小説「恐怖」のあとがき

1995.07.23



1、発端
 今回、私が初めて小説なるものを書くことになったのは、93年暮れ、8年間私の殆ど唯一のクライアントだったNHKがそれまでの態度を急変し、「白でも黒でもない灰色決着でいい」といったナアナアのずるずるべったりの態度を取ったため、それに激怒した私が即座にNHKと絶縁したことによる。

 その時、このような日本的な体質に心底うんざりした私は咄嗟に「こんなやつ相手にしてもしょうがない。一刻も早く、こんなニッポンを出よう」と決めた。そして、翌年、それまでモノグサの固まりだった私は初めて3たび外国をうろつき、脱出先を捜した。アメリカ、ここが脱出先の最有力候補地だった。

 しかし、いざ行ってみると、アメリカで私が最も感銘を受けた連中とは、いわゆるアメリカ人ではなかった。彼らは本質的に無国籍人だった。アメリカにも出身国にもどこのシステムにも帰属しないような強烈な連中だった。私はそこで初めて「個人」なるものを見たような気がした。そうだとすると、もうアメリカなる場所は本質的にはどうでもいいことであることが分かった。要するに、アメリカにいようが何処にいようが、「個人」なるものを発揮し続けることが肝要なので、場所としてのアメリカは二義的な意味しかない。そう思うと、日本を脱出するとは、場所としての日本を出ることとは限らないことに気がついた。そして、私は改めて、柄谷行人や藤原新也たちが日本に居を構えている訳が分かったような気がした。

 私は、そこで、当面、日本で無国籍人として生きることに決めた。それはとりも直さず、あるがままの自分にふさわしく創造的に生きるということだった。なぜなら、日本で日本人として生きるということはいかにバリバリ活動しているかのように見えて、その実、この日本的なシステムの中を単に泳ぐということでしかないからだ。

 ちょうどその頃、1本の映画を観て感銘した。それは「ゆきゆきて神軍」だった。そこに登場する主人公奥崎謙三、彼こそ私がめざしていた「日本における無国籍人」を最も強烈に具現化している人物だった。彼は、80年代の脳天気でふやけたニッポンにあって、ひとり、50年も前の戦争のことをまるできのうのことのように生々しく胸にたぎらせて、経済的繁栄を享楽し、貪る惰眠の民の上に情け容赦なくカミナリを落とした。しかし、私が最も感銘深かったのは、彼がそのように生きることが決して彼自ら意図的に選んだことではなく、むしろ彼が無知の涙を流す中でいわば彼の良心によってはからずも選ばされてしまったことだった。このような奥崎謙三の生き方こそ、日本的なシステムの中を単にルールに従って泳ぐということではなく、あるがままの自分に従って生きることの見本のように思えた。

 そこで、私も「私の奥崎謙三」なるものを探し当てようと思った。それが、この小説を書き始めたきっかけだった。つまり、私にも、かつて、いつかきっと忘れてしまうに違いないと思った誰もがするようなささやかな体験があり、にもかかわず、25年近く経った今、それが消えるどころか、未だにまるできのうのことのように生々しく生き続ける体験があった。だから、ここで今、改めてその体験の意味というものを探ってみようと、確か25年前に流した「無知の涙」の意味をもう一度きっちり明らかにしてみようと思った。それしか、私にとって、あるがままの自分に従って生きるという道はない、無国籍人として生きる道はないと思った。そう思ったとき、生まれて初めて、書くことが闘うことであるということを確信が持てるようになった。そしてもし、こんなふうにして書くことができるとすれば、自分はこれから引き続き書くことができるかもしれないとも思った。私は処女航海に乗り出すような気分で書き始めた。


2、執筆経過
 とはいえ、何事も全て初めてだった。だから、不器用さは避けられなかった。だが、私は少なくとも川端のように美学的になることだけは最も警戒した。そんなことになるくらいなら、下手糞となじられてもいいのだと開き直った。常に奥崎謙三のように粗忽で、チンピラなままでいようと思った。それと、世にいう起承転結といった型にはまることも警戒した。そうではなく、この型や方程式や法則にどうしても収まりきれないような特異なものを自分は何としてでも明らかにしたいのだと思った。それがふたりの主人公たちの「個性」といったものだった。だが、そう願ったものの、それを実現するためにはどうしたらいいのか、その道筋は分からなかった。そこでとりあえず、ちょうど奥崎が人肉事件の真相を解明するために何度も同じ相手をしつこく追求したように、私も、同じ出来事を何度もしつこく角度やレベルを変えて描き直すことにした。それと、もうひとつの手がかりが「聖書」だった。物語批判を最もはらんでいると思われる「聖書」「論語」「史記」などの作品の文体(スタイル)が、私を導く大きな支えになってくれるだろうと思った。もし、作品執筆で行き詰まったら、これらの作品を読もうと思った。

 さて、このようにして始められた作業は同時に、私にとって数学批判でもあった。店じまいして4年近く、数学と取り組もうとして、数学に散々翻弄されたことに対する私なりの決着をここで示そうと思った。つまり、矛盾のない首尾一貫した世界の構築をめざす数学のやり方では決して捉えきれない「緑なす生」といったものを、起承転結といった関数や方程式ではどうしても捉えきれない特異な個の姿というものを浮き彫りにしたかった。ここから私の数学批判の試みは始まるのだと思った。だから、私は漱石が文学論を書いたような積りで、この作品と取り組もうと思った。

 では、関数や方程式では捉えきれない「緑なす生」といっても、具体的にそれは何をめざそうとしていたのか。一言でいって、それは主人公Qと葉子との激突の中でQが遭遇した「聖なる瞬間」を明らかにすることである。なぜ、あそこでQはその後永遠に忘れることができなかった「聖なる瞬間」に出くわしたのか、一体何がQにそのような経験をさせたのか、その謎を解き明かしたいと思ったのだ。恐らく、そこにはQにとって彼のこれまでの人生のエッセンスが凝縮されており、賭けられていた。だから、彼は全幅の確信を持って、その「聖なる瞬間」を受け入れたのだ。そして、それはまた相手の葉子にとっても同様だった。彼女もまた、彼女のこれまでの全人生を賭けてQに激突したのだ。そこには彼女の全人生が凝縮されている筈である。だから、この時彼女はQを圧倒し切ったのだ。そこで、「Qと葉子の人生の凝縮」に匹敵するような出来事・Struggleを見つけ出し、これを「聖なる瞬間」という奇跡が出現するに至った過程として描こうと思った。 だが、それは未知の冒険だった。そこで、毎日、さあ今日はどんな認識に出くわすのだろうか、ひとつでもいいから、新たな認識を獲得するぞという緊張する思いで原稿用紙に向かった。それは、或る意味で自分が毎日出くわす様々な謎との対話みたいなものだった。以下、思いつくままに、この間やってきた謎解きを拾い上げてみる。

★なぜ、わざわざこのような暗い、破局的な作品を書こうとしたのか、或いはそんな作品の執筆に夢中になっているのか。

 決してことさら暗い、破局的な作品を書こうとしたわけではない。単に、このように書くことが自分にとってすごく素直なことだった。なぜなら、人も世界も現にある、あるがままの自分・現状から出発してやるしか道はない、少なくとも自分にとってあきらめることなく書き続ける道はこれしかないと思われたから。しかも、私のこのようなやり方に対して、次のようなタルコフスキーの言葉は私を無限に鼓舞した。
「芸術は、善を知覚するために、破局やカタルシスを通じて人間の魂を準備することができるだけである」(映像のポエジア)

★この作品の根源的なイメージというのはどんなものか。

 それは、柄谷行人のマクベス論で語られた次のようなものである。
「イマジナリーな意味空間が破れて、リアルなものが露呈する瞬間、それは人がもはや演技などできなくなる瞬間、まさに決定的な切断の瞬間である」
このような瞬間をQは葉子によってもたらされたものであることをはっきり指し示すこと。

★Qは葉子とのケンカにおいて何を見い出したというのだろうか。

 ほかでもなく、QはQ自身を見い出したのだ。しかも、葉子によって真の自己を見い出したと思った。なぜなら、エンデも言う通り「自己の心理分析なんて終わりのない迷宮です。真の自己とは自身の外にあるものです」だから。
しかも、「自身の外」とは、自身と他者との間(はざま)のことである。だから、Qは葉子との間において、はじめて真の自己を見い出したのだ。そのような真の自己の発見がとりもなおさず「聖なる瞬間」だったのだ。

★作品制作をする姿勢をどのようなものと考えたのか。

 何か完結した、完成したものをひそかに仕上げて、あとは読者に提示し、どうだ!と言わんばかりに評価を迫るもの(つまり、旧来の作品制作のスタイル)ではなく、
1.制作プロセスのときも、また、2.制作後のプロセスにおいても、作品をめぐって、果てしない対話(1.は自分自身との2.は読者との)を続けていくプロセスとして捉えよう。その果てしない、終わりなき対話の中で、無限の発見が可能なような形で対話を続けていくこと。それは、限りない喜びをともに分かち合うことでもあるのだ。
これが、新しい開かれた作品制作のスタイルのことだ。

★どんな人物を描きたいと思ったのか。

 「聖書」に出てくるような人物。つまり、平凡な人たちが劇的な変貌を遂げること。ちょうど映画「8月のラプソディ」の主人公のおばあちゃんみたいな人物。

★Qと葉子との葛藤をどんなふうに描こうと思ったのか。

 単に、葉子がQを嫌いになり、捨てるに至った経緯といった一面を描くのではなく、ちょうどその破綻が進行する過程と逆行するように、Qが葉子に対する愛情に目覚めていく過程をきちんと描くこと。つまり、一面だけを描くのではなく、多様な意味あいと矛盾を帯びた緊迫した事実を多面性を失うことなく、描こうと努めること。ちょうど、「聖書」が描こうとした「現実の歴史に見られる多様性、すなわち混沌として相対立する内的外的な事象の交錯が、失われることなく確かに痕跡をとどめている」世界を自分も描こうとした。

★葉子とはどういう人物か、なぜQがあれほど夢中になった人物だったのか。

 ひとつは、美学批判をやった人。というより、美学への抵抗を(決して優位に立っているのでも何でもなくて)必死になって続けている人物だった。この抵抗は2つの場面でなされた。まず、日常生活の次元で、受験勉強の中でいい気になっている俗物どもに苦しめられ、ここで彼らに抵抗した。次に、恋愛の次元で、受験勉強から逃れた気になって、美しい恋愛の中で純粋に生きているというふうに思い込んでいる美学的俗物であるQに苦しめられた。で、ここでも彼女はQに抵抗した。つまり、彼女はこれらの圧倒的俗物たちに囲まれて、必死になって抵抗しようとしてきたのだ。

 次に、彼女は、決して他人のレールに乗らないことをめざし、自分自身であり続けることをめざし、そのために闘争し、抵抗した。彼女は、自分のおかれた環境の中で正直言って、受験勉強を文字どおり拒否することを実行に移すだけの力はない。そのことの非力さを認めた上で、自分がやれるようにやるしかないと思っている。しかし、Qはそれと正反対で、「ありのままの自分から出発することを拒否する」理想主義というレールにしがみついて、葉子の軟弱ぶり、臆病ぶりを非難した。しかし、どちらが本当に軟弱で、臆病かは、葉子の抵抗の中で暴かれることになった。

 で、Qは葉子にあれほど情け容赦なく自分の軟弱ぶり、臆病ぶり、欺瞞ぶりを暴かれて、どうして葉子から逃げ出さなかったのか。
 葉子は単にQを糾弾したのではなかった。そこには愛情があった(正確には残っていた)。しかも、葉子は決して優位に立って振る舞っているのではなく、彼女自身回りにものすごく苦しめられ、痛めつけられ、その苦しみの中で、やっとのこと必死になって抵抗しているのだ。だから、Qは葉子とのStruggleの中で、そのことをしっかり感じ取ったのだ。だから、逃げ出すこともなかったのだ、それどころか全幅の共感をもって彼女を受け止めることができたのだ。

★Qとはどういう人物か。

 Q‥‥非凡さを振りかざすが、実は、本質的に単なる凡人・俗人

★全体のスタンスとは

 美学との闘争、美学への批判、
これを通じて、これを突き抜ける中から或る感動的な事態に直面できること。
批判を突き抜ける中から感銘に直面すること。

★いかにして表現するか

 全ての出来事を「芸術的イメージ」の中に転換すること。それによってはじめて、万人に開かれた、万人に経験可能な作品となれる。
つまり、重要なことは
1.いかにして、このユニークな「芸術的イメージ」を発見するか、だ。すなわち、どんな説明、どんな解説よりも根源的なイメージを探し当てること。これは、或る物、或る存在といったことではない。むしろ、人と人との間に生じる凝縮した緊張といったものだ。 as if 漱石「こころ」
2.もし、このユニークな「芸術的イメージ」を発見できたなら、あとは、これをできるだけ忠実に伝えること、決して美的な粉飾をしないこと、決して伝統的な技法、方法に乗っからないこと。ぶっきら棒なまでに、これを忠実に再現するように努めること。 
     as if 賢治 カフカ

★いかなるスタイルか

 聖書の如きエクリチュアール
(非凡さを装う)平凡な男Qが、劇的な変貌、思いも寄らない変貌を遂げるに至る。

★Qと葉子との激突の最中、Qは何を最も強烈に感じたのか。

 それは、或る種のズレ
     Qと葉子との決定的なズレ
 そのズレの果てにQは葉子に決定的に打ちのめされたのだ。

★では、そのズレとは何か。

 Qの感性それも文学によって意味づけられた慣性のような感性。
 つまり、Qが心に思い描いていたことは、いつも書物に棒線を引いて仕込んだ「文学的パターン」にのっとったものにすぎない。決して貧しくとも自らの身体で、自らの心で感じ、反応したものではない(←しかし、そもそも自らの身体や自らの心で感ずるとはどういうことか。およそあらゆる外界から自由な自立した身体や心を想定すること自体はたして可能なのか)。 だから、Qは葉子の感性に触れるたび、いつもえも言われぬ冷やとするズレ、異和感を覚えざるをえなかったのだ。そして、冬休みに、このズレが爆発した。

3、書いてみて分かったこと
 なぜ葉子との激突のあと、24年間も小説を書かずに、芸術から遠ざかっていたのか?
むろん書けなかったこともある。既存の数学がどうしても馴染めないものと同様に、既存の小説に馴染めなかったから、そのスタイルをまねても、どうしても書ける気がしなかったのは確かだ。しかし、それ以上に、小説家や芸術家が嫌いだったから。
俗世間から超越しているように振る舞う彼らこそ実は最も俗物であり、その美的俗物ぶりが嫌でたまらなかったから、彼らから徹底的に遠ざかろうとした。

この嫌悪感を葉子との激突の中で思い知らされた。自らの中にある「美的俗物ぶり」を思い知らされたのだ。そこで、これと訣別したい一存で、小説や芸術から縁を切ったのだ。

しかし、当たり前のことだが、小説や芸術から縁を切ったところで、例えば、法曹界には法曹界の美学の仮面をかぶったゴロツキのような俗物がいるし、教育界にも美しい教育理念をまとった美的俗物が必ずいる。どこにもそういった美的俗物が必ずいる。だから、今や問題は小説や芸術そのものにあるのではなく、これらにつきまとう「美的俗物ぶり」と闘うことにある。

そこで、この「美的俗物ぶり」と闘うために、再びこの小説に戻ってきた。なぜなら、そもそも私の「美的俗物ぶり」がかつて芸術それも小説の中から発生したものである以上、これとの闘いも小説の形でやるしかないと思った。そして、方法論的にも、この「美的俗物ぶり」を批判し、これと闘うことが、芸術の形態(小説)として可能であることに気がついた。これが小説という形で表現しようとした理由だ。 だから、自分が物書きたらんとすることは、あくまで芸術批判、文学批判を遂行するためだ。文学によって文学批判を行なう。だから、物書きをしようが、決して世の「文学者」になる必要はないし、なるべきではない----ここでも批判を貫け。世界における本来の物書きの位置に戻れ。 as if  宮沢賢治

もう一度、確認しよう。自分は今回、一体何をしたのだろうか?
----文学を通じ、文学批判をやろうとしたのではないか。

では、それはいかなる立場から?
----小説家や物語作家の立場ではない。そうではなく、あたかも聖書を書いた歴史家のような「歴史家」という立場からだ。
もし、自分がこのような歴史家になれるならば、今後とも小説を通じ、文学批判を行なうことが出来るのではないか。

では、今後、いかなる歴史家としてやっていく積りなのか?
----それは、2つの方向での取り組みという両者の緊張関係の中で、はじめて歴史家たりうるのではないか。
ひとつは、科学者(或いは科学批判者)としての、法則探究者(或いは法則批判者)としての歴史家。
もうひとつが、事実探究者(或いは事実批判者)としての歴史家。
前者がマルクス、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、カントの線上にある「批判者」だとすれば、
後者は、ドストエフスキー、カフカ、史記、聖書の線上にある「小説家」。

だから、私にとって、この作品を書くことは、カント研究・マルクス研究と、同じメダルの表と裏のことだ。

4、思い残していること
 数え上げたらきりがない。確か黒澤明だったか「自分の作品は自分の夢の残骸」とか言ったが、その感じはすごくよく分かる。しかし、作品執筆に向かう中で、現実以上に現実感を深め、理論的になる以上に物事を考察することができたのは決して残骸なんかの気分ではない。これまで学んできた様々な文学理論も、こうして自ら実作をする中で、自らの体験に照らして考えてみてはじめてその何たるかを理解できることも分かった。  その中で今、一番考えていることは、いかにして万人にとって経験可能な表現形式を見い出すかということだ。いいかえれば、いかにして芸術的表現を見い出すかということだ。人が或ることを理解するとは、それがその人にとって経験の対象となるからだ。そのように経験の対象となったものだけが万人にとって身近なものであり、くつろげるものとなる。そして、このような対象だけが各人の経験を通じ、各人の内的世界の中で再認識される。このような再認識を通じ、人は人生をつかみ直すのだ。だとすれば、このような経験可能な表現形式はいかにして可能だろうか。

ミヒャエル・エンデは、世界が我々にとって経験可能なもの(経験の対象)となるためには、世界に関する外的イメージを内的イメージに置き換えることが必要だという(エンデ流に言うと「外なる自然の風景が私たちの内心の風景に移しかえられること」)。では、そこでいう内的イメージとはどんなものか。それは、いわば見たままの自然・社会といった外的イメージを、それと同じ質をもって、我々人間が経験可能な対象というものに置き換えることをいう。たとえば、童話に登場するオオカミやヤギや醜いアヒルの子やカエルたちは、それだけで立派に読者に或る経験を呼び覚ますことができる内的イメージである。

ところが、エンデは問う、自然科学の発達と並行して、我々が作り上げた文明という外部世界は、はたしてこれと同じ質をもって我々の内面世界に置き換えることができるものだろうか。たとえば、高速道路に対応するものを我々の内面世界に見い出すことができるだろうか。これができないということは、芸術は、このような文明という外部世界を表現することができないということだ。その意味で真に、世界は文明の世界とそれ以前の非文明の世界というふたつの世界に引き裂かれてしまった。そして、前者の世界だけが日々ますますのさばり、後者の世界はますますすみに追いやられている。いいかえれば、我々の内面世界(それは経験可能な世界つまり後者の世界)はもはや前者の文明の外面世界とは似ても似つかぬものとなり、我々現代人はこのふたつの間の激しい分裂状態の中で生きていかざるを得ない。これが今日、我々誰もが分裂病に追いつめられている根本的な原因である。そして、ここに現代文明の我々精神面における決定的な問題がある。
これに対し、エンデは、どうにかして文明の外面世界とそれ以前の非文明の世界すなわち我々の内面世界とをもう一度置き換え可能なものにしていく努力をするしかないと言う。なぜなら、このまま行ったら我々は我々の内面世界つまり文化というものをすっかり失うことになるからだ。だから、何としてでも「両者の置き換えの可能性」を何としてでも見つけ出さなければならない、それが彼の作家としての急務なのだという。 だが、では一体どうしたらそれがうまくいくのか、それはまだエンデにも分からない。だから、彼は物を書きながらひたすらその試みをしているという。

このような世界認識は、たとえば藤原新也の
「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ」
で始まる作品『メメント・モリ』でも示されており、それは
「わたしは、あきらめない」
という言葉で締めくくられている。また、柄谷行人も大昔から
『率直にいえば、私自身にも現実感は殆ど希薄である。むしろそれは私が「現実」に目をそむけているという意味でも、関心を持たないという意味でもない。関心ならありすぎるほどあり、それでいて何の痕跡も私の内部にとどまらぬという意味である。‥‥ただ無数の情報・解釈が私のなかを通過したにすぎず、ふりかえってみれば夢のような気がするだけだ。‥‥「現実」はある、が現実感はない。とすれば、むしろ「現実」の方が疑わしいのだというべきだろうか』(畏怖する人間)
と書いている。漱石もこの問題で悩んできた。漱石にとって、外界はひとつであり、伝統的な芸術家たちが取り扱っていた男と女の話とか人情物とか狭い枠の内面世界だけで満足できる訳がなかった。そのような外界と内面との分裂症に甘んじるような芸術家ではおれなかった。そこで、漱石はエンデと同様「芸術的表現の不可能性」の問題で悩み、これと格闘した。だから、時として作品中に文明批評を交えてしまい、当時の評論家から「半端」「不純」という批判を受けた。しかし、この「半端」「不純」な表現は漱石の格闘のあらわれに他ならなかった。

 私が今後取り組まなければならないと思ったのもこのようなことである。これを私は、芸術作品の創造という方向で取り組むことと同時に、我々の文明の基礎そのものである科学に対する批判という方向の両方を並行してやらざるを得ない。なぜなら、両者が相まって世界を再認識することが初めて可能となると思われるからだ。だから、この壮大な取り組みに比べれば、今回の処女航海なぞ水たまりの上を滑った取るに足りない試みにしか見えないかもしれない。しかし、これがたとえ水たまりの航海であろうと、この水たまりは遠大な大洋に連なる水たまりであることを私自身は痛感している。だから、どんなにささやかなものであっても、この試みをやめるつもりはない。否、むしろ、今後、もっと激しく、もっとしつこく、この試みを反復していきたいと思う。私もあきらめない。

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