村上さんの思い出

1998.05.05

(・・・自由の森に保存)



コメント
 高3の息子と同級の村上麻衣ちゃんのお父さん村上道利さんが去る3月21日、名古屋の自宅で急逝された。
 彼とは、3年前、自森が九州のある私立大学に売り払われるという騒動以来の付き合いでしかないが、彼は名古屋という遠隔の地で生活していたにもかかわらず、私にとって最も存在感のある人だった。


まえがき         

                      98年度卒業生の義務者 柳原敏夫


 3年前、「自森の理念を継承する会」が発足したお陰で、はからずも知り合うことができた、同学年の父母村上道利さんがこの3月21日急逝された。享年47歳。彼は、愛知の知多郡に住み、名古屋に勤務しながら、はるばる埼玉の飯能まで最も足繁く通った人だった。そして、昨年の自森の自殺ともいうべき一連の騒動の中で、彼くらい自森の死の意味をリアルに認識していて、同時にそんなことが「自由と自立」をめざす我々の理想にとって屁でもないことを一番よく分かっていた人のように思える。とにかく、彼は疲れを知らない、憑かれた人だった。
 だから、こういう彼に死なれてみて改めて思う、もし自森が何かしら価値ある可能性を秘めている場所であるとしたら、それは輝かしい栄光のせいでもユニークな制度のせいでもない、現に村上さんのような人間がまさしくここに集い、ここに存在し、ここで交流したということにあったのだということを。私にとって、自森の死より村上さんの死のほうがつらい。


 村上さんの思い出(遺稿集の序文より)


 電子メールの形式で書かれた村上さんの発言を発行するにあたって、その前書きを書いてくれるに相応しい人が本当は別にもっといる筈なのですが、諸事情でそれが叶わなかったらしく、私が書くことになった。

 私は、別にそれほど村上さんと親しかった訳ではありません。にもかかわらず、私にとって、彼はすごく懐かしい人であることを訃報を聞いた後になって実感しました。恐らく、その感じは私だけではないと思う。かなり多くの人が大切な人を失ったと感じたと思う。しかしそれは、村上さんには親密なつきあいをしていた人が多かったからではないと思う。むしろその反対で、彼には、これはという特定の人とだけ親密なつきあいをしてしまう閉鎖的な感じが全く感じられない人だった。誰に対しても開かれた心の持ち主だったことがそうした感情を回りの人たちに与えたのだと思う。これは稀なことだという気がしてならない。

 初めて彼を見た、3年前の自森の理念を継承する会の第1回目の集まりのとき、私は、背広にぴしっとネクタイを決めて司会をする彼のいかめしい姿に、この人は何かの間違いでここにきたんじゃないか、というのが正直な第一印象だった。
 しかし、その後、彼と近くで接する機会があったとき、その右翼的な印象を根本的に修正しなければ、と思うようになった。いきなり私に「自分は高卒なんですよ」とさらって言ってのける彼に対して、私も彼には素直に「実は、私も貧乏から抜け出すために、小3から大学受験を目指して勉強してきて念願の大学に入学したのですが、しかし入学後1週間で大学に幻滅してそれっきり行かなかったから、実質は村上さんとおんなじですね」と話せるような気がした。
 また、彼は、ものすごく勉強しているのが分かった。それも何かのために勉強しているという功利的な感じではなく、「学ばずにはおれない」という好奇心にただ突き動かされて身につけたもののように思えた。だから、自森の教師にも見られるようなエラソぶったようなところがまるっきりなかった。

 だんだん彼と一緒にいる時間が多くなるにつけ、或る時、ふと、この人は絶対一緒になりたくてたまらなかった人とその通り結婚できた、稀に見る幸多き人にちがいないと思った(のちに、夫人の喜久子さんとも会って、その通りであることを確認した)。

 はっきり言って、私は当初から、部分的にせよ、「自森の理念を継承する会」の中にあったルサンチマンの雰囲気が嫌でたまらず、辟易していたが、その中にあって村上さんにはルサンチマンが全く感じられず、一種異様なくらい率直で無邪気な感じが際立っていた。しかも、わざわざ名古屋から東京まで出向いてきて、こうした活動のために人一倍熱心に時間を割いている彼の姿を見ていて、一番最初、私はどうしてそんなことまでするのか分からなかった。ましてや、彼の活動を快く思わなかった連中が、彼にはとてつもない野望があってそんなことをしているのだと邪推してしまうとしても不思議ではなかった。
 それほど彼の行動は並みの頭で理解できるのを超えて不思議なものだった。その秘密は、先ごろ、彼の名古屋の実家を喜久子さんを訪ねたおりに明らかになった。

 彼は、二人の子供たちが全て自森を卒業して自森とは縁がきれたこの春になって、東京転勤を希望し、単身赴任用のマンションを借りて、そこで、自森の理念を継承する会の事務局や自主講座の会場に使ってもらおうと張り切っていたという。また、亡くなった週末には、娘さんの親友を名古屋に呼んで一緒にオーケストラを聞いて、そのあと(寝台列車ではなく)夜行列車で上京する予定だったという。

 ここまで書いてきて、私は殆どまとまったことを書けないのだが、私にとって、彼はちょうど映画「ニューシネマパラダイス」の中に登場する映画技師のアルフレッドのような存在だという気がする。私にとって、彼の言動のあれこれが問題なのではない。彼という存在そのものが貴いと思えてならないのだ。それはきっと、彼が(今どき最も陳腐な言葉になってしまったが)人間に対する関係において愛情と理想を純真なまでに抱いていたからだと思う。どこにもニヒルに斜に構えた人は山ほどいるが、そんなバカみたいなことを信じていた人はまれだと思う。

 喜久子さんは「あの日以来、時間が止まってしまった」と言われた。でも、彼は、そのエネルギッシュな行動力と溢れる優しさとキラキラ輝く理想で、我々が一生分かかってやり遂げる意義あることを既に成し遂げてきたのだと思う。
 村上さん、私は、あなたと生前なし得なかった、あなたとの対話をこれから気が済むまでやらせて欲しい。

                                (1998年5月5日)

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