新藤兼人著「青春のモノクローム」の感想

02年8月7日

新藤兼人 先生へ
                  

昭和十九年三月下旬、赤紙召集大変ご苦労さまでした。
徴兵検では丙種合格でよかったですね、甲種にならなくて。
販(敗)戦末期、召集、海軍で陸上勤務で幸いでした。船の上の勤務だと、生命の保障はなかったでしょう。

敗戦、敗戦で船も飛行機もないものづくめ、日本指導者なにお考へていたのでしょうか。日本の為、天皇の為を思って行動したのでしょうか。帝国陸海軍もだいなしです。

海軍下級幹部の言「おまえたちのような者でも戦争のおかげで一人前の兵隊になれたんだ。今からおまえたちの命は帝国海軍がもらった。生きてシャバへ帰ろうと思うな」

私しは昭和十二年兵だ。入隊して古兵にいわれた。「お前らの命は一銭五厘だ」と。当時、ハガキが一銭五厘だった。人間の命も安かったものです。

終戦近い日本の指導者の頭も狂い出したようだ。松の木の根から油を取って飛行機をとばす。松の根から油十個は、四日市の基地に送ったが米軍の爆撃であっという間に消滅したそうだ。

戦争前の話し。田中館貴族院議員が議会で発表した。マッチ箱の大きさで富士山がフットバせる新型爆弾や満州の化学工場で空気中からガソリンを取ることや、日本ではアメリカ軍日本上陸のさい、女性に竹槍訓練、焼夷弾消火に縄ノレンで消火させる(避難が先で消火などはできなかったでしょう)。どれ一つみても戦争に勝てるわけがない。広島、長崎に原爆が落とされる前になぜ終戦ができなかったのか。

戦艦「武蔵」も「長門」もすでにない事を知っていても、木下司令は毎朝の訓示で「ニューヨークで観艦式を挙げるまで、石にかじりついてもがんばるんだ」と叫んでいた。軍部指導者は負けることがわかっていても国民に対して負けるという言葉は出せなかったのでしょう。食糧増産の為、鯉の稚魚一万匹もらって、蛆を取って鯉のえさに、飛行場跡を野菜畑に。鯉が一週間や二週間で食べられるようになりますか。野菜だってしかり。

本土決戦の準備態勢がはじまった。ニワトリを飼いブタを飼ったり、本土決戦にはほど遠いのではないでしょうか。
「八月十五日正午に、天皇陛下の重大放送がある。」正午になって、重大放送がはじまったが、があ、があと雑音が入ってわからなかった。終戦になった。内地の兵隊さんは背負えるだけの物を背負って自宅に帰れた。いいですねえ。
先生、私の事も書かせていただきます。

朝鮮はよかったです。しかし、後が悪かったです。
二十年八月九日、ソ連参戦、満州、北朝鮮に侵入。九日夜半より空襲が激しく、朝食を食べず、弁当もなく、羅津埠頭に十二隻の船がいたが、全部爆撃された。倉庫の「のぞみ」には兵器、弾薬等が保管されていたが、爆撃され、火災を起こして近寄れません。防空壕から一歩も出ることができない。午後自分に召集令状がき、これで人生も一巻の終りかと思った。朝から何も食べてない。寮に戻り飯盒で飯を炊き、腹ごしらえをして入隊した。銃は渡ったが弾はなかった。これで戦いになるのか、隊長が予備の中尉さんで、特別任務隊であった。死を覚悟したが、敵の裏にまわって戦闘することもなかった。八月十五日終戦になったことも伝達はなかった。十八日頃になると、飛行機も飛ばないし、大砲の音もしない。日本は戦争に負けたらしい情報が伝わって来た。ソ連の捕虜になるかと思うと頭が真っ白になったようだ。八月二十三日頃、武装解除。同日、召集解除。給料は一銭も出ず。米と味噌支給。行き先もない。

会社の家族が満州撫順に非(避)難したらしく、撫順まで一ヶ月もかかって到着した。撫順炭礦、運輸事務所で働いていました(当時の給料を参考までに。ソ連軍票で四百ぐらいになりました)。引揚まで働いて、二十一年七月三日頃、舞鶴港に上陸。引揚と復員することが出来ました。

先生には、まとまりのない作文で申訳ありません。
いつまでも御元気で、がんばって下さい。

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