始祖たちが語った原理は2つしかないと言い、それは「神を畏れよ」と「他者を愛せ」ということだと言います(「世界宗教について」)。
ここでいう「神を畏れよ」の「神」とは、共同体の神々のことではなく、その意味でこれは「共同体の神々を斥けよ」ということであり、かつ「諸々の共同体を越える普遍的な神を畏れよ」ということになります。
また、ここでいう「他者を愛せ」の「他者」とは、共同体内部の他人のことではなく、むしろ共同体の外において出会う他人のことであり、その意味でこれは、「諸々の共同体を包み込むような場で出会う他人を愛せ」ということです。
そして、柄谷行人は、あるところで、「宗教の自由」が認められるに至った理由とは、決して、宗教の自由を尊重する念が高まってその自由が認められたのではなく、むしろ事態はその逆であって、異なる宗教党派同士の情け容赦ない残虐な宗教戦争の果てに、それに対する深刻な反省から、他者の信仰に対する「寛容」の精神の重要性が自覚され、そこから「宗教の自由」が認められるに至ったことを語っています。つまり、人権の最初のメニューである「宗教の自由」の起源は、お互いに異質な掟を持ち、異質な信仰を持つ共同体同士が、対立・抗争・排斥・虐殺の果てに自覚された、自分と異なる共同体の信仰に対する「寛容」の精神にあるということです。
そうだとすると、この「寛容」の精神から、次のように言うことができると思います。つまり、思想信条の自由にせよ、表現の自由にせよ、学問の自由にせよ、職業選択の自由にせよ、移動の自由にせよ、人権とは、本来、共同体内部に帰属する者たちの権利を守るために認められたものではなく、むしろその正反対で、それぞれ異質な掟(共同体の法律)に従う各共同体同士の間(はざま)において初めて見出された、各共同体の掟を越えたギリギリの共存原理にほかならない、と。その意味で、人権とは元来、絶えず、共同体の掟との激しい緊張関係の中にさらされたものにほかならないのです。
このことは、歴史的に見ても明らかです。歴史的に見て、憲法の理念が反復され、以前よりまして一層豊かな内容をもって登場してきたのは、「宗教の自由」が登場する契機となった過酷な宗教戦争のときと同様、共同体間の熾烈な戦争のあとです、つまり、共同体間の未曾有な戦いであった第一次と第二次の世界大戦のあとでした。カントの永久平和の理念を折り込んだとされる我が憲法9条も、第二次大戦の悲惨な経験に対する痛烈な反省なしには生まれ得なかったものです。
3、 著作権法とはどんな法律か?
では、このような眼で著作権法を眺めてみるとき、それはどんな法律か?
その前に、これまで著作権法を15年ばかし専門に取り組んできた私にとって、著作権法はどんなものなのか、率直な感想を述べたいと思います。私が法律家になった当時(83年)、著作権法は法律の中でもとりわけローカルな法律で、まだ誰も口にしないし殆ど誰にも知られていない法律でした。そのため、私自身も最初の5年間は著作権法ではなく、法律一般の仕事を担当するしかなかったのですが、そのとき担当した法律一般と比べてみて、著作権法という法律は、率直に言って、その正体が他の追随を許さぬほど群を抜いて意味不明なものであり、極めて特異な法律という印象でした。
なぜなら、建前は、一応、第1条の総論で「著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」と立派に宣言しておきながら、しかし、その実、各論に至ると、著作者の実質的な保護にとって必要不可欠な契約上の保護について、一言も触れておらず(その意味で、弱肉強食に任せ)、それどころか反対に、強者擁護の制度(映画製作者の権利・ワンチャンス主義)すら導入している有り様だったからです。
また、著作権と区別してこれに隣接する権利として著作隣接権なるものがどうして認められるに至ったのか、つまり、一方で、本来区別される理由がないにもかかわらず、実演家を著作者から区別して一段低い地位しか与えないことが何ゆえ正当化されるのか、他方で、個人ではなく法人しか念頭に置かないような放送事業者や有線放送事業者に、何ゆえ、本来個人にしかあり得ない創作性に由来する著作隣接権が付与されるに至ったのか、その明快な説明がどこにもないという有り様でした。
そこで話を戻して、今まで述べた観点でもって著作権法を眺めてみたいと思います。
そのとき、まず明らかなことは、著作権法とは、徹頭徹尾、共同体内部の法律だということです。今までいっぺんでも、共同体を越えたことがあっただろうか。それは歴史的に見て明らかです。著作権法が制定されたのは或いは改定されたのは、憲法のように、アメリカ革命時やフランス革命時や第一次や第二次の世界大戦後ではなかった。日本においても、明治の旧著作権法が改定され現著作権法が制定されたのが、戦後の新憲法の制定時から20年以上も経過したのち(60年)のことであることからも明らかです。
従って、そこには、憲法に折り込まれたような共同体を越える普遍的な共存原理は盛り込まれていません。あくまでも、共同体内部の法律に相応しく、共同体内部の秩序を維持していくために必要な掟でしかありません。著作権法に即してより具体的に言えば、コンテンツの大量複製を可能にしたテクノロジーを用いた著作権ビジネスの経済秩序を維持するためのシステムとしての法律にほかなりません。それゆえ、著作権法とは、あくまでも著作権ビジネスの主人である産業資本家が自分たちの望む経済秩序を、著作権ビジネスの構成員たち(共同体の構成員)に強制するためのものなのです。
ところが、そこで思いがけず歴史の狡知が働いたのか、その目論見は必ずしもすんなり実現しなかったのです。というのは、本来、共同体内部の法律でしかない著作権法は、そのシステムの表現方法(=法律の目的の達成手段)として、目指す目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)に相応しい単純明快なシステムを取ればよいものを、そうはせず、本来はただの下僕にすぎない者(=著作者・クリエーター)を著作権法の主人であるかのように祭り上げるという、紛らわしいシステムを採用してしまったのです。
それは、次のような歴史的な経緯に由来するものです。だが、この時の致命的なミスのため、著作権法は以後、「幻想と紛争と笑いの森」と言われてもしょうがないくらい、建前と本音が錯綜した欺瞞的な法律の道を歩むことになりました。
A.当初の【独占状態】の大義名分
グーテンベルクの印刷術の発明以後、出版業者は最初、自分たちの独占的な出版活動を正当化するために、国王より印刷・出版の独占を保障される出版特権という制度を活用しました。
B.【独占状態】に対する抗争の勃発
然るに、その後、こうした特権を享受する既存の出版業者に対し、これを持たない後発の出版業者たちから「何ゆえ彼らだけがこうした既得権を享受できるのか?」といった異議が出され、両者の間に抗争が生ずるに至ったのです。
C.【独占状態】の新たな大義名分の獲得
その結果、出版の独占を正当化する根拠として、これまでの国王から与えられる出版特権に代わって、新たに、著作者から著作権(当時は精神的所有権と言った)を譲り受けているからだという説明が唱えられるに至りました。
すなわち、著作権制度というのは、もともとコンテンツを大量複製して一般ユーザーに提供して商売をする出版業者の独占的な経済活動を保障するために、それを正当化する大義名分として用いられるに至ったものなのです(阿部浩二「著作権の形成とその変遷」参照)。
では次に、具体的に、現在の日本の著作権法とはいうのは、どんな法律なのか、ざっとその概要について述べておきます。
まず、形式的に見て、日本の著作権法は全部で次の8章から構成されています。
第1章は総則で、ここには、著作権法の目的の宣言(1条)と著作権法に登場する用語の定義規定などを置いています。
第2章は著作者の権利というもので、ここでは、権利の客体である著作物と権利の主体である著作者と権利そのものである著作権についての規定を置いています。
第3章は出版権というもので、ここでは、出版社に出版物の独占的権利を認めた出版権という制度について規定を置いています。
第4章は著作隣接権というもので、ここでは、著作物の創作ではないけれど、それに準ずるような行為を行なう者たちの権利として著作隣接権を認め、その主体となる実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者についての規定を置いています。
第5章は私的録音録画補償金というもので、ここでは、デジタル方式による録音録画機器・記録媒体を用いた私的複製について認められた私的録音録画補償金制度について規定を置いています。
第6章は紛争処理というもので、ここでは、著作権などに関する紛争のあっせんについて規定を置いています。
第7章は権利侵害というもので、ここでは、著作権などの権利侵害者に対して差止や損害賠償などの民事上の救済を求めることができ、それについての規定を置いています。
第8章は罰則というもので、ここでは、著作権などの権利侵害者に対しては罰則が課せられ、それについての規定を置いています。
次に、実質的に見て、著作権法というのは、次のようなカラクリを持っていることが分かります。
まず、著作権法の目的とそれを具体化する手段(=法律構成)とが完全に分裂した法律であるということです。つまり、本来、著作権ビジネスの主人である産業資本家の目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)をストレートに法律構成としても表現すればとにもかくにも明快だったものを、それをやらず、著作物の生産段階において、現実には単なる下僕にすぎない著作者をあたかも著作権法の主人公のように(=著作物を創作した著作者に権利が発生するという)祭り上げてしまうという転倒した法律構成を採用してしまったのです。
そのため、その致命的な失敗を挽回するために、つまり現実には単なる下僕にすぎない著作者をあくまでも下僕にとどまらせるために、著作物の流通段階において(=著作物を利用する契約のレベルにおいて)、恥も外聞も顧みず、産業資本家に徹底的に有利な論理を採用したのです。これが、単に「契約自由の原則」という名の弱肉強食の論理の採用にとどまらず、民法では凡そあり得ないような映画製作者の権利(29条)やワンチャンス主義(91条参照)といった強者の強欲と非難されてもしょうがない制度すら導入された理由です。
さらにまた、その致命的な失敗を少しでも挽回するために、なお著作物の生産段階においても、産業資本家たちは、自らが著作権の主人公として登場する必要性を痛感したのです。しかし時既に遅しで、主人公の著作者の座はクリエーターによってふさがれており、かといって今更、著作者概念を歪曲してここに潜り込むわけにも行かず、そこで、苦肉の策として、弱腰の実演家の尻馬に乗っかって、著作隣接権者の一員としてせめて準主役の地位を無理矢理獲得することで一矢報いたのです。それが、既に出版権(79〜88条)という独占権を認められていた出版界や映画製作者の権利(29条)といった強欲の権利を持っていた映画界以外の業界である、音楽のレコード会社(レコード製作者[96〜97条の3]。)であり、放送の放送局(放送事業者[98〜100条]・有線放送事業者[100条の2〜100条の4])たちが行なった強者の逆襲なのです(レコード製作者を除いて、現実には権利として殆ど機能していませんが)。
次に、著作権法が共同体の掟であることを端的に示すものとして、著作権法がこれまでもっぱら取締まりの対象にしてきたのが、共同体の秩序を踏みにじるアウトローたち、つまり不正コピーの製造販売を業とする海賊版業者たちだったことがあげられます。そのことは、著作権法が、不正コピーを取り締まるための複製権(21条。著作権法では、著作権に含まれる権利の種類の中で最初に登場する)を中心にして構成されてきたものであり、また著作権等の侵害に対して、民事罰のみならず刑事罰(119〜124条)まで規定してあることからして明らかです。
このように見ていくと、ひとつの謎がまた明らかにされます、それは、これまで、著作権法では、著作物の「創作性」の中身について、ちっとも議論が深まらなかった訳です。それは決して、単に法律家の「創作性」に対する無知・無関心に由来するものではありません。それは、もともと、このような複製権中心主義と刑事罰のシステムにおいては、「創作性」とは最低それがありさえすれば足りるのであって、それ以上、「創作性」の中身など本質的にはどうでもいいことなのです。だからそれは、著作権法の本質に由来する制度的なことなのです。
4、著作権法は今どんな課題を抱えているか?
著作権法の歴史的事実として、まず確認しておかなければならないことは、それは世界の産業資本主義から情報資本主義への移行に伴い、いろんな経緯があったにせよ、現在では著作権法がその基本法としての地位を占めるに至ったことです。いわば民法のパートUとしての地位を占めるに至ったのです。これは何を意味するか?
ひとつには、世界を1つにつなぐ情報資本主義の本質からして、著作権法もまたこれまでの共同体内部の法律から世界に共通する法律としての性格を否応なしに帯びざるを得ないということです。
他方で、これまでの民法にせよ、刑法にしてもそうですが、基本法たるものはすぐれて憲法の理念を反映したものでなくてはならないということです。この意味で、民法のパートUの地位を占めるに至った著作権法もまた、憲法の理念を折り込んだものに変貌する必要があるということです。
以上のような意味で、著作権法が直面している課題を、一言で言うと、次のように言うことができると思います。
これまでの共同体内部の法律ではなく、共同体を越える普遍的な共存原理を折り込んだ法律への脱皮
言い換えれば、著作権法Aから著作権法Bへの脱皮。
では、その場合の具体的な課題とは何か?
これもまた先ほどの補助線を使って説明しますと、
共同体を越える普遍的な共存原理とは「神を畏れよ」と「他者を愛せ」に尽きます。
とすれば、この場合、まず「神を畏れよ」の「神」とは、決して共同体内部の神(=著作権ビジネスの経済秩序)のことではありません。むしろ、「諸々の共同体を越えたところに初めて見出せる普遍的なものを畏れよ」ということです。では、著作権法ではそれは何のことか?――それは、ほかならぬ作品制作において発揮された著作者の「創作性を畏れよ」ということです。なぜなら、それこそが、著作者がどんな共同体に属しようが、どんな身分、性別、人種、信仰、世界観に属しようが認めざるを得ない普遍的なものだからです。また、この創作性こそが、著作物の価値を生み出す源泉となるものだからです。
次に、この場合の「他者を愛せ」の「他者」とは、決して共同体内部の他人のことではなく、共同体の外部で初めて見出せるような他者のことです。では、著作権法ではそれは誰のことか?――それは「共同体からいわれなき差別を受けているような人々(実演家)や共同体から無視され見捨てられてきたような人々(ブックデザイナー・レコーディングエンジニアなどこれまで著作者として評価されずにきた映画/音楽/出版等のスタッフたちやエンドユーザー(=消費者))」のことです。
以上を整理してごくごく簡潔にまとめると、著作権法の本質的な課題とは、次のように言うことができると思います。
1、「創作性を畏れよ」つまり、著作物の創作性が生み出した著作物の価値に相応しい扱いをせよ。それは言い換えれば、
経済的に、著作者にフェアな扱いをすることであり(契約関係のフェアな内容の実現)、
人格的に、著作者の意思を尊重すること(著作者人格権の徹底)である。
2、「共同体の外部で初めて見出せるような他者を愛せ」つまり、共同体からいわれなき差別を受けてきた人々(実演家)や共同体から無視されてきた人々(ブックデザイナー・レコーディングエンジニアなどやユーザー(=消費者))を愛せ。
それは、「創作性を畏れよ」から必然的に導かれる不合理な差別の撤廃であり、不合理な無視の撤回であり、自立した責任ある消費者の権利宣言である。
5、最後に
本稿の主な目的は、私自身がゴミにならないためのものでした。そのため、著作権法の正体と課題について、まずはその原理を明らかにしようと努めました。
実は、さらにその先があって、ここで明らかにされた原理については、さらに厳格な吟味にさらされなければならないものです。例えば、「創作性」ひとつ取っても、それはもはや決して全知全能な神ではなく、むしろ、その存在意義について、そしてその限界について、厳しく問い直されなければならないものです。
しかし、それは本稿の範囲を超えるもので、次の課題です。
よって、今後、ここで明らかにされた原理に基づき、さらにその具体的な中身を詰めていきたいと思います。
以上
(目的)
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の
権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、
著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
(映画の著作物の著作権の帰属)
第二十九条 映画の著作物(第十五条第一項、次項又は第三項の規定の適用を受ける
ものを除く。)の著作権は、その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に
参加することを約束しているときは、当該映画製作者に帰属する。
(録音権及び録画権)
第九十一条 実演家は、その実演を録音し、又は録画する権利を専有する。
2 前項の規定は、同項に規定する権利を有する者の許諾(第百三条において準用する
第六十三条第一項の規定による利用の許諾をいう。以下この節及び次節において同
じ。)を得て映画の著作物において録音され、又は録画された実演については、これを録
音物(音をもつぱら影像とともに再生することを目的とするものを除く。)に録音する場合を
除き、適用しない。
第三款 著作権に含まれる権利の種類
(複製権)
第二十一条 著作者は、その著作物を複製する権利を専有する。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使
は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償
とする。
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
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