1997.11.10
(・・・自由の森に保存)
コメント
編集委員の皆さんへ
ご無沙汰しています。
前から書くといってなかなか書かなかったホームページの記事を送ります。
これは、同時に、NGOホームページの今後の運営のあり方を問い直すものです。矢納君が22日にパーティをやりたいと言っていたので、それを中止させる(^_^)ために、別提案として、同じ日にNGOホームページの編集会議を矢納君が用意してくれた場所でやりませんか、と提案します。
私は、前から、このホームページの英語版も作成したいと思っていたのですが、その時期に来ているような気がしています。
私は、もちろん今大きな曲がり角にある「継承する会」のことも念頭に置いて、この文章も書きました。どうぞ遠慮のない感想をお聞かせ下さい。
私は、これまで中断していた自森の人権侵害を考えるスッポンの会も再開したい、その席上、柄谷行人の「戦前の思考」について議論したいと思っています。
追伸
雑誌「文学界」の最新号に、柄谷行人の「日本精神分析再考」が掲載されていますが、外国(恐らくフランス)で発表するために書き直したもので、すごく刺激的です。自森がこれまでやってきたことは、例えば、正面では何も言わず、陰で人の悪口を散々言うといった体質は、「自由と自立」とは相容れない「日本の中の自森」から眺めてみたとき初めてよく理解できることで、こういうことが余りに多い。その意味で、この「日本精神」なるものを理解することが自森を批評する上で不可欠だと思う。
1997年 11月 10日 (月)
H3-6義務者 柳原敏夫
1、今日、息子のクラスの同級で、このNGOホームページの編集委員でもある矢納君から久しぶりに電話があった。彼によると、今、彼の周りの自森の生徒たちは全く元気がないらしい。それで、とにかく景気づけにパーティをやろうという話だった。しかし、私から見て、もともと自森というのは、ちょうど竜宮城で遊びまくった浦島太郎がふぬけになったように、創立以来10何年間、景気づけのお祭りに酔いしれてきた挙げ句、無惨な目にさらされているともいえるのであるから、今さら景気づけのパーティをやる気にはなれなかった。しかし、(もとから自森の教師たちに殆ど何の期待も希望も抱いていなかった私の息子などは別にして)矢納君や彼の周りにいる生徒たちが或る種の失意の底にいることは間違いないことだった。しかし、そういう彼らに対して、私は次のように問いかけたい気持ちでいる。
君たちは、もともと自森に対して、一体どういう「期待や希望」を抱いてきたのだろうか。ひょっとして、この自森に入学さえすれば、自分がおのずと「自由と自立」に向かって楽しく羽ばたいていけるようなそういうシステムが備わっているとでもあてにしていたのだろうか、或いは自分の思ったこと、感じたこと全てを信頼を持って語れるような教師集団であふれているとでも思ったのだろうか。
そういう、いわば「理想の学園」をあてにしてきたとすれば、そのような心構えこそ、実は「自由と自立」の精神に最も反するものではなかったのか。
2、私自身は、5年半ほど前、息子が自森の中学に入学して以来、この学校に対してずっと或る種の異和感を感じてきた。それは私から見て、時には鼻持ちならないプライド意識・エリート意識だったり、或いは浦島太郎のようにひたすら楽しみをむさぼり尽くす快楽主義だったり、または、なあなあのファンクラブ的な体質だったりした。そして、それが近年、異なる立場・見解を認めないという全体主義の体質として集約され、むき出しにされた。
しかし、他方で、そういった全体主義的な体質にもかかわらず、私は、2年ほど前、生徒たちの中にある「自由と自立」への渇望といったものとの出会いの体験をした。それは、例えば、次のような生徒の文章に接したときのことだった。
大地に緑を 壁に表現を
昨日悲しい話を聞いた。
高2の生徒が学校の校舎の壁に自分のやっているバンドのメッセージを貼ったところ、先生の手で勝手にはがされてしまったという。何度貼ってもそのたびに、次の日には根こそぎはがされてしまうそうだ。
でも別に、彼女のビラが嫌がらせに貼っているわけじゃない。事実、掲示板に貼ってあるビラはそのまま残っている。
彼女の書いたビラは、掲示板以外の場所に貼られたゆえに剥がされてしまった。
でも、彼女は、掲示板に押し込められた画一的な表現に飽きたらなかった。もっといろんな場所で彼女のメッセージをみんなに伝えたかった。でも、自由の森という場所ではそういうことが許されないらしい。
そこにある壁がただ白くあることがそんなに大切なのだろうか?
白い壁を大地にたとえれば、そこに自然に種が運ばれ、芽吹き、草が生い茂るごとく、壁に表現がうまれ、広がってゆくのは当たり前ではないか。1枚のビラから生まれた出会いが、その人の人生まで変えることだってある。目の前にあるビラをただ機械的に剥がす前に、その1枚のビラから広がるかもしれない人々の輪を想像することのほうがどんなに楽しくて意義のあることだろう。
大地に除草剤をまくごとく、白い壁に芽吹いたささやかな表現を殺してしまえば、命を失った大地のごとく、壁も死んでしまうだろう。死んでしまった砂漠は美しくあるけれど、何も生み出さない。
自由の森の先生たちは、確かに素晴らしい理想を持っているけれど、自分の足下である学校から、雑多な可能性がつみとられていく現状ではその言葉もうつろにしか響かない。自由の森は、製品を作る工場ではない。誰かの夢のなかの箱庭ではない。
もう一度繰り返すけれど、そこにある壁がただ白くあることが、なぜそんなに重要なのだろうか?いったい誰がどういう権限のもとに、なんの権利があって、僕たちの表現を殺し、僕たちの可能性を押し消そうとするのか?
壁はただ白くあることが、もし重要であるのなら、そのわけを教えてほしい。」
(H・S「水曜日」88年12月)
そして、そのときの体験が私をこの学校にこだわらせた------なんで、こんな連中がここにはいるのだろうか、と。
こうした生徒の出現の背景にあるものについても、もっと知りたいと思った。だから、私は、この学校の大人たちに対しては、ずっと異和感を感じてきたものの、とりあえずそれをカッコに括って保留し、ひょっとして私が未だ知らない発見や出会いがあり得るかもしれないと、自主講座など様々な出会いの場を持ってやってきたのです。
その意味で、私もまた矢納君たちとは違った意味で、自森に対し或る種の「期待と希望」を抱いていたのだ。だから、この春の入学式の日、私たちの自森NGOのビラまきを学校管理職が禁止したときにも、この暴挙はもう何が何でも裁判に訴えてでも、学校の誤りを正すしかないと思った。それというのも、その時は自分でも意識しなかったのだが、このとき依然自森に対する「期待と希望」、それゆえの愛情があったからだった。そして、そのことを自覚させられたのが、そのあと(起きるべくして起きた)生徒の暴力事件と学校の退学処分事件だった。この事件における学校の対応ぶりを通じて、私は、自森自身が葬式をあげてしまったことを思い知らされた。それと同時に、死者となったような学校を相手に裁判を起こす意義ももはやないことも知らされた。これは、私にとって、自森に対する「期待と希望」が完全に失せたことを自覚するプロセスだった。
3、しかし、翻って思うに、このような私自身の「期待と希望」そしてそこから来る苦い「失望」というのも、やはりこの自森ができたときにそこに何か「理想の学園」が誕生したかのように思い込む幻想に由来するものではないだろうか。
もともと「理想の場所」とか「理想的なシステム」などというのはあり得ない。そして、どんなところにいても、最後に残るのはやはり個人しかいない。大切なことは、「自由と自立」を探究し続ける個人と個人同士の出会いであり、その出会いが作り出すネットワークだと思う。
だから、我々は、(将来再生することはあり得ないとまでは言わないが)今生きる屍になり果てた自森という場にこだわり続ける必要はもう全くないと思う。つまり、自森の意義は、これまでに、この自森に、自由への渇望に目覚め、「自由と自立」を探究し続けようとした個人------前述の「大地に緑を 壁に表現を」といった批評をするような個人が少なからずいたということだと思う。
だから、このような貴重なネットワークの輪をもう自森という場にこだわらず、そこから飛び出して、文字通り、世界の中でさらに交流を広め、深めていけばいいのだと思う。今後、私自身は、この自森NGOを、場所としての自森のNGOであることをやめて(但し、もともと「自由と自立」をめざして出発した筈の自森がこうした無惨な死を遂げるに至ったプロセスを解明する死亡診断書というものを是非とも残しておきたいが)、この自森における「自由と自立」への実験と失敗という貴重な教訓を生かして、精神としての自森の原点である「自由と自立」への森NGOネットワークとして再出発したいと思う。
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