感 想

1997.07.25

(・・・自由の森に保存)


コメント

高2の父母の黒澤さんが、今回の退学事件についてレポートを書いたので、その感想。



佐竹さんへ

黒澤さんのレポート、ありがとうございました。
この間、いろんな人にこの種のレポートをお願いしまっくたのですが、初めて書いてもらえたものを読んだような気がしました。

暗然とするような事実の報告ですが、しかし、この事実から出発するしかない以上、しょうがありません。一部に、教師に励ましのメッセージを書いた親たちがいるとか聞きましたが、「この暗然とするような事実」への直視と批判抜きに、励ましなんてあり得ないと思います。むしろ、そういった励ましが、実は自森をここまでダメにしてきた精神を象徴的にあらわしているのではないかとすら思います。

今、仕事で翻訳の本質を解明しなくてはならず、ずっと翻訳をめぐる問題に首を突っ込んでいたのすが、その中で、たまたま、また小森さんの論文に出会い、そこで、彼が面白いことを言っていました。
「『翻訳』という行為は、実は言語活動の最も要に位置していると思います。私たちは常に、経験的世界での出来事を言葉に『翻訳』しつづけているからです」
他方で、彼は、「翻訳というのは元来、不可能なものだ」とも言っているのです。だから、私たちが経験した世界のことを「言葉」に翻訳することも実は不可能なことをしているのだと彼は言っているのです。その不可能なことをあえて踏み出すところに、言語による表現活動の要があるのだということを彼は言いたいようです。

だから、私がこの間、いろんな人に原稿を依頼し、殆ど無視されたような結果になったのは、彼らに決して他意があったわけでも何でもなく、みな、この間自森で自分たちが経験した世界を「言語」に翻訳することの不可能性に直面していたのだと言えるのでしょう。それだけに、今回の黒澤さんのレポートの勇気には脱帽します。こういう経験的世界での出来事を言葉に『翻訳』するということは、一種の跳躍、勇気と無謀さがいる跳躍にほかならないからです。

また、その意味でも、5月の処分決定の直後に、職員会議を傍聴した生徒たちがかれらの経験した世界を言語に翻訳したアピール文を出したことは、やっぱりすごいことだったと思う。書かずにはおれなかったという、一種の無謀以外の何物でもないのではないか。

(で、編集委員の矢納君へ)
あの貴重なアピール文は確か、既にデータ化されていると思うのですが、これをホームページに載せることについて、執筆者の了解は既にもらっていましたっけ。
また、職員会議の前に廊下で待っている生徒たちの写真の掲載も、肖像が写っている連中の了解を取ってもらいましたでしょうか。
これらは、了解が取れ次第、掲載しようとずう〜と前から待っていたものです‥‥

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