Subject::「価値形態論」ならぬ「権利形態論」に関するスケッチ1

4.17/02

皆さんへ

おはようございます、柳原です。

先日、自然権の理論的構成にとって不可欠な「価値形態論」ならぬ「権利形態論」の検討のために、資本論の「価値形態論」のレポートを書いてきますと宣言したものの、予定通り、四苦八苦しています(^^;)。

しかし、森脇さんも私の「著作権の穴」最新版を読んで感想を寄越してくれたし、ちょっとアバウトですが、気がついたことをスケッチします。

まず、私が、この「著作権の穴」最新版でやりたかったことは、
今までの判決の批評は、たいがい、すべてを判決という「終わり」から眺めて事態を評価するというスタイルでしたが、今回は、そういう「終わり」からではなく、むしろ、判決というプロセスに至るまで最初から最後までを辿りながら、その中で逢着した課題や難問をその当時、どのように考え、悩み、決断していったか、というまさに、生成過程をできるだけ忠実に再現し、明らかにしようとしたのです。

それがまた、今、求められている自然権という新しい権利の生成に、つながる筈だという確信もあったのです。

それで、私は、もともと法律という「一見したところで自明で平凡な物のように見えて」その実、「分析してみると、それは形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちた、極めて奇怪なものであることに気がついたのは、森脇さんにも読んでもらったもろもろの著作権侵害事件といった本格的な紛争に首を突っ込んだからです。

で、そのような場面では何が起きたかというと、森脇さんが端的に論破したように、
「私はこれをどう判断していいか、さっぱり分かりません」
という事態、つまり、法律が法律として機能しない機能不全の状態になったことです。これが正真正銘の紛争(のひとつ)というものです。
しかし、これは同時に、法律の本質をあらわにする瞬間でもあったのです、法律がそれまで、法律自身の内部に紛争を解決する解決基準なるものを内在させているという幻想を打ち砕く瞬間です。
実は、法律とはもともと、あらかじめ現実の紛争を解決する解決基準なるものを内在させているわけではなく、あくまでも「純粋に社会的なもの」として構成されているものであって、翻案権などの権利とて、あくまでも著作物と別な著作物との出会い・衝突・交通といった社会的関係においてのみあらわれるものであり、その本質上、そのような具体的な社会的関係を通じてのみしか自らの正体・全貌を明らかにするほかないものなのです。

このことを知った時、それは、殆ど、貨幣や商品の本質と同じことではないかと思ったのです。
つまり、貨幣とて、あらかじめ商品の価値基準なるものを内在させているわけではなく、あくまでも「純粋に社会的なもの」として構成されているものであって、個々の商品との出会い・交換を通じてのみしか正体・全貌を明らかにするほかないものである、と。

ここまで来て、時間切れとなりました。

あとは、またのちほど。