はじめに 2

---- リーガルクリエーターへの道 ----

11.09/96


一人ひとりが自分だけの物語を作る力(創造力)は人間に与えられた最も貴重な能力ではないでしょうか。
この能力が失われたとき虚無が広がり、ファンタージェンは失われるのです。
(ミヒャエル・エンデ)



 11年前、私が初めてやった著作権の仕事が、1審に8年を要したNHKの大河ドラマに関する著作権侵害裁判 だった。これは、要するに、実在人物を主人公にしたドラマに対して、その実在人物の伝記を書いた作者が自分の作品を無断で原作として使用されドラマが制作されたといって訴えた事件だった。いかにもマスコミが騒ぎそうなネタだったので、訴え提起の頃は、この事件が新聞紙上などを賑わせたものだったが、いざ、第1回口頭弁論が始まった頃には、ご多分に漏れず、もうマスコミは一社も傍聴には来なかった。だが、本当の騒ぎはそれ以後に始まったのである------


 私はびっくりした。てっきり、裁判の中で、このドラマが果して、本当に原告の作品の著作権を侵害しているのか、それをきちんと判断するものとばかり思っていた。ところが、いざ裁判が始まってみると、実は、一体或る作品を無断で原作にしてドラマを制作したかどうかを判断する基準というものを、原告・被告は言うに及ばず、肝心の裁判所さえ全く持ち合わせていなかったのである。裁判所は憲法によって「法による裁判」を保障され、同時に「法による裁判」が義務づけられているというのに、肝心要の法(ここではドラマ化における著作権侵害の判断基準というもの)というものが何なのか、実はさっぱり分からない、だから、どっちの言い分が正しいのか判断できないというにっちもさっちもいかない驚くべき無法状態(まさにゲーデルの不完全性定理がいうところの決定不能な状態)に陥っておったというわけです。
 だいたい裁判まで持ち込まれる事案というのは、どっちにも言い分はあるもので、このケースでも原告は原告で自分の伝記とドラマとはこれだけ似ていると似ていそうな箇所をどさっと主張し、これに対し、被告は被告で、いや両作品はこんなにちがいがあると違うところをどさっと反論するという塩梅で、これらを前にして、伝記にもドラマにも素人の裁判所は「さあて、どうしましょうかねえ」と困惑の色を隠さなかった。
 これに対し、私が師事したNHKの代理人はものすごい勉強家で、世界中の著作権法と文献をくまなく調べ挙げて、ドラマ化における著作権侵害の判断基準というものが何なのか見つけ出そうとした。------しかし、それが徒労に終わったとき、我々は、ドラマ化における著作権侵害の判断基準というものを、自分自身の手で未知との遭遇の中から見つけ出すしかないことを、一からやり直すしかないことを思い知らされることになったのである。

 そこで、私は(殆ど公私混同というほかなかったが)、一方で、シナリオ作家協会のシナリオ講座に通ったり、実際のドラマ制作の現場におもむき、他方で、今や紋切り型で色あせた発想しか持ち合わせていない著作権法の理論に息吹を吹き込むため、アイデアの宝庫である数学の世界に足を踏み入れた。こうして、ドラマ化における著作権侵害の判断基準を見つけ出すための探索の旅というべき作業に入ったのだった。しかし、それは、何の保障も見通しもない、端から見ると殆どやけくその作業のように見えたかもしれない。
 しかし、人生とは不思議なもので、こういうケッタイな作業を飽きることなくくり返しているうちに、或る時偶然に、私はこのドラマのケースで、ドラマ化における著作権侵害を判断すべき基準というものをめぐり合えたのである。それは、夭折した天才数学者ガロアの理論から触発されたものだった。つまり、方程式の解法に関するガロアの理論を読んでいてふと、次のようなことを感じたのだった。
----そもそもガロアの発想の素晴らしいところは、これまでは、与えられた方程式をいつも代数的にいかに解くかというふうにしか考えられなかったのに対し、ガロアはこれを逆転させ、そもそも「代数的に解き得る方程式というものが有すべき条件とは一体何か」を探究するというふうに考えたところにある。そして、このコペルニクス的転回ともいうべき彼の発想を、私は自分が担当しているドラマの事件にも適用できるのではないかと考えた。なぜなら、これまで、我々は、原告の伝記をドラマ化したのが果して被告のドラマなのかどうかを(あたかも方程式を解こう解こうと四苦八苦したように)、これを解こう解こうとして何年もの間ものすごく四苦八苦してきたのだったから。なぜそんなに四苦八苦したかというと、このケースはそもそも原告の伝記というものが殆ど断片的な事実をただ時間的に配列したにすぎず、法理論上、ドラマ化が可能な性格を有していなかったため、両作品を対比して類似しているかどうかを解こうとしても決して解けなかったからだ。散々こうした作品対比をくり返した挙げ句、とうとう私は、これはもう発想を根本的に変えなくてはやっていけないのではないかと思うようになった。そのような暗中模索の中で、たまたまこのガロアの理論に出会ったのだった。これは、天の救いともいうべき理論だった。私は、このとき、ガロアのように発想を逆転させ、まず、そもそも「ドラマ化が可能な作品というものが有すべき条件とは一体何か」を明らかにすることこそが本件解決の鍵なのだということに気がついた。その条件さえ明らかにできれば、あとは、原告の伝記にはそのような条件が備わっているかどうかを吟味すればよい。このとき私には、何の権威も評判もまた他人のお墨付きもなかったにもかかわらず、思わず、そうだ、このガロアの理論で本件を初めて論旨明快に判断することができるのだと確信してしまった。
 以後、私は、これまでドラマ制作の現場で身につけた理解やシナリオ執筆の際の経験をこの方法に沿って構成して、この事件における「ドラマ化における著作権侵害の判断基準」というものを作り出していったのである。その後、幸いにして、この努力は報われたのだったが。

 今にして思うに、この時、私は自分のやりたい仕事というのは、「ドラマ化における著作権侵害の判断基準」のように、未だ得体の知れない分野の法律の中身をでっち上げでもいいから何とか見い出すことではなかったかと思う。それは一種の「概念の創造」ということだ。それはまた、柄谷行人が「概念の創造とは、新たな『関係』をいわば暴力的に見出すことを意味する」と言った通り、この作業は、(従来のベンゴシの仕事が往々にしてそうであるように)既存の体系や理屈を適当に形式的に当てはめていけばこと足りる、といったものではなかった。そこには、一種暴力的ともいうべき、論理の跳躍が要求された。そこには予め何の見通しも保障も与えられていない。だからそこでは、火のような情熱をもって取り組むしかないのだと思う。

 そこで、私はこのような自分のやりたい仕事に対して、もはやベンゴシとかいった手垢にまみれた何のインパクトも励ましも与えない言葉でもって定義するのをやめて、別の言葉で置き換えようと思った。そこで思い付いたのがリーガルクリエーター、日本語に直すと法律批評家というものだった(←もっとも、その後、クリエーターという言葉もまた随分手垢にまみれてインパクトを失ってしまった)。

 私は今、自分の目指す道が未知の分野におけるリーガルクリエーターであることを確信し、新米のわかぞうリーガルクリエーターとして今後それを反復したいと思う。

 かくして、このホームページは、リーガルクリエーターへの道を探究するためにまず何よりも自分自身に向けて、ついでこのようなことに関心を抱いてくれる世界の人たちに向けて開かれたものです。遠慮のない、あけすけな意見・感想をお待ちしています。

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