自森の死に対する異議申立をめぐって
--1期生へのメール--

1997.05.27

(・・・自由の森に保存)


RE: 自森の死に対する異議申立
Aさんへ

メールをありがとうございました。
私は、今日、昼までダウンしていました。頭の中で、脳細胞が本当に焼き切れ始めているのが分かり、このままではもうダメだというところまで行っています。にもかかわらず、毎晩、カミさんと息子と(自森生でもない)娘までまじって、1時2時まで論議が続き、その中で息子から「おやじ、その目つき、やめろよ!」と侮辱に近い罵倒まで浴びせられる混乱の状態に陥っているという状態です(だから、ある意味で、自森の管理職が秩序を!と望むのも分からないでもない)
ですから、今の最善の道は寝ること、そして頭をしゃきっと回復させること、と決めて、これからプールに行く、という感じです。

で、昨日、Aさんを筆頭に4、5人の人から同様のメール・電話をもらいました。頭が焼き切れそうな状態で、まともに受け止められそうもなかったのですが、ともかく、Aさんほか連絡をくれた人たちに感謝しています。

ただ、その中身については、理解できる部分と納得がいかない部分とが残りました。しかし、言われたことはよく考える価値があると思い、引き続き、考えさせてもらいます。

 で、ひとつだけ、私自身の納得のいかない部分を言わせて下さい。それは、私があの「自森の死に対する異議申立」で言いたかったことは、もっぱら、今回の処分を猛スピードで敢行した学校のやり方そのものに対する批判であって、そのあとに来る、では当事者双方の立場を踏まえて今回の事件をどう解決すべきかという問題はまだ何も言及する積りはなかったということです。
 しかし、これを読んだ人たちからは、事件の解決に対する姿勢がおかしい、被害の軽重のことを問題にしていて被害者の気持ちを全然考えていないという風に読める、と批判されました。

 私は、今、自分の文章を読み返す元気もない状態で、その点はまったくよくなかったと思っています。ただ、私が、被害の客観的な軽重に言及したのは、決して、暴力事件を教育現場の中で再度両当事者の共存をめざして解決していこうという場合のことを念頭に置いていたのではなく(むろんそのような場合には、被害の客観的な軽重よりも、現実に被害を被った人自身の思いを最優先すべきなのは当然です)、今回、学校がやってのけた(裁判の判決などと同様な意味を持つ)強制的な処分を下すような場合にあたってきちんと踏まえなければならないひとつの(ただし、あくまでもひとつですが)要素として取りあげたのです。
しかも、その場合、被害の客観的な軽重さえ吟味すれば、もはや被害者の切実な被害感情というものを無視していいなんて思ったことはなかった。その反対で、我々はどうしても、暴力といった犯罪の場面に直面すると、反射神経的に被害感情の虜になって、それ以外の、たとえば被害の客観的な軽重といった事情がなおざりになってしまうことがあります。そういう感情の虜になるのを利用して、学校が強制的な処分を下す際に、被害の客観的な軽重の要素を無視するとしたら、それはダメだとここでは言いたかったのです。

どうにも、頭がぎくしゃくして、うまくちゃんと言えませんが、これは時間がかかってでも、考えていきたい。

私が、今回、義務者としてひとりだけでしたが、退学処分を下す職員会議の場(といっても隣室ですが)に駆けつけたのは、自分が40年近く前に退学処分を受けそうになった記憶がまるで昨日のことのようにまざまざと蘇ってきて、それで思わず雨の中、学校まで行ってしまったようです。私は、40年前の退学処分のゴタゴタのとき、退学処分を権力をかざして私に押しつけようとした担任の教師を、こいつはホントに殺してもいいと思わず思った。私は、それまで一耕君以上に内向的で気弱な学生だったから、そのときの自分が自分で信じられなかった。ですが、その叫びを呼び覚ましたのは、貧困家庭に育ったがゆえに小学生3年のときから大学受験にむけて勉強をずっとやってこざるを得なかった
私が、不毛の受験勉強とノイローゼと自殺未遂といったような境遇の末、やっと見つけた自由な生き方を、この教師が圧殺しようとしたからです。私は、この教師の振る舞いに、こいつこそこれまでの私の人生を全て否定する圧制者として、ものすごい被害感情に捕らわれ、それで、このとき「フランス革命のとき、圧制に苦しめられた民衆がルイ16世をギロチンにかけて処刑した」気持ちが痛いほど分かり、それで、私も同じことをする権利がある!と思ったのです。

 しかし、このあと、私自身が興奮と緊張の中で体をこわし、例によって、うやむやのうちに放り出されるように卒業し、そのあと、ずっと心の病気が続き、何もかもやる気をなくす無力感に襲われました。
 その意味で、私の人生にとって、この高3のときの担任は私の人生をメチャメチャに切り刻んだ死ぬまで忘れることのない人物なのですが、このとき学校は何一つ明らかにしなかった。ですが、(ここからは、殆ど架空の世界の話ですが)もし私が自分の受けた傷を理由にその担任の処分を求めることができ、それが可能だったとした場合、私の被害感情は、まちがいなく、ここまで人の人生をメチャメチャに切り刻んだ人間を同じ学校空間に共存させておくことはできない、即刻死刑(教師の退職)にするしかない、ときっと叫んだと思う。しかし、翻って思うに、この担任は、自分の意志でしょうもない授業に出ないことを選んだ生徒に対し、「そんなに授業に出たくなかったならば、退学しろ」と(権力という暴力と言葉の暴力を)言っただけで、それ以上、権力者として私に暴力をふるったり、監禁したというわけではない。もちろん権力や言葉の暴力の残忍さを過小評価するつもりはないが、しかし、これを被害感情からだけで評価して、そこから例えば死刑(教師の退職)という結論を導いていいものか、今は?を抱いている。
 しかし、それはお前がたまたま法律の世界にいて、そういう判断の発想に馴染んでいるからだろう、と言われると、そうかもしれない。
 だからもし、今一度考え直してみると、そもそも人間は自由な存在であり、他方、犯罪が生命・身体・自由の侵害であるとすれば、その侵害の程度の評価というのは、何も外形的な傷の程度だけでなく、本来他人から侵されることにない自由な心に対して負った傷の程度も、外形的な傷と同等に、評価されるべきではないかという考えが出てきてももっともだと思う。しかし、今度は、それを真正面から言い出すと、裁判等の強制的な処分のためには、証明というものが不可欠だから、そこで、人には見えない内面の評価の問題(どれだけ心が傷ついたといえるのか)をめぐって激しい論争に立ち入ることにもなりかねない。「お前がどれだけ傷ついたことをきちんと証明して見せろ」ということをめぐって、主張・反論といった攻防が果たしてどれほど意味があるのか。かえって、その過程でますます当人の心はずたずたにされかねないのではないか。そのような事情から、再び、強制的な処分を下す上で、あえて内面の証明には深入りせず(むろんそれを斟酌しないという訳ではないが)、外形的な傷の証明に重点をおいて処分の程度を導いているのではないかと思える。

なにか、とりとめのない話になってしまいました。
あなたとは、一度お会いして、それから時間をかけて話し合っていきたいと思っています。
この間、いろんな原稿を書いていただいたのに、何の連絡をしないで失礼しました。落ち着いたら、また感想なぞ書かせて下さい。
では。

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