Subject::「価値形態論」(自然権の理論構成)に関するスケッチ4

4.25/02

皆さんへ

こんばんわ、柳原です。

引き続き、スケッチの4です。

実は、スケッチ3は、昨日も書いた通り、
「自分では10数年間ずっとモヤモヤしていたことがこの検討の中で晴れてきた」
ものでして、そしたら、この10数年間を振り返りたくなりました。

それが今回のスケッチです。

まさしく、右往左往してますが、ご容赦を。


◆ 法律の無根拠さ(法律の解体)に関する自分史

1、序
「春の波涛」事件(原告の伝記本を被告NHKが無断でドラマ化して大河ドラマを制作・放映したという事件)の中で、我々が、シナリオ・ドラマの研究を通じて、原被告の両作品の類似性を対比する鍵(評価基準)は「物語性」にあると確信して、一生懸命、その定式化をめざしてシコシコ取り組んでいたときに、或る日、フト次のような疑問が頭をよぎった。

――或るドラマが或る言語作品のドラマ化権侵害かどうかは、確かに、お前が考えるように、両作品の「物語性」を抽出してこれが共通しているかどうかで判断するのが最も適切だろ、しかし、そのことは法律の翻案権の条文の中のどこに規定してあるのか?もし、それが法律のどこにそう書いてあるのか、と問いただされたら、お前はどう答えるのか?

それは、一瞬、震えあがるような問いだった。なぜなら、正直なところ、答えようがなかったから。そのとき、私は、自分が翻案権の解釈の最終的な根拠を実は全く握っていないことを白状せざるを得なかった。それは、自分こそ、実は黒(無罪という根拠を持っていない)であるにもかかわらず、白だと言い張るような有罪の被告人さながら、法廷で堂々とウソをつく人間なのだと、背筋が寒くなるような瞬間だった。

しかし、それとて、少し冷静に考えれば、根拠を握っていないのにあたかも根拠があるかのように振る舞っているのは何も私だけのことではない。相手方にしても同様なのだ。単に、それを自覚しているかどうかの違いにすぎない。要するに、この世の法廷には、単に無知のウソつきとそれを自覚したウソつきがいるだけのことなのだ、と。


2、破
このとき、私は、法律家しかも正真正銘の実務の法律家というのは、世の中で、法律のことを最も信用していない奴のことだと思った。そこで、私もまた、法律とは幻想であり、存在するのは事実(法律もまた事実の一つにすぎない、と)しかないと思った。このとき、私は、「「法律は何ら特権的なもので
なく、現実の紛争の中においては紛争を構成する諸事実の中の一つに過ぎないのだ。」という認識に至り、そこから、法律という権威から解放され、アッケラカンとしたすがすがしい気分に浸った。

しかし、この気分は、或る時期から微妙に変化した。それは90年代に入って社会主義体制の崩壊を目の当たりにした頃――つまり、それと共に理念の崩壊現象が進行したときからだった。私が当時握っていた「法律という規範など存在しない。するのは単に事実だけである」という認識では、こうした理念崩壊の時代にあっては、単に弱肉強食の事態を肯定するだけの受け身の現状肯定にしかならなかったである。この帰結は私を苛立たせた。オレは、こんな悲惨な弱肉強食の事態を肯定するために、上のような認識をしたのではないと思った。私は、自分の中に、或る種の虚無感という穴があいてしまったのを感じた。


3、急
そこで、この穴を埋めるため、いったん手に入れた「理念なき事実だけ」の認識を「理念ある事実」に修正する認識を求めるようになった。その中で、カントの統整的理念のことを知った(柄谷行人「ヒューモアとしての唯物論」など)。こうして、再び、事実だけの世界を否定し、事実の中に、事実を統整するようなものとしての法律を求めるようになった。法律の再導入である。しかし、それは以前の法律とはちがった――単なる制定法でもまた権威的なものでもなかった。その本質はあくまでも普遍性であり、理念であり、我々にとってなくてはならないものとしての世界法であった。

それと同時に、この理念であり、普遍法である法律の根拠がどこにあるのか?というアポリア(難問)に再び向き合うことになった。これは避けて通れない問題だった。なぜなら、15年前、この問題で躓いて以来、法律アナーキストの道を進んでしまったからであり、もうそのくり返しはあり得ないから。

そこで、これを探り出そうとする試みが、今回、「資本論」の「価値形態論」を手探りに、
「事実から法律という価値がいかにして生成されるか」
を吟味しようとしているこの一連のスケッチである。

以上から、結論は次のようになります。

これは、もはや、かつてのように「事実はどこまで行っても事実である」という認識ではなく、かといって「法律は初めから法律である」といった一見尤もらしい根拠なき言明ともちがう――法律は、初めから法律なのではない。かといって、事実は永遠に事実のままなのでもない。事実のうち、或る普遍的なものだけが規範的な法律に成長転化する。とはいえ、そうした法律が決してそれ自体安定したものでも、不滅のものでもない。絶えず、法律の源泉たる事実との社会的な交換を通じて試練にさらされ、不断に成長せざるを得ないものである。これが普遍法、世界法、理念としての法律の正体=「価値形態論」なのだ。

 これが、この間辿った、法律に対する私の認識の――はからずも弁証法的な――変遷史のスケッチです。

スケッチ4は、ここまで。