1997.07.27
(・・・自由の森に保存)
コメント
高2の父母の黒澤さんが、今回の退学事件についてレポートを書いたので、その感想(7.25)の続き。
> 柳原さんからのメールは、黒澤さんにも読んでいただくべきと
> 思い、先程FAXでお送りしました。
ホントは私から直に黒澤さんに連絡しなくてはいけなかったのです。さっそく黒澤さんから電話をいただきました。ありがとうございました。
そのときに、黒澤さんの長女の未央子さん(一昨年の卒業生)の話を聞いてとても面白かった。彼女は、卒業後、日本のガッコウに行く気はさらさらなくて、1年間フリーターしながらお金と英語力をつけて、先月、単身でアメリカの大学(それも最初は東海岸の少し田舎町、そのうちに慣れたら念願のニューヨークに出る予定で)に行ったのですが、泊まったホームステイ先が、ひどい人種差別主義者で、そこといろいろゴタゴタがあったらしく、大喧嘩の末、自由主義者の彼女はそこを追い出される羽目になったそうです。訪米そうそう、知り合い一人いないアメリカ大陸で路頭に迷うような大変な目に遭い、英語でやった喧嘩も死に物狂いだったようです。
でも、(端から見ているから言えるのですが)面白いな。自分の息子に願っていたようなことを、彼女はさっさとさり気なくやってしまったという感じです。
すると横から、だから、自森でこういうえげつない闘いで鍛えられていることはいいことなのだ!と某教頭なんかがまたしても口を挟むかも知れません(しかし、彼自身がそんなことを口にする資格はありませんが)。
アメリカという国のことを知るにつれ感じるのですが、自由を最も大事にするこの国ほど、実は至るところで自由の侵害が横行しているようです。だから、アメリカこそ、自由とは自由の侵害に対する異議申し立て以外の何物でもないことを知っている国はないのではないでしょうか。映画「フォレスト・ガンプ」を見てもそれは感じます。
その意味で、自森もだんだんアメリカに似てきたな‥‥(好意的すぎる!と反論されそうですが)
> 「教師への励ましのメッセージ」とは高3の父母が書いたもののことでしょうか?
> 手に入れて読んでみたいと思っています。
手に入り次第、お送りします。
こういうときにこそ、ファンクラブ的体質の何たるかがよく分かるのだと思います。
> 小森さんのおっしゃることの真の意味には遠く及ばないかも知れませんが、
> いつかの誰かへのメールに書いた「言葉に自分を預ける気がしない」ということと
> 「ペラペラの文章」をあらためるつもりがないことが、私なりの『翻訳』に対する
> 20年前からの姿勢です。
> 「アア、姿勢という言葉も嫌いだ。他の言葉はないか。私のことを言うには
> 随分大きすぎる言葉じゃないか。『翻訳』できていない、なんとかならないか・・
> ・・・」
> とこだわって10分経過。
私は、佐竹さんは私が知った人の中でも、最も「生々しい」表現をする稀な(嫌な、じゃありません)人だなという印象を持っています。だから、このような「翻訳」の根本的な問題に反応したんだと思います。
実は、そのようなことが私にとって興味深いのは、それが単なる言葉とか翻訳のレベルにとどまらず、最終的にはその人の存在する場所(佐竹さん流に言うと、姿勢)にかかわる事柄だからです。例えば、今、自森で起きている事態に対して、これまで教師との間でファンクラブ的体質に腰までどっぷり浸かってきて(いい気になってきたような)人たちは、自森の教師と生徒との関係が今どうなっているのか、或いは教師と父母との関係が今どうなっているのかについて、まともな認識も表現もできないだろうと思います。それは、彼らが教師との間で味わい酔ってきたファンクラブ的関係を根本から問い直すような苛酷なものだからです。
その意味で、佐竹さんは、そういう認識をすることを恐れないというかためらわない人ですね(結果的に、上手く表現が掴めたかどうかは別として)。それは、きっと、あなたが本質的に外国人だからではないかと思います。佐竹さんから一番最初に自己紹介のような長文のメールをいただきたときに、そのことを感じました。あれはなかなか貴重な文でして、絶対、ホームページでほかの人たちにも読むチャンスを与えたいと思うようなものです(だから、再考して下さい)。
私は、自分がかつて自森に可能性を見出したときのことを想い起こすと(感想に書きましたが)、私はたまたま出会った生徒たちの中に外国人性といったものを見出して、それで自森には「日本の中の外国」の可能性があるのではないかと希望を抱いたのです。しかし、その後、この外国人性とは裏腹に、胸くそが悪くなるくらい、ナアナアのズルズルべったりのニッポン的な体質がこの自森でふんぞり返ってますます大いばりしているのを目撃した次第です、なんだ、単にニッポンの文部省がニッポンの自森支配者に変わっただけのことじゃないかと思えるくらい。
でも、いいですよ。これだけ自森の不快(腐海)の森を存分に見させてもらった上は、もう一度、自分がかつて、ひとときの幻だったかもしれないにせよ、自森の可能性と出会えたことの意味を、それとは正反対の体質との出会いをも併せ考える中で、経験的世界を言葉に翻訳することの不可能性と向かい合いながら、再吟味しようと思います。
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