Subject::「価値形態論」(自然権の理論構成)に関するスケッチ2

4.25/02

皆さんへ

こんにちわ、柳原です。

上記題名の報告ですが、約束しておきながら、いざまとめる段になると自分で何をやっているのか訳が訳が分からず、てんてこ舞いで、書き上がりません(^^;)。

しょうがないので、思いついたところから、どんどんスケッチとして書いて、流すことにしました。
ということで、当面、垂れ流し方式で、ご容赦下さい(或る段階で、何とかまとめますので)。


◆紛争という或る種、極限状態(=法律の解体)において正体を現わす法律の本質から導かれること

まず、紛争という極限状態の中から何が見えてきたか?

→それは、前回も書いた通り、法律が実は殆ど意味不明なケッタイな代物だということです。

>私は、もともと法律という「一見したところで自明で平凡な物のよう
>に見えて」その実、「分析してみると、それは形而上学的な繊細さと神学的な
>意地悪さとにみちた、極めて奇怪なものである」(資本論)ことに気がついた
>のは、森脇さんにも読んでもらったもろもろの著作権侵害事件といった本格的
>な紛争に首を突っ込んだからです。

では、その法律は、いかなる意味で、「意味不明なケッタイな代物」なのか?

>で、そのような場面では何が起きたかというと、森脇さんが端的に論破したよ
>うに、
>「私はこれをどう判断していいか、さっぱり分かりません」
>という事態、つまり、法律が法律として機能しない機能不全の状態になったこ
>とです。これが正真正銘の紛争(のひとつ)というものです。
>しかし、これは同時に、法律の本質をあらわにする瞬間でもあったのです、法
>律がそれまで、法律自身の内部に紛争を解決する解決基準なるものを内在させ
>ているという幻想を打ち砕く瞬間です。

私は、森脇さんが上の告白をスパッと言ってのけた瞬間、そして、これに対し、並み居る双方の代理人たちが虚を衝かれて「ポカッ」というアホ面をした瞬間、「ワハハハハ」とかつてないくらい愉快な感情が腹の底から込み上げてきて、抑えようがありませんでした。
なぜなら、この瞬間こそ、私が、「あっ、そうなんだ、どこにも法律(翻案権侵害の判断基準)なんてものはないんだ」と分かったからで、過去の権威にかさに着て威張ろうにもそれが不可能であり、あるのはもっぱら紛争を構成する事実しかなく、あとは、この事実の中から、自分たちの手で、これはと思う翻案権侵害の判断基準をデッチ上げるしかないことを悟ったからです。そこで、新藤兼人さんたちの指導によるシナリオ講座に通うことにしたのです。そうしたシナリオ執筆、映画制作のプロセスを研究する中で、図々しくも、翻案権侵害の判断基準をデッチ上げ、裁判所に提出し、これを呑ませるに成功した瞬間、同じく、「あっ、これでいいんだ」と確認することができたわけです。以後、私の仕事は、すべてこのリピーターでやってきました。

この時、分かったことは、法学の本によると、「法律は規範であって、事実の上に聳え立つものである(高貴な出である法律は、平民たる事実は位がちがう。同時に、事実を集めて法廷に提出するのが平民の弁護士の仕事だとすると、それを法律に当てはめて結論を出してやるのが一段位が高い高貴な裁判官の仕事である、という流儀と一体になっていた)、そして、事実に法律を適用することによって結論を導くという法的三段論法が法治主義のシステムである」というのが、いかに危ういものであるかということだった。

実際は、高貴な出であると思われていた法律も、その素性は実は単に平民たる事実の一種にすぎない。それは、我々が、或る種の事実を、一段高いレベルの法律とみなしてやってやるから初めてそこにとどまることができるのであって、我々がそうみなすのをやめてしまえば、法律も、ルーマニアのあのチャウシェスクさながら一段高い壇上からずり降ろされるのだ。その意味で、法律と事実の関係は。王と臣下の関係を表わした次の言葉と極めてよく似ている。
「この人が王(法律)であるのは、ただ、他の人々が彼に対し臣下(事実)としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王(法律)だから自分たちは臣下(事実)だと思っている」


そうしたこととは別に、この時獲得したアナーキーな認識(法律なんてものはない、あるのは実は取引・紛争を構成する事実だけである。法律もまたそうした事実の一つにすぎないのである)がどれだけ普遍性を持っているものか、確認しておきたくて、その検討の中で、法律が経済学でいう「貨幣」に相当するものであることを知り、法律に適用する取引・紛争を構成する事実が、経済学でいう「商品」に相当するものであることも知りました。

例えば、法律の世界では、裁判所が判決を下す時にやることというのは、紛争を構成する事実を認定して、その事実を法律に適用して、その法律に書いてある結論を判決の結論して導くというものですが、ここで、裁判所が事実を法律に適用するというのは、見方を変えれば、事実と法律とを(両者は等しいものだと)交換しているようなものです。それは、商品(事実)と貨幣(法律)とを両者は等しいものだとして交換する商品交換に対応していると考えることができます。


つまり、私が、殆ど直感的に、或いは手探りでやってきたことを、改めて、意識化、理論化していく試みの中で、法律と経済の対応関係として法律と貨幣を捉えることができるのだということに気がついたのです。

そこから、次のようにパラレル(並行的)に問題を立てられると思ったのです。

1、今、存在する貨幣に対して、そのような貨幣の存在根拠を探究する問いとして、

経済社会において、本来ただの一商品にすぎないものから、いかにして貨幣は生成されたのか?(商品はいかにして貨幣となるか?)言い換えると、経済社会において、「価値」はいかにして生成されたのか?

2、これと同じ意味で、今存在する法律(例えば、翻案権)に対して、そのような法律の存在根拠を探究する問いとして、

法律社会において、本来ただの一事実にすぎないものから、いかにして法律は生成されたのか?(事実はいかにして法律となるか?)
或いは、法律社会において、本来ただの一事実にすぎない「あるモノ」や「ある状態」から、いかにして「権利」なるものが生成されたか?言い換えると、法律社会において、「価値」はいかにして生成されたのか?

例えば、今から22年ほど前(1980年)、全国に、貸しレコード店が誕生し、レコードのレンタル事業が開始された時、これは直接には著作権法などの法律に抵触しなかったわけで、単なる「レコードのレンタル事業」という事実があっただけなのです。しかし、その後、音楽の著作権者、隣接権者の反対で、貸与権なる権利が新設されたわけですが、ここでの問いは、それまでは「本来ただの一事実にすぎない=レコードのレンタル事業」から、いかにして貸与権という「権利」が生成されるに至ったのか?ということです。

これに対しては、「そんなもの、法律改正運動というもっぱら実践的な問題じゃん」という見方があるのですが、しかし、今、これを単なる著作権法改正運動といった現象的、経験的に眺めるのではなく、あくまでも理論的、いわば森脇さんが裁判官として、翻案権侵害の判決を下す時に「えい、やあ!」という決断に迫られる「命懸けの跳躍」として眺めた場合に問われるような問い方として議論したいのです。
        ↑
そして、この1の問題を真正面から取り組んだのが「資本論」の「価値形態論」です。

マルクスは、古典経済学を批判して、そこでは、物(生産物)と商品(商品形態におかれた生産物)とが区別されていないと指摘します。そのため、あたかも物がそのままで価値を持つかのように錯覚している。
しかし、物(生産物)は、単独では商品になることも、また価値を持つこともできず、他の物(生産物)と交換されることによって初めて商品となるのであり、価値を持つことができるのである。そのような、物(生産物)を商品たらしめる形式のことを「価値形態」(商品形式)と呼び、その「価値形態」の精緻な分析を実行したのです。その出発点であり、「価値(=貨幣)」発生の謎を秘めている形態が、2つの商品が交換される次のような「単純な価値形態」のことです。
  20エレのリンネル=1着の上着
マルクスは、この始源的な形態からスタートして、「拡大された価値形態」→「一般的等価形態」→「貨幣形態」と辿って、「貨幣」、法律で言えば「法律」にまで辿り着きます。

とりあえず、こうした経済における取組みを、法律問題に対応させてみると、次のようになります。

 我々も、従来の法律学を批判して、そこでは、単なる生の事実と法的な事実とが区別されていないと指摘できるでしょう。そのため、あたかも単なる生の事実がそのままで価値を持つかのように錯覚している(「音楽の著作権者、隣接権者を貸しレコード店の営業から守れ」とか「アマミの生き物を守れ」といった具合に)。
しかし、単なる生の事実は、他の事実と交換されることによって初めて「法的な事実」となるのであり、価値を持つことができるのである。そのような、単なる生の事実を法的な事実たらしめる形式のことを「価値形態」(法的な事実形式)と呼び、これから、我々もその「価値形態」の精緻な分析を実行する必要があるのです。その出発点であり、「価値(=法律)」発生の謎を秘めている形態が、2つの事実が交換される次のような「単純な価値形態」のことです。
  アマミの生き物=?
我々もまた、この始源的な形態からスタートして、「拡大された価値形態」→「一般的等価形態」→「法律形態」と辿って、「法律」にまで辿り着きたいと思うわけです。


この具体的な分析に入る前に、ひとつ、基本的な疑問にコメントしておきたいと思います。
それは−−「事実から法律への生成過程を探究する」といっても、古代ならともかく法治国家の現在において、そんな議論は不毛ではないか。なぜなら、法律は原則として議会の制定する立法によって作られるものであって、個人が勝手に作るわけにはいかないだろうから、という疑問です。

これは、実は法の核心に最も迫った最重要の問題提起です。というのは、ここで、私が、「事実はいかにして法律となるか?」という議論をしている時に、議会などが制定する制定法のことを念頭においていなかったからです。なぜなら、ここで問題にしている「法律」というのは、国家といった共同体を超えて通用するような普遍的な法=自然法のことであって、所詮、共同体内部の法でしかない議会などの制定する制定法のことではないからです。

それは、ちょうど、「資本論」の「価値形態論」において、「貨幣」に関する分析が、歴史的にたまたまその役割をになった「金」に向ったのではなく、あくまでも「貨幣」を出現させるに至った形式(構造)に向っているのと(同じではないが)似ています。

つまり、ここで大切なことは、現実の貨幣であった「金」(制定法)の分析ではなく、
1、生産物はなぜ生産物と直接交換されないのか?←そのような交換にあたって、どうして貨幣なるものが出現せずにおれなかったのか?(事実と事実の衝突・対立を調整し交換するものとして、どうして自然法なるものが出現せずにおれなかったのか)

2、そのような商品交換において、それを媒介するものとして機能する「貨幣」が備えていなければならない条件とは何だったか?(そのような事実と事実の衝突・対立を調整し交換するものとして自然法が機能するためには、どのような条件を備えていなければならないか)

より具体的な検討は改めてということで、とりあえずここまで。

ともかく、こうした検討をしてきて、私は、ここでやろうとしている「自然の生き物にも平和的に生存できる権利主体を認められないか」といった新しい権利の生成の吟味が、法律と経済のパラレルな関係に思いを致す時、それは殆ど、従来の貨幣に代えて、新しい通貨の生成の吟味の問題と並行していることを意識しないでおれませんでした。

21世紀に生きているというのはこういうことに気がつく瞬間です。