当事者の父母への手紙

1997.05.28

(・・・自由の森に保存)




今回の事件の7人の生徒の親のひとりから、昨日、電話があって、それで、今日、その人に宛てて書いた手紙です。(もちろん名前は匿名にしてあります)

とりあえず、皆さんだけが読むだけにしておいて下さい



Aさんへ

 昨日は、事実経過のメモをありがとうございました。
 それで、昨日私がAさんにいろんな資料をお送りした趣旨そしてこれから私がかかわっていこうとする立場(スタンス)というものをひと言説明させて下さい。

 私がお送りした資料だけ見ると、一見、私が何か学校に対する不満をいっぱい持っていて、その不満に賛同する人たちを増やすために、Aさんにこういった資料を送っているみたいに見えたかもしれません。
 しかし、私の真意はそういうことではありません。私がこれらの資料をお送りした最大の理由は単純です。
 要するに、今回の事件は7人の生徒たちにとって、彼らのこれまでの生き方が集大成されているような重大な意味を持つ事件だと思うのです。だから、それだけに、この重要な事件に直面した彼らが本当にここで自分自身を見つめ直し、たとえば、単に自分がだらしないとか思いやりがなかったとかと自分を責めるのではなく、どうしてそんなだらしない生き様になってしまったのか、どうしてそんな思いやりが持てないような感性になってしまったのか、その原因を(たとえ不十分でも)自分なりに納得がいくまで突き詰めて欲しいのです。
 しかし、そのことはまだ年端のゆかない彼らだけの力では手に余るものですから、その認識作業を援助する大人が周りに絶対必要だと思うのです。そして、その役割を果たす第1の大人が学校の教師たちだと思うのです(もちろん父母もその役割を担う責任があるのですが)。だから、学校は、7人の生徒たちとしっかりと粘り強くコミュニケーションを重ねる中で、彼ら自身が自己認識を深めていく作業に連れ添う必要があると思うのです。

 しかし、私から見て、残念ながら、今の自森の学校(とくに管理職)には、そういう粘り強いコミュニケーションを続けていくような姿勢があるとは到底思えなかったのです。それどころか、学校にとって「快適な空間」を汚すようなむさ苦しい不愉快な連中は断固として排除する、という異常なまでに強引な排他的な性格を、この間、むき出しにしていたのです。
 それで、私は、そのような学校の強引な排他的な性格のために、今回、7人の生徒たちの人間として生き直す権利さえ奪われて、ゴミクズのように捨てられるのではないかと危惧したのです。いわば、今回の事件をきっかけに、学校がもうひとつの新たな人権侵害事件を引き起こす危険を感じたのです。それで、私は、このような「7人の生徒たちに対するもうひとつの新たな人権侵害事件」が起きてはいないかどうか、きちんと確認したくて、それを考えてもらうひとつの資料として、昨日、昨今の学校の異常な対応ぶりを明らかにする資料をお送りした次第です。
 それは、今の学校そのものを糾弾することが目的ではなくて、ほかの学校ならいざ知らず、いやしくも個人個人の生徒の人間性を尊重することを一番大事にしてきたこの自森で、7人の生徒たちは、(退学が最終的にやむ得ないかどうかは別としても、何よりもまず)本当に自分のやったことの意味を認識し直し、責任を自覚し、そこから再び人間として再出発するような機会をきちんと与えられるべきだと思うのです。それが決して十分やられていないのではないか、ということをきちんと考えたいというのが私の目的です。

 電話で申し上げたかも知れませんが、実は私自身高校3年のときに、学校から退学の勧めを受けたことがあり、そのときのゴタゴタが、今回の学校の処分の話を聞いたとき、30年近くも過去の出来事なのにまるで昨日のことのように蘇って、それで、ついこうしてかかわってしまったというのが正直なところです。しかも、A君とB君は息子のクラスメートです。私にとって、退学という問題はまちがいなくそれまでの私の人生を集約するような出来事だったのです(しかも、そのこと自体が分かるようになるまでにすごく時間がかかったのですが)。だから、ここでつまづいたままだったら、ずっと一生つまずきっぱなしになろうだろう、と。でも、ここで自分のこれまでの人生を再認識できるとしたら、そこで必ず生まれ変わるチャンスを掴めるはずだと思うのです。私の場合、不幸にして、そんな再認識を援助するような大人(学校や親)は周りにおらず、結局、自分自身が大人になって、その大人の自分がもうひとりのかつて子どもだった自分を振り返るという長い道のりを経ることになりました。しかし、これは私がいろんな意味で恵まれていたからできたことなのです。

 やっぱり、私も、18の頃に、自分が直面した事件のことを一緒に考えられる信頼できる大人がそばにいてくれたら、どんなによかったことかと思う。だから今は、自森に対して、「快適な空間」なんて自分に都合のいいよそ行きの美しい言葉なんか吐かないで、自分たちの果たすべき役割のことをもっときちんと考えて欲しい(正直な気持ちとしては、きちんと考える気がなかったなら、あんたたちこそこの自森をやめてもらいたいという気分ですが)と思うのです。 

まとまりがなくて、ごめんなさい。

とりあえずご連絡しました。

Copyright (C) daba