自森の死亡診断書(断片1)

──はじめに──

1998.05.25

(・・・自由の森に保存)



赤城さんへ

結局、昨日の熱気に押されて、懸案の自森の死亡診断書のパート1の第1章の第1節といえるくらいの小文を書きましたので、お送りします。
やはり、人を突き動かす何かが、こうした文章を書かせてしまうのですね。その意味では、これは皆さんが私の手という道具を使って、この文章を書かせてしまったような感じです。
但し、肩書がちょっと嫌みっぽいですが、今回だけこうさせて下さい。次回以降、まともなものに変更しますから。

また、この文の前文ともいうべき、解説も書きましたので、いつものように、前に置いて下さいますか。

また、これまでの投稿者の人たちに対する、我々のホームページの再出発のメッセージももうこの際、送ってしまいましょうか。

よろしくどうぞ。




前  文

 昨年6月に自森が亡くなったとき、あと残された仕事は自森の死亡診断書を書くことしかないと思った。しかし、それ以後、自森の別の人権侵害事件の対応に追われたり、自分の仕事に追われる羽目となり、また、まとまった死亡診断書を書く自信がなかなか持てなくて、容易に執筆できなかった。
 そこで、当初の方針をあきらめて、その都度、自森の死亡診断書をめぐって思いついたことを断片的に書き付けて、それを発表することにした。でないと、きっと永久に書かないだろうと思えたから。
 以下は、とりあえず、その第1回目。

 そして、私たちのホームページはもともと、NGO=非ガッコウ組織、という自森から自立し、これと緊張関係に立つ自主的な組織であり、そういう組織こそ、自森というガッコウを活性化すると信じて活動をやってきたものである。しかし、今ではもうその本体たるガッコウが死んでしまった。その意味で、我々自森NGOも一緒に死んだも同然だった。事実、そのことをこの半年間、噛みしめて実感してきた。
 だが、私たちの中にある「自由と自立」への憧れは死ぬわけにはいかない。そこで、この「自由と自立」への憧れの精神を引き続き燃え続けることのできる場として、このホームページは新たな出発をすることになった。ひと言で言うと、それは、かつての自森に惹かれ、憧れたのと同様、「自由と自立」への憧れの精神に共感する人たち全てに開かれた場としてのホームページである。
 もっとも、これがどういう形をとったとき、このホームページが最も輝きを増すのか、まだよく分からない。その意味で、これからその形態を模索していこうと思っているところだ。
 このような再出発をしようとしている私たちに、自由の森のこととは直接関係なくても結構ですから、編集委員への参加なり、ホームページの編集についての要望なり、投稿なり、いろんな参加を歓迎します。どうぞよろしく。



自森の死亡診断書(断片1)──はじめに──


                                                       故自森の生前関係者  柳原敏夫

 昨年の6月、生徒の暴力事件に関して強引に7名の退学処分を決定した退学事件で自森は自らの命をも完全に断ち切り、死亡するに至った。「自由と自立」という輝かしい困難な理念を目指して旗揚げして13年目のことであった。

 私は、7年前に息子(長男)が自森の中等部に入学した関係でこの学校と縁を持つに至ったが、しかし、前半の3年間は全く関心がなく(どこか新興宗教みたいな胡散臭い感じがしていて、馴染めなかった)、この間一度もこの学校に行っていない。
 それが、中3の終わり頃、息子のクラスの或る父親の話を聞く機会があって、それで眼が開かれるような思いをし、他方、息子の行状が依然あまりにひどいので、いったいこれはどうなっているんだ、とそれで初めてこの学校と関わりを持つようになった。
 当時、在日日本人でしか生きていけない追い詰められた気分でいた私は、ここの生徒との出会いの中にすごく新鮮なものを感じ、以来半年ほど、週の半分をこの飯能の山の学校で過ごし、自主講座を開き、柄谷行人などを呼んで話を聞くという生活に陥ってしまった。

 そういうことで、私にとって最も貴い理念である「自由と自立」の具体的なイメージを、この学校の中で探究するという、この学校と密着した生活を送っているうちに、私の考えにビビッドにリアクションを示す人たちとの交流が始まったが、そこでビックリしたことは、こうした熱心なリアクションを示す人たちがいずれも、この学校の中でものすごい迫害の目にあっているということだった。

 かくして、私は美しい理念の下に出発したこの学校の中での激しい人権侵害の病理現象とかかわる羽目となり、職業柄、病理現象の中にこそ物事の本質が鮮やかに現れるという信念を抱いていたせいもあり、そのうちに、はからずも、私は、先頃、急逝された名古屋在住の村上道利さん(彼もまた、ここの生徒との出会いの中でこの学校に深くかかわってしまった人である)同様に、学校から最も憎まれる存在に置かれる羽目になってしまった。

 それはともかく、息子の後半の3年間は息子以上に(或いは、並みの自森の教師以上に)この学校に関わりを持つようになり、この学校が歩んできた栄光と悲惨な軌跡を少しずつ知るに至り、既に瀕死であったとはいえ、なお一抹の蘇生の可能性を残していたこの学校の死亡を、昨年、とうとう目撃したことを確信するに至ったものである。

2、自森がこうして死亡したことについて、その原因をいろいろと考えることができると思うが、私にとってそれは単純である。
 全く皮肉なことだが、「自由と自立」をめざした筈のこの学校にはもともと、実は、自分でも知らずして「自由と自立」を最も恐れるような人たちしか集まってこなかったから(或いは、そういう人しか残っていなかったから)である。
 それゆえ、こうした人たちが「自由と自立」の実践の中で逢着した様々な困難に恐れおののいて、そこから逃げ出したとしても怪しむに足りない。

 もっとも、最初、私もさすがに、そこまで言うのにははばかった。しかし、いくら考えても、自森崩壊の本質的な原因はそれ以外考えられなかった。私が、これから、こうした死亡診断書を書きたいと思うのは、ひとつには、こうした自分の見解を改めて吟味したいからだ。

3、しかし、死亡診断書を書こうと思う理由はそれだけではない。確かに、自森は、13年間であっけなくも「自由と自立」の試みの幕を閉じた。その幕切れの様相は悲惨さを突き抜けてもう茶番の域にすら達していたように私には思える。しかし、たとえこれがどんなに惨めな茶番に見えようとも、この学校のめざした「自由と自立」の試みに全情熱を傾けてきた人たちにとっては、悲劇以外のなにものでもない。だからこそ、私は、ヘミングウェイの「殺人者」を評して、

これは深い悲劇だ。だが同時に、深い真実に満ちている

と言ったタルコフスキーの言葉を思い出さずにはおれない。私もまた、

「自森の崩壊は悲劇だ。にもかかわらず、そこにはそれなりの真実があったはずだ」

と思う。なぜなら、この学校は、本質的には自由と無縁なニッポンにおいて、まるで風車に突撃するドン・キホーテのように、「自由と自立」という理念に向かって突撃していった稀なところだったからであり、そのような無謀な試みのみが残し得た貴重な真実があったはずだからである(私は、私が惹かれた生徒たちが、こうした真実を吸収して自分を形成してきたことを徐々に知った)。

 だから、人は自森の失敗を簡単に笑えるだろうか。自森の崩壊を他人事のように済ませておれるだろうか。それどころか、人は誰でも、いやしくも再び「自由」や「自立」といった理念と向かい合おうとするや否や、きっと自森が辿らざるを得なかった様々な経験を再び身を持って経験することになるだろう。その意味で、自森の死には深い真実に満ちている。そして、この苦い真実は、ここに全情熱を傾けてきた人たちによって成し遂げられ残された無言の宝でもある。

 私は、墓に葬り去られた自森の遺体の中から、この宝を掘り出したいと思う。そうして、この宝を吟味する中で、未来に向かって、このような苦い真実をまたむざむざと反復したくない。これが死亡診断書を書くひとつの理由である。

4、私は、自森の生前中、こうした、自森の栄光と悲惨な歴史が刻印した「自由と自立」に関する深い真実について、もっとガッコウの関係者と率直に語りたいと思った。しかし、週の半分も自森にやってくるような男や名古屋からしょっちゅう飯能の山の中まで出かけてくる村上さんのような人物は何やらガッコウに対する野心でも抱いている胡散臭い人物と思われたようである。しかし、それは単に彼ら自身の自己意識の投影にほかならない。こうして、ついに、ガッコウの関係者とはまともなコミュニケーションを持てずに終わってしまった。

 しかし、今や、自森がこうして亡くなった以上、彼らも、私や村上さんが何の野心もなかったことが分かったと思うし、仮にまだそう思えなくても、もうそんな心配は無用である。その意味で、今や、彼らとて、自分たちが経験してこざるを得なかった切実な経験を--もう取り繕うこともなく、率直にあけすけに語る機会が訪れたとも言える。

 その意味で、これから私がここでやろうとしていることは、自森の栄光と悲惨な歴史について、彼らにも、また誰に対しても、開かれた対話の場でありたいと思う。 

(続く)

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