事務所開設の挨拶

1988.03.25

(・・・プロフィールの森に保存)


‥‥‥‥という訳で、能書きはこれくらいにして、次にひとつ本音の挨拶をさせて頂きましょう。
 思えば、私くらい回りの人に色々心配を掛けた人間はいないのではないでしょうか。司法修習生時代からの知り合いの人は、私に会うと決まって「おっ、大丈夫か、まだ弁護士やっているのか」というのが決まり文句でした。しかし、それも尤もなことで、その頃の私はどうしたら法律の仕事をしないで済ませられるか、そのことばかり考えていたのです。

 というのは、私は、司法修習生時代に、私にとっては人生のコペルニクス的転回ともいうべき不思議な体験と遭遇して以来(当時を知る人の中には、あの時、私は気がふれたのだの、頭がおかしくなったんだと信じている人がおりますが、それはとんでもない誤解です)、法律の仕事が、どう考えて見ても自分にとって縁もゆかりもない代物にしか思えてならず、結局、本業を見つけ出すまでの間の暫定的な仕事として嫌々従事していたのです。

 ところが、この亡霊の如き法律の仕事にもほとほと愛想が尽きた3年目の夏、私はひとつのケジメをつけるため、亡霊の仕事に対する遺書をしたため、これからは、ミヒャエル・エンデの「モモ」のように生きよう、或いは、モモの父親にぴったりのアインシュタインのように生きたいと念願して、いよいよ本格的に本業への探索の旅に出かけようと旅支度をととのえた矢先、突然降ってわいたように、著作権のある仕事が舞い込み、その仕事というのがよりによって本格的な文芸に関するものであったため、一度はごみ溜めに投げ捨てた筈の法律の仕事に、またふらふらと舞い戻ることになったのです。

 そして、このことが、法律家としての私にとって、運命の分かれ目ともいうべき重大な出来事となりました。以来、著作権関係の仕事に携わる人々と知り合う機会を得、そのなかで、私の如き者が弁護士として全力を尽くして事にあたっても悔いはないと断言できるような人々と知り合うことができたのです。と同時に、現代を象徴するような著作権関係の事件に関与するなかで、もはや、従来の法律的な思考方法では解決できない新たな問題が数多く発生していることを知らされました。この問題は、遡れば、従来の法律的な思考方法の根底にある、原因と結果・主観と客観・内部と外部といった二項対立の伝統的な思考の枠組み自体から再構成していかなければならないという課題を背負っており、そこで、私は、これまで法律の仕事とは凡そ無縁と思い込んでいたカントールの集合論やゲーデルの不完全性定理やソシュールの言語学批判等の業績が、実はこれらの新しい難問を「全体性を少しも損なうことなく、余すところなくその本質をえぐり出し、抜本的な解決をつける」ために、必要不可欠な道具であることを思い知るに至ったのです。これは数学の夢を捨て切れなかった私にとって、また何という僥倖でしょう。こうして、私は、最近に至り、ようやくかつて亡霊の世界としてしか思い描くことができなかった法律の仕事の中に、信頼できる人々と、一生をかけて追求するに値する課題とを見出すことができたようです。これはまさに無上の歓びにほかなりません。

 私は、この少数の信頼できる人々との絆を依りどころにして、今後とも、末長く、つつましく、強情を張って仕事に励みたいと思います。このような私が望んでいる仕事のスタイルを一言で表現すると、さしづめ「寅さん弁護士」か、蒲田行進曲の「安さん弁護士」とでもなりましょうか。

 最後に、今回の事務所開設にあたっては、日頃から、私に「魂の激励」を与え続けてくれて止まない黒澤明・早坂暁両氏に、今後とも叱咤し続けて貰いたいという気持から、敢て両氏の名前をわが事務所の名称とさせて頂きました。
人類の精神史がこのような両氏を出現させ得たことをここに深く感謝するものであります。
 今後とも、末長くお付き合い下さい。
                            ------お わ り------
TO THE HAPPY FEW

コメント
 私は、2年間の極楽のような修習生生活を終えたのち、何の希望も展望もないまま、「東京で一番 ケッタイな事務所」と推薦してもらった文京区の某事務所に就職した。そこの事務所の利点は三四郎の池に近いことと、私が三四郎池で何時間でも寝そべっていても文句を言わなかったことだ(正確には、言えなかった)。精々、事務所のスタッフから「霧隠れ才蔵」と名付けられたぐらいである。ということは、この事務所の体質が本質的に私と五十歩百歩だったことを意味する。
 それゆえ、その後、私がノラと出会って、そこで仕事上のコペルニクス的転回を遂げたとき、私とこの事務所との関係に新たな摩擦が生じた。今度は、私自身が、この事務所のいい加減で怠慢な体質に我慢ならなくなってきたのである(何という身勝手なことを!)。それで、怠慢な体質を改めようとしない彼らと仕事の鬼と化した私との間に連日の緊張が続く中で、雇われ者の私は一刻も早くここから逃れたいと思うようになった。それが事務所独立の動機である。独立の朝、私は興奮のあまり眠れなくて、夜明け前の河原をほっつき歩いた。河原の桜を眺めながら、自由になる喜びと感慨が私を襲い、締め付けるような幸福感が体中を満たしたことを憶えている。
 しかし、実をいうと私はまだ弱気だった。私の思うままに、ひとりで好きなスタイルで事務所をやっていく自信がまだ持てなかったのである。それで、坂本龍馬を共通の憧れとする同期の友人と一緒に共同事務所を持つことにした。これに対し、私の親しい友人の中には「彼とはあわない。一緒にやるなんて無理だ」と忠告してくれる者もいた。しかし、私は耳を貸さなかった。というのも全て、私が独立独歩でやっていく自信がなかったからである。その弱気が事態を冷静に見ることを妨げた。
 しかし、それは結婚生活のごとく、そのツケが数年後、訪れた。独立し、失業する自由も含めて自由をしょい込む境遇になったとき、私の友人は坂本龍馬の初心をどこかに忘れ、変貌した。私は自分に人を見る目のなかったことを思い知らされ、彼と別れた。思うままにひとりで好きなスタイルで事務所をやっていく自信がようやく持てるようになった3年半後のことである。それが同時に私の店じまいであった。

Copyright (C) daba