自森の葬式に参加して

1997.10.15

(・・・自由の森に保存)



コメント
赤城さんへ

お手数ですが、以下の文章をアップロードして下さいますか。
木幡氏から「学校の批判をやめて欲しい」と言われ、ようやくこれから批評活動を始める気になりました。
ただ、内容については、あらゆる人たちから反論が来るだろうと言うことは承知しています。オープンな場にするためにも、そういった反論も是非、またこのホームページに載せたい。
しかし、私が自分なりに批評活動を続けていくためには、この書き方しかなかったのです。
しかも、この文が完結したものではなく、単なる始まりと思って、その批評のプロセス全体を評価して下さると助かります。

余談ですが、本来、木幡氏は、彼と湯口クンたちとの対話の記録については、これを掲載した湯口君を自立した他者と認めて、彼に向かってきちんと反論なりをすべきなのです。しかし、それができない。湯口君を自立した他者と見れないのです。
というのは、誰でも得てしてそうですが、たいてい自分がやっていることで他人のこともつい判断してしまう。木幡氏は、自分が権力的、上下関係的、支配服従の関係の中にしかいないから、他人のやることもみんなそういう風にしか見れないのでしょう、湯口を操っている奴が後ろにいる、としか。自分が卑劣な嘘や言い訳や陰謀を企むような者に限って、相手もきっと、そんな嘘や言い訳や陰謀があるにちがいない、と思い込んで、名誉毀損だと思ってしまうのです。


自森の葬式に参加して


                              1997年 9月 15日 (月)
                             H3-6義務者  柳原敏夫

1、6月7日(土)、私は自森に出かけた。先頃起きた、7名による(一説によるともっといたという)暴行事件と5月24日に決定された全員の退学処分をめぐる全体説明会を聞くためであった。このときの模様をここで改めて再現する気にはなれない(この説明会の記録がこのホームページでちゃんと公開されるだろうから)。ただ、この日、私にとって自森の宝だったようなお母さんはもう来ていなかった。また、学校がこの間じわりじわりと管理を再導入しようという目論見に断固と渡り合ってきた或るお父さんが、しおれた花のように会場の片隅にうなだれているのを発見した。こうした異様な光景は、或る一つの事実を如実に物語っているように思えた。
 私は、学校が今回の暴力事件の本質を何一つ取り組もうとせず、ひたすら加害者の早期処分をめざして異常なくらい強引にことを運んだ末、全員の退学処分を決定した5月24日に、自森は死んだと思った。もともと事件とは鏡であり、それにかかわった関係者全員の人生を容赦なく写し出す残酷な鏡である。今回の暴力事件を通じ、学校は無法な生徒たちの首を切ったと思ったが、実際は自分たちの首を切り落としたのだ。そして、その通り、この日は、学校側の説明に賛同の拍手をする沢山の参列者を前に、自森のお葬式がおこなわれたのである。
 この日の進行も、まるで万年シナリオでもできているように、いつもと全く同じ要領で進んだ。途中で、或るお母さんが、やはり3年ほど前に起きた南寮事件という暴力事件のときの説明会のことを取り上げて、管理職の話している話の内容まで3年前とそっくりそのままだ、何の進展もない、と嘆いていたが、恐らくその通りなのだろう。彼らにとってみれば、この説明会とは心を開いて問題を語り合うような場なのではなく、学校の決定に異議を唱えるうるさい連中を文句を言わせない儀式の場にすることが唯一の目的になってしまっているのだろうから。だから、「命の問題では絶対妥協しない」とか「暴力に脅かされている生徒たちを守る」といった一見誰も反対できないような、しかし、それでは暴力事件の本質に1ミリも近づけないような紋切り型・図式的なうたい文句がしきりに声高に叫ばれた(このやり方も南寮事件のときとそっくりそのままである)。

2、だが、このようなことを書くと、或る人から次のように言われるのを承知している。「君は、自森が死んだなんてまだそんなことも分からなかったのか。そんなことはもうとっくの昔に明らかになっていたことではないか」
 確かに、私は、6年前に息子が自森に興味を持ち出した頃から、「自由と自立」という美しいうたい文句にいかがわしさを感じていて、私が出会った人たちもまたエリート主義がぷんぷん臭うような連中で、全然信用していなかった。
 しかし、私がその後、週の半分を自森で過ごすような生活をするまで自森にのめり込むようになったのは、ここで出会った生徒たちのせいである。彼らは、管理職や教師がお上品でエリート臭かったのに対し、その反対で、野放しで血腥くてストレートで人間的だった。それは私にとって思いも寄らない、すがすがしい体験だった。ひょっとして彼らこそ自由という人間にとって最も苛酷な刑罰を受けるという経験をくぐり抜け、世間がいうところの意味と無意味の枠組みからはずれて堕落するという経験を耐え抜き、そこからはいあがってきたような、このニッポンでは稀な経験をしてきた連中ではないのかと思った。そこに、ニッポンでは依然稀な、自由をめざす可能性があるのではないかと思った。そこで、私は、このケッタクソ悪い百の欠点を持つ自森であるが、そこに一つの可能性を見出して、それとつき合ってみようと思ったのである。
 だから、それまでに、沢山の自森の応援者たちが自森の死を目撃して、絶望して去っていっても、私は、まだ、このたった一つの可能性が残っていることにこだわりたかったのである。この可能性さえ伸ばしていけるならば、ほかの百の欠点さえも帳消しにして余りあるとすら思った。だから、ほかのあらゆる問題に寛容でいられた。
 しかし、今回の事件で象徴的だったように、今や、学校は、生徒たちに、自分たち管理職や教師と同じように上品でおとなしくエリート的な人物であることを要求し、これまで存在していた、野放しで血腥くてストレートで人間的で、ずけずけ振る舞うような自由な人物を否定し、排斥しようとしたのである。要するに、生徒たちに、自分たちの手の内に収まるようないい子であれ、と露骨に要求するようになったのである。これは、自森のこれまでのたった一つの可能性を根こそぎ叩き潰すような、また、これまでの百の欠点全てを上回るような最悪の方針であった。
 要するに、学校は、これまで曲がりなりにもやってきた、自由という人間にとって最も苛酷な刑罰・試練を受けながら、自立の何たるかを身をもって学んでいくというやり方に耐えられなくなって、なりふり構わず管理を再導入することにしたのである。

3、だが、私は、今回、学校が取った最悪の措置に対し、「それは今回の措置を指揮した校長ら管理職が悪い」と個人の責任だけにしたくない。或いは、単に「彼らが10数年前の自森創立の際の理念を継承していないからだ」と批判したくない。なぜなら、彼らは本質的には単なるわら人形みたいなものだから。(そして、これまではそこまで思い切る自信がなかったが、今回初めて思うことだが)今の自森の無惨な事態は、決して最近の管理職が自森創立の理念を忘れているなどといったレベルのことではなく、もともと自森が創設された時からはらんでいた根本的な矛盾に由来することであり、その矛盾が時とともに解決の方向に向かわず、あたかもガン細胞のように増殖して今日の自森の無惨な事態をもたらしたからではないかと思う。その意味では、自森はなるべくして今日の事態になったのだ。また、その意味で、今日の自森を導いた根本的な矛盾そのものを明らかにするためには、創立者を名乗る遠藤豊氏やその協力者の人たちのやってきたこと全てがいま改めて批判の対象にされなければならない。
 要するに、遠藤氏たちは、反管理教育といって管理に反対する教育を実現しようとしてきたようであるが、しかし、そこで、「管理」にかわって、新しく、「自由」を導入した自森を作った際、つまり、「管理」よりもけた違いに苛酷な「自由」という代物を導入しようとした際に、この「自由」というやっかいな代物と、一体、どう取り組もうとしたのだろうか。或いは、「管理」に関してはものすごく経験していろいろ知っている連中が教師として自森にやってきたのかもしれないが、しかし、彼らは、「自由」というものについてどれほど痛切な経験や切実な認識を持っていたのだろうか、或いは、そのことがこの10数年の自森での実践の中でどれだけ深まってきたのだろうか。というより、どうして、自由という試練に耐えた生徒たちがいる自森という貴重な場で10数年も教育実践を重ねてきていながら、「自由」ということについて、かくも認識が深まらないでいたのは一体何のせいなのか、それどころか、「自由と自立」とは正反対の、「横暴と徒党」といった全体主義的な無惨な風潮に陥っていったのはどうしてだったのか。
そういったことが今洗いざらい問い直されなければならないと思う。
それは------------自森が死んだことの意味を問い直すことである。

4、私は、6年前、自森に来て初めて観た授業の教師のことをときどき思い出すことがる。あとから知ったのだが、その人物は自森の顔といった有名教師のひとりだったらしい。事実、彼の教育実践の本があって、楽しくて仕方ないという風に輝いている様子が描かれている。しかし、数年後、その人物にたまたま出会ったときにビックリした。彼はただの生きる屍だったからである。どうやら、彼のような教師はほかにもまだいるようだった。私は、その後、自森に深く関わるようになるにつれ、その原因を考えた。そして、今、思うことは、彼らが、自森の創立以来、いろんな意味での快楽----生徒・父母と一体となって実践ができたこと、自分の教育実践がいわゆる教育界という業界で評価されることなど----を味わってきたことである。むろんそのこと自体をそんなにどうこう言う気はない。しかし、その快楽の反面、彼らに決定的に足りなかったのは、自己批評も含めた批評(批判)精神だと思う。だから、そんなことでは、いずれ、自由という試練に耐えている生徒たちとの関わりに矛盾が生まれる。或る意味で、彼らが死んだのは当然であり、また、いいことなのだ。もう、そんなちやほやされるという関係で他者とかかわるのは死んだ方がましなのだから。
 ただ、私にとって、まだ不思議なことは、2年前にせよ、自森の生徒のなかに、自由の試練をくぐり抜けて私を圧倒するような人たちがいたということである。彼らはどうしてそのような人物として私の前に立ち現れたのだろうか。
 柄谷行人は、村上龍との対談の中で、こんなことを言っている。

小説も映画も輝きを持つのは、農村的な社会から近代に移る過程で、その矛盾が集約的に露出するときではないか

 これと同じ意味で、自森が最も輝きを持ったのは、たとえ不十分にせよ、10数年前、それまでの非人間的な管理教育に抵抗して、その矛盾に苦しみながら、異議申立として自由の森というネットワークを作り上げようとした時期ではないか。つまり、非人間的で横暴なものに妥協せず、これと闘い続けるという矛盾のさなかにおいてこそ、自森が最も輝きを持ち得たのではないか。そして、その輝きの残滓を私はたまたま2年前に目撃したのではないかと思う。しかし、現実の自森は、自森という学校ができたということで、あたかもそこに解放区ができたかのような錯覚に陥って、生徒のみならず教師も親も解放の幸福に酔いしれたように思う。確かに、そう思いたくなる気持ちは分からないでもない。しかし、今思うに、そこで快楽に酔いしれた(驚くべきことに、未だにそういう面を色濃く残している連中がいる)反面、その結果、自森に決定的に欠如したことは、ここで管理にかわって新たに導入された自由という様々な矛盾をはらんだ実にやっかいな代物と格闘する精神(=批評精神)ではないだろうか。
 その意味で、解放の快楽に酔いしれるような自森は、もう死んでもらって結構なのだ。

5、終わりに
 今年の5月に、或る映画を観た(「ジェイコブス・ラダー」)。ベトナム戦争で一人の兵士が死ぬという単純なお話の映画だが、見終わって、異様な感動に襲われた。というのは、その兵士はボロ雑巾みたいに戦死するのだが、しかし、映画はその兵士を強引にも生き返らせて、なぜ彼がかくも無惨な死に方をせざるを得なかったかを彼自身に分からせるために、もう一度、家族との出会いの時から戦死するまでの間を克明に生き直させたからである。つまり、兵士は2度死んだのである。2度死んでみて初めて彼は、自分が死んだ意味が分かった、つまり、自分が生きた意味が初めて分かったのである。この映画は人の人生は本当はそうでなくてはならないことを強くアピールした。
 私は、自由な場における教育(学び)も、或る意味で2度死ぬことだと思う。1度は単にやってしまうことであり、2度目はそのやってしまったことを追体験してその意味を認識することだと思う。今回の暴力事件でいえば、加害者の生徒たちは、(学校の説明によれば)動機もよく分からないまま、単に殴ってしまったのであるが、しかし、そのあと、学校と生徒間のやり取りの中で、生徒たちは、自分たちがやった暴力の意味を認識することなく、(学校の安全な秩序の回復という名目の下に)あっという間に学校から放り出されてしまった。だから、彼らにとって、この事件は全然何もケリがついていない。しかし、彼らは、自分たちがしでかしてしまった暴力事件の意味が分かり、自分なりに無知の涙を流すまでは、実は自森から切れる(退学する)訳には行かないのである。そして、そのために生徒たちと一緒に認識を深める同伴者がいる。しかし、自森は彼らを犯罪者扱いして、こうした努力を全て放棄したのである。
 しかし、実は、自森も死んでしまったのである、自分でも何だかよく分からないうちに。だから、今自森に残されたことは、もう1度死ぬことしかない--------その死に至るプロセスを追体験してその死んだことの意味を徹底的に確認するという。もしまだ自森に可能性が残されているとしたら、唯一そのような批評活動からしかないと思う。

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