Subject::「価値形態論」(自然権の理論構成)に関するスケッチ3

4.22/02

皆さんへ

こんばんわ、柳原です。

引き続き、スケッチの3です。

まだ、肝心の自然権の生成の仕方というテーマに入らないで、入り口でグチャグチャしていますが、自分では10数年間ずっとモヤモヤしていたことがこの検討の中で晴れてきたのであって、決して唐人のたわ言をほざいているのではありませぬ。

しかし、垂れ流しであることには変わりありません。

今しばらく(私の陣痛に)ご容赦を。


◆ 商品(事実)はいかにして貨幣(法律)となるか?
経済社会における「価値」とは何か?それはいかにして掴めるものか?そして、価値のみを担う貨幣はいかにして生成されるものか?
 
「資本論」の「価値形態論」は、その謎を解く鍵を、2つの商品が交換される最もシンプルな次の「単純な価値形態」の中に見出す。
  20エレのリンネル=1着の上着

これは何を意味するか。
1、価値の把握方法
 ある物の価値とは、それ自体を単独で眺めたところで、これをどうひねくりまわしたところで、決してそこからは掴むことができないこと――あくまでも、ある物と別な物との交換という社会的な関係の場において、そのような交換という社会関係を通じてのみ掴むことができる。

2、「単純な価値形態」の中で、いかにして価値は掴まれたか?
それは、20エレのリンネル=1着の上着 という等式を、単純に、対称的な等式とは見ずに、次のような非対称的な等式と捉える。
20エレのリンネルは、上着との直接的な交換可能性という方法によって、その価値を表現している位置にあるもの。言い換えれば、その価値を表現するいわば「主体」に位置するもの(これを、相対的価値形態と呼ぶ)。他方、1着の上着は、このリンネルの価値を表現するための手段・材料としての
位置にある。言い換えれば、リンネルの価値を表現するための「客体」の役割を演じているもの(これを、等価形態と呼ぶ)。
      ↓
このような非対称的な関係として捉えることによって、そこからいったい何が出てくるか?――価値である。
 つまり、今回、たまたま、20エレのリンネル=1着の上着 という交換が成立したのであるが、しかし、いったんこの交換が成立した時点で、20エレのリンネルの価値を表現する手段の役割を演じた1着の上着は、それ自体がそのままで20エレのリンネルと交換できるということにより、その結果、1着の上着自身の中に、あたかも20エレのリンネルと直接交換できる可能性、つまり(リンネルとの)交換価値なるものが今回の交換以前から内在していたかのような錯覚を生んでしまう。

 これが我々にとって価値の発見の始まりである――厳密には、価値の幻想の発見の始まりなのだが。
 言い換えれば、我々は、あくまでも、交換が成功したという事後的な地点にとどまって価値の意味を考え続けなければならないところ、その地点から交換の事前の地点まで溯って、そのような交換が成功したのは、そもそも交換が成立する前から、交換を可能にする価値なるものが実在していたのだと錯覚してしまった(そこには、事後的にしかないものを事前に投射してしまうという、我々自身の長年にわたる認識上の根深い誤謬の問題が横たわっている)――本当は、ここがロードス島だ、ここで跳べ!という「暗闇の中の跳躍」を通じて初めて交換が成立したというのに。
      ↓
いったんこの錯覚が成立したあとは、ズラズラとこの「単純な価値形態」のバリエーションの登場、つまり、この錯覚の拡大が登場である。つまり、
20エレのリンネル=1着の上着 のみならず、
10ポンドのお茶=1着の上着
40ポンドのコーヒー=1着の上着
1クォーターの麦=1着の上着
0.5トンの鉄=1着の上着
‥‥‥‥‥‥=1着の上着

 こうした一連の交換の成功により、1着の上着は、交換の前から、あたかも、リンネルのみならず、お茶ともコーヒーとも麦とも鉄とも‥‥とも直接交換できる可能性、つまり彼らとの交換価値を持っているものであるかのごとく錯覚されてしまう(これを、全体的な価値形態と呼ぶ)。

 そして、ここから、全ての商品との交換に成功し、それゆえ全ての商品との交換価値を持っている(かのように錯覚するのに成功した)商品=貨幣への距離はあとわずかである。

 そして、歴史上、こうした交換に成功したのが金や銀であった。こうして、金や銀は生来決して貨幣ではないのだが、こうした交換に成功したが故に、貨幣は金や銀として登場することになった。

そして、こうした商品・貨幣における価値の生成は、法律における「権利という価値の生成」と殆どパラレルに考えられる。

 つまり、大切なことは、まず具体的な事件の解決において、或る事実と別な事実とが交換されること、ちょうど、上の「単純な価値形態」のように。

   或る事実A    =  或る事実B
(相対的価値形態的な事実)(等価形態的な事実)

では、ここでは、いったいいかなる事実が、取り上げられるに値するものだろうか?

それは、上に解説した2つの商品の交換における「単純な価値形態」に匹敵するような事実である。つまり、20エレのリンネル=1着の上着 という交換において、20エレのリンネルの価値を表現する手段の役割を演じた1着の上着が、それ自体がそのままで20エレのリンネルと交換できるということにより、その結果、1着の上着自身の中に、あたかも20エレのリンネルと直接交換できる可能性、つまり(リンネルとの)交換価値なるものが今回の交換以前から内在していたかのような錯覚を生んでしまう――この「1着の上着」に匹敵するような事実B。

これを、判例上、初めての「ドラマ化権侵害」に関する判断を下した「春の波涛」事件(原告の伝記本を被告NHKが無断でドラマ化して大河ドラマを制作・放映したという事件)一審判決について見てみる。

この判決があるまでに、「ドラマ化権侵害の判断基準」なるものは、法律は言うまでもなく、判例上もなかったので、我々が一からデッチ上げるしかなかったのであるが、それは、振り返れば、この
  或る事実A=或る事実B
という発想を通じて実践されたことに気がつく。つまり、

本裁判で争われた原被告の両作品の対比=我々がデッチ上げた「物語性」
   (相対的価値形態的な事実)   (等価形態的な事実)

という交換に成功したことを通じてなされた。つまり、「本裁判で争われた原被告の両作品の対比」という事実の価値を表現する手段として、「物語性」という事実が認められ、両者は交換されたのである。

具体的に言うと、この裁判で著作権侵害があったかどうかを判断するためには、原告と被告の両作品を対比して類似しているかどうかを評価しなければならなかったが、しかるにそれをどのような評価基準でもって対比したらいいものか、その答がどこにも書いてなかったので(それが、裁判官の森脇さんに「私には、さっぱり分かりません」と言わしめた)、両者がめいめい、こうやって対比すべきである、いや、ちがう、ああやって対比すべきであるといった具合に、(内心は自分に有利になる評価基準を)好き放題並べては、裁判官に、「交換」を迫ったのである。しかし、いずれの「事実」もいかにも自分に有利になるために持ち出したのがミエミエの、普遍性の刻印を殆ど帯びていなかったので、裁判官はどの「事実」とも交換する気にならなかった。こうして8年近くが経ってしまった(^^;)。

しかし、この間、我々は、ひそかにシナリオと映画の作品分析の中で練り上げてきた「物語性」(=登場人物の具体的な行動・出来事が因果関係の連鎖で結ばれていて、その行動・出来事を通じて、登場人物の感情のうねりが具体的に表現されていること)という評価基準を打ち立て、これこそ、ドラマ制作の実情を踏まえて、著作権保護とドラマ制作の表現の自由との調整を図った最も適切かつ明快な評価基準であるとして提出され、最終的に、裁判官により、上のように「交換」してもらえたのである。

そして、その次の段階は、このような「交換」事例の増加である――上の「全体的な価値形態」に対応するものである。たとえば、このドラマ化権侵害の判断基準について、その後、昨年の「北の波涛」事件最高裁判決において、再び、この「交換」に成功した(もっとも、上告審の手前、表向きは明らかにしていないが)。

こうした「交換」事例の増加の中から、やがて、全ての事例との交換に成功し、それゆえ、この「物語性」が全てのドラマ化権侵害の事例との交換価値を持つ事実=「自然法的な意味の法」に至ることになる。

これが、事実から法律が形成される過程のスケッチである。

とはいえ、最初にも言った通り、もともと、「貨幣」とは、あくまでも錯覚の上に成立する「或る位置」(=普遍的な等価形態という位置)のことにほかならない一方、商品と商品とは直接交換することが事実上不可能で、そのためには、こうした「普遍的な等価形態という位置」を占める「貨幣」なるものの存在が不可避である。その意味で、「貨幣」とは価値を最もはらむものでありながら(なぜなら、事後的に考えた場合、それはこれまで、交換に最も成功してきて、価値の存在を最も印象づけてきたものだから)、にもかかわらず決して予め確定した価値を内在させるものではなく、それゆえ決して安定することができないものである。

それと同様に、ここでいう「法律」(=自然法的な意味の法)もまた、あくまでも錯覚の上に成立する「或る位置」のことにほかならず、他方で、我々の社会生活において、事実と事実を直接交換して紛争を解決することが不可能であり、そのためには、こうした事実同士の紛争を媒介する「普遍的な等価形態という位置」を占める「法律」なるものの存在が不可避である。その意味で、「法律」とは価値を最もはらむものでありながら(なぜなら、事後的に考えた場合、同じく、それはこれまで、交換に最も成功してきて、価値の存在を最も印象づけてきたものだから)、にもかかわらず決して予め確定した(紛争解決基準といった)価値を内在させるものではなく、それゆえ、それは本来的に決して安定することができないものである。自然法(普遍法)とは常にゆらぎにさらされている。つまり、その普遍性は個々の事件・取引といった事実との交換に迫られる都度、「暗闇の中の跳躍」を通じて初めて交換が成功するかどうかが分かるのであり、その都度、そうした試練を経て明らかにされるしか存在しようのないものである。

その意味で、こう言ってよい――普遍的なる法は存在する。我々の社会生活において、それは不可避である。しかるに、その普遍性とは、確定的、固定的なものとして我々が決して掴むことができないものである。それは、絶えざる実践・試練のくり返しの中でその都度試され、明らかにされるほかないものであり、だから、それは「反復なき反復」として存在し続ける。

以上が、「事後的にしかないものを事前に投射してしまう」という我々が陥りやすい認識上の誤謬との格闘の中で、あくまでも、交換が成功したという事後的な地点にとどまって価値(そして貨幣・法律)の意味を考え続けようとしたときに導かれる結論である。


 そして、これと同じようなことを、「自然の生き物にも平和的に生存できる権利主体を認められないか」という新しい権利の生成でもやることになるのだろう。
では、具体的にいかにして実行されるべきか。

そのためには、もう少し、今までやってきたほかの事例で権利の生成の過程を振り返っておきたい。


以上、スケッチ3はこれまで。

なお、参考文献は、
柄谷行人「トランスクリティーク」
柄谷行人「マルクスその可能性の中心」