感想17(再開)
--対話の回路を閉ざした自森をどう克服していくか?--

1997.05.26

(・・・自由の森に保存)



コメント
 はじめに
 去る24日の職員会議の決定のことを聞いたとき、私は押さえられない憤りのようなものを感じ、これを文章に書き下し、私のことを知っている親しい人に向けて送った。しかし、その後、この私的な文章が自森でかなり一人歩きしている事実を教えられた。確かに、この文書は、私がこの間自森で経験してきた様々な人権侵害の事実を知り、そのような文脈を踏まえた人であれば、私の真意を理解し、これに対する批判もかみ合ったものになるだろう。しかし、そのような文脈を知らない人が読んだとき、そこには無用な誤解・混乱が生じるであろうと思えた。
 そこで、この際、私が今回の学校の退学処分の決定に対し、どのようなことを考えているかを、私の個人的な文脈を知らない人にも理解可能なようにきっちり表明しようと思う。それが、今回の感想17(対話の回路を閉ざした自森をどう克服していくか?)を書こうと思った理由です。


自森の死に対する異議申立

 24日の職員会議の決定のことを聞いて、創設以来、この学校に深く関わってきた或るお母さんがこう言った、
----自森はこれから解体していくよ、と。

 学校は、様々な理由をつけて、7人の生徒の首をひと思いに切った。そして、その事実について箝口令を引いて、この処分に批判的な人たちの首さえこの際ばっさり切ろうともくろんでいる。

 しかし、権力といえどもやってはいけないことがある。
 学校権力でも越えてはいけない限界というものがある。
 みんなで決めたことでも奪ってはならないものがある。
 それが、例えば憲法で保障されている個々人の人権であり、個人の尊厳である。
 それを奪うような決定や合意は全て無効である。
 だから、私たちはそのような行為・そのような権威・そのような脅しに対し、異議申立をするしかない。

 しかも、今回うちの息子の目にさえはっきりしたことは、学校の教師たちに対し、生徒が全面的な不信感を表明したことだ。もう以前からずっとくすぶっていて、鋭い生徒たちは感じていた教師に対する不信感が、今回の事件に対する教師の対応ぶりによって、一挙に全学の生徒に広まった。全学レベルで生徒の教師と対する不信感が爆発した。
 だから、24日の職員会議に生徒たちが自発的に「会議の傍聴と決定の延期」を求めて乗り込んでいったのだと思う。
 しかし、それさえ、例えば生徒の発言に教師がやじるという(ひとりの生徒はうなだれて「あのやじった教師が何とボクの担任なんですよ!」と絶句して言った)信じられないような対応に直面して、さらに不信感が深まっただけだった。

 しかし、にもかかわらず、このときの生徒たちは、今回の暴力事件を(大多数の教師同様)リアルな気持ちで受け止められない生徒たちが沢山いるという事態を憂いて、自分たちがこの職員会議で体験した生々しい事実を全生徒たちに伝えて、自森が危機に瀕していることを理解してもらい、一緒に考えようと、事実をビラにして配るなどの行動に出ようとしている(ところが、そうすると、また例によって、ビラまきは事前の教職員会議の許可がないからダメだ、と学校が横暴を働く可能性がある)。

 それで、皆さんにアピールしたい。
 自森が今、解体に瀕している事態に気がついた生徒たちが今必死になってそれをくい止めようと動いています。
 同じ、自森の構成員のひとりである父母たちも、自分でできる範囲のことで、この事態に抵抗する何かしらの行動を考えて下さい。
 私は、クラス父母会の開催を求めて、引き続き、学校に即刻、全体説明会の開催を要求する積りでいます。

 私にとって、どうしても合点が行かないのは、決定の中身のこと以前に、
1、学年集会の中で、教師が全然問題をきちんと考えていないことを知った生徒が、そんな状態でどうして教師たちに処分を決定することができるのかと不信感を募らせたように、どうして24日中に決定を出さなければならなかったのか。被害者の生徒の命が24日で危ういというような切迫した事情があったのか(しかし、その生徒は数日前に退院していたという)。学校は24日中に決定を出すことによって、一体何を守ろうとしたのか。それを明らかにすべきだ。

2、マッシーが言ったということだが、「「生徒は過ちを通じて学び、更生することはできるのは確かである。しかし、死に至らしめるようなおそれのある重傷を負わせたような場合にまで、そのようなことを認めるわけにはいかない」。しかし、今回、事実は本当に被害者は「死に至らしめるようなおそれのある重傷」だったのか(むろん軽傷だったなんて事実を歪曲する気はない)。現に、昨夜、加害者の親から聞いた情報では、被害者は既に退院しているという。つまり、1週間くらいで退院できたのだという。これが果して「死に至らしめるようなおそれのある重傷」なのか、真実を見極めたい。

3、仮に、被害者の怪我が「死に至らしめるようなおそれのある重傷」だとした場合、その場合にも、「生徒は過ちを通じて学び、更生することはできるのは確かである。しかし、死に至らしめるようなおそれのある重傷を負わせたような場合にまで、そのようなことを認めるわけにはいかない」というような理念が通用するものなのか。そんなことは教育よりももっと苛酷な少年法でさえも言っていないような徹底した秩序優先の(それゆえ人権尊重のかけらもない)思想ではないか。そんな理念を本気で掲げる積りなのか。その点について問いただしたい。

4、仮に、今回の場合にも、加害者の生徒たちに「過ちを通じて学び、更生する」機会を与えて、両方の生徒たちの学校での共存を考えたとしても、そのために一体何をやったのか、教師個人個人の気持ちもさることながら、肝心の両方の生徒たちとの対話・交流としてどれだけの期間、一体何をやったのか。聞くところによると、加害者が発覚してから数日して彼らは自宅謹慎にされたまま、昨日の職員会議までほっておかれたというではないか。「事態の抜本的な解決をはかる」と表明した学校なのだから、少なくても、少年事件の際に、家裁調査官が少年を指導するくらいの日数・内容を、自森でも確保して当然と思われるが、それだけの余裕がこの1週間足らずの間にはたしてできたのか。
 たとえば、この冬、教師が生徒に無断でビデオを販売しようとして生徒の肖像権を侵害した事件の際にも、大人である自森の教師は「過ちを通じて学び、更生する」機会を与えらたもかかわらず、未だにぐじゅぐじゅしていてきっぱりと反省できないでいるというのに、生徒だけはたった1週間足らずで完璧な反省をしろと要求するつもりなのか。

 全学に広まっている生徒の教師不信感というウミを吐き出すためにも、全学説明会の開催を求め、こういった諸々の不明な点を明らかにし、もう一回、今回の暴力事件のもつ意味を考え直していこうと思います。

Copyright (C) daba