甘利ゼミのメンバーへの手紙

1.09/94


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 91年9月、私は40歳の誕生日を区切りに店じまいをし、ニセ・チンピラ学生として数学の勉強を始めた。
 そこでまず出入りしたのが応用数学の甘利俊一さんのゼミだった。しかし、私のような得体の知れないチンピラ学生はゼミのメンバーには気持ちわるかったようで、彼らの殆どからは、さり気なくあしらわれた。だが、このゼミには、企業や外国からもいろんな人が勉強に来ていた。その中には、確かに私に劣らずケッタイな連中(但し、私と違って極めて優秀であった)がいて、幸い、彼らと親しくなることができた。
 その後、私はゼミを続ける自信を失い、三四郎の池でうろついた挙げ句、インドあたりに流れてしまったが、彼らも企業に戻ったり、別の大学に行ったりで、離散してしまった。
 この手紙は、そのうちのひとり(IBMの研究所から来ていた人で、極めて優秀なのに、昼飯時に語る彼の話は、決まって霊界に関することだった。それに対する興味の入れようは並大抵でなく、もし彼に2回の人生を与えてあげられるなら、この霊界に関する研究できっと抜群の成果をあげ得ただろうと思わせるほど迫力があった)に宛てて書いたものです。



 この1月で、甘利ゼミに初参加して以来3年が、事務所を店じまいしてから2 年半近くが経ちました。で、この間の成果は?と問われれば、それは散々な目に 遭ったとしか言いようがありません。数学の理解は3年前とちっとも変わってい ない、否、むしろ低下したくらいで、その意味で無残な3年間でした。
だが、だ いたい私のやり方というのは恐ろしく不器用で、初戦は散々に惨敗するのが常な のです、受験にしても、恋愛にしても、結婚にしても。しかし、その散々な目に 遭ったお陰で、はじめて相手の何たるかが身に沁みて少しずつ分かるようになる のです。
もう少し、具体的に話しましょう。
 当初、甘利ゼミに参加して、何とかゼミの中身が理解できるようになろうと懸 命に努力したのですが、どうしても分からず、そこで、一歩後退して、学部と大 学院の授業を理解できるようになろうと、朝6時に起きて満員ラッショにもまれ ながら1限から授業にでたのですが、その努力の甲斐もなく、ちっとも分かりは しない。
それで、やむなく、1、2年の授業レベルのことから理解するしかない と観念して、入門書を読み、放送大学の授業を聞きました。しかし結果は凶で、 やっぱり釈然としなかったのです。何だか、とにかくルールを教えこまされてい るだけという感じで、明晰な理解という実感が全くわかなかったのです。のみな らず、数学の書物を読み進んでいくと、その抽象的で索漠とした数学の世界に、 頭から冷や水を浴びせ掛けられるような仕打ちを受け、殆どノイローゼにならん ばかりに気が滅入りました。この体中の血が凍えるような、身が凍りつくような そらぞらしい空虚感に耐えかねて、ついに数学書を読み続けていく気力を失いま した。
そこで、作戦を根本的に変更せざるを得ず、この行き詰まった根本原因は きっと数学が実在と無関係な単なる形式的なゲームにすぎないことにあるのだと 思い、そこで、自然という実在をきちんと相手にする物理をやれば、きっともっ とピッタリとした明晰な理解が得られる筈だと考え、数学を止め、物理に専念す ることにしました。しかしこれまた、全然うまく行かなかったです。物理の入門 書を読み、放送大学の授業を聞いても、ちっとも釈然としなかったのです。それ は恐らく、入門書も放送大学の授業もそこで取り上げられる物理的実在は、いず れもすでに物理的に整理されて、加工された形のものでしかなく、我々の目の前 に広がる不思議に満ち満ちた深遠な自然的実在を少しも感じさせるものではなか ったのです。第一、著者や講義する学者が、例えばアインシュタインのような実 在する自然に対する深い驚嘆を感ずる能力を、すっかり失っているように思える 連中ばかりでした。そしてもっと驚くべきことに、その連中は、数学という体系 を殆ど物理の自明の言葉であるかのように平気でどんどん使っていくのです。そ のため、途中から、これじゃあ物理も数学という形式的なゲームと殆ど変わらな いじゃないかと、とくに量子力学の講義を聞いて思いました。私には、彼らの自 然的実在に対する余りにも鈍感な無神経さと、数学という形式的なゲームに対す る余りにもナイーブな信仰に、半ば呆れ、半ば腹立たしく思いました。
こうして、実在と真正面から取り組む筈の物理に対しても、これも結局は或る種のゲー ムではないのかと、ルールが精緻に決められた込みいったゲームとして成立して いるシステムにすぎないのではないかと、そして連中はこのシステムに立て籠っ て、単にお喋りしているだけではないのかという失望に近い思いを抱いて、物理 にも裏切られる結果となったのです。
 ここまで後退戦を余儀なくさせられて、しかもそこで展望を全く与えられず、完 全に行き詰まった私は、そこで、もはや普通に授業や入門書を真面目にお勉強す ることを止めて、こうなったらヤケのヤンパチで目茶苦茶にやるしかないと、つ まり不良になるしかないと観念しました。その当時、唯一の救いが小平邦彦の次 のような言葉でした。

数学が明晰判明に分かるというとはどういうことだろうか。数学とは森羅万象の根底に厳然と実在する数学的現象を研究する学問である。だから、数学が分かるとは、その数学的現象を『見る』ことである。『見る』 とは或る種の感覚によって知覚することであり、私はこれを数覚と呼ぶ。数覚は 論理的推理能力とは異なる純粋な感覚で、聴覚の鋭さと同様、頭の良し悪しとは 関係ない。だから、数学が分かるとは、数学的現象を感覚的に把握することであ って、論理だけではどうにもならない。結局、数学が分かるとは、すなわち自ら 体験することである。

 当時たまたま宮崎駿のアニメ「紅の豚」の宣伝を見て、よし、オレはもう行儀 よくお勉強することは止そう、あとはもう数学的現象を感覚的に把握するという 数学的体験を積み重ねるしかないと、そして、その方法はとにかく「紅の豚」の ように行こう、つまり全身全霊で森羅万象と交わりさえすれば、何をやっても数 学なのだという恐ろしく能天気な心境で行こうと、新規まき直しに出ることにし たのです。
その結果、授業に出なくなり、図書館でキネマ旬報や群像などの好き な映画や文芸の雑誌を読み耽ったり、そのうち、インドに行ってからは、建物の 中にいるとあたかもシステムの中に閉じ込められているような圧迫感に捉えられ るので、それで、殆どを野外の三四郎の池で寝そべって過ごすようになりまし た。こうして家にいるときは、田んぼや畑の道を歩き回り、大学では、三四郎の 池で寝そべるという生活が続き、殆どホームレスのようなスタイルが身につくよ うになりました。
しかし、このホームレスのスタイルこそお前に最も相応しいや り方だと確固たる支持を与えてくれた人物が紛れもない宇宙人の宮沢賢治と岡潔 だったのです。
 というのは、「数学が分かるとは、森羅万象の根底に厳然と実在する数学的現 象を感覚的に把握することだ」という小平邦彦の言葉が既に、数学者とは或る種 の宇宙人であることを示唆しているように、私にとって数学が分かるとは宇宙人 であることを自覚するプロセスにほかならなかったのです。紛れもない宇宙人で ある宮沢賢治と岡潔から私は、宇宙人であることを自覚するプロセスを教えられ 、そのひとつがこのホームレスのスタイルであることをきっぱりと教えられまし た。賢治は言う。

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨大な力と熱である…
 風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

そのようなホームレスのスタイルを続けていくうちに、地球上で最も宇宙的な生 き物である植物の生き方に益々惹かれるようになり、木になりたいという激しい 願望に捕われました。
 こうして、ここ3年間のうち、真面目にお勉強したのは初めの1年半だけで後 半は、豚のように能天気になって、何をやっても数学なのだとシナリオを書いた り、そこいら中歩き回っていました。そして、無店舗営業の私の下にたまたま厄 介な著作権の紛争の仕事がバタバタと入ってきて、人の嫌がるようなややこしい 紛争が大好きというへそ曲がりの性分を発揮して、ここ1年は、この厄介な著作 権の仕事に明け暮れました。
しかし、殆どこじつけでしかない筈なのに、「いや いや、このクソ厄介な著作権の紛争の処理が、必ず数学的体験のひとつになる筈 だ」と断固たる能天気な確信を抱き続けていたのです。事実、数学の勉強の中で 掴んだ「失敗しながら前進する」というメソッドは、紛争の処理という仕事に遺 憾なく威力を発揮しました(それは、数学の勉強で連日たたきのめされてメタク ソ自信を喪失していた私に、おっ、まだオレにも力を発揮できるものがあるのだ と自信回復の貴重な機会を与えてくれたのです)。
 ですから昨年末、この著作権の仕事を8割方整理して、再び、文字通り、数学 に戻ろうと思ったとき、数学再開に全く不安はありませんでした。何一つ、数学 のお勉強をやらなかったにもかかわらず、恐ろしく自信だけはついたのです。も ちろん今後、数学という形式的ゲームの様々な規則を覚えていかなければなりま せん。しかし、今度はその規則の存在理由をいちいち明らかにして、これを納得 しながら一つずつ前進する積りです。例えば、私のとって『関数』というのは最 大の謎のひとつです。しかし、先日「関数とはもともと速度のことだ!」と分か ったとき、はじめて『関数』の具体的イメージが納得がいったのです。と同時 に、それは『速度』という得体の知れない概念の謎が解けることでした。このよ うに、今度はいちいち規則の起源を暴いていく積りです。
 そして、行く行くは、 これらの規則をぶち壊したい、或いはせめてこれらの規則をぶち壊される場面に 立ち会って、その意味をしっかりと理解したいと願っています。我々の科学文明 の基礎をなす数学というゲームの規則が全面的にぶち壊される場面というのは、 同時に資本主義の大転換の場面でもあると思うのです。私は、その決定的な場面 にしっかりと立ち会いたいと念願しています。
さようなら。

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