弁護士の楽屋裏1

----ニフティの会議室での発言----

1995.01.09


コメント

 先ほどの、ニフティサーブのグラフィックフォーラムの「著作権の辛口味噌」における自己紹介に続いて、発言したものです。
 当時、ここで一番書きたかったことが「弁護士の楽屋裏」のことだったらしく、堰を切ったように書き始めてしまった。こんな書きっぷりは、パソコン通信の発言としても、異様だったと思う。(読んだ人は当時、どう思ったでしょうね)


 前置き

 もともと私は、大学時代の悪友にまんまと騙されて、この業界(法曹界)に足を踏み 入れてしまったような男です。しかも、当時の唯一の希望だった裁判官志望も、裁判所 の教官から「君は喋りすぎる」と敬遠されたため、事実上断念せざるを得ず、何の希望 もないまま、弁護士という道にずるずるとはまりました。

 だから、亡霊のようなこの仕 事にもほとほと愛想が尽きた3年目の夏、私は、亡霊の仕事に対する遺書をしたため、 本格的に正業への探索の旅に出かけようと準備をととのえました。しかしその矢先、突 然降ってわいたように、大河ドラマの翻案権侵害という大事件の仕事が舞い込み、その 本格的な文芸作品に関する事件の魅力に惹かれて、またふらふらと、一度はごみ溜めに 投げ捨てた筈の法律の仕事に舞い戻ることになったのです。以来9年間、最近までこの 著作権事件のことばかりかかずらってきました。その中で私が感じてきた「弁護士の楽 屋裏」というものを少し述べてみようと思ったのです。

 本論
 私がここで少しでも明らかにしたいと思うことは、
ニッポンの弁護士制度というもの が、弁護士という資格を持った者だけが法律業務を独占できるように、かつ外国人弁護 士を基本的に排除するように法律によって手厚く守られている制度であり、それ故その 中でぬくぬくと生き延びている、中世のギルドのような利権団体にほかならない、
などということではありません。そんなことは今更論ずるまでもないことで、私の専らの関 心事は、(具体的には著作権の)弁護士稼業において、いかなる楽屋裏がどうして生ず るのか?言い換えれば、著作権の裁判や紛争において、我々はどういった幻想にどうし て陥っているのか、ということです。

 世間では、法律という規範がまずこの世にきちんとあって、次にその法律に具体的な 事実を当てはめて、法的な効果を導き出すのだと普通言われています(法的三段論法 )。例えば、窃盗罪という刑法第?条(忘れた)という規範がまずあって、いま誰かが 盗みをすると、その条文にその窃盗行為という事実を当てはめて、その人に懲役何年と かいう処罰が導かれるという訳です。これは一見いかにももっともらしい論法です。し かし、これは現実の紛争においては真っ赤な嘘、つまり完全なでっち上げです。

 一度で も正真正銘の紛争の渦中を最後まで体験したことがある人なら誰でも心中秘かに確信し ていることですが、現実の紛争のさなかに登場する法律というのは、私たちに予め紛争 の解決基準を表示するための物差しなどでは決してなく、その反対に紛争の嵐のあとに なって初めてその意味が見い出され、しかも個別の紛争の都度その中身を異にする、絶 えず不透明な意味をはらみ続ける魔術のようなものなのです(それで魔術のことを魔法 ともいうのです)。なぜなら、プロの裁判官がまず注目するものは(或いは信じている のは、と言ってもいい)、ハッキリ言って事実だけ、つまりその紛争に関する具体的事 実だけです。その上で、その具体的事実を総合してみて、そこからどのような最終結論 (刑事事件であれば有罪にするのか無罪にするのか、民事事件であれば、どちらを勝た せるのかといったこと)を導くのが最も合理的で妥当であるかということを最も真剣に 考えるのです。そして、このクライマックスともいうべき暗闇での決断が下されたのち にはじめて、その最終結論を論理的につなぐ法的な理屈を法律の条文から引っ張ってく るのです。

 現に、1月7日の朝日朝刊三面記事に、先日の江戸川区健診事件をめぐっ て、今回のような単なる「データ」の流出は窃盗行為に該当しないから窃盗罪にはなら ないと当然の結論が書いてあったのですが、注目すべきことはそれに関連した事件の紹 介で、かつて顧客名簿を記録した磁気テープを持ち出して無断で複写したケースで、時 価約千円相当のテープ1巻の持出行為を窃盗行為に該当するとして、懲役1年の実刑判 決を下したことです。もし本当にきちんと法的三段論法を使っていれば、高々千円ぽっ ちのテープ1巻の持ち出しに窃盗行為を適用したところで、いくら悪質な情状があった としても実刑1年なんて効果を導くことは不可能です。しかし、この事件を担当した裁判官の頭 にあったのはテープのことなどではなく、明らかに、もっぱら「顧客名簿という営業上 の機密」を流出させた行為(事実)をどう評価したらよいかといういこと、それしか念 頭になかった筈です。その事実の検討の結果、こういう行為は許されてはならないとい う決断に達し、そこで、この結論を論理的にきちんとつなぐ理屈がないのを承知の上で敢え て実刑1年としたのです(むろん、民事事件ならともかく、このやり方は罪刑法定主義 の立場から大いに問題です)。

 つまり、現実の紛争において重要なことは、法律自体では なく、何よりもまずその紛争を構成する個々の具体的な事実であり、これらの事実を 総合して最終的にどう評価するかという、事実判断の点にあります。

 これを著作権の紛 争について言えば、例えば、ドラマの原作の無断翻案事件であれば、原告はどのように して原告作品を執筆したのかという作成過程の事実、或いは被告はどのようにして被告 ドラマを作成したのかという作成過程の事実とりわけ原告作品をどのような形で利用参 照したのかという事実こそが最も重要な事実であり、そして、これらの一連の制作過程 の事実を評価判断する価値判断が極めて重要になるのです。このような作業が全て済ん だ後に至って初めて、ドラマにおける「翻案」とは何か、という著作権法27条の翻案 権の意味が明らかにされるのです。そこで、裁判所は一転して表向きの顔を見せ、判決 文の中で三段論法の体裁、つまりいかにも翻案権の正しい解釈に基づいて、この条文を 本件の紛争事実に当てはめ、翻案権侵害かどうかという法的判断が導かれたという体裁 をでっち上げるのです。

 このような三段論法の幻想を見抜くことは一体いかなる意味があるかというと、何よ りもまず、我々は著作権法を我々の著作権紛争を解決するために基準であると考えて無 闇にありがたがる必要なぞ毛頭ないということです。なぜなら、現実の紛争において著 作権法自体は殆ど無力であり、またそもそも著作権法を形式的に当てはめてすんなり結 論が出るような問題は、まず紛争にまで至ることがないからです。

 次に、現実の紛争を解決する切り札となるものが「紛争を構成する個々の事実の価値 判断」である以上、そこで最も重要となるものは著作物を現実に制作する制作者たち の制作現場における無意識の確信ともいうべきものです。著作物の製作においておよ そ無から有の創造なぞあり得ない筈です。誰だって、過去の著作物の遺産の影響を受け ている。そこで、既存の先行著作物のどのような形での参考・活用に対し、どのような 扱い(相手に対する許諾・通知・フリーなど)が相応しいのかについて、日々の現場の 制作経験に即して形成された無意識の確信といったものこそ、著作権紛争を最終的に解 決していくキーワードとなるものなのです。だから、はっきり言って、裁判官でも弁護士でもない、ほか ならぬ現場の制作者自身こそ著作権法を明らかにしていく根本的な張本人なのです。

 それに比べ、私が弁護士としてやってきたことは精々、実際に制作現場に行って、この無 意識の確信を意識化して裁判官が了解できるまで言葉にするということ(つまり、現場と法廷の媒介者となること)ぐらいで、しか もそれは制作者との綿密な協力によって初めて可能となるものでした。あくまでも主役 は著作者なのです。だから、著作者の人はがんらい根本的にもっと自信を持たなければならな いのです。だから、著作権法の解釈にしたって、弁護士や学者や役人の講釈を鵜呑みにする必要なぞ毛 頭なく、頭で納得させられても体が釈然としなかったら、そこで、ズカズカとやっぱり おかしい!と異議申し立てすればよいのです。これまでの京都・西陣みたいにナアナア のズルズルベッタリにせずに、やはり加藤さんにみたいにしつこく、あっけらかんとおかしいものは 「おかしいじゃんけ!」と言い続けたいものです。その意味で、まともな仕事をしてき た人なら、基本的にもっと自分自身の感性に自信を持ってよいのです。

 例えば、ニッポ ンの著作権法には著作者人格権があるのに、アメリカにはないという情報をなまじを知 ったため、その情報だけで直ちにアメリカでは要注意しなくちゃと不安になっている人 がいるのですが、しかし、ほんとうにそうでしょうか。第一、アメリカは知る人ぞ知る 徹底した個人主義の国で、個人の個性・創作性を最も重んじる国です。そんな国にあっ て著作物が作家の意思を無視して改変されても、何も言えないなんて筈がない。これが 制作者の第六感の筈です。現にそういう目で調べてみると、文献にちゃんと

人格権の存在が明らかに認められていない‥‥にもかかわらず、著作者は‥‥ある種 の権利を有し、裁判所も、一般に不正競争、名誉毀損のような従来の理論またはプライ バシーの侵害という根拠で支持している権利を有している。(Earl W Kintner著 「アメリカ知的所有権法概説」発明協会発行446頁)


と書いてあります。コモンセンスは法律にまさる(尤もコモンセンスの名の下による決 め付けは禁物ですが)。そして、単に形式的に法律を適用して片が付く問題は、今後全 てコンピュータにやらせればよいのです。そうすれば法律家は9割方無用になる(か、 もっとましな正業につくようになる)でしょう。だから、本来の主役は恐れず伸び伸び いけばいいのです。

                              

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