自森の死亡診断書メモ
----アホと自由のはざまで生きる----

1998.01.25

(・・・自由の森に保存)



佐竹さんへ

昨日は、7人のオンナ侍の新年会にお招きいただき、ありがとうございました。
ホントは、自森の死亡診断書なぞについてザックバランなお話ができればよかったのですが、初対面の方も多く、どうしても聞き役にまわる感じであっという間に時間が過ぎてしまいました。
でも、なかなかユニークな時間を過ごすことができました。

ただ、やっぱり今の私にとって自森に対する唯一の関心は、(人がなんと思うと)この死亡診断書を書くことです。そして、その試みに初めて好奇心を示してくれたのが佐竹さん(そしてきっとその余の6人の侍もいるのかもしれない)でしたから、こうした好奇心を共有できる佐竹さんみたいな人たちとコミュニケーションをしながら、この診断書を書き続けていけたらと思っています。具体的には、かつての自森のこともよく知っている高橋さんやバーバラさんたちと対話をしながら書いてみたいと思っています。

ごくごくおおざっぱですが、私がこの自森の死亡診断書を書こうと思う理由は至って単純なもので、
ひとつは、自森という理想を目指して出発した一種の運動体にまつわる様々な幻想をきちんと暴くこと。例えば、未だに遠藤さんさえ自森にいればこんな状態にはならなかったはずだというつぶやきが絶えませんが、しかし、これ以上の幻想はないと思う。
はっきり言って、私は、自森創設者を自認する遠藤さんこそ今日の自森をもたらした最大の貢献者であり、今の自森の運営の主役は(一見遠藤さんと対立しようがしまいが)その実、まぎれもなく遠藤さんの直系です。なぜなら、自森は理念としては「自由と自立」を掲げてきたが、現実に実行してきた理念は「自閉・排除と支配従属・徒党」といったことであり、その理念を今なお忠実に実行しているのだから。
その意味で、改めて、いったい自森は何をしてきたのか、「自由と自立」といった美しい理念のフィルターを通さずに、直にその事実を見極めたいと思う。

他方で、こうした(悲惨な)ありのままの現実にもかかわらず、いざ開校した自森には、自森を創設した連中の予想を裏切るような(理想との葛藤をはらむような)緊張した事態が発生したのではないかと思う。その緊張を持ち込んだのが、たとえば1期生のAさんみたいな、「自由と自立」を本気で考えて入学してきたような生徒たちだったり、同じく父母だったのではなかったかと思う。それは、精々教室の中で生徒を引きつける授業を作れと叱咤した遠藤さんたちと、この世界そのものとの出会いに全身全霊を賭けて自分をぶつけてみたいと願って止まない人たちとのギャップみたいなものではなかったか。だから、こうした願いを抱いて自森に入学した連中は知らずして、そもそも(近代に誕生したにすぎない)学校制度とは何か、その制度の中で存在する教師って一体なんなのか、教師が実践する「教える」ということとは何なのか、といった根源的な、それゆえ、場合によっては自森という学校制度や教師の存在を否定しかねない緊張した問いかけを自森にもたらしたのではないかと思う。
 或いは、自森が、これまでの学校教育の管理という桎梏をとっぱらったとき、必然的に、ニンゲンにとって最も苛酷な刑罰である自由という問題に生徒を直面させる羽目に追いやったわけで、そこで、自森で生きるということは、とりもなおさず「アホと自由のはざまで生きる」ということ、或いは「暴力と自由のはざまで生きる」ということを意味するわけで、その意味で、彼らがそれまでの管理教育に比べて楽な状況に置かれたとはぜんぜん思わない。むしろ、新たな困難(というより、それまでの管理なんかよりずうっと困難な事態)に直面したのだと思う。そして、ここから自森特有の新たな様々な困難な問題が発生してきたのだと思う。しかし、自森の教師たちは、そもそも、生徒をこのような困難な状況にほおりこんのだということの意味をどれだけ自覚していただろうか。

‥‥ぜんぜんまとまりませんが、要するに、私がやりたいことは一方で、自森が死ぬに至った必然性を明らかにすること(それは、今後、ポスト自森の試みが再び、自森同様に死なないために是非とも必要な認識作業なのです)と、他方で、にもかかわらず自森が真に輝いた瞬間があるとすればそれを輝かせたのは何だったのか、つまり、ポスト自森が引き継いでいくべき「自由と自立」の生きた姿のイメージとは何か、いわば自森の可能性の中心といったものです。

時間がないので、今日は、これくらいにします。

といったことを現実的な問題に即し、時にはもう少し抽象化して考えていきたいと思っています。高橋さんや卒業生の人たちにあれこれ質問を振ることがあるかと思いますが、(気分が向いた限りで結構ですが)よろしくどうぞ。

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