はじめに 3
---- ノラからノラへ ----
10.05/96
今年の5月28日、ノラがなくなった。享年70歳。本名、松井正道。
6月の初めの或る朝、NHKの法規部の人から電話をもらった。久しぶりであり突然のことだった。電話の用件はノラの死を伝えるものだった。そして、死の直前における彼の行動をつぶさに聞かされた。用件はそれだけだった。それ以上両者の間に話すことは何もなかった。にもかかわらず、突然私は、饒舌となってどうでもいいことを喋りまくった。
「では、失礼します」と、先方が電話を切った。
雷に打たれたような気分だった。
11年前の12月の或る日のこと、私は見知らぬ人から電話をもらった。電話の主は「松井」と名乗った。私には住んでいる川越の元城主か家老の名が松井であること以外に松井という名に聞き覚えがなかった。しかし、彼は私と以前会ったことがあると言い、私にまた会いたいと言った。それでようやく電話の主が誰だか分かった。それは、半年ほど前に、私が押しかけて30分ほど会ってもらった相手である或るベンゴシのことだった。むろんそのときはそれっきりだった。突然押しかけて来たどこの馬の骨か分からないような者を誰が相手にするだろうか。それで私自身も会ったこともすぐ忘れてしまった。そしてもうベンゴシという業界からいっそのことひと思いに足を洗ってしまおうと当時そのことばかり思いつめていた。そして、遺言状なるものを書いてさあ次の旅に出ようと思っていた矢先、突然、この電話が舞い込んできたのだった。
用件は「NHKの大河ドラマの著作権侵害の裁判を起こされたので、それを手伝って欲しい」ということだった。一瞬、私は我が耳を疑った。数年前、NHKのドラマシリーズ「事件」にかかわりたくて、当時、このドラマの監修をしていた日弁連に出向いて、監修の仕事を手伝わせて欲しいと申し出たときもその後梨のつぶてで、こうしたことはあきらめていたのだ。で、私は、足を洗う前にこの仕事だけはやろうと迷わず決め、またふらふらと道を引き返した。それが、私と松井正道氏との出会いだった。
以来、私はそれまで三四郎の池で寝そべっていた週の半分くらいの時間を松井氏と過ごすことになった。松井氏は、三四郎の池のすぐそばの研究室で私に会ってくれた中山信弘教授が「著作権の実務と理論が最も出来る人物」として紹介してくれた人だった。その紹介にたがわず、彼は映画・音楽・放送といった古典的な著作権ビジネスの代表的な企業の顧問を軒並みやっていた。にもかかわらず、彼の事務所は銀座でも丸の内でもなかった。私が寝そべっていた三四郎の池から歩いて15分くらいのところのただのマンションのちっぽけな一室にあった。しかし、その仕事ぶりは正反対で、裁判の打合せが5時間から6時間に及ぶことはざらだった。午後一番に始めて、終わる頃には外は真っ暗で、頭と腹はフラフラだった。だから、打合せの時にはよく飯を一緒に食った。こうした時間を過ごしながら、私は彼から著作権と著作権の紛争とベンゴシという仕事といったことについて、いちから教わったのである。例えば、私が雇われていた事務所から独立し、共同の事務所を構えたとき、最高裁判事をやった彼の岳父城戸芳彦氏から言われた言葉として、次のような話をしてくれた。
「自分が弁護士を始めたとき、城戸は私にこう言われたのです、5年粥をすする決意で頑張りなさい、そうすれば道は必ず開ける、と」
それを聞いて当時、私は生意気にもこう思った、だったら自分は5年といわず一生粥をすする決意で頑張るしかない、と。
こうして、彼は私にとって、自分の両親よりも一緒に過ごした時間が長い人物、より正確に言えば、私の人生にとってカミさんに次いで2番目に長く一緒に時間を共にした人物となってしまった。段々、私は彼と一緒にNHK以外にも彼の顧客の仕事をするようになった。それは、何も知らない田舎もんの私にとって、滅多に経験できない貴重なことだった。私は珍しさも手伝って、こうしたことが理屈抜きに面白かった。こうして、私は殆ど何の希望を抱いていなかった法律の仕事に著作権という一条の光を見出し、これに没頭することによって、初めて自分の居場所を見出したような気がした。それは一種の解放だった。と同時に私はこのとき、知らずして名士(迷士?)への道を歩んでいたようであった。
しかし、カエルの子はカエルである。ノラ猫はしょせんノラ猫である。私は自分の居場所が見つかって、どんどんリラックスしてくると、ますます自分自身に「内発的な自発性」というものがないことを感ずるようになった。そして、ちょうどNHKの著作権の裁判が天王山というべき重大な局面を迎えたとき、私は自分の仕事の総決算にするつもりで、この裁判の準備に体力・気力・知力の全てをそそぎ込んで没頭した。そしたら、その作業を押し進める過程において、はからずも、自分の中に眠っていた力というものがぐぐっと目覚めるのを経験し、しかも、この力を激突させるにふさわしい場所がもはやNHKの著作権の裁判のような場ではない!ということを身をもって思い知らされたのだ。それは予想外のことだった。しかし、それは私にとって紛れもない確信だった。
このとき、私は再び、このチマチマしたニッポンの法曹界に心底うんざりしていた。また、当時、一世を風靡したバブル経済の精神=カジノ資本主義の精神にもうんざりしていた。だから、今後は、自らの力・知性・情熱をもって世界を切り開いていく産業資本主義の精神に満ちた場所を求めて、専ら世界だけを相手にして、もっと自由に、もっと大胆不敵に、もっとアグレッシブに我が力を発揮していきたいと思った。
こうして、40歳の誕生日をもって私は事務所を店じまいし、ニセ学生として数学を学ぶため、再び三四郎池あたりをうろつくことになった、このNHKの著作権の裁判だけはひと区切りつくまで責任を持って続けるという積りで。このとき、私は店じまいの真意を理解してもらおうと思って、松井氏に次のような手紙を書いて渡した。これに対し、彼はひと言も口にしなかったが、しかし、内心私の変節ぶりを苦々しい思いで見ていたことと思う。
拝啓。先生、唐突かもしれませんが、私は再来年の三月をもって弁護士をやめることにしました。先生は、路頭に迷っていた私を救って下さった命の恩人ですから、この5年間という間お世話になったことに対しては感謝の申し上げようがありません。
しかし、私は先生の御蔭でこの5年間かつてない充実した仕事をやらせてもらい、それが故に、自分の本当にやりたいことをしかと再確認できたのです。
この5年間で私が再確認したことは、自分が願って止まないことは一言で言って、魂の渇望の赴くまゝに、精神と生の真の冒険に徹底して身を委ねることでした。これは同時に、私が15歳の時、小林秀雄に出会ったことの意味を再確認することでもありました。しかし、私にはもはや小林秀雄のように魂の渇望者としての生き方を隠してまで常識人として世俗的に成功しようという気はありません。むしろ、そのために乞食と見紛うような境遇に落ち込もうが、或いは5年といわず一生かゆをすするような生活となろうが、ルドルフ・シュタイナーや森敦や柄谷行人のようなチンピラの生き方のほうを選びたいのです。
それと、もう少しぶっちゃけた話をしますと、私はとくにここ1年間で自分というもの正体がよおくわかったのです。元来、私には円熟してベテランになるという風な志向は全然ないのです。その反対に、自分が最大の力量を発揮できる時というのは、あくまで野蛮で下品で攻撃的な時なのです。だから、いつまでも最大の力量を発揮できるよう野蛮で下品で攻撃的でいるために、それに最も相応しいチンピラの場所で頑張るしかないと思ったのです。これが今の偽ざる気持ちです。
来年、改めて御時間のある時に説明します。簡単ですが、用件のみにて失礼します。
1990年12月28日
その後3年間、私はニセ学生をやりながらNHKの著作権の裁判だけは手抜きをすまいと以前にもまして力を注いだ積りだった。事実、私の分担は増える一方だった。未だかつてない膨大な最終準備書面の草案も書いた。しかし、最終弁論の直前に至って突然、松井氏と私は事件の最終方針をめぐって意見の対立を見、決裂した。それは私自身の志にかかわる問題であり、信念の問題だった。だから、妥協はあり得なかった。私は即座に代理人を辞任した。私は最終準備書面を氏が作成する上で支障にならないことだけを手配し、それでもって彼と私の関係も幕切れとなった。私はこのとき、こんな人物とはもう二度と会うまいと思った。その後、ニセ学生を続ける私が本郷三丁目の駅で降りるたび、彼と出くわすのではないかといつも緊張した。しかし、その後彼の死まで会うことはなかった。
私にとって、彼という存在は3年前の決別のときに死んだも同然だった。だから、彼の訃報をきいたとき、最初、来るべきものが来たのだとしか思わなかった。しかし、その時はじめて、死の数カ月前における彼の奇行ぶりを聞かされた。それによると、当時、著作権の第一線で依然現役として活躍していた彼は自分が末期ガンであることを医師から知らされたのち、そのことを誰にも告げず、ひそかに九州のとあるホスピスに入り、そこから必要な仕事の指示を電話でしていたのだという。しかし、顧客の人たちにとってみれば、弁護士が事務所から突然蒸発したようなものだった。そして行方不明のまま、ときどきどこか知らない所から彼の電話が入るというミステリィな状態が続いたのだ。そして、ホスピスでの数カ月の生活ののち、彼は家族だけに看取られて安らかに死を迎えたという。そして普通なら、彼の業績に相応しく盛大な葬儀がとりおこなわれるところ、松井氏はそれを望まなかった。氏の遺志により家族による密葬だけがおこなわれた。それが彼の人生の幕切れであった。
これらのひとつひとつの話が私の心に突き刺さった。彼も残された時間をただのノラになって生きたのだった。3年前の決裂ののち、一度たりとも口をきくことがなかったのはむろんのこと会うことすらなかった私たちは、彼の最期に至って初めて再会したと思った。
私は、未だ彼を凌駕するような著作権の力量を持ったベンゴシに出会ったことがない。それで、いつも彼を目標にして仕事をしてきた。しかし、彼と決別したのち、そういう素直な気持ちにはなれなかった。だが、今ようやく、再び、著作権の巨人であった彼のことを、最高の仕事師であった彼のことを、そして何よりもまず、人として真摯に人生を生きることをこころざした彼のことを素直に思い起こすことができる。
私がこれから書こうとするホームページは実はふたりのノラの共作である。
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