断 想

----原則の確認(続々々)----

1996.12.15

(・・・断想の森に保存)


 今まず、めざすこと----宮沢賢治が表現しようとした世界を一般化・理論化するのではなく、反復しようとすること、できることならば創造的反復を目指すこと。
 もし、賢治の世界を単に一般化・理論化するのならば、それは賢治の世界のバーチャル的な再構成でしかないのではないか。
 もう一度、賢治を手がかりにこのことを考えることによって、他方でまた、バーチャル的な生存様式の意味も考え直せるはずだ。バーチャル的な生存様式とは、例えばずっと前から言われている、次のようなことではないか。

 率直にいえば、私自身にも現実感は殆ど希薄である。むしろそれは私が「現実」に目をそむけているという意味でも、関心を持たないという意味でもない。関心ならありすぎるほどあり、それでいて何の痕跡も私の内部にとどまらぬという意味である。‥‥ただ無数の情報・解釈が私のなかを通過したにすぎず、ふりかえってみれば夢のような気がするだけだ。‥‥「現実」はある、が現実感はない。とすれば、むしろ「現実」の方が疑わしいのだというべきだろうか。(柄谷行人「畏怖する人間」より「内面への道と外界への道」)

 そして、その中で探究すべき事柄として、次のようなことがある。
コンピュータやインターネットによって何が失われたか、何が見失われたか。
そして、コンピュータやインターネットによってできないこととは何か。

 そういうことを考えた末に、最後に、コンピュータやインターネットを単なる道具として見放さないで、再度、
生々しい実在感に満ちた世界とコンピュータやインターネットとはいかなる意味で最高の組み合わせがあり得るのか?
について、もうちょっとまともな方向が見い出していくこと。

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