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11.10/96

 かつて、家が貧しく、私自身体力知力に何の自信もなかった幼い頃、数学(算数)だけが心の支えだった。なぜなら、例えば国語だったら、作者は一体どんな気持ちだったのでしょうなどというどうにでもなるようなあやふやな問題が出されたのに対し、数学だけは難しくとも一義的に明快な答えを導くことができたから。数学の難問だけは、金持ちのボンボンだろうが、腕力のあるガキ大将だろうが、明快な答えを出せるやつに対して頭が上がらなかったから。

 こうして、数学は貧しい私の心の支え=神話となった。ところが、小学校3年のとき或る事件が起き、由来、その数学神話が崩れてしまった。
----たまたま、クラスでとんち遊びをしていたときのことだった。或る女子がこういう問題を出した。
「1+1は?」
みんなは41とか適当な答えを言っていたが、やがて、その子はこう答えた。
「答えは1です」
みんな、ぽかんとして聞いていた。その子は続けた。
「なんでかっていうと、それは、ここに粘土の固まりが1個あります。こっちにも、粘土の固まりが1個あります。両方の固まりを合わせれば、答えは1個の粘土になります。だから1+1=1です」
なあんだという声があがった。しかし、私は、彼女の答えにビックリした。反論の余地のないくらい論理的に完璧に正しい説明だったからだ。

 その日以来、私は自分は正しい数学をやっているのだという確信が持てなくなった。自分がやっているのは、1+1=2という具合にその通りに書けば単にテストで◯をもらえるだけのものでしかないのではないかという疑念に襲われた。そこで、自分は、数学において正しい道を歩んでいるのだという幸福な自信を失ったまま、半ば不安と半ばうつろな気持ちで、ただ受験のためだけに引き続き数学をやってきた。

 そのように分裂した私の心は、その後30年経ってようやく回復の一歩を見い出した。それが遠山啓の「無限と連続」という本だった。この本の中から、私は、無限集合の足し算が、まさに私をずっと不安に陥れてきた1+1=1の世界を実際に証明するものとして存在すること、そして、数学においては、1+1=2となる世界も1+1=1となる世界もともに認められるのだという画期的なことを教えられたのである。

 この経験は一体何を物語るものだろうか----その謎が今も私を数学に惹きつける。恐らく、我々にとって「世界」はないのであって、あるのは「世界観」とそれに基づいた認識・経験だけなのだ。だとすれば、ゲーデルの不完全性定理が示すように、今、我々を支配している「世界観」の正体とは何かを改めて徹底的に再認識する方法のひとつとして、数学が今なお極めて有効な武器であることを感じている。それが、非力を重々承知の上で、なお引き続き数学に執拗にまとわりつきたがっている私のスタンスである。