近況報告

----数学への目覚め----

3.12/90



 ここのところずっと心臓の調子が悪くて、こりゃ、このまゝくたばっちまうんかなと、松田優作のことなぞチラチラ思い浮かべながら、フラフラしてたんです。しかし、病気にも捨て難い魅力というものがあって、大体病気になると普段自分のやってるくだらないものがくだらないものとして、どうでもいいものがどうでもいいものとしてよおく見えてくる。だから、重けりゃ重いほど、病気の鏡としての性能は向上する。今回、心臓がくたばった時、私はまず、もう金輪際頑張ることと几帳面にやることだけは絶対やめようと、JSB(WOWOW)の皆さんみたいにやろうと決めました。
それで、プラプラ寝転がって本を見ているうちに偶然ほんと面白いヤツに出くわしたんですよ。それが----浅田彰編集・森毅著の『世話噺数理巷談(さろんのわだいにすうがくはいかが)』(平凡社)という代物でさ。読んでるうちに、ヘソの周りがワクワクモヤモヤしてきて、もうどうにも止まらない。こりゃアカンと思って、あとは明けても暮れても森毅森毅ですよ。それで、来年、森のオッサンが教えている京都の大学の入学試験を受けることになりました。間違って合格したら、しばらくあちらでゴソゴソ数学(森さんに言わせると、数楽。私のワープロに言わせると、吸う楽)でも楽しんできたいと目論でいるところです。

 大体この年になっても、やれコンピュータだの数楽だのに異常な興味を示すちゅうのは、性欲とか食欲とかとと同じ類のヤツでさ、知的な関心なんかとは凡そ正反対の、猛烈に本能的なドロドロした好奇心みたいなもんで、ちょうどギャンブル気違いなんかと紙一重ですわ----そう以前から内心確信しておったところ、なかなかその裏付けが取れなかったんですが、この度、森大先生の御蔭で晴れてお墨つきを頂くことができ、その嬉しさの余り、もうヘソの周りが腸捻転起こしそうな、やったぜ!ざま見ろ!と天に向かって叫びたいような、それはそれはええ気持ですわ。
 大体ガキのじぶんに数学に熱中するというヤツというのは、大抵貧乏人か無器用か腕力がないかのいずれかで、かく申す私もこれにオール該当する不幸な少年だった訳で(だって、数学で勝負すれば、どんな金持ちや力持ちにも有無をいわせず負かすことができるしね)、だから金持ちのボンボンのやつらに、数学をお守りみたいに振りかざして、どうだお前らこれが解けるか、そんなもん解けないでおっきな面すんじゃないよとひそかに自慢してたという訳ですよ(我ながら、いやな根性してる)。
 ところが、小2か3のころ、クラスでトンチをやっていて、1+1はいくつ?という問題を、誰かが41と答えていた側から、確か女の子が「違う。正解は1よ、だって、一つの粘土と一つの粘土を足してみて。やっぱり一つの粘土でしょ」と口を挟んだんです。その言葉を聞いた私は、脳天をミキサ一で引っ掻き回されるような衝撃を受けたんです----ほんまやなあ、1+1はほんとは1なんだ。そうすると、ワシのやってる算数ってのは、一体なんなんだあ?ありゃインチキか?ペテンか?
 それ以後、私はセンセが教えてくれる数学というものを神聖なる学問として信用することが出来なくなって、ありゃインチキだぜと思うと心から安んじて自慢の種にすることが出来なくなったんです。で、その時のつまずきが、喉に刺さった魚の小骨みたいにずうっと尾を引いていて、それがようやく30になって取れたんです。それは遠山啓の「無限と連続」という本で、そのなかでカントールの無限集合の足し算がちゃんと1+1=1となることを知ったのです。
で、これで一件落着し、積年の恨み辛みから開放される筈でしたが…。
 事実、以後暫くは数学とは御無沙汰で、専ら薬師丸ひろ子だの著作権だのに、ちゃらちゃらうつつを抜かしていました。

 しかし、法律の中でも最もケッタイな著作権法と向かい合う羽目になったところから、このケッタくそ悪い著作権法の正体を見極めたろ、と思ってあれこれガチャガチャやっているうちに、或る時、柄谷行人から「ゲーデルの不完全性定理」なるものを知って、こんな人を食ったような話が数学の世界に存在するんかと思うと、常々裸の王様を嘲笑う少年を志してきた私はまたすっかり数学の魔力に魅せられるようになったちゅう訳です。ところが、今度は私も年を食って随分すれっからしになった御蔭で、初めっから数学を純粋な学問などとは鼻っから思わず、その反対に数学というヤツは法律というヤツによく似ていて、一見すると調和のとれた見目麗しき淑女の如くであるが、その実よくよく眺めると得体の知れない千変万化の魔法使いのババアみたいな代物であるに決まっていらあと決め込んでいました。そして、今度はこの「得体の知れない千変万化の魔法使いのババア」みたいなところがとっても気に入っていて、このババアの回りを暫くうろうろしたいなと思っていた訳。ただ、世間の数学者とかいう人種は、法律家とおんなじでね、やたらとクソ真面目に語ったり、でなけりゃあこれまたクソ真面目にくだけて見せたりでさ、ちっとも面白くないのね。だから本読んでもすぐ眠くなるし……そんな時、例の森大先生の御本に接し、「おゝ、そうだ、オレの未来は、ひとえにこの森とかいう魔法使いのジジイみたいなおっさんとペチャクチャお喋りするなかに懸かっているんだわ」という確信が調子の悪い心臓を突き抜けたという訳なんです。
 こんなことを言うのは、これまでずうっと自由業でフラフラやってきて、正直いって、ワシ何時コジキになっちまうんだろとそれなりに不安と戦いながらやってきたんだけど、仕事していくうちにすごっくわかったことは、世間で超優良企業とか超有名企業とか呼ばれているところもさ、よく見ると結構みんなフラフラしながらギャンブルみたいなことして稼いでいるんだよね、みんなでコジキになれば怖くないといった感じでさ、あんまりオレと変わんねえ感じがしてきて、人生何処にいても大体変わんねえ、資本主義はそんなに甘くねえというのがよくわかってきて、去るも地獄、残るも地獄じゃあ、そんなに不安がらずに適当にやるのが一番だって。そんな気分のところに、例の居直り数学のすすめだの、ものぐさ数学のすすめだの推奨してくれる森さんに出会ったもんだから、じゃ、ここはひとつギャンブル気分でルンルン数学でもやりましょうということになっちゃった訳。

 それに、法律というヤツもよくよく考えていくとエエ加減な代物でさ、世間の人は法律が紛争解決の判断基準となるもので、この法律の御蔭で社会の秩序が保たれるなんて考えているようだけど、これは真っ赤な嘘っぱち。真実は正反対で、実は何とかと何とかとは吸った揉んだで大きくなるとおんなじで、世間の紛争をどんどんこじらせて大きくするのが法律の正体。だから法律に一番近いものって言えば、軍隊とか警察かな。軍隊とか警察は普通、社会秩序を維持するためのものって言われるけど、ほんとは去年12月ルーマニアのティミショアラで起きた暴動は治安警察部隊が引き起こした通り、軍隊とか警察の御蔭で社会秩序がどんどんこじれていく。そこらへんが法律とそっくりね。それと最近の薬が似ている。病気を直しますなんてこきゃあがって、やたら薬に頼っているとすぐ副作用なんか引き起して病気をどんどんこじらせてしまうあたりが法律にそっくり。その意味で、法律っていうのは使い道次第で毒にも薬にもなる、さながら魔術みたいなところがあって、随分ケッタイでイカガワシイ代物なのね。そういえば魔術って、魔法とも言うでしょ。あれ、味わい深い言葉だと思わない。それで、事務所の名前そろそろ飽きてきたから変えようかと思って思いついたのが----魔法使い法律事務所のチンピラ弁護士……なぜって、魔法である法律をちゃんと使いこなす専門の人という意味で魔法使い法律事務所とした訳。かなり理論的でしょ。しかし、これじゃ普通名詞っぽいんで、も少し趣向を凝らして----モリモリ魔法事務所のチンピラ魔法使い柳原敏夫というのはどうかしらね。このモリモリというのは、私の大好きな森敦(御存じブッチュウ先生)と同じく森毅センセの森を貰ってつけたヤツ。
 そういう風に考えていくと、法律家と数学者っていうのは、魔術的でケッタイでイカガワシイ部分なんかすっごく共通するんじゃないか、って確信めいたものすら感じている。とくに著作権法なんて、今は完全に行き詰ってドンズマリの状態にある訳でさ、近代合理主義の法律のお勉強をちょっとやったぐらいで、今さらどうにもなるもんじゃないしね。それよか、ヘラヘラ位相空間とか群論とかにうつつを抜かしていたほうが色々と妄想が刺激されて、何かイカサマでも元気が出てきそうだもんね。

 去年の暮、最高にテンションが高まった時、すごくよくわかったんだけど、オレって、成熟して一流どころの弁護士になるなんて絶対嫌だと思ったの。全然自分に向いていないし、それよか何時までも野蛮で攻撃的で下品でいるぞ、って思ったね。それがチンピラ弁護士ってことなんだわ。だからチンピラ先公の森ちゃんに出会えて、ほんと嬉しくて嬉しくて気が狂いそうなの、ほんと。

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