後期修習の思い出

----司法研修所最後の4ヶ月----

1983.06.05

(・・・プロフィールの森に保存)



 後期修習----それぱ思い出すごと身の毛がよだつ悪夢の日々だった。
 こんな虐待の日々を思い出したところで一体何の意味があるのか。

 私の修習時代の関心事は、一体自分はいがなる問題意識にまで辿り着くことができるか、であった。いつも、与えられた問題だけに、ひたすら迅速かつ正確に答えを見つける努力だけが横行する現代において、未知の問題を提出すること、不可能な問題を何とか可能な形で提起する努力こそ、殆ど唯一の生き甲斐のように思われた。それはまた、二十一世紀を「生ける亡霊」となり果てるととなく、最後まで生き残るための可能な方法と思われた。そこにこそ自己の個性がすなわち生きる意床が最終的に保障される途があると思われた。デカルトの「其理を探求するには生涯に一度は全てのことについてできる限り、疑うぺきである」という言葉は私の座右の銘であった。
 幸運なことに、私はこの暗中模索の中で、一種特別な体験に出くわした。それは確かに体験してみなければわからぬ謎のようなものであった。恐らく、人は誰でも謎のような体験に出会うことはあるのだろう。そして、それに出くわした時に人は初めて己れが一生かけて解かねばならない問題の意味を悟るのだろう。その時、人は自分が生きている意味を了解するのだ----それまでは何をしようが、所詮夢遊病者の人生と五十歩百歩なのだ。

 しかし、後期修習が始まってまもなく、私は自分のめぐりあえた体験と後期修習におけるカリキュラムとが余りに隔絶していること、自分の幸福が後期修習の何処にも見い出せないことを悟らざるを得なかった。そこに見い出せるのは、たゞもう予め与えられた間題を迅速、正確に解く作業の日々、ひたすら「コンピュータの模造機」たらんとする日々だった。
 そこでやむをえず私が採用した方法は「ジキル博士とハイド氏」の物真似、すなわち昼は自己を欺いて問題解答機の片割れとして優等生に変身し、夜になって初めてそののっぺら棒な機械の部品のような表情を剥いて、本来の自己の生活に戻るというやり方てあった。
 しかし、この考えは甘かった。後期修習のカリキュラムは、こんな二重人格を許すほど生やさしいものではなかったのである。私は昼間の変身で我が身と心を擦り滅らし、機械的回転で焼き切れた心は、夜になっても容易に回復しなかった。もはや虚と実の二重生活は不可能になっていた。私はこの時ほど、自分の精神力の脆弱さを梅やんだことはない。魂の渇望するところに従って生きたいという願いは、強靱な精神力なしには一歩も進まないということをこの時ほど知ったことはない。私はノイローゼの一歩手前のところで、その頃家で家事労働に専念することによって、かろうじて踏みとどまった。

 他方で、人間性というものを馬鹿にし切って、人を機械の奴隷に陥れるような後期修習のカリキュラムに心底腹立たしかった。私は日本の教育の病理現象の頂点を、ここに----恐らく日本で一番のエリート教育なのだろう----発見せざるを得なかった。遺憾ながら我々は、日本でも最も傑出した病人集団なのだろう。しかも、後期の研修所に、現代の法曹養成が直面している課題を当事者である私たちと卒直に模索しようとする姿勢はついに発見できなかった(逆に事務局長との交渉は、私たちに二度と希望を抱くことのないよう悟らせてくれた)。そこでは依然有能なパズル解きの手腕だけが求められた。よかろう。自己の盲信だけを貫徹するところでは歴史がいずれその傲慢さを裁くであろう----人間性の喪失を強要する者は、人間性の喪失故の奥深いとりかえしのつかない自壊現象という罰を受けるであろう、裁判官の不祥事という現象も早晩、顕在化する深刻な崩壊現象の予告にすぎないことが証明されよう。

 ちょうどその頃、バイオリニストのメニューヒンの演奏を聴き、演奏後、被はこう言った。
「第二次大戦中、私がナチスの強制収容所に、それまで収容されていた人々の慰問に回った時のことです。彼等は人間らしさを全く失って立っていました。ところがです、私が演奏をした後で、彼等の表情が変ったのです。私はこの時くらい音楽の偉大さを感じたことはありません。音楽を通じて私たちはお互いを理解しあえたのです…」
 私はメニューヒンが羨ましかった。その点どうだろう、自分が昼間やっていることは。法律だって、所詮、人間理解の一手段にすぎぬ。法律を通して人間理解に一歩でも近づけなければ法律なぞ無用の長物にすぎない。ところがどうだ、連日の起案という奴は。形式とか整合性とかにはやたらうるさいが、ここにはどうして人間理解というものがないんだ。実を言えぱ、自分だって強制収容されている側の人間なのかもしれない。私にまず必要なのは法技術の要件事実などではなく、人間救済の歌なのだ。

 しかし、私にはメニューヒンを聴いて後期修習を乗り切るだけの力がなかった。もはや虚かそれとも実か、すなわち修習専念かそれとも修習放棄かの選択しかなかった。
 2月の或る晩、昔読んだマンガ「カムイ伝」の「混倫の巻」を再読し、そこで、抜忍の「赤目」が忍者の追跡に追い込まれた時、呪文を唱え、自己暗示によって自己を単なる商人に人格転換することにより危機を脱しようとするが、結局、忍者らの襲撃に会い、無抵抗のまゝ片腕切断の重傷を負うという場面に出くわした。この時、決意ができた。よし、これ以上亡霊の生活をためらうのはやめよう。よしんば、亡霊に徹し切ったため、手足がもがれ精神的にどんな不具になろうとかまわない。教育の矛盾の最前線で、亡霊のような生活に徹し切る中で、無意味な生活に徹し切る中で、無意味の中から意味を探るしかないような現代を生きる証を立ててみよう。これが一生で最後の教育現場なのだから。
 私は「赤目」がしたようにきちんど呪文を唱え、私が消えて、優等生に化身した。以後私は、何の悩みも疑問も抱かず、たゞ二回試験というゴールめざして、昼夜兼行で邁進する模範生に化身した。
 心は、滑らかに回転するペルトコンベアのように、一変して安定した。起案の意味を考える苦痛が失せ、時にはパズルを解く喜ぴすら味わった。勿論クラス討論でも発言はしなかった。たゝ「赤目」のように「修業」が足りないせいか、クラス討論の際の発言に刺激されて、帰宅直後カバンを床に叩き付けることがままあった。

 3月17日、二回試験の刑事の口述試験終了。私は最後の1ケ月、身に降りかかってきた猛火を避けるため、自ら猛火に化身し、わが魂を焼き殺して生き延びた。屈辱的な屈服とさえわからなくなるくらい屈辱的な化身だった。
 だから、今の私には自分の受けた打撃の深さを測定する力さえない。ただ、私は一生をかけて、後期修習がもたらした害毒の意味を考えていきたいと思う。

コメント
 司法試験に合格すると、2年間修習生活を送ります。そのうち、司法研修所で過ごす前期の4ヶ月と後期の4ヶ月の間に、1年4ヶ月の実務修習というものがあって、全国に散らばって、各地の裁判所(民事と刑事)・検察庁・弁護士事務所でそれぞれ4ヶ月ずつ修習をおこないます。
 この文章は、東京で1年4ヶ月の実務修習を終え、司法研修所に戻って最後の4ヶ月を過ごしたときの思い出をつづったものです。
 当時、私は歓喜に満ちた実務修習から、一転、連日試験漬けの地獄のような後期修習に苦しみ、殆ど神経衰弱になっていました。このままでは人格の維持に自信を失い、最後の手段として、人格のワープ(いわば意図的な人格変身)を試みることにより、辛うじて危機を脱したのです。しかし、そのために完全な虚脱状態に陥りました。
 その後、実務修習でたまたま知り合ったベンゴシの宮原守男氏から、修習時代の思い出を何か書けと言われたので、これを書いてみたのです。すると、こらえていた気持ちが吹き出すように一挙に書いてしまったのです。
 しかし、今思うに、私の個人的な体験は、このニッポンにあって益々普遍化しているように思う。だからこそ、荒廃の極地において「我々は何を希望することを許されるか」について語ったメニューヒンの言葉は今一層噛みしめるに値する言葉だと思う。

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