卒業生へのメール

1997.07.29

(・・・自由の森に保存)



返信:
一耕君へ

>  柳原さん大丈夫ですか?僕は、大学に遊びに行って、自由の森学園に行事のたびにふ
> らふら、あらわれていた、柳原さんがと思うと少し心配です。

大体、退学処分といい、突発事故が起きるとめいめいの正体が暴かれてしまいますが、君が僕をどう見ていたか、よく分かるような発言です。

>  そうなんです。女の子とのデートに忙しかったりするんです。恋人が多いって大変で
> すね。‥‥中略‥‥。
>  柳原さんにもAさんにもBさんにもCさんにも・・・・。
> 川越に行きます。行きます。柳原さんのご都合は?

どうぞ、何時でも連絡下さい。その上で、決めましょう。

昨日の新聞見ました? 小平邦彦が亡くなりましたね。グループサウンズのメンバーじゃなくて、れっきとした数学者です。彼は私が40になって数学を志したときに出会った唯一の師というべき人物でした(それまでは、森毅でしたが、いざ数学に深入りすると、全然役に立たなかった)。この小平という人物はいわば物理でいう湯川秀樹級の評価をされた人物だったようですが、それゆえ、歯に衣を着せない、こんな風な(普通の人だったら「馬鹿じゃない?」と思うような)明快な発言をしてくれたのです。

数学とは何か、よくわからない。‥‥一般に数学は緻密な論理によって組み立てられた学問であって、論理と大体同じようなものと思われているけれど、じっさいには、数学とは
論理とはあまり関係がない。‥‥文法にあった文章を書くこととそれをつなぎあわせて小説を書くことは全然別な問題であるごとく、論理的に正しい推論をすることとそれを積み重ねて数学の理論を構成することとはまったく次元の違う問題である。‥‥数学は本質的に論理とは異なる。

(では、論理とは異なる数学とは何かというと)
数学を理解するということは数学的現象を"見る"ことであろう。‥‥この"見る"という感覚は、ちょっと説明しがたいけれど、明らかに論理的推論能力等とは異なる純粋な感覚であって、私には視覚に近いもののように思われる。以下、この感覚を"数覚"と呼ぶことにしよう。数覚の鋭さは、たとえば聴覚の鋭さ等と同様に、いわゆる頭のよしあしとは関係がない。しかし、数学を理解するには数覚によらなければどうにもならないのであって、数覚のない人に数学が分からないのは盲に絵画が分からないのと同様である。
                             (「数学の印象」から)

私は、小平のこういった文章から、当時、数学が理解できなくて殆どノイローゼ状態になっていた事態から救われたのです。いわば地獄で仏に出会ったようなもんですね。その頃、私は数式をあれこれ書くのを止めて、もっぱら毎日、小平のエッセーを写経みたいに写していました。そういう意味で、師なんてひとりいれば十分ですね。あとは、独習が本質です。
なお、ここで、小平が言ったことは、先日、小森さんが書いていた翻訳の本質の問題と同じことを言っているのだと思う。元来、経験的世界での出来事を言葉に『翻訳』することは不可能なことなのと同様、数学的現象を数式等の言葉に『翻訳』することもやはり不可能なことにちがいないのです。その不可能な亀裂をあえて飛び越えていく跳躍の能力のことを小平は鋭い感覚である"数覚"と呼んだのだと思うのです。
だから、この不可能を可能にするような跳躍の能力である"数覚"というのは、やっぱり一種の震えです、ここが亀裂だ、今こそ、飛べ!と決断するような。

というような貴重な認識をもたらしてくれた小平は私にとって末永い師です。
合掌。

Copyright (C) daba