1997.06.08
(・・・自由の森に保存)
最後に、私にとって印象的だったことは、今回の暴力事件に遡る2週間ほど前の体育祭のときに、同じく暴力事件が起きていて、その現場を見て見ぬ振りをしたのではないかと追求された「生命の問題には妥協はない・暴力は絶対容認しない」と声高に叫んだ管理職のひとりマッシーが、みんなの前で
「自分はかつて1期生のころは体を張って生徒を守ったことがあった。自分がもしそんな現場を見て見ぬ振りをしたのなら、この学校にはいない」
と啖呵を切ったことです。その発言を聞いて、今年の冬、卒業式の時の木幡さんに酒を吹きかけた例の生徒ともうひとりが食堂でささいなことから喧嘩になったそうですが、その最中にこのマッシーが脇をいたことを、もうひとりの生徒は目撃していて、しかもマッシーは止めも何もしなかったそうです。それで、たまたまこの生徒がこのときのマッシーの発言を聞いて猛烈に頭に来て、発言しようとしたら、他の発言者が多くて番が回ってこなかったそうです。
私は、政治家にみたいにウソをついたマッシーを言葉通り辞任に追い込むことに関心はないのですが、それより、彼が暴力を容認しない自分のことを語るとき、思わずずうっと昔の1期生のころのことを例に出したことです。それで、私は、ああ、あれは確か赤城さんが語ってくれた飯能市内の専門学校の生徒と自森生とのゴタゴタの話だなと思い出したのです。
そして、彼にとって、暴力に身を持って立ち向かうという記憶は、もうこの頃のことしかないのだろうかと思いました。だって、もう父母は誰も知らないことを持ち出されても分からないのだから、あれだけレトリックを使うわざにたけている彼がちゃんと父母に分かってもらうんであれば、誰もが知っているような最近の事例を出すはずです。でも、彼にはもうそんな記憶がないのでしょう。
暴力を通じていわば、自森の理念(ひとりひとりが暴力によって否定されず、大切にされる)が問われるような場面で、マッシーも、思わず、大昔の1期生のころの生き様を持ちださざるを得なかった点に、今の自森の現状がはからずも明らかにされたように思えて印象深かったのです。「自森の理念を継承する会」をあれほど毛嫌いする彼さえも、自森が直面する問題にたちむかうとき、やはり自森の創設の理念に立ち返るしかなかったのです。父母や生徒たちの追求にあった、この瞬間、彼は、知らずして、「自森の理念を継承する会」の瞬間賛同者になってしまったのです。
あと、説明会の最後に父母に交じってひとりの生徒(高3の村上麻衣ちゃん)が発言しました。この女生徒は感情に流されず、かといって問題を曖昧にせず、きちんと管理職たちのいい加減な発言のおかしさを指摘していました。私は、その毅然とした姿が感動的でした。その姿そのものが、あきらめないことへの宣言みたいに思えたのです。
しかも、つい少し前、私が彼女に、
「ボーとしていないで、一緒にホームページの編集委員やれば面白いのに」
なんて揶揄したばかりだったのです。でも、彼女、今ごろ、小森さんちで昨日の体験を語りまくっているでしょう。
それと、昨日の説明会の帰りに、高3の生徒に呼び止められて(後藤楽君たちですが)、彼は一昨年、インターネット講座の当初によく図書館に参加していて人で、その頃はオタクという感じで何だかかったるそうでしたが、今回どうした訳か、今回の学校のやり方にものすごく批判を持っていて、校長たちほか教師にどんどん批判をぶつけているのです。
それで、その中で(管理職のごまかしの論理を完璧に反論するために)、
「もっと頭がよくなりたい。どうしたらいいでしょうか」
と尋ねてきたのです。それで、思わずあれこれ話がはずみ、まるでもう10年くらいずっと親しかった友人のようにその場で語り合いました。で、今後とも、彼らとの交流ができることになりました。
この後藤君のすごいところは、今殆ど病気みたいな無残な教師たちに対する信頼関係を決して自ら断ち切らないところです。「自分たちが大人になって教師たちが心を開けるように対話を続けていきたい」と言うのです。
それで、彼らをこの日、そのあとあった小島君たち卒業生たちとの交流会に(私がアッシーになって)送り届けました。
後藤君も自宅でインターネットを始めるそうです。これはこれで、矢納君たちは別の自主的な活動として大事に見守っていきたいです。こういう自主的な活動の場があちこちに沢山できるといいなと思います。
最後に、当初、誰にも興味も関心も持ってもらえず、細々とやってきたインターネット講座を、あきらめずにやっていたことが、こんなところで、再び、後藤君たちと再会でき、彼らと一緒に考えていける機会を作ったと思うと、やっぱりああいう地道なことを誠実にやっていてよかったと思いました(神はいるのだ、という気分です)。
ちょうど、今回、Aさんたちが始めた読書会の場が、24日の職員会議に参加した生徒たちがそのあと、一緒にいろいろ考えることのできる場をはからずも提供できて、もちろん職員会議に参加しただけでもよかったのですが、それ以上にその体験の意味を引き続き、確認し、共有しあい、他の人たちに伝える場が持てたことがもっと貴重だったと思います。
そういう場をはからずも提供してしまったこれらの読書会の意義はすごい(もう解散しても思い残すことはないと思えるくらいです)。
日々の実践がどこでどんな風に威力を発揮してしまうものか、やっぱり人知の及ばないところですね。
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