近 況 報 告

12.21/90

前回の近況報告の補足をさせて下さい。

昨日、例のチンピラ裁判官が来年から我が勉強会に参加することになりました。
日本語に手厚く守られて辛うじて生き延びている文壇などと同様、法律で
手厚く守られているうちに国民の粗大ゴミになりつつある裁判所(同じく裁判所にやどり木のように寄生して生き延びている弁護士も同類ですけどね)の中で、ひとりチンピラとして頑張ってきた男ですが、その彼も裟婆の空気が吸いたいということで参加することになりました。
人なつっこい男、というよりすごく馴々しい男ですが、よろしく。

それと、わたくし、来期限りでアキラ法律事務所を店じまいすることになりました。
だいたい人間、未練がなくなる時というのはよおく分かるもので、私も大学浪人中に彼女に振られたとき、当初火のように燃えたぎっていた(筈の)彼女の面が、もはや絶対逆転劇はありえないという風に、さっぱりと冷え切った面に様変わりしたのを目の前でまざまざと見せつけられましたもんねえ。

この11月7日に、5年越しのドラマの裁判が証人調べという最大の山場を迎え、私は、これを自分のこれまでの仕事の総決算にする積りで、体力・精力・知力の続く限り取り組みました。そして、幸い結果は上々でした。回りは大喜びでした。
しかし、私は、これがうまくいったらどんなに嬉しいかろという
当初の予想に反し(確かに証人調べが終わった瞬間、おゝやったぞ!という感激はありましたが、それも束の間で)回りの興奮に反比例してどんどん醒めていったのです。むろん私は、このとき自分に訪れた感情を素直に全面的に受け入れました。力の限りを尽して取り組んだ以上、もはやこれを拒む理由は何もなかったのです。


そして、その一週間後の勉強会で、コンピュータと脳と数学とのかかわりあいについて新しいイメージを思いつき、しばらく興奮の嵐で手がつかず甘利俊一氏に手紙を書いたりしている時、私の脳裏から元来私の仕事の総決算になる筈だった大事件のことはもうすっかり消え去っていました。

こうして二つの体験をしたのち、私はこう確信したのです――これは違う、ここには自分が求めている宝はない、と。
今はっきりしていることは、私にとって魂の渇望の探究というのは、産業資本主義の精神の探究のことであり、この精神に一番相応しい場所に我が身を置くということです。それは言い換えれば、文字通りチンピラになることです。

ところが、今や弁護士制度というのは、弁護士の法律業務独占や外国人弁護士の規制を法律によって手厚く保護されて、その中でぬくぬくと生き延びている、凡そ産業資本主義の精神などとは縁もゆかりもない中世のギルドのような存在なのです。まさに覇者の驕りの上に成り立っている利権団体の制度なのです。そしてその驕りのツケが、今や情報社会時代の紛争解決に糞の役にも立たない無能な弁護士をはびこらせているのです。だから私は、歴史の運動に取り残されることのないようこの遺物から卒業しなければ、と思ったのです。つまり、ヤメ弁でも脱弁でもなく、卒弁でなければ、と思ったのです。

私がチンピラとして当面やりたいことは2つです。ひとつは、数学です。私はこの間、遠山啓の著作を読み続け、数学とは、単に『人間の精神活動の根本をなす思考をもっと明晰にするために、もっと意識化するために、もっと掘り下げるために』やるだけではなく、『自分自身がもっと素直になるために、もっと自由になるために、そしてもっと大胆不敵になるために』やるのだということを教えられました(ついでに森毅曰く『もっと横着になるためにも、やるんや』)。これこそ、まさに産業資本主義の精神でなくて何でしょう。

そして、もし、お経のような今の法律を全部記号論理学の中に移し替え、誰もが間違いなく結果を導けるように書き換えたら、そしてその計算をコンピュータにやらせたら、弁護士の仕事は九分九厘コンピュータがやるようになる。

そして、コンピュータがやろうとしても絶対できない一厘の部分が残る筈で、それが紛争の本質にまつわる部分です。それこそ、私がやりたいもうひとつのものなのです。それは、論理の限りを尽して筋道を立てて紛争を解析していった末に初めて見い出せるような、決して取り除くことのできない人間の条件或いは人間の宿命或いは人間の不幸とでも言うべき紛争の核心部分なのです。