最近の謎・疑問・出来事(98年9月分)


最近の謎・疑問・出来事(98.09.24

 引き続き、大河ドラマ「春の波涛」の裁判の準備のために書いたメモ類のひとつ。

 これは、一審の最終ラウンドで、裁判所の予定(ドラマストーリーは被告NHK側の敗訴という見通し)が実際上覆った法廷外での説明会、これに向けて、準備する中で作成したもの。
 こちらもこれが最後の逆転のチャンスであると分かっていたので、この天王山に向けて、殺気立ってきた私は、もう恩師であろうが、誰であろうが、ズケズケ自分の意見を表明して、殆どそれを押し通してしまった(ことを今回、再確認した)。
 人が事件を担当するのではなく、事件が人を作り出すのだということがよく分かる。
 これもまた、実験したことが多く、幸せなひとときである。

しかも、ここで私は知らずして、最もクリティーク(批評的)たらんことを目指し、その大切さを強調している。事件のリアルな認識に至った末に獲得した態度が、図らずも、この「クリティーク」であったことは、今なお、味わい尽くす価値のある現象だ。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.24

 引き続き、大河ドラマ「春の波涛」の裁判のため、小森陽一氏の意見書を書いてもらうために準備する中で書いた書面のいくつか。
当時も、また今読み直してみて明瞭なことだが、私は自分がシナリオや小説を書こうとするときに襲われる空々しい気分、作り事を書いているという思い、いわば虚偽感といったものからどうしても抜け出せなかったのに、こうした文章を書いているときにはそれから解放されたのを実感していた。そして、こういう文章を書きながら、おお、そうだ、こういうふうに書けばいいのだ!と喝采を叫んだことがある。
しかし、どうして、このような時に、それが可能なのか、よく分からぬまま、不思議な気分のまま、きた。そして、未だに、この緊張感をシナリオや小説に見出すことができないでいる。
他方で、これらを読み直して、改めて、文献の森の中に閉じこもっているような学者の人たちには、こうしたことは考えられないと思った。
そのため、紛争の現場から、引き続き離れられない(もっとも、現場にいれば考えられるわけでも全くないが)。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.23

 引き続き、大河ドラマ「春の波涛」の裁判の準備のために書いたメモ類のひとつ。

 89年、私は、こういった分析のコメントをひっきりなしに書いている。我ながら、よく時間があったと思う。殆ど、好きで勝手に書いていたとしか思えない。
 この中で、興味深いのは、作品のストーリー・プロットをえぐり出す、という作業に対して、不可知論ともいうべき、懐疑の可能性を提起していることだ。この当時、文芸論における作品の多様な解釈の可能性と法律論における一義的な解釈の確定という問題との亀裂に悩んでいて、それをどう調整していいやら、分からないで悩んでいた。まさしく、目に見えないものゆえ、一義的な確定の可能性に自信を失っていたのである。
 しかし、これは最終的には、----主に小森意見書を通じて、実践的に解決してしまった。
 それでもなお、ここには、理論的に存在する多様な解釈の可能性と実践的に決断してしまう一義的な解釈の確定との関係という問題が残されたままになっている。

 それにしても、この当時、延々とこうした文章を書かせたのは、もっぱら、この年に起きて私の頭をおかしくした天安門事件である。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.23

 引き続き、大河ドラマ「春の波涛」の著作権訴訟に関するコメント。
 この裁判の準備のために書いたメモ類は膨大なものがある。しかし、デジタルデータとして残っているのは、89年以降のものだけなので、この時点からのもので、意味があるものをここに掲載する予定で、これはその最初のものと2つめのもの。

 最初の文章は、ちょうど裁判が原告の主張がそれなりに出尽くした時点において(提訴以来既に3年半経過しているが)、いよいよこちら側が反攻に出て、大勝負を迎えるという段階にあたって、これをどのように戦うかを、作戦を練っていた頃に書かれたものである。当初、著作権裁判が初めての私が、右も左も分からず、ただキョロキョロするだけだったが、この頃までには、シナリオ講座に通って自分なりにシナリオを書いてみたりして、ドラマのイメージがつかめてきたので、だんだん図々しく作戦の提案をするようになった。それが、このコメントである。

 これを読み返すと、原告の請求は、@ドラマの翻案権侵害、Aドラマストーリーの複製権侵害、B人物事典の複製権侵害、と3本立てであったが、裁判所は争点整理により、
1、ドラマ以外は取り上げない、という態度をこの時点では表明していた(それゆえ、我々も安んじて、ドラマの著作権問題だけに集中して反論を準備したのだったが、その後、裁判官が転勤で変わって、審理の最終段階に至って、新任の裁判長がAもBも再び取り上げるという方針に突然変更してしまったので、我々はビックリした)
2、その後、我々内部でも大問題になった、ドラマの翻案権侵害が成立しないことをいかにして証明するか、をめぐって、既に、このとき、対立の萌芽があったことが分かる。
 この点に関する私のスタンスは単純明快で、可能な限り明晰な判断基準を樹立することをめざす、というものだった。しかし、それは----言うは易き、行ない難し、の諺とおりだった。しかも、私があれこれ迷った末、、本件に関して原告のドラマ化権侵害の主張が成立しないと最終的に考えた理由は、ありていに言えば、
ちょうど、誰かの絵画を見て、それに触発されてドラマを作ったとしても、ドラマ化権侵害が成立しないのと同じ構造である、
というものであった。
 確かにこれは明快ではあった、しかし、絵画と原告本を同視するという証明は、決して簡単ではなかった。そこで、その後ずっと、この点の、つまりドラマ化権侵害の判断基準の確立、という理論的な課題にめぐってもっぱら格闘することになる。しかし、これが最も困難な最大の理由は、これが言い回しが似ているとか、絵が似ているとか、といった外面的表現形式の類似の場合と異なり、そもそも我々が目で見て直接確かめられない、その意味で、抽象的、観念的なレベルに否応無しに踏み込まざるを得ないことにある。そして、この困難さは、決して、このドラマ化権の裁判にとどまらず、その後、およそ内面的表現形式をめぐる諸問題が起きるたびに、想起されざるを得ない、普遍的な課題であることを、その後に至って、痛感した(たとえば、ゲームソフト「ときめきメモリアル」の無断改変の裁判で、再び、目に見えない改変のこと、つまり、内面的表現形式の改変の問題が問われたときに、そこにはこれと共通の困難さが横たわっていた)。その意味で、ここで我々が直面した困難さというものは、まさしく普遍的な価値を持つ困難さというべきものであった。
 そのことを、今、改めて感じている。

2つめの文章は、 最初に書いた現状分析の補足。
といっても、ここで、ドラマ化権侵害が成立しないことの証明方法について、ズバリ私案を提案している。それは、通常やられる、両作品のストーリー等の内面的表現形式が類似しない(=非類似)という方法ではなく、ここでは、
 両作品のストーリー等の内面的表現形式は類似性の判断が不可能であるということ(=いわば不類似)
を明らかにしている。
 このような、一見奇妙な方法を提案したのには、それなりの訳がある。簡単に言えば、通常取られる上述の方法(非類似の方法)を散々やったけれど、うまくいかなかったからである。だから、これには或る種の決断だった。そして、この決断を促したのは、ガロワの理論だった。
 つまり、私の新しいやり方はガロワが5次以上の代数方程式を一般的には解くことができないことを証明したのと同じ発想に立っている。
それまでは、代数方程式をどうやったら解けるか、一生懸命解き方を探っていたのだが、ガロワが方針を大転換して、そもそも代数方程式が解けるための条件とは何か、について考えを深め、その条件を満たしているかどうかを検討するというやり方をここでも採用したのである。というより、私は、あたかもどうやったら方程式が解けるか、と同じように、どうしたら両作品の非類似性を明らかにできるかを必死になって解こうとして壁にぶち当たり、そのどんづまりの時にふと、ひょっとして、本件は、ガロワのこの方法でしか明快な解決方法はないのではないかと気がついたのである。
 そして、それは私なりに成功した(もっとも、その後、周囲の反対にあって、それを正面から主張することはできなかった)。
 しかし、今では、その成功のことよりも、この方法がなぜうまく行ったのか、その原因を掘り下げてみるほうが価値があると思う。
 恐らく、そのひとつには、ガロワの理論がそれまでの数学とちがって、見に見えない或る働きというものを対象にしていることと深い関係があるのだと思う。もしそうだとすると、この種の数学は、著作権法などの難問に理論的貢献をする可能性を多いに秘めていることが示唆されると思う。


最近の謎・疑問・出来事(
98.09.20

 引き続き、大河ドラマ「春の波涛」の著作権訴訟に関するコメント。
 この裁判は判決だけ眺めていると、いかにも最初から最後まで被告の圧勝という印象を受け、難なく勝った事件のように見える。しかし、実際は、そうではなく、一審の最終ラウンドの時点で、我々は、数字的にひどい劣勢の立場にあった。 
----8年目を迎えた93年4月、新たに着任した確か4代目の新任裁判長の指揮により、和解手続に入り、その席上、裁判長から、被告の我々に向かって「原告の3つの請求のうち、ドラマの著作権侵害は無理として、残りの2つについては、著作権侵害を前提にした和解を検討されたい」旨表明された。パーフェクトの勝利を予定していたのに、いわば1勝2敗を告げられたのだった。これは青天の霹靂にもひとしい出来事であって、この時点で、我々一同、気が滅入ってしまった。
 しかし、考えようによっては、このときから初めて批評活動が始まったとも言える。裁判長の宣告がもたらした危機感がその後の約7ヶ月余りの活動に緊張感を導入し、我々の批評活動の質を決定したのだから。とにかく、裁判所が陥っている「俗情との結託」つまり、字面文字面が似ているだけで直ちに著作権侵害なのではないか、という思い込みを改めて、理論的に徹底的に打破する必要があった。
 そのような認識的な格闘を余儀なくされて、我々は、一方で、これを理論的に解明する専門家の鑑定書を作成する必要があり、この作業に足る人物の捜索が始まったが、しかし実は、この種の作業に堪えられる頼みとなる専門家が殆どいないのに愕然とし、困り果てていたとき、たまたま見たNHK教育の「漱石探求」に出演していた小森陽一氏の話を聞いていて、彼がいいと思い、初対面の癖に、忙しい彼を拝み倒して(本人は「殆ど脅迫だった」と後日、語っている)協力してもらった。事実、彼とのディスカッションで多大な教えを受けた。他方で、何とか、ドラマストーリーが原告本の著作権侵害でないことを文芸の素人である裁判官に人目で分かる手立てはないか、と図形やグラフ(数学でいう幾何)や表(統計表)を活用することを模索した。
 93年10月、裁判所は、法廷外の会議室なような場所で、双方の言い分をたっぷり聞いてくれる説明会を設けてくれた。我々は、この半年間の懸命な努力をここでぶつけるべく、立体図形やら統計表やら様々な工夫をこらして準備した(これに反し、2勝を聞かされた原告側は、勝利の美酒に早くも酔いしれてしまったせいか、殆どまともな準備をしてこなかった)。
 この手続の中で、我々の説明を聞いていた裁判官(判決を担当する裁判官)が、突然、「ウッ!」と低くうめいたのを覚えている。彼は、血の気が失せたようになって、我々の説明を聞いていた。どうやら彼は自分の間違いに気がついたようだった。
 この瞬間、初めて、原告の2勝1敗という夢は崩れたのであり、我々は、引き続き、小森意見書というサヨナラ満塁ホームランで最後のとどめを刺したのである。
 以下の資料は、その説明会に用意し、その後、証拠として提出したものの一部である。本当は、このとき用意した立体図形とか模型なようなものも掲載したいのだが、説明会で裁判官にそのあともじっくり見てもらいたいので、プレゼントしてしまって、手許にない。せめて、写真でも撮っておけばよかった(当時は、そんな余裕はなかった)。
この時、統計の作業を行ない、グラフや表を作成していて、もっときちんと統計の勉強をしてけばよかったと悔やまれた。幸い、こんな小学生並みのグラフで稚拙なものでも、それなりに目的を達成したが、もっとデリケートな事案だったら、歯が立たなかった。その後、仕事を中断し、ニセ学生を始めたときに、統計の勉強もかじったが、未だ、成果が出るには至っていない。忸怩たるものがある。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.19

これから集中的に、先日、最高裁の判決があった、昭和60年度のNHK大河ドラマ「春の波涛」の著作権訴訟に関する資料(というより、その当時、考えたメモ・ノートの類)をホームページに掲載しようと思う。
まずは、一審の審理の最後に提出予定だった(にもかかわらず未提出に終わった)最終準備書面の草稿を掲載する。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.18

 昨日(9月17日)久々に、昭和60年度のNHK大河ドラマ「春の波涛」のチーフ・プロデューサーだった松尾武氏(現NHK理事)にFAXする。
翌朝9時、電話が来て、久しぶりに話す。
ドラマ部の頃は、昼ごろ出社で、その代わり、朝の3時とか4時まで仕事をするのはざらで、おかげで、こちらも深夜の作業に付き合うことも多かった。それに比べると、今は、朝の9時に彼から電話が来るなんて、彼も歳を取ったのか(?)。
彼の陳述書をホームページに掲載することについて快諾を得る。

彼には、2回、陳述書を書いてもらう準備をした。しかし、第1回目の陳述書にしても、それが完成したのは、裁判開始から5年近く経過している。今では信じられない超スローペースであるが、それは当時、我々自身がどうこの裁判を進めていったらよいか、正直言ってずっと迷っていたからだ(しかし、そのおかげで、私などがシナリオの学校に2期も通えて、シナリオの勉強をすることも可能になったのだが)。しかし、裁判の後半に至ると、ドラマの構造についても機が熟してきたというべき状況になり、尻上がりに議論が仕上がってきた。それに伴い、訴えを起こされた側であった我々の態度も次第アグレッシブになってきて、そのために、ラストの段階で、もっと完璧で、もっと強気の陳述書作成のために、もう一度、彼にご登場願うことになった。
 しかし、諸事情があって、この2回目の陳述書は未完に終わった。もっとも、その成果は無に帰したわけではなく、一部は小森意見書に反映され、一部は最終準備書面に反映されることになった(もっとも、この最終準備書面もまた幻に終わった)。

松尾氏のことで、覚えているのは、さっきも言ったように、その後NHKのドラマ部の部長などをしていた彼の激務で夜型のスタイルに合わせて、しょっちゅう、夜中までNHKで作業をしたことだった。また、実際の制作現場のことを知りたいと彼に申し出た際に、彼がプロデューサーを担当した山田太一作・深町幸男演出の「友だち」(1987年)のセットとロケ現場に行かせてもらったことだった。この頃、映画やドラマのことは本当に何も知らない私は、ロケ先の宿屋で風呂に入ったとき、一緒だったのが俳優の井川比佐志氏だったが(当時、彼は少し前に黒澤の大作「乱」に出演し終えた頃である)、本当なら、元来あつかましい私は、そういうことでいろいろ話をした筈なのに、何も知らないために、ただ、渋いおっチャンだなあと思っただけで一言も話さなかった。このドラマで主演だった倍賞千恵子さんとも話をした。妹の雰囲気から予想していた通り、そのときの彼女は、役柄とは違い、茶目っ気のあるなかなかいたずら好きな人だった。

話を戻して、松尾氏のこの陳述書を書き上げて少しして、彼の証人調べがあった。私が彼の陳述書作成の責任者だった関係で、彼の証人尋問の質問者として私がメインを担当することになった。実は、それまで、このような本格的な証人尋問はやったことがなく、正直なところ、どう準備していいか、分からなかった。いわば、ペイペイの助監督が一流監督を差し置いて映画を撮るようなものだった。そのため、我ながら、一から迷いながら考えるしかなかった。おまけに、周りには、ベテランの弁護士が私の準備の不足・誤りについて、喧喧ガクガクの議論が続いた。
裁判の前日、裁判の行われる名古屋のホテルに宿泊して準備に備えたが、この段階に至ってもなお、質問が確定せず、周りの長老弁護士との間で激論が続いた。その夜、打合せがお開きになり、気分転換に一杯飲みに行く者もいたが、私は、それまでの議論がどうにも納得が行かず、またしても、それまでの議論をバラバラに崩して、また一から整理しようとしていた。そのため、作業が明け方まで続いた。
当日、これから晴れの闘いの舞台が始まろうというのに、私は既に、ボクシングで言えば最終ラウンドを迎えるプレイヤーみたいに、焦燥しきってボロボロだった。もう誰とも喋る気がしなかった。ただ、少しでも休息が欲しくて、裁判所の廊下の壁にもたれてひたすら休んでいた。このとき、周りの誰もが心配して、こいつはもうダメなのではないか、と私の様子をうかがっていたのをおぼろげに覚えている。事実、当の本人すら、もうダメだと思っていたくらいである。しかし、この期に及んで質問者の交替はあり得なかった。
法廷で、松尾氏の証人調べが始まり、私が質問を発する瞬間が訪れれた瞬間、不思議なくらい元気が戻った。過労のおかげで、初体験ゆえの緊張する余裕というものがなかった。そのため、それまでに散々考え、散々迷った上で、到達した確信に従って、迷わず、質問を続けることができたらしい。終わったとき、周りの人たちの興奮を今でも鮮やかに覚えている。ああ、どうやら、今回は成功だったらしい、と分かって、体中から力が抜けた。
こうして、私にとって、松尾氏は、裁判上の戦友になった。

この松尾陳述書とそのあとに行われた松尾証人尋問は、ドラマの著作権侵害の問題について、我々が、初めて我々の確固たる信念を具体的に表明した証拠であり、この時点より、我々が勝訴判決に向けて詰めが始まったという意味で、大きな節目となったものである。
もっとも、今、ざっと読み返してみて、不十分さが、未熟さが目に付く。しかし、我々はここからしか出発できなかったのであり、また、このような出発をしたからこそ、そのあと、中島陳述書・小森意見書というより完璧な成果に到達できたのだと思う。その意味で、これは著作権裁判における青年の出発点ともいうべき作品だと思う。

最近の謎・疑問・出来事(
98.09.17

 久々に、脚本家の中島丈博氏(昭和60年度のNHK大河ドラマ「春の波涛」の脚本担当)に電話する。
相変わらず、元気でつやのある声。
思わず、話し込んでしまう。「春の波涛」の著作権裁判で作成した彼の陳述書をホームページに掲載することの許可を求め、快諾を得る。

殆どの場合そうであるが、この種の陳述書の草案は、代理人のほうで用意する(だから、代理人の力量が陳述書の出来不出来を大きく左右する)。このときも私が担当して作成し、関係者に配って読んでもらったが、そしたらすこぶる評判が悪かった。余計なことをゴチャゴチャ書きすぎていて、分かりにくいということだった。
私は、それまで中島さんの脚本もドラマも全く知らなかった。そして、初めて見る本件のドラマは、正直言って、私の気に入らなかった。そのせいもあって、当初、私は、本件が著作権侵害になるのかどうか、正直言って、よく分からなかった。
しかし、その後、この中島さんの陳述書を作成するために、彼の経歴を調べ、彼のこれまでのドラマのことを知るに至って、この人は、シロであるという確信に到達した、要するに、訴えを起こしてきた原告のタイプと彼のそれと全く異質であり、資質的に盗用するようなことは到底不可能であることが分かったからである。それで、私は、いささか脱線してでも、彼の作家としての核になっている世界観・資質から説き起こして、著作権侵害があり得ないことを証明しようと思ったのだ。しかし、こうした試みは初めてのことであり(周りの人たちにとってもそうだった)、当初、なかなか思うようには歯切れよく明快に書けなかった。それで、周りの人たちからこうした不評を買うに至ったのである。

しかし、その中で、唯一例外がいた。それが、中島さん本人である。それまで打合せには殆ど顔を見せなかった彼が、私の草案を読んで我々の打合せの席にやって来たとき、「なかなかよく書けているんじゃない」と言った。私は、初めてそれまでの努力が報われる気がした。それで、この方向で、陳述書を練り上げることにし、同時に私と中島さんは親しくなった。

それが、ここで公開する中島陳述書である。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.10

 この日、久しぶりにNHKから電話があった。私の30代の殆ど唯一の仕事といってよかった昭和60年度のNHKの大河ドラマ「春の波涛」をめぐる著作権侵害事件の最高裁の判決があったことの連絡だった。ある事情で、私は、この裁判を一審の結審直前に辞任し、その後、いっさい関わり合いを持っていなかったが、二審判決のときと同様、この事件の節目節目にNHKから判決の報告があったという訳である。そして当夜、最高裁判決の写しがFAXで送られてきた。それは以下の通り、お決まりの定型文だけで、本文5行にも満たないまさしく三行半の判決理由だった。

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決表示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決の法令違背をいうものにすぎず、採用することができない。

今となっては、原告個人に対し特別な感情はないが、しかし、こんな紙切れ同然の言葉であっけなく幕切れを余儀なくされた原告がものすごいフラストレーションを抱くであろうことは容易に想像がついた。それは単に13年かけた裁判だからだけではない。一方で、伝記・評伝といった著作物におけるドラマ化権の保護のあり方という、事実をめぐる著作権の保護の限界という厄介な問題が問われ、他方で、直接目で見ることのできない、ドラマのストーリー・プロットといった内面的表現形式の保護のあり方というこれまた厄介な問題が真正面から問われた、我が国の翻案権訴訟のリーディングケースとなり得るような重要な裁判だからである。その重要性を自覚していれば、最高裁も、仮に原告の上告を棄却するにしても、もっときちんとした言い方があった筈である。
しかし、最高裁がこのような自覚が全くなかったとは思わない。ズカッと言えば、その自覚をしたとしても、しかし、そんな片や伝記・評伝の特質を、片やドラマの特質を弁えなくては手も足も出ないような難問に、ほかに山のような事件を抱えた最高裁がどうして真正面から取り組みようがあっただろうか。これがむしろ本音に近いと思う。事実、私も、この事件を取り組んでいる間、ほかの仕事を本当に何もしなかった。
このことは、意味深な事態を示唆するように思う。たとえば、こうした現代の著作権紛争の先端に位置するような紛争は、単なる法律の専門家の手によってはもはや解決不可能だということ。現に、この裁判の行方を決定したのは、伝記や評伝、映画やドラマの構造分析に通じている文芸の専門家の知見を本件事案に適用して得られた鑑定書のようなものだった。しかし、このことの重要性を悟るまでに、また、この文芸の専門家の知見と著作権の問題とを文芸の素人である裁判官にも分かるように結合(=説明)することができるようになるまでに、5年も6年もかかってしまった。

こうした暗中模索の経験を含めて、この事件の行方を左右したと思われる重要な資料をこれから公開し、こうした現代の著作権紛争の先端に位置するような紛争は、裁判手続の中で、そして裁判手続とは別の手続の中で、いかなるプロセスを通じて解決されるべきであるか、について探求していきたいと思う。

まずは、事実上、一審判決(及びその後の上級審の判決)を揺るぎないものにした決定打ともいうべき書面、文芸の専門家小森陽一氏による意見書を公開したい。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.07

 
6月末に著作権侵害の裁判を起こした「煮豆売り事件」の第1回目の口頭弁論。相手は、調停のときと同じ代理人。それゆえ、事案のことは私なんかよりとうに熟知している筈。しかも、この夏中、準備の猶予が与えられたのだ。
 にもかかわらず、この日、提出してきた答弁書は、何も答弁しないにひとしい三行半の紙切れだった。おまけに、代理人は欠席。
 この日の裁判終了後、かねて念願だった、原告三谷一馬氏の自宅をまたしても訪れる、予定通り、今度はデジカメとおやじ同伴で。
すぐ、退散する予定が、ずるずると長居をしてしまい、すっかりお世話になってしまった。おやじは自分のような(どこの馬の骨か分からないような)者の話を三谷氏が丁寧に聞いてくれたと感激することしきり。
 私まで、絵を描くことの楽しみをやり始めたくなったくらいだった。

最近の謎・疑問・出来事(98.09.04

 
7月以来、ずっとホームページを更新しなかったのは、前回、以下のことをホームページにも書いた通り、或る裁判で、ショッキングな体験をし、その対応のために、ずっとかかりっきりだったからだ。

 先週、著作権の難問を審理している大阪の裁判所でものすごい差別を受けてきた、しかも、差別する当人たち(裁判官)はそのことを全く意識し、自覚しないままに。
 こういう目に会うと、我が国で著作権の難問ときっちり取り組むためには、単にクリエイティブたらんとするだけではダメなので、そのためには何よりもまず「クリティカル(批評的)」でなければならないことをいやというほど痛感させられた。
 よって、このホームページも、リーガルクリエーターをめざすのではなく、何よりもまずリーガルクリティーク(法律批評家)をめざすしかないと思った。

私は、半ば猛然と頭に来ていたが、しかし、そのことをそのまま表明するのを極力避けたいと思った。そして、何よりもまず批評でもって勝負したいと思った。だから、このときの感情の高ぶりをすべて、批評を推し進める力に転化したいと思った。ここでいう批評を推し進める力とは、伝統的な枠組みの中に安住する人たちを支配している発想を推論していった場合、その結果、本件の問題が彼らの目にどのように写るのかを、さながら彼らの立場に立って追体験してみようと心がけること、また、そのような彼らにとって、理解が困難な問題がどんなことであって、それがいかなる意味で困難な問題として写るのか、その生々しい様子をできる限りそのまま追体験しようとすることだった。こうして、彼ら以上に彼らの内心に切迫して、本件裁判を解決に向けて歩んでいくための道筋を照らし出そうと心がけた。
夏中、この努力に費やされた。明けても暮れても、デジタル著作物の雄であるゲームソフト著作物のことを考え続けた。

そして、幸運にも、その成果が、この日、報われることになった。
前回の期日(たった3回目であるが)で、これでもう結審したいと言い出した裁判所が、この日、みずから、準備手続を開いて審理をやり直す(とまでは、歯切れよく言わなかったが)ことを宣言してくれたのである。
私とクライアントの喜びは表現しようがない。私にとって、まさしく10年にいっぺんあるかないかの出来事だった。
嬉しさの余り、大阪から帰宅し、家族のゲン(イヌ)と田んぼの中を飛び跳ねまわった。そしたら、いっぺんで腰をやられてしまった。
その後2週間、腰痛の治療のため、あらゆる作業が遅れてしまった。


最近の謎・疑問・出来事(
98.09.03

 
東京地方裁判所で競馬ゲームソフトの著作権侵害事件としてこの春から仮処分事件の審理が続いていた事件で、この日、相手方が仮処分の取り下げをしてきた。
 お互いの言い分を出し尽くして最終ラウンドを迎え、裁判所の判断が下される寸前に至って、このような取り下げがなされたということは、殆ど自決同然である。しかし、そのことを相手方もその代理人も十必ずしも分自覚していない。

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