1998.04.18
(・・・自由の森に保存)
コメント
高3の息子と同級の村上麻衣ちゃんのお父さん村上道利さんが去る3月21日、名古屋の自宅で急逝された。
彼とは、3年前、自森が九州のある私立大学に売り払われるという騒動以来の付き合いでしかないが、彼は名古屋という遠隔の地で生活していたにもかかわらず、私にとって最も存在感のある人だった。
以下は、村上さん宅を弔問したことを編集委員に報告したメール。
今日、大阪行きの帰りに、村上さんの自宅に立ち寄らせてもらい、線香をあげてきました。
昨日が、ちょうど、娘さんの麻衣ちゃんの誕生日だったそうです。
名古屋駅から2回乗り換えて、最後は無人駅の、駅から降り立つと、すぐ目の前に畑やたんぼが広がるような、落ち着いたところでした。レンゲの花がたんぼ一面にあざやかに咲いていました。
喜久子さん(夫人)とお会いしたのは2回目でしたが、きちんと話をしたのは今回が初めてでした。彼女は、落ち着いた、冷静で、しなやかな感じの人で、ちょうど、佐竹さんみたいな印象でした。
いろんな話を沢山して下さいまして、村上さんと比べ、地味な人でしたが、本当にいろいろ教育のこと、自森のことを考えているのを感じました。
実は、村上さんたちは、子どもたちを自森に行かせる前に、もう既に、自森のような学校に行かせたのを初めて知りました。知多郡の東浦にある緒川小学校という学校です。この学校の話をし始めると、喜久子さんはとどまることを忘れて、この学校に麻衣ちゃんをあげた5年間のことを一気に話してくれました。
当時、できたばかりの自森から木幡さんが呼ばれて、この緒川小学校で交流会を開いたそうで、そのとき、緒川小学校の先生たちは、木幡さんの教育実践の度量の狭さに、ことごとく異和感を表明したそうです。公立の小学生相手の学校でもこれだけのことがやれるのに、私立の中学高校生を相手にした学校で、どうして、もっと大胆な、新しい試みをしようとしないのか、どうして、依然、従来の教室の枠組みの中での実践にとどまっているのか、といった質問がポンポン飛び出したそうです。この先生たちは、そのとき既に、自森の将来が見えていたのかもしれませんね。
自森よりも早く、自森よりもはるかに徹底した生徒の自主性を重んじた教育実践をおこなってきた、この緒川小学校に子どもを通わせたくて、わざわざ引っ越してきた村上さん(当時は喜久子さんの独断で引っ越したようです)の話を聞いていて、彼女の情熱あふれる話を聞いていて、いつか、このことを彼女から是非とも報告してもらいたいと思いました。
3年前、村上さんは私に会ったとき、すぐさま「私は高卒です」とおっしゃったのですが、今日、喜久子さんは、「私は、高校中退です」と言われました。そして、「当時はまだ中退が珍しくて、職員室に行って、『中退します』と言ったら、職員室中の教師が全員総立ちになって、ビックリ仰天したんです」と笑いながらおっしゃっていました。
とりいそぎ報告でした。
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