Subject::「価値形態論」(自然権の理論構成)の発見について−−スケッチ0

4.12/02

かねてから、
人間以外の生き物にも、平和的に生存する権利のようなものを認めるべきではないか、そうだとしたらそのような自然権は、どのようにして可能か、
ということが話題になっていましたが、17日は、ひとつ、このことをめぐって議論してみたい(^_^)というのが私の望みです。

というのは、先週末から、「著作権法の穴」本論1を書き始めたのは、この自然権の理論的構成を探求してみたいという動機があったからです。
その検討の中で、幸い、そのための必須文献を見つけ出しました。それが、参考文献表示の末尾に書いた、
マルクス「資本論」第一部第一篇第一章第三節 価値形態又は交換価値です。

「著作権法の穴」本論1では、著作権の核心部分である「著作物の創作性」とは何か、それはどのようにして見出されるのか、という議論の中で、実は、その根本的な理由をこの資本論の「価値形態論」から手に入れたのです。
つまり、商品の「価値形態論」に匹敵する著作物の「権利形態論」なるものを、我々は吟味する必要があるのだ、ということに気がついたのです。

それに関する本文の記述が、以下の部分です(やや長文で、恐縮)。

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そこには実は、それ以上にもっと根本的な問題が横たわっていた――「そもそも権利はいかにして生成されるのか」という権利という価値の成立根拠を問う問題である。確かに権利は立法によって成立すると言える。しかし、翻案権が著作権法で認められたからといって、我々は一体どこまでその権利の正体・全貌を知っているのだろうか。殆ど知らないにひとしい。
だからこそ、本件も一審だけで8年もかかったのだ。しかし、それは何も我々の怠慢ではない。我々
が、翻案権という価値の正体を知らないのは、そうした価値なるものが、本来「純粋に社会的なものである」からにほかならない。つまり、翻案権などの権利という価値は、言語や商品の場合と同様、これを一つ一つ独立の著作物として眺めたところで、これをどうひねりくりいまわしても翻案権という価値を掴むことはできず、あくまでも著作物と別な著作物との出会い・衝突・交通といった社会的関係においてのみあらわれるものであり、その本質上、そのような具体的な社会的関係を通じてのみしか自らの正体・全貌を明らかにするほかないものだからである。だから、我々は、本裁判を通じて、伝記と典型的なドラマとが出会い・衝突し、そのような社会的関係の中でこそ初めて、ドラマ化権の何たるかをまざまざと教えられたのである。そのような社会的関係を離れて、世界中の著作権法や著作権の文献に何も書いてないのは当然のことである。つまり、ドラマと他の著作物とが出会い・衝突する、そのような交通の社会的関係の場こそがドラマ化権発明の源泉なのだ。もしドラマ化権という価値を発明したかったら――ここがロードス島だ、ここで跳べ!

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もちろん、私自身、資本論の中でも最も難解といわれる「価値形態論」をまともにまだ理解していないのですが、今まで自然権の理論的構成がまともにできなかったのは、今まで誰もこの「価値形態論」(ならぬ「「権利形態論」)の問題と正面から向かい合わなかったからだ、ということが分かったのです。よって、私が、17日までに理解します、腹を括って(^_^)。

そしたら、皆さんも意見を出して、練り上げる協力をして下さい。

それに成功したときには、我々は、すべての問題について、権利生成のための原理(とはいえ、あくまでも原理ですが)を獲得したことになります。

それこそ、21世紀に残すべき、成果の一つではありませんか。

クソっ、もっと徹底して頭がよくなりたい。

参考文献
マルクス「資本論」第一部第一篇第一章第三節(大月文庫・岩波文庫ともに第1巻)
柄谷行人「マルクスその可能性の中心」26頁〜(講談社学術文庫)